2011年11月10日木曜日

オペラを生み出す時代



17世紀イタリアはヨーロッパの庭、グランドツアーの目的地です。
ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマの人気は飛び抜けていて、北からの旅行者たちは古代の建築や美術品ばかりでなく、新しい音楽の新鮮さ、壮大さに魅せられていた。
しかし、その庭はスペイン・フランス・神聖ローマ帝国という3大勢力の政治的バランスの調整地でもあったのです。
衰退したとはいえ地中海の交易権をかろうじて保持していたヴェネツィアのみが共和国としての体面を保っていたがミラノ、ナポリはもちろんフィレンツェ、フェラーラ、マントバ、パロマ、どこも三大勢力との友好関係の維持に汲々としている。
どこの都市も政略的な結婚とそれに伴う華麗な祝宴を演出することで外交上の生き残りの道を画策している。
加えて1630年以来の諸都市に日常化し、蔓延していたたペスト、さらにいまだ落ちつくことのない宗教的混乱、イタリア半島の17世紀はイタリアは精神的危機にみちみちていた。

モンティヴェルディの官能的マドリガーレ「こうして死にたいものだ」やジュリオ・ロマーノのパラッツォ・デル・テとその巨人の間の壁画はそうした危機感とそこから生まれる自棄的法悦的意識を先取っているものと、言えるのではないだろうか。
オペラと劇場がもてはやされた時代はそんな時代。
その底に流れるものは、明確な論理や客観的な理性以上に主意・主情、厳格な宗教改革を突き抜けた後の快楽的な神への祈り。
とは言え、その時代が前時代の形式を衰退あるいは退廃化させたと考えるのは一方的過ぎる。
その時代を生きる多くの人々や、北からの旅行者たちが最も関心を持っていたこと、それは近代的な意味での際限のない人間追求であった。