2010年5月28日金曜日

ロッシーニの「アルミーダ」

「METライブビューイン」、昨日(2010年5月27日)、久しぶりに東劇に出かけました。 ルネ・フレミングがタイトロールの「アルミーダ」メトの最新版だそうです。 このオペラは今回が初めてです。 CDでアルノンクールとバルトリの「アルミーダ」は聴いていました。 しかし、それはハイドンのもの。 今日はロッシーニです、劇場ではなく映画ですが。 実は映画が始まるまではメトでは珍しいというので、 ハイドンの「アルミーダ」だと思っていました。 上映が始まって、序曲から当然、音が違います。 そして、気がつきました、これはロッシーニだと。 本当はハイドンを聴いてみたい、いや観てみたいと思っています。 しかし、違ったとは言え、大好きなロッシーニです。 彼のオペラはどんな演目でも楽しいことは間違いなしですから。 事実、映画はフレミングを中心に華やかなオペラです。 特に2幕の魔女の宮殿のシーン。 そこでは文字通り、恍惚とした魔女の宮殿を、 ダンスと音楽によって、ふんだんに実感させてくれました。 実際の公演ではなく、映像画面からのこんな不満は不謹慎かもしれませんが、 チェチーリア・バルトリを聞き慣れているせいか、 フレミングは不満です、コロラツーラはお粗末でした。 しかし、魔女の魅力と三幕の気が狂わんばかりの恋情、 それは、フレミングならでは、男心には迫るものがありました。 ですが、ここはやはり映画ではなく、オペラなのです。 歌も表現もバルトリとどうしても比べてしまいます。 埒のないことですが。 こんなことを書いていて、さらに余計なことに気がつきました。 オペラの公演それも全盛期の歌手たちの歌声など、 生ではなかなか聴くことができません。 せいぜい、初台のオペラか、やっとこさの文化会館での体験だけです。 オペラの上演にはお金がかかります。 貴族がスポンサーだった大昔のヨーロッパとは異なります。 現在の大衆にとっては、とても支えきれない贅沢なエンターテイメントなのです。 好きだからといって、いつでもイタリアやアメリカに行き、オペラが楽しめる立場ではありません。 そんなボクにとっては、だからこそ、 この「METライブビューイン」は大いなる楽しみということになるのですが。 しかし、やはり、映画やCD・DVDだけで楽しむオペラ鑑賞は批評も出来ず問題ではないかと。 先週末、NHKの「20世紀の名演奏」のビデオを聴いていて、考えてしまいました。 そういえば最近、オペラどころかオーケストラの演奏もCDばかりです。 久しぶりのTVで観た「名演奏」はみな素晴らしかった、懐かしかった。 しかし、懐かしかったのは、そのほとんどを、かって、生で聴いていたからです。 音楽は演奏会場で聴くということが当たり前でした。 TVは聴いてきた感動の再体験、あるいは、聴き所の再確認にすぎませんでした。 今は、ほとんどの音楽受容をCDやDVDあるいは映画に委ねています。 確かに iTuneなら、何処にいても好きな曲をふんだんに聴くことができます。 しかし、「20世紀の名演奏」を聴いていて考えてしまったのは、 かっての感動との同体験は、最近はほとんど得られていないということです。 TVの「名演奏」は実体験が思い出されどれもこれも素晴らしかった。 ベームやチェリビダッケの演奏は古い映像とは言え唖然として聞き惚れていました。 現在では、演奏がつまらなくなったのかもしれません。 ワクワクさせるような、徹夜してでも絶対にチケットは手に入れたい演奏会、 最近は思いつきません。 クラシック音楽それもオーケストラに限定しての話ですが。 多分、常識的なプロモーターのプログラムにボクは飽きているのです。 もっと、演奏者が「これは聴いて」という演奏会が見つからないのです。 LP時代以上に簡便になったことは有り難いことです。 しかし、逆にチケットが簡単に手に入るからでしょうか、 沢山ある演奏会の広告はどれもこれも、おざなりの感じがしてしまいます。 余りにも便利すぎて、今のボクは音楽を聴く感動を忘れてしまったのかもしれない。

