2011年10月25日火曜日

ラテン喜劇はルネサンス市民の教養

十五世紀イタリアは清貧禁欲を尊ぶキリスト教に変わる新しい神を探していた。人間を中心とした現実的、合理的な価値観を賛美し、多少の快楽をも許してくれる新しい神、新しい秩序、新しい生き方を模索していたのだ。 そのような風潮が古代の文芸を復興させたのであり、多くの人文主義者(ユマニスト)を生み出した。文芸復興というルネサンスのテーマにとって、注目されていたのはローマ時代の喜劇や悲劇と、その上演の為の劇場のデザインにある。 テレンティウスやプラトゥスが書いた古代ローマの戯曲が再評価され、人文主義者の間ではその戯曲を具体的にどう上演するかが大きな関心。ルネサンスの人々にとって、ラテン喜劇こそ市民の教養(フマニスタ)の証しであり、上演の為の劇場は人文主義思想表現の最も有効な場となっている。 ラテン喜劇の上演は祝宴の催しものとしては些か華やかさに欠け、教育的ではあるがフェラーラ、フィレンツェ、マントバでは盛んに行われていた。観客にとって古典文化と接触しうる場は非キリスト教的生活の規範を知る、あるいは古典的会話の文体を学ぶ絶好の機会。その上演は政治的外交装置ではあるが、同時に新しいライフスタイルの為のカルチャーセンターとなっていたのです。

2011年10月15日土曜日

古代社会の音楽と建築/©




(アテネ風の塔)

アテネのロ-マ広場の「風の塔」。エオル通りの終点に建つこの塔はアクロポリスを真後ろ背負う白い大理石の八角形の建物。水時計と風見が組み合わされた、紀元前一世紀の建築。塔の内部の水面の高さで「時」をはかり、屋根のてっぺんのトリトンの右手の杖の位置で「風」の方向を知らせる。

「ロ-マ時代の風見」は聖ピエトロの故事にある鶏ではなく、海神ポセイドンの息子、いつも呑気そうに法螺貝を吹くトリトンだった。ズングリムックリしたその塔の八つの壁の上部には、吹いてくる風の方向に合わせギリシャ神話の風の神々が飾られている。

 

エオル通りに面する北の壁は北風ボレアス、西風はゼピュロス、南風ノトス、東風エウロスそしてさらに、カイキオス、アペロテス、リップス、スキロンの浮き彫り像が描かれていて、東西南北の四面とその中間の四面を加えた合計八面の壁が正確に方位に合わされている。

花の女神フロ-ラの愛人であった西風ゼピュロスが、ニンフのアネモネに恋をする。その恋に嫉妬したフロ-ラはアネモネを風のひと吹きで散りやすい花の姿に変えてしまった話など、ギリシャの風の神々の物語は、恐ろしさ、優しさ、気まぐれさ、にあふれている。

そのような神々に囲まれた「風の塔」は古代の人々の風に対する関心と、当時の都市生活のなかでの風とのきめ細かな関わりを示していてとても興味深い。

「本」や「印刷物」をほとんど手にすることがなかったアテネの人々にとって、風の神々の物語が書かれた「風の塔」は「一冊の書物」、大事な「愛読書」となっていた。


(記憶装置しての音楽と建築)

自然界に充ちあふれる音、その音はどんなに美しくとも反復しない、録音・再生技術がなければ繰り返し聞くことはできないからだ。 しかし、人が謡う詩や歌は記憶され再現可能。無文字社会にあって、詩や歌は人類最初の記憶装置となった。人ひとりの頭脳に入りきらない情報を歌に仕込むことで集団の記憶となる。

古代の人々は石や羊皮紙に「文字」を刻んでいる。 「文字」こそ最初の記憶装置か、しかし、それは権力者やエリートの専有物。「文字」は彼らの権力装置、あるいは呪力装置だった。

ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」のヴォータンはルーン文字を彫った槍を持ち、神の力を示している。槍に刻まれた「文字」そのものが、呪力的パワーを発揮しジークフリートを助けるという場面は印象的だ。 しかし、ここでは「文字」は記憶装置ではなくヴォータンの力。

私たちは愛の告白、神への祈願、心に秘めた胸の内を「歌」に託す。「歌」は古来から感情を伝える有効な媒体。 しかし、集団で生きる人間にとって、「歌」は知識や情報を保存し共有する、生きる上に不可欠な記憶装置でもあったのだ。

古代社会において「歌」とともにもうひとつ、権力者やエリートだけでなく、誰もが自由に利用できる記憶装置がある、それは「建築」。ギリシャの神殿、古代ローマ広場の風の塔あるいは中世の教会、「建築」はただ居住や利用に役立つだけが役割ではない、誰もが共有できる情報媒体でもあるのだ。

「建築」には様々な物語が託される。 物語は「建築」が人々に体験され、読み取られることで伝達される。「建築」は世界の形を示し、神々の世界を伝え、目に見えない歴史を語り、夢と現実を想像させる媒体としての役割を果してきた。

風の塔のあるアテネのローマ広場から北西部のアクロポリスを見上げれば、そこには紀元前四世紀のパルテノン神殿が建つ。その建築の東のペディメント、三角形の破風部分の彫刻はゼウスの頭から生まれるアテネの情景。アテネはゼウスの娘、しかし、ゼウスは母親である知恵の女神メティスがゼウス自身より賢い子を生むのではないかとおそれ、妊ったメティスを丸ごと呑み込んでしまう。やがて九ヶ月、ゼウスは頭痛に襲われ、彼の頭からアテネが誕生した。

西に回れば都市アテネの守護神をかけての争い。アテネと彼女の叔父であるポセイドン。神々の世界は何とも喧しい。

南北の柱列を屋根の下で連結するメトープ(三層の柱上帯の中央部分をフリーズといい、その中の矩形部分)には様々な蛮族、野蛮人とギリシャ人の闘いの場面が彫刻されている。

内陣の梁の小壁(フリーズ)には四年ごとに行われるパンアテナイア大祭の行列に参加しているアテネの市民たちの姿。アゴラからアクロポリスの上のパルテノンの東入口に到達するまでの様がまさにリアルタイムの動画を感じさせるがごとく装飾されている。

