2011年12月25日日曜日

フィレンツェの祝祭、オペラの誕生111225


(メディチ家の復権と教皇レオ一世)

花の聖母大聖堂のドームの完成から六十年、フィレンツェ・ルネサンスの中心的役割を果たしたメディチ家は十五世紀末から波瀾万丈の時を迎える。共和国でありながらすでに君主のように振る舞っていたメディチ家だが、豪華王と呼ばれたロレンツォ・イル・マニフィーコが没すると、ドメニコ会修道士サヴォナローラの反メディチ運動により一挙に窮地に立たされた。

そして1494年のフランス王シャルル八世のナポリ遠征に伴うフィレンツェ入城により、フィレンツェは揺れに揺れ、遂に、ロレンツォの息子ピエロ・デ・メディチとその弟たちは、ほとんどの財産を没収されたまま、ヴェネツィアへと脱出しなければならなかった。

復帰を果たすのは1512年、今度はフランス軍をイタリアから追い出したスペインの後押しによってだ。メディチ家のフィレンツェ帰還にもっとも尽力したのは枢機卿のジョヴァンニ・デ・メディチ。フィレンツェを追われたまま、フランスとスペインの戦いに参加し、遂に戦死したピエロ・デ・メディチに代わり、弟のジョヴァンニは当主として画策する。

幼いころから聖職者の道を歩まされていた彼は、兄弟の中では最も非凡。父ロレンツォは後のメディチ家の苦難を予測していたからであろうか、財力と権力の限りを尽くし、わずか十六歳のジョヴァンニを枢機卿にすることに成功した。それは十五世紀末のこと。ロレンツォの画策でジョヴァンニの叙任を許した教皇インノケンティウスの死の僅か三ヶ月前。ロレンツォ自身の死の三週間前、そしてメディチ家の苦難の始まる三十ヶ月前のことだった。

1512年、共和派ソデリーニやマキャヴェリが退けられ、フィレンツェの市民総会はその権力を緊急評議会に委譲する。評議会のメンバーは四十人、そのほとんどをメディチ派が占めることとなり、枢機卿ジョヴァンニと新しいメディチ当主ジュリアーノは帰還することが許された。

千五百人の兵を率いて入場した枢機卿ジョヴァンニはあふれるばかりの民衆に迎えられ、まさに一国の君主の入市式の趣。サヴォナローラ時代の陰鬱な雰囲気が一遍に吹き飛び、フィレンツェはたちまちにして昔の賑わいを取り戻し、街中に音楽が鳴り響いた。

メディチ家が復権してまだ半年、ジョヴァンニは突然ローマに戻らなければならなかった。彼の後盾でもあった教皇ユリウス二世の死去の報が届いたからだ。名門の出身ではない教皇はフランス、スペインどちらに荷担することもなかった。それ故にメディチ家の復帰には幸いしたのだが、その教皇の死はフィレンツェにとっては再び後ろ盾を失う一大事。この時、ジョヴァンニ自身も体調を崩し、暗鬱な気分でローマに向かわなければならなかった。

ローマには到着したが、遅れて参加したコンクラーヴェ(教皇選出会議)。結果はなんと、ジョヴァンニが次期教皇として選出される。メディチ家出身の教皇レオ十世の誕生にフィレンツェは驚喜する。祝典では大聖堂の鐘が打ち鳴らされ、祝砲に、花火、クラッカー、酔いしれた群衆の叫びと、延々の燃えつづける火の中には家具や住家の厚板までが投げ込まれる狂乱状態が四日も続いたと言われている。

 (fig83)

(トスカーナ公国の誕生)

メディチ家一色に塗られたかのようなフィレンツェだが、その政体はあくまでも共和制、相変わらずの内憂外圧、その後も揺れつづける日々が続く。復帰を支援したスペインが程なく外交上の失敗でミラノやナポリから追い出されると、今度は在位したばかりの若いフランス王フランソワ一世が、またまたイタリア半島に足を踏み入れる。

一方、スペイン王フェルナンド一世から王位を引き継いだのがハプスブルグ家カルロス一世、彼はほどなく神聖ローマ帝国皇帝(カール五世)をも叙任することとなり、ここにきて、ドイツとフランスはイタリアを挟んで大きく対峙することとなった。

こんな時代、揺れるのはフィレンツェだけでなく、イタリア全体。ヴェネツィア共和国はもちろん、ミラノ、フェラーラ、マントヴァ、ウルビーノと、どこの公国もその存亡に四苦八苦する。そんな中、1521年、フィレンツェは教皇レオ十世を失った。しかし、程なくフィレンツェはまた新たなメディチ家出身のローマ教皇を得ることとなる。優柔不断(サッコ・デ・ローマ)の教皇と言われるクレメンス七世。