以下は「METライブビューイン」公式ページの「アルミーダ」の解説 指揮:リッカルド・フリッツァ 演出:メアリー・ジマーマン 出演:ルネ・フレミング(アルミーダ)、ローレンス・ブラウンリー(リナルド)、ブルース ・フォード(ゴッフレード)、ホセ・マヌエル・サパータ(ジェルナンド)

中世のエルサレム近く。十字軍の前にダマスカスの女王で魔女のアルミーダが現れ、「我が王冠を親族が狙っています。戦士をお与え下さい」と懇願する。しかしそれは偽りの言であり、彼女の真の狙いは愛するリナルドを手元に置くことにある。十字軍の次の指揮官にリナルドが指名されると騎士ジェルナンドが憤慨、アリア〈耐えはしない〉を歌う。彼は愛し合うリナルドとアルミーダを嘲笑、リナルドは決闘でジェルナンドを斃(たお)す。騎士たちはリナルドを責め、アルミーダは「上手くいった!」とほくそ笑む。場面が変わり魔法の園になる。逃れてきたアルミーダとリナルドは甘美な二重唱を歌い、続いてアルミーダが超絶技巧を駆使して大アリア〈愛の甘き帝国に〉を歌い上げる。しかし、愛に溺れるリナルドの前に騎士ウバルドとカルロが現れ、彼を説得して三人で逃亡する(テノールの三重唱〈一つになって戦おう〉)。アルミーダは魔力を使ってリナルドの後を追う。【岸純信(オペラ研究家)】

コンサートホール事始め


ヨーロッパ社会で音楽が広く演奏されていたのは宮殿や宮廷でした。
舞踏室、客間、サロン、広間、適当な広ささえあれば、音楽はどこでも演奏されている。
演奏は演奏される部屋の大きさに合わせ、演奏スタイルと曲目を選定し、時には演奏場所の反響に応じ、伴奏楽器の数やテンポまでも調整することで、宮殿や宮廷、さまざまな場所が演奏会場となっていた。

17世紀イギリスは共和制の時代。
革命により貴族的な劇場が閉鎖され、国王の音楽も王制とともに廃止されていた。
音楽家たちは生活するための庇護を中産階級の人々に求めなければなりらない。
そして生まれたのが公共コンサートです。
その最初の場所はロンドン近郊の居酒屋であったと記録されている。

ロジャー・ノースの「音楽の覚え書き」(1728年)によれば「セント・ポール大聖堂路地裏で、小型のオルガンが置いてあるのをフィリップなにがしが演奏し、店の主や職人頭が毎週より合ってはいっしょに歌ったり聞いたり、ビールやタバコを楽しんだりして楽しみました。やがて居酒屋の聴衆の数が次第に多くなっていきました」。
別のある居酒屋では、音楽のために部屋を一つ別にし、ミュージック・ハウスと呼ばれるようになり、大繁盛している。
やがて、居酒屋貸席の演奏会がずいぶん儲かるものだと知られると、こんどは音楽家自身が事業家になることもあり、次々と連続演奏会が開かれ、専用のミュージック・ルームも建てられるようになり、コンサートは益々隆盛して行った。(コンサートの隆盛のために音楽家自身が演奏会のプロモーターだった、ということはとても興味深い)