パルテノン神殿はだれが見ても美しいプロポーションだ。しかし、その全体から「神の家」と呼ぶ以外の特定の情報は見当たらない。

神殿を、生け贄に用いられた、食物を含んだ素材のあれこれの集合体と解釈する J・ハーシー、彼は 「何故に建築家たちは、元々は古代ギリシャの神殿から由来した円柱や神殿の正面を使い、(その意味も解らないのに)建築を建てるのであろうか。古代ギリシャの宗教が、何世紀ものあいだ死に絶えてしまっているというのに。」( 古典建築の失われた意味:鹿島出版会)と書いている。確かに、神殿に施された壁面彫刻からは様々な物語を読み取ってはいるが、構築された建築本体からは具体的なメッセージはなにも受け取っていない。しかし、ヨーロッパでは何世紀にも渡って、そのファサード(建物の外観正面)部分デザインを利用し、建築を作り続けた。

紀元前六世紀のピタゴラスは、ギリシャの美は、調和が源泉、ある特定な数比にあるといっている。さらに、ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスは解説する。「1モデユールは円柱の直径の半分、柱頭を含めた円柱の高さは14モデユール、したがって円柱の高さと直径の関係は7対1、パルテノンの場合は6対1である」(ヴィトルヴィウスの建築書第四書三章:東海大学出版会)

建築においては「数と比例」がいつも問題となり、いかなる数値も最終的には「正数」として表現されている、というのだ。ヴィトルヴィウスは古代建築のデザインを読みとるには欠かせない人。この書では度々登場するが、まず建築は「数と比例」 が鍵となっていることに留意しよう。

(現実の背後の想像的世界)

盲目の吟遊詩人ホメーロスがキターラ(竪琴)を奏でながらトロイヤ戦争の叙事詩を歌ったのは紀元前八世紀。アテネのペリクレスとフェイディアスによってパルテノン神殿が作られる三百年も前のことだ。ギリシャの陶器を飾る壷絵が人物像ではなく、幾何学紋様に終始している頃、ホメーロスは吟唱によって英雄たちの世界を詩った。

 

人々は詩を聴くことで「世界」を知ろうとした。世界は絵や文字が「見る」ことによってではなく、言葉あるいは音を「聴く」ことによって理解されたのだ。それは聴覚から生まれる想像世界。世界は音楽から始まったと言って良い。

古代ギリシャの人々にとって耳で聴く想像世界のほうが、目でみる現実世界よりリアリティを持っていた。何故なら、いつも神々と共にある彼らの生活において、山々や木々や川や水や雲の流れ、天変地異、季節の到来、天体の運行など、すべては神々のなせる技。人々はその技を目で見ることより、想像することで理解した。

ギリシャの人々は何故、想像世界に強いリアリティを感じていたのか、そこには古来からの彼ら特有の考え方がある。天体はいつも規則正しく秩序立っている。生きるべき世界もまた同じ、世界は決して混沌としたものではなく、規則正しいある法則が支配している。

人が五感で知る世界はいつも不完全、捕らえどころなくバラバラ。現実の世界は不完全だが、その表面にではな く、背後にある世界には天体と同じ美しい秩序(ハーモニー)があり、そのハーモニーが完全なる世界を支えている。

人間が生きるべき本来の世界とは、自然や動物と共にある目の前の現実ではなく、その背後にある想像世界と考えていたの。

「プラトン主義に特有でおそらく東洋にその例を見ないのは、この転変常なき非現実の感覚界の背後に、二番目の、恒久不変の真理の世界が存在するという確信である」(シンボリック・イメージ・日本語版への序:平凡社)と書いたのはE・H・ゴンブリッジ。

ヨーロッパの音楽・美術・建築を理解する上で欠かせない言葉だ。古代ギリシャにおいては、人間が五感で把握する世界は不完全だが、イディアが人間が生きるべき本来の世界を支えている。

中世においては、唯一の創造主がいて、世界は神により支えられ、理性で理解できる教義により成り立っている。

目には見えないが、世界は秩序だっているのだ、という観念とその事への信頼は、ヨーロッパの芸術を支える土台と言って良い。その土台は古来からの合理主義。「人間が関わる事柄の全ては理論理性で説明がつく」という強い信念が生きるべき「世界」を支えているのだ。

ゴンブリッジが東洋にその例を見ないということもよく理解できる。私たちは合理主義より経験主義「事柄の理解はすべて経験の結果」と考えている。

従って、「理性によって組み立てられた世界」より「経験的現実の世界」が生きるべく総てであって、 感覚界の背後の世界には関心が無い。 仮に「もうひとつの世界」はと問えば、それは夢か彼岸、死後の世界となってしまうのだ。

ゴンブリッジは同じ日本語版への序で次のようなことも付け加えている。「プラトンの学園、つまりアカデミアの入口の上には、幾何学に通ぜざる者ここを潜ることなかれ、という銘文が記されてあったという。それは何故か。奇妙に響くかもしれないが、幾何学上の真理は我々の転変常なき感覚界には適用されないのである」。

幾何学という数と形の学問は「建築」を支える基盤。しかし、その基盤もまた現実ではなく、現実を理性的に認識するための根拠にすぎないと言っている。つまり、確かなことは理性的認識だけなのだ。

人間が描く三角形はいかなる三角形も真実ではないし、また真実である必要もない。現実の紙の上に書かれた直線は、真なる直線であることは決してない。真なる直線とは理性的なあるいは観念的な認識の世界に存在するもの。

プラトン主義は感覚で知る現実の背後に、本来の世界が存在すると考え、真の理性的客観的知識とは、その世界にあるものと考えている。現実的感覚界にあるのは主観的意見に過ぎない、従って、誰もが共有する「合理」は現実の背後の想像世界のみの存在となる。


(天体の音楽と天上の館)

ヨーロッパの人々が信頼する「合理」支える想像世界とは「音楽と建築」が生み出す世界だ。どちらも共に主観的感覚的な存在というより理性的認識媒体。

古代ギリシャから近代の始まりまで、天体は音楽という楽しい観念も持っていた。天体は唯一、感覚的にも 毎日「秩序だって」運行する。それは「合理」の象徴。一方、音楽は感覚的にも美しい。「美しい」ということは「秩序だっている」「調和がとれている」ということを意味する。