こんな時代のフィレンツェが再びメディチ家出身の教皇を得ることは共和国にとって幸いであったかどうか。イタリアの一都市に過ぎないフィレンツェは、その生き残りの全てはクレメンス七世の存念に支配されることになった。

新教皇は自分自身の庶子であるアレサンドルをドイツ勢力下のフィレンツェ公として迎えることを画策した。当初、アレッサンドルは巧みに振る舞い、共和国としての対面を保ったが、カール五世の庶子であるマルガリータと結婚、ついにフィレンツェ共和国は実質的にはドイツ支配下の君主国に移行することとなった。

(メディチ家の祝祭)

君主となったメディチ家はフィレンツェの持つ共和制時代の伝統を巧みに隠蔽しつつ、専政的な支配体系(君主制)を確立することが必要となる。さらに新興貴族のメディチ家がハプスブルグ家やヴァロア家のような一大貴族の仲間入りを果たすためには、その一族の栄光と新たな権力の強調は不可決だった。

その権力の強調のため、数々の祝祭や宴会を開催し、かってのように一市民としてではなく、独裁者・君主として都市を華麗に飾らなければならない。都市を舞台としての祝祭は諸外国の君主との対面上の必要であるばかりでなく、フィレンツェ市民そのものに、その威光を印象づけるためにも欠かせぬもの。

メディチ家はこうした祝祭のたび毎に宮殿(パラッツォ)や別荘(ヴィッラ)を建て、その内部には数々のフレスコを描いた。あるいは都市のそこここには公共の記念建造物や彫像を置く。君主は君主である為には建築を作り、都市を飾らなければならなかったのだ。

祝祭のための飾り付けには様々なアレゴリー(寓意)を表現したアトリビュート(事物・持ち物・属性)の使用がもっとも効果的。威光や権力という目に見えないものを見えるようにするためには、古来より事物に意味を託すという手法が最も役に立った。

メディチ家は神話的体系の形成に関わる様々なアトリビュートを祝祭のたびに飾り付ける。それは一族の歴史そのものを、いにしえの王の継承者に匹敵しうるもの、と印象づける為に不可決なことだったのです。

( トスカーナ大公の結婚式)

メディチ家の大々的な祝祭の最初は1539年のトスカーナ大公・コジモ一世の結婚式。花嫁は神聖ローマ皇帝カール五世によって選ばれたナポリ総督の娘、エレオノーラ。彼女はスペイン人、トレドの生まれだった。

その祝祭のすべてはスペインのカルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)への賛辞とフィレンツェ市民への誇示で覆われ、記念門や騎馬像が建てられる。

婚礼の祝祭は当然、宮廷の中にも持ち込まれる、そこでの山場はインテルメディオ(幕間劇)、その経過はことごとく記録に残された。

ラテン喜劇にインテルメディオ(幕間劇)を挿入することで、宮廷人がラテン語文体を学ぶという文学的朗読会の場を、音楽的娯楽的色彩の強い観劇の世界に変えたのは前述した十六世紀の始めのフェラーラ・エステ家宮廷。そのインテルメディオはフィレンツェに持ち込まれ、新興のメディチ宮廷の神話作りに最も効果的な催し物として利用される。インテルメディオの上演は娯楽の対象であると同時に、政治的意図を伝える格好の機会。メディチ宮廷ではインテルメディオを手の込んだ視覚的スペクタクルに仕上げ、声楽と器楽曲を相あわせた一つの芸術形式のようなものにまで発展させている。

1539年の祝宴では七つのインテルメディオが上演された。この時の上演はアントニオ・ランディのラテン喜劇「イル・コモード」に挿入されたもの。メディチ宮廷の中庭には建築家アリストーティレ・ダ・サンガロによって、観客席と初期的ではあるが円柱と彫像を持ったプロセニアム・アーチまで設えられ、羊飼いやセイレン、シレヌスや妖精たちが古代劇場風な世界の中で牧歌的風景を演じている。

(建築家ヴァザーリのプロデュース)

1565年の祝祭はさらに大がかりなものだった。コジモの息子フランチェスコ・デ・メディチと神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世の妹、ヨハンナとの結婚式。祝祭のプログラムの作成はドン・ヴィンチェンツォ・ボルギーニ、アートディレクターはジョルジョ・ヴァザーリと記録されている。