ロンドン大火の傷もいえ、レン(イギリスの有名な建築家)による新しいセント・ポール大聖堂の建設が始まった年、1675年、ストランドの西端、テムズ川のほとりのヨーク主教の旧邸跡に最初の公共コンサートホール、ヨーク・ビルディングスが誕生する。
「音楽会が開かれたのは大きな部屋で・・・音楽会場にふさわしい飾り付けがほどこされ・・・大勢の人がやってきて、混雑していた」。
ヨーク・ビルディングスのミュージック・ルームは大好評、やがてコヴェント・ガーデンにも同じようなミュージック・ルームが建てられることになる。
コヴェント・ガーデンのミュージックホールは絵の競売場にも使われたことから競売すなわちヴェンデと呼ばれ人気を博した。
そのヴェンデよりもさらに人気になったのがヒックフォーズ・ルーム。
ジョン・ヒックフォードは1697年、ダンス学校兼用のコンサート・ルームを開いた。
このビックフォーズこそ今あるコンサートホール原点かもしれない。

1738年には、手狭になったヒックフォーズ・ルームがジョンの息子によって引っ越し移転される。
そこはピカデリーにほど近いブルワー・ストリート。
このコンサートホールはヒックフォーズ・グレートと名を変え、当時のロンドンの流行の最先端の場となった。
奥行き15.2m、間口9.1m、高さ6.7m、天井は折りあげ、部屋の一端はステージ、それと向かい合ったドアーの上には桟敷席も設けられていた。
ヒックフォーズ・グレート名は音楽史の別の視点からも有名。
1764年、ロンドン滞在中の9歳のモーツアルトが姉のナンネルと一緒に演奏会を開いたのはここ、ヒックフォーズ・グレートだった。

2010年5月20日木曜日

メディアとしての音楽と建築

(アテネ風の塔)

アテネのロ-マ広場の「風の塔」。エオル通りの終点に建つこの塔はアクロポリスを真後ろ背負う白い大理石の八角形の建物。水時計と風見が組み合わされた、紀元前一世紀の建築。塔の内部の水面の高さで「時」をはかり、屋根のてっぺんのトリトンの右手の杖の位置で「風」の方向を知らせる。

「ロ-マ時代の風見」は聖ピエトロの故事にある鶏ではなく、海神ポセイドンの息子、いつも呑気そうに法螺貝を吹くトリトンだった。ズングリムックリしたその塔の八つの壁の上部には、吹いてくる風の方向に合わせギリシャ神話の風の神々が飾られている。

 

エオル通りに面する北の壁は北風ボレアス、西風はゼピュロス、南風ノトス、東風エウロスそしてさらに、カイキオス、アペロテス、リップス、スキロンの浮き彫り像が描かれていて、東西南北の四面とその中間の四面を加えた合計八面の壁が正確に方位に合わされている。

花の女神フロ-ラの愛人であった西風ゼピュロスが、ニンフのアネモネに恋をする。その恋に嫉妬したフロ-ラはアネモネを風のひと吹きで散りやすい花の姿に変えてしまった話など、ギリシャの風の神々の物語は、恐ろしさ、優しさ、気まぐれさ、にあふれている。

そのような神々に囲まれた「風の塔」は古代の人々の風に対する関心と、当時の都市生活のなかでの風とのきめ細かな関わりを示していてとても興味深い。

「本」や「印刷物」をほとんど手にすることがなかったアテネの人々にとって、風の神々の物語が書かれた「風の塔」は「一冊の書物」、大事な「愛読書」となっていた。しての音楽と建築)

自然界に充ちあふれる音、その音はどんなに美しくとも反復しない、録音・再生技術がなければ繰り返し聞くことはできないからだ。 しかし、人が謡う詩や歌は記憶され再現可能。無文字社会にあって、詩や歌は人類最初の記憶装置となった。人ひとりの頭脳に入りきらない情報を歌に仕込むことで集団の記憶となる。

古代の人々は石や羊皮紙に「文字」を刻んでいる。 「文字」こそ最初の記憶装置か、しかし、それは権力者やエリートの専有物。「文字」は彼らの権力装置、あるいは呪力装置だった。

ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」のヴォータンはルーン文字を彫った槍を持ち、神の力を示している。槍に刻まれた「文字」そのものが、呪力的パワーを発揮しジークフリートを助けるという場面は印象的だ。 しかし、ここでは「文字」は記憶装置ではなくヴォータンの力。

私たちは愛の告白、神への祈願、心に秘めた胸の内を「歌」に託す。「歌」は古来から感情を伝える有効な媒体。 しかし、集団で生きる人間にとって、「歌」は知識や情報を保存し共有する、生きる上に不可欠な記憶装置でもあったのだ。

古代社会において「歌」とともにもうひとつ、権力者やエリートだけでなく、誰もが自由に利用できる記憶装置がある、それは「建築」。ギリシャの神殿、古代ローマ広場の風の塔あるいは中世の教会、「建築」はただ居住や利用に役立つだけが役割ではない、誰もが共有できる情報媒体でもあるのだ。

「建築」には様々な物語が託される。 物語は「建築」が人々に体験され、読み取られることで伝達される。「建築」は世界の形を示し、神々の世界を伝え、目に見えない歴史を語り、夢と現実を想像させる媒体としての役割を果してきた。

風の塔のあるアテネのローマ広場から北西部のアクロポリスを見上げれば、そこには紀元前四世紀のパルテノン神殿が建つ。その建築の東のペディメント、三角形の破風部分の彫刻はゼウスの頭から生まれるアテネの情景。アテネはゼウスの娘、しかし、ゼウスは母親である知恵の女神メティスがゼウス自身より賢い子を生むのではないかとおそれ、妊ったメティスを丸ごと呑み込んでしまう。やがて九ヶ月、ゼウスは頭痛に襲われ、彼の頭からアテネが誕生した。

西に回れば都市アテネの守護神をかけての争い。アテネと彼女の叔父であるポセイドン。神々の世界は何とも喧しい。

南北の柱列を屋根の下で連結するメトープ(三層の柱上帯の中央部分をフリーズといい、その中の矩形部分)には様々な蛮族、野蛮人とギリシャ人の闘いの場面が彫刻されている。

内陣の梁の小壁(フリーズ)には四年ごとに行われるパンアテナイア大祭の行列に参加しているアテネの市民たちの姿。アゴラからアクロポリスの上のパルテノンの東入口に到達するまでの様がまさにリアルタイムの動画を感じさせるがごとく装飾されている。

パルテノン神殿はだれが見ても美しいプロポーションだ。しかし、その全体から「神の家」と呼ぶ以外の特定の情報は見当たらない。

神殿を、生け贄に用いられた、食物を含んだ素材のあれこれの集合体と解釈する J・ハーシー、彼は 「何故に建築家たちは、元々は古代ギリシャの神殿から由来した円柱や神殿の正面を使い、(その意味も解らないのに)建築を建てるのであろうか。古代ギリシャの宗教が、何世紀ものあいだ死に絶えてしまっているというのに。」( 古典建築の失われた意味:鹿島出版会)と書いている。確かに、神殿に施された壁面彫刻からは様々な物語を読み取ってはいるが、構築された建築本体からは具体的なメッセージはなにも受け取っていない。しかし、ヨーロッパでは何世紀にも渡って、そのファサード(建物の外観正面)部分デザインを利用し、建築を作り続けた。

紀元前六世紀のピタゴラスは、ギリシャの美は、調和が源泉、ある特定な数比にあるといっている。さらに、ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスは解説する。「1モデユールは円柱の直径の半分、柱頭を含めた円柱の高さは14モデユール、したがって円柱の高さと直径の関係は7対1、パルテノンの場合は6対1である」(ヴィトルヴィウスの建築書第四書三章:東海大学出版会)

建築においては「数と比例」がいつも問題となり、いかなる数値も最終的には「正数」として表現されている、というのだ。ヴィトルヴィウスは古代建築のデザインを読みとるには欠かせない人。この書では度々登場するが、まず建築は「数と比例」 が鍵となっていることに留意しよう。