つまり、秩序だつ音楽は天体と同じ、目にする天体の運行は音楽と考えたのだ。ハーモニーを持つ天体と音楽は「数」という客観的体系により秩序正しく論理化されている。

さらにまた、「地」はカオスだが、音楽が響く「天」はコスモス(ギリシャ語のkosmosの意味は秩序でもある)。天(宇宙)に響く音楽を地上に引き戻すことでカオスである地上もまた秩序化できる。 音楽が響く天上に建つ館を地上に引き写すことで、地上が秩序づけられる。それが想像世界に建つ「建築」のメッセージ。「建築」を音楽同様、ハーモニーを持つ 「数」という客観的体系で生み出すことにより地上が秩序づけられると考えた。

これがギリシャ神殿が意味する建築世界。ギリシャ人の合理を支えるもの、現実の背後にある確かなもの、それは秩序(ハーモニー)を認識させるコスモス(天=宇宙)であり、天に響く音楽と天上の館がその象徴。そんな宇宙の誕生をヘシオドスは紀元前七世紀の「神統記」の中で宇宙はムネモシュネ(記憶)の娘である九人の「ムーサ=ミューズ」の音楽に満ちたものと見なしている。

「麗しい歌声が疲れも知らず

ムーサたちの口から流れ

彼女たちの百合にも似た歌声が

広がりゆくとき

雷 轟かす父神ゼウスの館は笑いにさんざめき

雪を戴くオリンポスの高嶺と不死の神々の館は木霊を返す」(神統記・廣川洋一訳:岩波文庫)

あるいはまた、ヘンデルの「聖セシリアの日のための頌歌(Ode on St. Cecilia's Day)」は十七世紀の詩人ジョン・ドライデンが不協和な「自然」に響く天上の和音を謡った詩に作曲した。

「和音から、天上の和音から、

この大いなる宇宙は造られた。

「自然」が不協和な原子の山に

埋もれて、顔を

起こすこともできなかったとき

妙なる声が中天より響きわたった、

断て汝、死に果ててはおらぬものよ!

たちまち冷と熱と湿と乾の四気は

それぞれの部署に正しく立ち帰り、

「音楽」の力に服したのだ。

和音から、天上の和音から、

この大いなる宇宙は造られた。

和音から和音へと

すべての音階をめぐって、

その全音域の極まるところ、それが「人間」なのだ。」(ジョン・ドライデン「聖セシリアの日のための歌」:世界文学全集第六十六巻・筑摩書房)さらに、図版はジョージ・フレデリック・ワッツの「希望」。消えてしまった天体の音楽を賢明に蘇らせようとする少女(ミューズ)の姿が、コスモスという想像世界が解体した十八世紀に描かれた。


 (fig4)


(ピタゴラス音階)

世界の美しい秩序の根本にあるのは「数」、和音はそこから得られるものとし、天体は音階(調和)であり「数」であると考えたのはピタゴラス。ギリシャ人にとって科学は実利的なものではなく、審美的あるいは形而上学的営みだ。

ギリシャ科学では宇宙の生成は美しく秩序だったもの、ヘシオドスの宇宙の誕生は詩であるとともに科学でもあった。

その根本となる「数と比例」、紀元前六世紀ピタゴラスは協和音程と数の比例との間に密接な関係があることを発見し合理化した。ピタゴラスは鍛冶屋のハンマーが奏でる様々な音の良く響き合う瞬間があることに気付き、世界の美しい秩序の元にあるものは「数」であり、和音はそこから得られると確信したのだ。

音程とは二つの音の高さの隔たりを言う。一度はユニゾンつまり隔たりがない。ドレミファ・・・ではドとレの隔たりは二度、四度はドとミ、五度はドとファの隔たりを言う。伝説ではピタゴラスはキターラの開放弦を使って、ということになっているが、二点間に単弦を張り、開放弦の音と単弦の中央を押さえた時の音、つまり弦の長さの比が2対1の時、2つの音は互いに良く響きあうことを確かめた。

次に弦の長さを2対3、3対4に分割し弦を弾き、同じく開放弦と良く響き合うことを確認する。弦の長さを2対3に分割して弾くと開放弦とは五度の隔たり音、3対4の分割では四度の隔たり音、どちらもお互い良く響きあう。このことから1対2はオクターブ、2対3は完全五度、3対4は完全四度の音程を持ち、協和音程は「数の比例」と密接な関係にあることを発見している。


(アリストテレスとプラトン)

その後アリストテレスはピタゴラスの考えを強調し「数」をすべての存在の構成要素であるとした。天体は数であり音楽であると紀元前四世紀、彼の「形而上学」で定義づけている。一方、アリストテレスより早くプラトンは「国家」の中で算術と幾何、つまり数と形に関する学問こそ、現実を理性的に認識するための根拠なのだと言っている。

彼らの仕事はヨーロッパにおける合理主義、視覚や経験では捉えられない現実を、理性(ロゴス)と思考によって捉えるものとしたことにあり、その原理は「数」の「美しき秩序=ハーモニー」そして「天体の音楽」にあったと考えられている。

さらに古代ギリシャおいて音楽は現実の響きではなく、世界全体が照らし出される場となるもの、それは官能をくすぐるものではなく、理念に導かれる人工的世界とみなしている。笑いにさんざめく父神ゼウスの館、雷 轟かす雪を戴くオリンポスの高嶺と不死の神々の館、神々が住まう天上の館もまた「数と比例」による人工的世界なのだ。

構成された建築や音楽の中に数比関係が見いだされたからといって、それが感覚的な美しさを証拠だてる根拠はどこにもないが、感覚ではなく合理への信頼、理性的認識としての「音楽と建築」は全く同相にある。ともに「数」から生まれた兄弟。天(コスモス)に鳴り響く天体の音楽と天上の館はギリシャ神殿が石造建築として誕生するまぎわの時代、すでに確固たるイメージを持って地中海世界に広まっていた。



(クレタのクノッソス宮殿)

ミノス時代のクレタが西洋建築の歴史的起源と目されている。ギリシャ本土のミケーネがホメーロスに謡われる遥か昔、紀元前十六世紀にはすでに大宮殿が建設された。クレタ島はギリシャからはエーゲ海を南に越え、アフリカに最も近い島。その位置と形状は東西に細長く、ギリシャと小アジアあるいはアフリカを結ぶ位置にあり、古代から文化と謎につつまれている。