二人は十六世紀半ばのもっとも著名な学識経験者、多彩な活動で知られる修道院長と建築家。フィレンツェには婚礼のための都市への入場式門やメディチ一族を讃える野外劇場が建設され、さらにヴェッキオ広場には「宗教」と「市民の賢明さ」「公衆の平静」を主題とする三つの記念門が作られた。

この時の建築家ヴァザーリは多くの街路装飾の総合監督。多くの建築家、彫刻家、画家の一団をまとめあげ、フイレンツェ市民があたかも、いにしえのローマの中を歩き回っているような体験を演出したと言われている。

ヨアンナとフランチェスコの祝宴での演目はフィレンツェに題材を採った「ラ・コファナリア」。この時のインテルメディオは観劇していた花嫁と花婿に繋がるもの、すべてがアモールとプシケの物語。

会場はヴェッキオ宮殿、中世以来の共和国の城館がメディチ家の宮殿、その二階の「十六世紀の間」だった。内装は当然、ジョルジョ・ヴァザーリが担当。広間には観客の為の段席が設えられ、大公の席はその中央に設けられた。

舞台にはプロセニアム・アーチ、そのアーチには下に落とす形の幕まで用意されている。声楽には器楽の伴奏が付き、間奏曲はチェンバロ、ヴィオール、サックバット(トロンボーン)、リュート、フルート、コルネットの合奏団が演奏した。

(メディチ家の大狂宴)

もう一つ重要なインテルメディオもまた克明な記録に残されている。フェラーラのエステ家同様、メディチ家も記録を出版することで婚儀のもつ政治的意味を積極的にフィレンツェ内外に知らしめることができたからだ。

1589年、フェルディナンド大公とロレーヌ家のクリスティーヌとの結婚式。この時の劇場はフィレンツェのウフィッツ宮殿に設えられた。ウフィッツィ宮殿はコジモ一世の命によりジョルジョ・ヴァザーリが1560年に設計した建築。現在は絵画美術館として使われている。

1575年、メディチ宮廷は手狭になったヴェッキオ宮殿からこの新宮殿で公務を執ったが、ここの広間を改造した劇場がすでに触れたテアトロ・メディオ。この劇場は十七世紀初頭のカロの版画として残され、当時の様子を知る重要な資料となっている。そして、この劇場こそバロック劇場の原型、中庭や広間で仮設化された当時の舞台の集大成と目される。

フェルディナンドとクリスティーヌの結婚式は1589年5月2日。ジローラモ・バルガーリの五幕の喜劇「女巡礼」(ラ・ペレグリーナ)、その幕間とその前後、六つのインテルメディオが上演された。

この時のインテルメディオはイギリスのテレビ局によって再現されている。制作はちょうど、四百年後の1989年。「メディチ家の大狂宴」と題されたこの企画はその後イタリア賞も得ることになり、世界中で発売された。(東芝EMI・TOLW-3620)画面は全て明るい光に包まれたギリシャ神話の世界、神々が雲に乗り、高らかにマドリガーレを響かせる。

 (fig84)

器楽奏者は二十人を優に越え、当時の世俗音楽としては驚くほどの大編成。ムーサイやシレーナやニンフたちのマドリガーレは六声から八声、歌合戦のシーンや最後の地上に降りた神々の贈り物では三十声部を二人づつ六十人で歌う一大アンサンブル。

当然、この上演は大評判、楽譜はもちろん台本や舞台デザイン、その全てがヴェネツィアやフィレンツェで出版された。音楽そして舞台構成、残された記録は上演内容とそれに関わった人々を含め、祝典の姿を余すところなく今日に伝えてくれる。

全体の構成はメディチ神話の視覚化作業を担当するアカデミア・フィオレンティーナ。台本はリヌッチーニ、作曲は当時大人気のマドリガーレの作曲でフィレンツェの音楽界を風靡していた面々、バルディ伯爵やルーカ・マレンツォ、エミーリオ・デ・カヴァリエーリ、クリストファノ・マルヴェッツィ等が担当。

後の「エウリディーチェ」作曲者ヤーコポ・ペーリも何曲か担当しているが、まだ若い彼はこの時、アポロン役の歌手でもあった。さらに興味深いのは舞台担当の建築家ブオレンタレンティ、彼はジョルジョ・ヴァザーリを次いだメディチ家筆頭の建築家。

しかし、ここでの役割は、建築以上に重要だった祝祭・祝典の装飾係。この時、彼が書き残した舞台画は個人により生み出される幻想の数々、透視画法が持つルネサンスの理想とは程遠く、それは個人という作家による作品制作の時代の始まりであり、バロック時代の到来を確実に物語るものとなった。

