2010年6月7日月曜日

家康の直轄地 桐生


日本中の都市はどこもかしこも今、その構造と新たな仕組み作りに悩んでいる。 
急激な経済的社会変化はこの国だけのことではなく、世界中。 
しかし、我々の周辺、特に地域の中心から外れた中小都市は、 若者人口の減少、その結果としての過疎と高齢化が問題となっている。 
「エコと街づくり」という言葉は聞こえて来るが、 どうしても見えてこない「明日をどう生きるのか」その手だてと方法。 
街づくりには「バカ者、若者、余所者」が必要とよく言われる。 
街の未来を夢想するばか者、その夢想を具体化する若者、 加えて、外から資源と情報を供給する余所者、と言う事のようだ。 

足尾から渡良瀬川に沿い渓谷を下ると桐生の街に至る。 
この街はかっては天領だった。 
徳川家康は領地となったこの場所を、他の大名に与える事なく、 直轄の代官を置き開発した。 
その開発は些かユニーク。 
古くからあった天神様の鳥居をゼロ点とし、 そこから南に向かって真一文字の道路を設置。 
次にその道の両側を間口6間奥行き40間、 短冊状に丁割し、町立てを施した。 
ユニークなのはここからで、 分割され開発された用地は近郷からの入植希望者、 誰に対しても自由に分け与えたという。 
結果、町は封建都市とは異なり、あたかも門前都市(自由都市)のおもむき、 各地から集まった住民は各々自身の持つ才覚と働きにより、 主体的かつ自由に活動し、営みを発展させ利益を得る事が出来たという。 

近郷村から入植した新たな住人たちが最も得意とするところ、 ある人は養蚕農家、そして糸にする家、糸を染める家、機織りをする家。 
やがて、街は必然的に西の西陣に負けない、 大きな繊維産業都市として発展し、成功して行った。
 その成功によりGDPの15%近くをかっての桐生が占めたのだそうだ。 
つまり、現代のトヨタ一社分より高い利益をこの小さな町は毎年はじき出していた。  
大きく発展した小都市桐生だが、戦後の繊維不況により街は徐々に疲弊していく。 
そして、生き残りの策どころか、疲弊して行く小都市の現状すら、 感知しようとしない人々が大半、と語るのはこの街の「ばか者」、 未来を夢想する住民たちの言葉。
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