紀元前六千年にはすでに、穀物栽培と土器焼成の技術が当時の先進地小アジアからこの島にもたらされた。紀元前三千年には青銅器文化が導入され、ギリシャ本土よりもいち早く、野生オリーブの栽培果樹化が進み、島全体は農業の生産性は急激に高まっている。この生産性の向上がもたらした経済発展が政治的・社会的変化を生み出し、ギリシャ本土の低迷を尻目にクレタではクノッソスを始めいくつかの壮大な宮殿が造営された。

 (fig5)

しかし、その後のクレタの宮殿は紀元前千四百年を頂点として徐々倒壊してゆく。クレタ島に花咲いたミノス文化の終焉はサントリーニ島の火山噴火を含め度々の大噴火と地震が原因、あるいはギリシャ本土に台頭したミケーネ文化との悲劇的な関わりの結果なのか。クレタの倒壊から三千年余り後の二十世紀始め、アーサー・エヴァンス卿の発掘によりその全貌は徐々に解明されてゆく。

クレタ島の中央部北側の大都市イラクリオンはいつの時代もこの島の中心。この都市から南へ5kmあまり、カイラトス川に近い丘の斜面を利用してクノッソスの宮殿は建設された。後に迷宮(ラビリュントス)と呼ばれるこの宮殿は、その後のギリシャの建築とは異なり、複雑な構成と、形や大きさが不揃いの何百という部屋を持ち、あるいは上に太く下に細い柱や縦横に張り巡らされた通路と階段によって構成されている。しかも幾つかの部屋の壁面は色彩豊かに描かれた草花や海豚や魚、沢山の牛に人間たちが描かれていて、その全体は多くの人々の様々なの想像を掻きたてずにはおかないふしぎな世界となっている。

クノッソスは当時のクレタ全体を支配したミノス王の宮殿。その遺跡全体は150m、南北に長い50m×30m程の中庭を囲んだ三層から四層の複合建築。代々のミノス王とその重臣たちはここを拠点とし、政治を動かし経済活動を行った。宮殿内には大量物資の為の倉庫と数々の美術品のための工房がある。中庭では凄惨な宗教行事まで行われ、その全体は宮殿と呼ぶより政治・宗教・経済が一体となった都市のような様相を示している。


(ミノタウロス神話)

クノッソスの前王アステオーンは子供が無いまま世を去った。人望の無い弟ミノスは王位を継承しようとするが民衆に反対される。ミノスは王国は神々から授かったものと民衆に伝え、その証拠はミノス自らが望めば神はいかなる願いも叶えてくれると豪語する。

ミノスは海神ポセイドンから牡牛を贈られることを祈り叶えられる。その牡牛をポセイドンに捧げると約束し王国を得るが、ミノスは見事な牡牛を惜しみポセイドンには別の牡牛を捧げ、怒りを買ってしまう。ポセイドンは牡牛を凶暴にし、王妃パーシパエーが牡牛に欲情を抱くようにさせてしまった。

ダイダロスはアテネのもっとも優れた工匠、斧や錘、水準器などの発明者。しかし、彼は鋸を発明した弟子ターロスを嫉妬し、崖から突き落としてしまう。有罪となったダイダロスはアテネを追放され、クレタ島にやってくる。

王妃パーシパエーはダイダロスに木製の牡牛をつくらせ、彼女はその中に入りミノスの牡牛と情交を交わす。やがて王妃パーシパエーは身ごもり生まれたのが半人半獣のミノタウロス。

ミノス王はダイダロスに迷宮(ラビリントス)をつくらせ、その奥深くにミノタウロスを閉じ込める。怪物ミノタウロスの食欲を満たしたのは、クレタの占領地アテネから生け贄として送られてくる美しい少年少女たち。

生け贄を救うべく志願したのがアテネ王エーゲウスの息子テーセウス。黒い帆を掲げた船でクレタ島に上陸したテーセウスはたちまちミノス王の娘アリアドネに恋をする。彼は成功したら妻とすると約束したアリアドネの糸玉に助けられ、この迷宮に忍び込み、みごとミノタウロスを討ち果たしクレタ島を脱出した。

迷宮の秘密をもらしたダイダロスはミノス王の怒りを買い、今度はダイダロス自身がイカロスと共にここに閉じ込められてしまう。イカロスはミノス王の女奴隷ナウクラテとダイダロスの間に生まれた息子。ダイダロスは鳥の羽を蝋で張り付けた翼を作っておき、ふたりは無事ミノスの怒りから逃げ出すことに成功する。


 (fig6)

しかし、イカロスは太陽に近付き過ぎたため蝋が溶けだし、イカリア島の近くに墜落する。ダイダロスはシチリア王コーカロスの元に逃げおおせる。ミノス王はシチリアに行き、コーカロスにダイダロスの引き渡しを求める。

しかし、シチリア王は彼の娘たちにミノス王を殺させた。死して冥界に降りたミノス王は冥界を治めるハーデス神のもとの死者を裁く裁判官となり、黄泉の世界の支配者の一人となる。

一方、アリアドネとクレタ島を逃げ出したテーセウスはアテネへの帰還途中ナクソス島に立ち寄る。あろうことかテーセウスは眠っているアリアドネをこの島に置き去りにし、ひとりアテネに帰ってしまった。

アテネの王エーゲウスはテーセウスが戻る時、無事であれば白い帆を張るよう命じていたが、アリアドネを置き去りしたことを悔やみ悲しんでいるのか、テーセウスは父の命令を忘れたまま入港する。船が黒い帆を張っているのを見たエーゲウスは、我が子の死を嘆き海中に身を投じてしまう。

クレタ島のミノス王の神話は尽きないが、オペラの話にも触れてみたい。フィレンツェの最初のオペラがダフネやオルフェオの物語であったように、多くのギリシャ神話がオペラの題材となっている。


(オペラとギリシャ神話)

オペラはフィレンツェのカメラータたちのギリシャ悲劇の再演に始まっている。それが理由と言うわけではないが、その後、モンテヴェルディをはじめとしてリュリにヘンデル、パーセル、グルック、ハイドン、モーツァルトやシュトラウス等々、多くの音楽家がギリシャ神話を題材にたくさんのオペラを書いた。楠見千鶴子さんの「オペラとギリシャ神話」(音楽之友社) 巻末にその全作品がリストアップされているがとても数え切れない。