作品の時代の到来を告げる真のオペラの誕生はモノディ様式による「エウリディーチェ」の完成を待たなくてはならないが、1589年の「メディチ家の大狂宴」はオペラ誕生以前に早くもバロック・オペラの全容を記録した画期的な出来事となっていたのです。

(バルディ伯のカメラータ)

オペラの誕生は瓢箪から駒と言われる、生み出されたきっかけと生まれでた結果が著しく異なるからだ。十六世紀後半、フィレンツェには二つのアカデミア(メディチ家の周囲に集まった人文主義者のサークル)があった。

そのうちの一つ、アカデミア・フィオレンティーナは新興の君主であるメディチ家を神話化する為、その視覚化作業に中心的役割を果たした。1589年、フランチェスコ・デ・メディチとの結婚の際のジョヴバンナの入城門の設置やサロンでのインテルメディオはこのアカデミアが中心となって運営される。

もう一つのアカデミアは音楽に関わるサークル、正式にはアカデミアを名乗る資格は持ってはいないが、音楽家としても名高いジョバンニ・バルディ伯爵がサンタ・クローチェ教会の近くの館で個人的に開いていた。

そこに集まった人たちをカメラータと言い、バルディ伯のカメラータと呼ばれている。参加しているのは貴族ばかりではない、教養のある市民、音楽家、詩人、哲学者たち。彼らは天文学を研究し、詩や劇を書き、作曲もした。音楽を古代ギリシャの理想に則し再発見すること、さらに詩と音楽をいかに結びつけるかなどを研究している。

(コルシ伯のカメラータ)

バルディ伯のカメラータの有力メンバーの一人はガリレォ・ガレリーの父。彼は「古代音楽と現代音楽に関する対話」を出版し、伴奏付きモノディ様式の理論的基礎を築いている。

自らも詩や劇を書き、作曲もするジョバンニ・バルディ伯爵は古典神話の研究に力を注ぐアカデミア・フィオレンティーナに協力し、その音楽的サポート、ギリシャ音楽の本質の発見と古代の習慣に合わせた当時の音楽の改革に力を注いだ。

トスカーナ大公が代替わり、フランチェスコから弟のフェルディナンドに代わると、先代の大公に近い立場にあったバルディ伯やガリレオは宮廷から疎んじらる。残されたカメラータたちをバルディ伯に代わって保護したのはフィレンツェ貴族ヤコポ・コルシ伯爵だった。

コルシ伯爵は富裕でもあり、新大公に取り入ろうとする政治的野心も持ってる。やがて、コルシ邸にも沢山の人々が集まるようになる。バルディ伯のカメラータたちを教師として育ってきた若い詩人のオッタヴィオ・リヌッチ-ニや作曲家ヤコポ・ペリという人たち。さらに、有名な独唱曲マドリガーレ「アマリッリ」の作曲家ジュリオ・カッチーニ。彼はバルディ伯の館でのカメラータでもあったが、この曲をコルシ邸の集まりの頃この曲を作曲し、彼自身の研究書「新音楽」の中に挿入している。

バルディ伯からコルシ伯と引き継がれたアカデミア、そこでのテーマは引き続きは古代ギリシャの音楽劇の様式についての研究が中心だった。

(ポリフォニーからモノディへ)

コルシ伯のカメラータの関心は牧歌劇やインテルメディオを、ただただ上演すれば良いというものではなかった。どちらかというと学究的な集まり、ギリシャにおける厳粛なドラマと音楽の結合に関心を集中させている。

そして、「ギリシャ劇では言葉と旋律が一致している、そこでは言葉が全体を支配し、音楽がそれに従う」と考えていたのだ。宮廷におけるマドリガーレやヴェネツィアにおける複合唱、それらはかなりイタリア的、ホモフォニックな趣を持っている。しかし、その音楽のみからではオペラは生まれ得ない。マドリガーレはヴェネツィアの複合唱ともども時代を謳歌していたポリフォニー音楽の一つに他ならないからだ。

コルシ邸のカメラータたちは、ポリフォニーは鼻持ちならないもの、抒情に走る音の綾織りとみなしている。ギリシャ悲劇の再生にはリズムと音、単純なメロディを重視した楽曲が必要と考えた。さらに彼らは、劇の上演にあたってはテキストがはっきりと理解できる状況こそが大事であって、その為には音楽は、簡単な伴奏の上に載ったソロの形が望ましい。

