2010年6月6日日曜日

足尾再訪


6月はじめの週末、足尾を訪ねた。 
日頃の建築仲間、20人余の集団ドライブ。 
毎年の恒例行事だが、今回は新人数名が新たに加わり、 マイカーを7台を連ねての、何とも騒がしい旅行となった。 
一段となってのこのドライブには親睦に加えもう一つの目的がある、 それは単に建築を観る、体験すること以上に、 街の生活・歴史・文化・自然に触れ、街の人々とともに、 人間環境の有り様を学び、考えたいということだ。 

足尾は風光明媚な日光の山々を背にした渡良瀬渓谷の最奥地。 
しかしまた、誰もがよく知る鉱害の街でもある。 
かっては、見上げれば禿げ山と岩山ばかりの渡良瀬の谷間であったが、 10数年ぶりの今回、まず気がつく事は、全山とは言わないが、 山々は新緑に覆われ、谷間には新しい家々が沢山立ち並んでいたこと。 
そして、今回もっとも貴重であったのは、かっての公害の街はまた、 日本の産業近代化技術の発祥の地でもあった、と言う事の再確認。  
今年がちょうど、足尾銅山発見から400年。 写真集「足尾銅山」を出版された小野崎一徳氏のレクチャーと現場見学が実施された。 
貴重なとき、貴重な方からの詳しいお話、 集団ドライブはにわかに有効な研究会と化していた。  
足尾の近代化、その先端技術と人々の営み、そして不幸な惨状は、 一徳氏に伝わる小野崎家4代に渡る写真家によって、全てが記録されている。 
「足尾鉱毒事件」は田中正造氏の活躍によって知られる日本の産業公害の原点、 その事件の情宣に小野崎家先代の方々の記録が大きな役割を占めている。 
しかし、その写真は同時に、 日本の産業技術の歴史そのものの貴重な記録でもあったのです。 

急速な産業の近代化は、大きな環境破壊を、その対策の失敗は、 覆いがたい人災を招いてしまった。 それが、再訪した足尾の現実だが、 同時にまた、この街は日本の様々な産業技術発祥の地でもあったのだ。 
明治政府により軽便鉄道をフランスから取り入れられ、 その技術に加え、足尾では削岩技術も導入された。 
さらにこの地で最初に水力発電を実施され、 得たる電力により動力ポンプや構内電話設備を設置、 運搬のための鉄索から坑内巻上機や運搬車運行が可能となる。 
結果、規模にして巨大な地下都市、上下1200m、 長さ4000メートルに及ぶ大坑道が建設された。  
一方、これもまた新技術だが、脱硫装置や坑内水浄水中和装置、 あるいは大規模砂防工事も実施された。 
しかし、残念ながら、こちらの新技術はことごとく、 無惨な状況を招いてしまった。
 明治以来の僅か80年間で、 近代技術は江戸期300年間の4倍余の銅を産出した。(総量82万トン) 急ぎすぎた近代化の代償は大きく、負の遺産であることは免れない。 
そこには正なる部分もあり、新技術にチャレンジし続けた、 先人たちの存在もまた、けっして忘れてはならない。 
今の足尾の姿は、正負併せ持った日本の近代化技術遺産そのものであろう。 
その足尾では今日、 天高い青空とうぐいすが啼く若木のもと、 沢山の学生たちの参加も含め、緑化作業が進められていた。
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