オペラの作曲には音楽とともに動くドラマが求められる。オペラのためには単純な物語であること、感情の起伏に富み、心の浄化に役立つこと。そして最も重要な事は「ある特定な人物」の喜びや悲しみではなく、あなたでもあり、わたしでもある、特定されない、どこにでもいる総ての人間のドラマがテーマとなっている。誰でもなく、誰でもある、世界中どこにでもいる普遍的人間のもつ運命とその悲しみ、それを豊かな感情を持ち表現するのがオペラだ。

このミノタウロス神話からも幾つかのオペラが生まれている。ナクソス島に置いてきぼりされたアリアドネの嘆きはモンテヴェルディとハイドン、そしてR.シュトラウスが作曲している。

モーツァルトの「クレタ島のイドメネオ」は神話を直接オペラ化したものではないが、彼の初期オペラの名作。それは運命としてのポセイドン神との約束、親子にしろ男女にしろ愛ある人間であるならだれもが持つ悲劇をモーツァルトは十八世紀特有の寛恕のオペラとして完成させた。


(迷宮が意味するもの、それは都市と建築)

様々な神話を持つ古代ギリシャ。しかし、建物が中心となる物語はこのミノスの宮殿の他にはない。この神話とそれを育んだクノッソス宮殿、その間には現代の私たちの想像を刺激するどんな事柄が潜んでいるのか。

そもそも何故、クノッソス宮殿が迷宮(ラビリントス)なのか。実際に、この宮殿を見学してみる、あるいは図面からの想像でも良い、歩いてみると決して迷宮ではない。中庭に立てば、ほぼ全貌が掴める。複雑で分かり易いとは言えないが、現代建築に比べても迷宮とはほど遠い。しかし、都市か宮殿か墳墓か、三千年も経過したこの大きな複雑な構造物はその至る所に、様々な物語を秘めていることだけは間違いない。


 (fig7)

ギリシャ先住民の言葉ではラブリュスは双斧を意味する。クノッソスの宮殿には双刃の斧を祭った部屋があり、その部屋をラブリュントスと呼んでいる。双斧は王章でもあり、このことから、この大宮殿全体を迷宮(ラビリントス)と呼ぶようになった。

さらに双斧すなわちラブリュスが権力の象徴以前に、石工の持つ平鎚をも意味するものであるならば、それは石を削り組み合わせ、石造の建築物を生み出すものとなる。つまり双斧で象徴されたラビリントスとは長い年月をかけ人間がもくもくと作り上げた人工的世界そのものを意味している。

そしてもうひとつ、直接神話に結びつく、もっと重要な事柄も想像される。この宮殿はシュリーマンの発掘したギリシャ本土のミケーネの宮殿とは似ていないわけでもない。しかし、クノソッスの豪奢で美しい造りと巨大さを体験すればミケーネは地方植民地の一前進基地に過ぎない。その前進基地がアガメムノンやイピゲニア、トロイ戦争の英雄たちの神話の故郷であるならば、このクレタにダイダロスの建築神話が生まれるのは当然だろう。

神話が示すアテネのテーセウスやダイダロスとクレタのミノス王との確執はエーゲ海の覇権をめぐるアテネとクレタの争いと読み取れる。この神話が後世に覇権を握ったアテネ側に生まれたものであることを考えあわせると、この迷宮神話はギリシャ人が抱いたミケーネ以前の建築あるいは都市の文化への憧れを意味している。

大規模の建築ならすでにエジプトやメソポタミヤでは存在していた。2ヘクタール余りのこの建物を迷宮として神話化させたもの、それはまぎれもなくこの宮殿は、ギリシャの人々にとって、野蛮世界とは隔絶した古代における大都市としてイメージされていたのだ。

ミノア文化を支えたのはクノッソスばかりではない、クレタ島にはいくつかの都市が存在していた。ホメーロスはイーリアスでクレタのことを「民が群がい集う諸都市」と歌っているが、クレタはギリシャ人にとって想像を絶する怪物的な文化を持つ都市であり、その人間的集合もカオス的なものではなく、迷宮的なものとして理解していたと考えられる。


(ダイダロスとデミウルゴス)

ミノスの迷宮が都市であり、その神話が古代における都市のイメージを直接的に表わしているとするならば、ここで立ち戻らなければならないのは「ミノタウロス」は何を意味するのか。

都市には魔物が棲むという想像は現代社会でも通用する事柄だが、ミノタウロスはもっと深読みする必要がある。建築家ダイダロスによって作られた迷宮の奥処に幽閉された半人半獣のミノタウロス、彼は建築によって調伏されるべく不定形なもの、無秩序なもの、カオス(混沌)としてイメージされるのだ。


 (fig8)

この神話は建築の有様を示す原神話であり、ダイダロスは半人半獣のミノタウロスという両義的なカオス(混沌)を幽閉する迷宮を「数と幾何学」によって作った。「建築」はカオスを綴じ込めることがその役割、その観念はプラトンのティマイオスが支えてくれる。

不可視な世界にあるイディアと私たちの目に見える世界のモノとの媒介者の役割を担ったのがデミウルゴス。彼は決して無やみやたらにモノを生成するのではなく、「宇宙は混沌を秩序づけることによって生成される」という原理に基づいて、不可視のイディアをモデルとし、様々なモノを生み出している。

つまり、プラトンのデミウルゴスと神話のダイダロスは同相にある。そして、クノッソスの迷宮はダイダロスとデミウルゴスの建築意志の原神話、「数と幾何学」という秩序によって不定形なカオスを調伏する人、それが建築家であることが説明される。



(オルフェオと音楽神話=音楽的調和は社会的調和を生み出す)

カオスを調伏するミノスの迷宮が建築の原神話であるならば、野卑な獣たちをおとなしくさせ、無生物である雲や小川をも音楽に巻き込む竪琴名手オルフェオは、音楽の創生神話だ。音楽的調和は社会的調和を導く、音楽と建築は共に「数と幾何学の子供」、つまり動物的人間が住むカオスのような自然世界を「数と幾何学」によって秩序だったコスモスとしての人間的世界に転換する、これが古代ギリシャがイメージした音楽と建築の役割だ。