ポリフォニー音楽を、知性に対し訴えるものがなく、感覚的な耳の刺激にすぎないとまで言う彼らは、ハープシコード、チェロ、リュート、ヴィオラ・ダ・ガンバの通奏低音の管弦楽の上に立つ単旋律のソロの歌にこだわり、それが「モノディ様式」として確立された。結果として、その試みから見いだされたもの、それはドラマのなかに音楽を挿入する方法ではなく、音楽とともに進行するドラマの形式。ここで見るオペラの誕生は、ゴシック様式がイタリア人に嫌われ、明快なルネッサンス建築を生み出したのに似て、曖昧さのない知的構築物を求めた結果と言ってよいようだ。

(初めてのオペラ、ダフネ)

史上初めてのオペラ「ダフネ」は1598年の謝肉祭にコルシ邸で初演された。リヌッチーニの台本に最初はコルシ伯自身が、やがてペーリが作曲に加わり完成する。現在に残こされた楽譜はコルシ伯の作曲部分のみ、従って「ダフネ」はオペラの歴史からは消えていく。しかし、初演後の評判は高く、謝肉祭の明くる年、そのまた明くる年と大公の宮廷で再演されたと記録されている。

「ダフネ」は牧歌劇による音楽劇。その内容は比喩的にはトスカーナ大公の歴史を概観したもの。アモールの二本の矢から始まるアポロとダフネの物語。アモールの黄金の矢を受けダフネに心を奪われたアポロン。彼に追われダフネが変身する月桂樹はメディチ家の木を意味している。アポロンはその木を勝利と喝采に捧げ、自分自身の悲しみを昇華させる。

この物語はまた、混沌に対する秩序の勝利と回復が主題となっている。アポロンはもともとフィレンツェそのものを意味する。そのアポロンをコジモ一世の象徴とすることで、メディチ家そしてフィレンツェの復興を印象づけようとすることがそもそも牧歌劇「ダフネ」の筋書きなのです。

(ピッティ宮殿のエウリディーチェ)

「ダフネ」の上演で積極的に大公フェルナンドに取り入ったコルシ伯は次に「エウリディーチェ」を世に生み出すことになる。「エウリディーチェ」は1600年10月6日、トスカーナ大公の娘のマリアとフランス国王アンリ四世の婚儀の際、パラッツォ・ピッティで上演された。

 (fig85)

現在のオペラのレスタティーボ(オペラにおける詠唱ではなく、語りの部分)とは異なり、多少メロディアスであったとは言え、通奏低音の上の単旋律のソロや合唱だけの音楽劇は宮廷の結婚の祝宴の催しものとしては華やかさに欠けている。

すべての「言葉」を音楽として歌う新しい形式は、スペクタクルな場面をマドリガーレで盛り上げるインテルメディオに比べ、祝宴に適するものであったかどうか気になるところだ。しかし、新しい音楽劇「エウリディーチェ」は多くの人々の関心を呼んだと記録されている。

「エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、美しいメロディや華々しい音響効果が必要であったのではない、詩の意味、言葉の中身をいかに的確に伝えるかが大事だったのだ。

誕生期のオペラは現在の娯楽とはほど遠い、恐ろしく教養主義的な趣を持っていたことがわかる。しかし、その後のオペラにとって重要なこと、それはカメラータのモノディ様式が音の綾織りの嫌悪し、ソロを確立したことだけにあったのではなく、「音楽によってドラマが進行する」という様式、ドラマ的な音楽を生み出すための基礎をデザインしたことにあったのだ。

「エウリディーチェ」のドラマの形は悲劇でも喜劇でもない、第三の劇、牧歌劇だ。音楽の寓意によるプロローグで始まる形式も当時人気の「アミンタ」や「忠実な羊飼い」となんら変わるところはない。牧歌劇の舞台はアルカディアであり、題材は恋愛、物語は諸々の事情により始めはうまくいかないが、最後は幸福な結末となるというのが一般的。

しかし、「エウリディーチェ」はオルフェオの物語、牧歌劇としてはいたって単純、オルフェオが黄泉の国からエウリディーチェを救い出す話。物語が単純であることから、「エウリディーチェ」は新しい音楽の様式にすっかり合い、音楽でしか果たせない情感表出の場面にも恵まれたのだ。

この単純ではあるが情感豊かな「エウリディーチェ」の上演はドラマでもなければ、インテルメディオでもない、初めての音楽劇(オペラ)として位置づけられることになった。

オペラはブルネレスキやアルベルティよる透視画法の発見からほぼ百五十年余り後、同じフィレンツェの地で誕生した。古代ギリシャ以来「神のいる世界」を眺めてきた人間は「オペラの誕生」によりこれから後、 「音楽と建築」をメディアとして、神に代わり人間が眺める「風景の世界」と関わって行くことになるのです。

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