高山と峡谷により隔絶されたニンフと牧人が住まうのどかな理想郷。オルフェオはテッサリアの谷間、アルカディアに住んでいる。彼はアポロンと九人のミューズ(知的活動を司る女神)の中の一人、カリオペとの間に生まれた音楽の神。オルフェオは毎日、金の竪琴を弾く。その音と彼の歌によって鳥や獣だけでなく、木々も頭をたれ耳をすました。空に漂う雲も、小川のせせらぎも、彼の歌に合わせ流れたという。

オルフェオには最愛の妻エウリディーチェがいる。ある日、彼女は川岸を散歩して、あやまって草の中の毒蛇を踏みつけてしまった。毒蛇は怒り、エウリディーチェに噛みつく。やがて、彼女はオルフェオとの別れをおしみつつ、草の上に顔をうずめ息たえた。エウリディーチェを失ったオルフェオは、悲しみのあまり竪琴も手にせず歌うことも止めてしまう。いつもの川岸に座り、ただただ涙を流すばかりの毎日。

ある日、彼はエウリディーチェを取り戻そうと心に決める。エウリディーチェを探しに出かけたオルフェオは、やがて大きな黒い門の前に出た。そこには頭が三つの化け物のような大きな犬が番をしている。闇の中の六つの火のような眼と歯をむき出しにして。すさまじい声で吠える化け物の前に立ち、オルフェオは金の竪琴を肩から降ろし、静かに弾きはじめる。すると犬はだんだんとおとなしくなり、足下で眠り始める。もう一度オルフェオが歌を歌うと、門はひとりでに開きはじめた。

死の国に着いたオルフェオは宮殿の門に立つ。そこにはいかめしい番兵、しかし、彼もまた竪琴の音を聴くとおとなしくオルフェオを見送った。広間にはハデス王、生きたままこの国にやって来たオルフェオを烈火のごとく怒鳴りつけるが、オルフェオはだまって竪琴を取り、えもいえぬ音を響かせ静かな美しい歌を聞かせた。

王の怒りはおさまり「美しい音楽を聞き、こんなにいい気持ちになったのは生まれて初めてじゃ。死してもいないのに、こんな寂しく、悲しい国にやって来たのだから、そなたにはなにか願いがあるのであろう。どんな願いか申しなさい、ひとつだけは叶えよう。」オルフェオはエウリディーチェを地上に戻してくれるようにお願いした。

死したエウリディーチェを再びこの世に返す願いに、さすがに王は渋る。しかし、あんな美しい音楽を奏でるものの願い聞き届けてやろうと、エウリディーチェを黄泉の国から地上に戻すことを許した。ただし、二人が地上に戻るまで、どんなことがあっても、後からついてくるエウリディーチェを振り返ってはならぬぞと、オルフェオに王は約束させた。

何度もエウリデーチェを見たいと思ったオルフェオだが、必死に我慢して道を進む。しかし、地上に戻る寸前、ついに辛抱しきれずエウリディーチェをわずかひと目と振り向いてしまう。 そこにはなつかしい妻の声が聞こえただけで、すべては霧の中に消えて行く。


 (fig9)

以上が、山村静さんのギリシャ神話(教養文庫)から要約させていただいたオルフェオとエウリディーチェの物語。フィレンツェのピッティ宮殿でのオペラの誕生となる「エウリディーチェ」を始めとしてモンテヴェルディの「オルフェオ」、十八世紀にはグッルクの「エウリディーチェとオルフェオ」と、この物語はオペラ史の底流、ターニングポイントにもなりたびたび登場する。

さらに、そのテーマを愛と救済の物語と敷衍させれば、モーツアルトの「魔笛」、ベートゥヴェンの「フィデリオ」もまた同じ、詩と音楽による劇という世界では、このテーマは決して消えることなく、現代に引き継がれている。「オルフェオ」はなぜオペラの底流なのか、なぜ音楽家を引きつけるのか。そこには音楽神オルフェオが社会的調和を生み出すばかりでなく、音楽家の持つ知的関心、つまり音楽家自身が発する「言葉の世界」が深く秘められている。


(オルフェオ・音楽の持つ力)

音楽家の持つ知的関心とは「時代」を生きる音楽家自身の姿のことだ。オルフェオのテーマは失われたアルカディアの牧歌的幸せを「音楽の力」によって再生しようとするもの。この場合の音楽とはアポロンでありオルフェオという神のことを言う。

ルネサンス期、フィレンツェのオルフェオは中世キリスト教世界に変わる新しい時代をイメージさせる象徴。それは従来の聖職者ではなく人文主義者(ユマニスト)としてのオルフェオを意味し、時代を再生する神。十六世紀末のマントヴァのオルフェオは聖職者でも人文主義者でもない。同時代に誕生しつつあった画家や建築家、「作家」としての音楽家の姿を表している。モンテヴェルディは「音楽の力」を発見し、音楽家としての自信と気概を、オルフェオに置き換え示しているのだ。

グルックのオルフェオはオペラを改革せざるを得ないグルック自身の姿。十八世紀のオルフェオは理知的で啓蒙的な愛ある人間そのもの。グルックは神話から逸脱し、人間オルフェオの愛の賛歌としてオペラを作曲した。



2011年10月10日月曜日

ルネサンスの祝祭

ルネサンスの祝祭もまた音楽と建築に支えられている。祝祭を必要としたのは君主。君主の正当性を人々に知らしめるため、そのイメージの強調が絶えず求められるのは中世と変わらない。 しかし、この時代、君主の正当性と権威の強調に役立つモノ、それは最早、宗教的権威のみが総てではない。絶対化された宗教とは距離を保ち、いかにその権威を強調するかがルネサンスの祝祭の特徴。 前時代、教会の中で一体化していた音楽と建築は教会から離れ「作品」として分離し、宮廷や邸宅、庭園や都市という世俗の空間の隅々へと広がって行く。この時代の音楽と建築は神による典礼の時代を人間中心の祝祭の時代へと変容して行った。 周辺列強の侵出によりイタリア半島は共和制から君主制へ移行していかざるを得なくなる。市民・商人の間から抜きん出て登場したメディチ家のような新興君主は、その存続と正当性の維持のため、従来とは異なる手法を必要とする。 宗教的権威と距離をおいての君主制の強調、それは古代社会の寓意(アレゴリー)を利用し、神話的な劇的情景の創出することだった。新興君主は古代の神々に直接連なる家系であり、その威光と正当性を保持していることを示そうとする。祝祭を象徴的な寓意(アレゴリー)による視覚像の集合とし、そのイメージによって君主の権威を意識づける。それが手法であり、祝祭の役割。 祝祭を支えるの古代、中世と同じように音楽だが、その視覚的世界を演出する建築家は音楽家以上に重要な役割を果たすようになる。宗教的または職能的ギルドによる制作の規模も大きくなった演劇やページェント、その実際的な担い手が専業化しつつある中、ルネサンスにおける祝祭全体をプロデュースし、仕切っていくのは今や建築家の役割となっていたのだ。 彼らは当然、美術ばかりでなく、音楽も一体化させ、イメージの強調のための劇的情景を都市の隅々に生み出していく。ルネサンスの祝祭は視覚中心の一大ページェント。さらにまた、君主たるもの、その地位を確保し、存続するためには宮廷における祝宴が不可決。 アレゴリーによる劇的情景の創出は都市における祝祭以上に、広間における祝宴が有利だった。神話的情景は都市広場より宮廷の広間のほうが、より凝縮され繰り返され有効であったと同時に、そのテーマそのものも、街中の一般市民より宮廷内の貴族あるいは文化的エリートのほうが理解しやすかったのだ。 スペイン、フランス、神聖ローマ帝国という三大勢力の覇権争いに翻弄されるイタリア諸都市の君主たち、彼らは生き残りの道を画策し、政略的結婚の祝宴や外交上の祝祭を盛んに催す必要があった。都市の広場での祝祭は君主館の広間や中庭にまで持ち込まれ、そこには仮設舞台も設置される。 十七世紀に入ると、仮設舞台は常設化され、劇場は君主たちの権勢を誇示する為の不可欠の場となる。そして豪奢を極めた宮廷劇場が建てられた。 古代社会のあるいは神話的世界のアレゴリーで満たされる劇場空間は透視画法により生み出されたアルカディア、君主や貴族たちもニンフやパンと共に踊り舞う空間なのだ。祝宴を開き、政略的結婚をことほぎ、外交交渉を重ねる宮廷劇場は娯楽の場ではあるが、そこはまたイタリア半島に分立した諸都市にとっては生き残りを賭た重要な政治的装置となっていたのです。

2011年10月5日水曜日

ゴシック建築と多声音楽




( パリ・ノートルダム大聖堂)

パリ・ノートルダム大聖堂は司教のモーリス・ド・シェリーが1163年に旧来の諸堂を廃し着工、二十年後に内陣が完成、やがて次の司教ユード・ド・シェリーに引継がれる。十三世紀に入りようやっと西正面、そして薔薇窓が徐々に完成して行くという長期の建設。 この大聖堂は人々にどのような意味やメッセージを発信し続けていたのか。それは人生における誕生から臨終まで、この建築は「人はいかに生きるか、いかに神とともにあるか」を伝えるもの。

建築に施されたメッセージはアレゴリー(寓意)化されている。具体的な言葉でなくシンボル(象徴)となる装飾を読みとり、解釈する事によって、人々は集団として生きる現実世界と個々人の持つ内面的・想像世界とを行ったり来たりして読み取る。

現実と観念という二つの世界にある絵画や彫像そして建築、この大聖堂の持つ壮大な視覚的デザインはゴシックと呼ばれる。語源はイタリア語のゴティコ、古典古代とは異なる野蛮な様式という意味を含めイタリアの知識人が呼んだことに始まる十二世紀フランスの宗教デザインの様式だ。アルプスの北、同時代の精神世界のすべてを表現している様式だ。

音楽と建築はメディア、しかし、大聖堂の個々の装飾的象徴が描くメッセージの解釈は他書に譲り、(十九世紀末ユイスマンスは「大伽藍」を著し、シャルトル大聖堂のメッセージを小説化している)ここでは大聖堂の建設の時代の「音楽と建築」の意味に触れてみたい。

(都市の時代に対応した神の姿)

天にも届くゴシック建築と華やかな綾織りのような音楽を生み出す世界。光に満たされた大聖堂とその誕生に呼応し立ち上げって来る複雑な音の絡まり、多声音楽の世界は何を意味していたか。外から差し込むステンドグラスの光によって華麗に装われた建築は、その空間に見合う多彩な音楽空間を必要とした。あるいは複雑華麗な音楽は多彩な色光が輝く巨大な建築空間を必要とした。次第に雄大な姿を現してくる大聖堂の工事と並行するように、様々なロマネスクの修道院の中で展開されてきたオルガヌムは、二声楽曲から三声、四声楽曲へと広がってゆき、 やがて壮大な多声音楽となり、この新しい大空間いっぱいに鳴り響いていく。

新しい世界の始まりはまずは建築だった。それはパリの大聖堂の建設とノートルダム楽派の多声音楽が始まる二十六年前のサン・ドニ大聖堂の建設にある。十二世紀初頭、二人の聖職者の論争がこの時代の音楽と建築に託された意味に触れている。

パリ近郊サン・ドニの修道院長シェジェールは荒れ放題の修道院の再建に当たって「より高価な、最も高価なものは皆、まず第一にミサ正餐に用いられなければならない」と語っている。ここでいう最も高価なもの、それはガラスのこと、彼は高価なステンドグラスを多用することで、光に満ちた聖堂を作ろうとした。その為には出来るだけ壁体を取り除き、透き通った建築物にすることによって神の国という観念の世界を地上に実在化しようと計ったのだ。

サン・ドニの再建の中世、西ヨーロッパは農業技術の革新による人口増加、その結果としての都市の成立を迎えている。人間と人間、人間と自然、人間と世界の関係は大きく揺れ動いていた。

働く人、戦う人、祈る人と身分(農民・貴族・僧侶)も住処も明解に分離していた社会は変わる。人々は集中して住まい、モノや人が集まる都市が作られ、商人や手工業者という新しい身分をも生み出た。水陸の区別を問わない交通網の整備、貨幣整備によるモノの流通の活発化は人々のライフスタイルを全く新しい世界に誘導しつつあったのだ。 そのような時代にもっとも必要とされたもの、それは個々人の富ということより、集団による華やかな正餐、その正餐を讃える豊かな音と光だ。

 (fig15)

ステンドグラスも新時代の技術と嗜好の産物だが、この変化の時代、シュジェールを含め聖職者たちはより直接的、危急なテーマを抱えていた。それは都市の時代に対応した神の姿、新時代のライフスタイルの精神的基盤となる天上界のイメージをこの地上にどのように実在化させるかにあった。 

(ベルナールとシェジュール)

新しい時代における建築への論争はへまずシトー修道会から始まった。 それはクリュニー修道院に対する痛烈な告発。修道院制度の改革を推進していたシトー会のベルナールは壮大華美に転じたクリュニー修道院総本山を「途方もない高さ、節度を知らない長大さ、あり余る横幅、贅沢な装飾、そして奇妙な彫像、そういったものは、礼拝者の視線を釘付けにし、かつ、かれらの信仰を阻害する・・・」。 ベルナールは時代とともに歩み寄ってきた修道院の世俗化に対し、清貧の理想、初源的で純粋な倫理の追求を広言する。

これに反論するのが前述のシェジュールの言葉。彼は次のようにつづける、これからのサン・ドニを再建するにあたっての新たな建築の正当化言説と言えるものだ。

「誹謗者たちは、聖徒のような精神、汚れのない心、信仰深い意志があれば、ミサ正餐には十分であるはずであると反駁する。わたし自身もそういったものが最も重要であるとはっきり確信できる。しかし私たちは、それらに加えて、外面の装飾を通しても、また言いかえれば、あらゆる内面の清浄さと同時に、あらゆる外面の壮麗さをもって、神に敬意を払わなければならない」。 

(ゴシック建築のメッセージ)

質素と豪奢、ベルナールとシュジェールの主張は相反してはいるようだ。しかし、よく考えれば二人はともに新しい時代への共通のメッセージを主張している。「 教会は超世俗的な空間でなければならない」。

超世俗的であることの実現は個々人の持つ豪華絢爛を遙かに越え、集団としての人間が神の国の実在に立ち会うことだ。ゴシックの世界はその後の歴史には二度と現れることのない集団による「超越的世界」を希求していた。

十ニ世紀初頭は西ヨーロッパの都市の時代の幕開け。古くから都市国家であったイタリア半島とは異なり、アルプスの北は初めて「都市」を実現する。多くのモノと情報に囲まれ、世俗的富を謳歌することがはじめて可能となった時代。そんな時代の到来であったからこそ、神はより高く、より超越的であることが求められた。さらに神は絶対者としての峻厳であることより、愛に満ちた<美しき神>であること。絶対者キリストから聖母マリア(ノートルダム)への信仰へと向かっていたのだ。 

  (fig16)

世俗を超越する、より高き天上界のイメージ、峻厳厳格なキリストから慈愛に満ちた聖母マリアへの信仰。 このことが新しい時代を迎えたシェルジュールたち聖職者たちが実在化しようとしたメッセージ。 その為に重い壁体をリブヴォールトやフライングバットレスという透明感のある構造体に変え、ステンドグラスから差し込む光りにより、新しい神の国の創出をめざしたのだ。





 




   




2011年10月4日火曜日

インド夜想曲 アントニオ・タブッキ

インド夜想曲 アントニオ・タブッキ
休日の図書館、開架書架の本の背表紙をぶらぶら眺めていて見つけた「インド夜想曲」アントニオ・タブッキ。
須賀さんの訳だというので、手に取り立ったまま読み始める。
アンソロジーのような構成、短時間で立ち読みできそうと思ったが、いやぁ、まったく違った、中身が濃い。
カウンターで借りだし、自宅に持ち帰った。
気楽な旅行記ではない、映画にでもすれば一級のロードムービー。
「僕」は飛行機でボンベイに降り立ち、凶暴なタクシーに乗ったイタリア人。
蒸発したポルトガル人の友を探しにボンベイ、マドラス、ゴアを旅する物語。
なぜ、ボンベイからか、この街のスラムに住む売春婦から友人が病気、という手紙を貰ったから。
貧民窟の売春宿で女が語る恋物語を聞き、明くる日はおぞましい夜の病院を訪ね、やけに理屈っぽい医者とゴキブリで真っ黒な廊下を歩き、100人も入る飛行機の格納庫のような病室で友人を探す。
細々書き出したら切りがない、どの行も真実味と実在感の強い環境と人物描写、しかし、物語はなぜか宙に浮いていてとらえどころがない。
気がついてみると残り数ページ。
「僕」は旧ノヴァ・ゴアの海沿いの最高級ホテルのテラスで「わたしはクリスティーヌ」と言う初対面の女性とロブスターを食べながらのスポーティなおしゃべり。
「僕は一冊の本を書いている、中身はというと、本のなかで僕はインドで失踪した人間なんだ」。
「こう言えるかも知れない。もうひとりの人間が僕を探している。だけど、僕は絶対に見つかりたくない。その男がインドに到着したときから、僕はそのことをよく知っていて、毎日そいつを追跡した、・・・・」。
ドラマの進行はすべて経験と実感、場所も時間も空気の臭いもリアリズムそのもの、しかし、その中身は実態が掴めない。
物語を外から眺め、内から壊す、あるいは裏返しなんだろうか。
写真家のクリスティーヌとの別れ、「僕」の言葉。
「ほんとうです。あなたの写真に似たようなことかも知れない。引き伸ばすと、コンテクストが本物でなくなる。なにごとも距離をおいて見なくてはいけない。アンソロジーにはご用心。」
いやぁ、うますぎ、これがイタリア。
コンテクストはすべて、切れば生々しい血が吹き出すような生肉体感覚、その経験と行動には偽りはない、すべてが実在感あるリアリティに支えられている。
しかし、表現されているものは反転に次ぐ反転、宙ぶらりん、逆さま、虚構のみの想像的世界しか見えない。
15世紀の透視画法はとっくに解体されているが、イタリア人タブッキはだまし絵の技法を今に伝えるマニエリスムの画家かもしれない。