(現実の背後の想像的世界)

盲目の吟遊詩人ホメーロスがキターラ(竪琴)を奏でながらトロイヤ戦争の叙事詩を歌ったのは紀元前八世紀。アテネのペリクレスとフェイディアスによってパルテノン神殿が作られる三百年も前のことだ。ギリシャの陶器を飾る壷絵が人物像ではなく、幾何学紋様に終始している頃、ホメーロスは吟唱によって英雄たちの世界を詩った。

 

人々は詩を聴くことで「世界」を知ろうとした。世界は絵や文字が「見る」ことによってではなく、言葉あるいは音を「聴く」ことによって理解されたのだ。それは聴覚から生まれる想像世界。世界は音楽から始まったと言って良い。

古代ギリシャの人々にとって耳で聴く想像世界のほうが、目でみる現実世界よりリアリティを持っていた。何故なら、いつも神々と共にある彼らの生活において、山々や木々や川や水や雲の流れ、天変地異、季節の到来、天体の運行など、すべては神々のなせる技。人々はその技を目で見ることより、想像することで理解した。

ギリシャの人々は何故、想像世界に強いリアリティを感じていたのか、そこには古来からの彼ら特有の考え方がある。天体はいつも規則正しく秩序立っている。生きるべき世界もまた同じ、世界は決して混沌としたものではなく、規則正しいある法則が支配している。

人が五感で知る世界はいつも不完全、捕らえどころなくバラバラ。現実の世界は不完全だが、その表面にではな く、背後にある世界には天体と同じ美しい秩序(ハーモニー)があり、そのハーモニーが完全なる世界を支えている。

人間が生きるべき本来の世界とは、自然や動物と共にある目の前の現実ではなく、その背後にある想像世界と考えていたの。

「プラトン主義に特有でおそらく東洋にその例を見ないのは、この転変常なき非現実の感覚界の背後に、二番目の、恒久不変の真理の世界が存在するという確信である」(シンボリック・イメージ・日本語版への序:平凡社)と書いたのはE・H・ゴンブリッジ。

ヨーロッパの音楽・美術・建築を理解する上で欠かせない言葉だ。古代ギリシャにおいては、人間が五感で把握する世界は不完全だが、イディアが人間が生きるべき本来の世界を支えている。

中世においては、唯一の創造主がいて、世界は神により支えられ、理性で理解できる教義により成り立っている。

目には見えないが、世界は秩序だっているのだ、という観念とその事への信頼は、ヨーロッパの芸術を支える土台と言って良い。その土台は古来からの合理主義。「人間が関わる事柄の全ては理論理性で説明がつく」という強い信念が生きるべき「世界」を支えているのだ。

ゴンブリッジが東洋にその例を見ないということもよく理解できる。私たちは合理主義より経験主義「事柄の理解はすべて経験の結果」と考えている。

従って、「理性によって組み立てられた世界」より「経験的現実の世界」が生きるべく総てであって、 感覚界の背後の世界には関心が無い。 仮に「もうひとつの世界」はと問えば、それは夢か彼岸、死後の世界となってしまうのだ。

ゴンブリッジは同じ日本語版への序で次のようなことも付け加えている。「プラトンの学園、つまりアカデミアの入口の上には、幾何学に通ぜざる者ここを潜ることなかれ、という銘文が記されてあったという。それは何故か。奇妙に響くかもしれないが、幾何学上の真理は我々の転変常なき感覚界には適用されないのである」。

幾何学という数と形の学問は「建築」を支える基盤。しかし、その基盤もまた現実ではなく、現実を理性的に認識するための根拠にすぎないと言っている。つまり、確かなことは理性的認識だけなのだ。

人間が描く三角形はいかなる三角形も真実ではないし、また真実である必要もない。現実の紙の上に書かれた直線は、真なる直線であることは決してない。真なる直線とは理性的なあるいは観念的な認識の世界に存在するもの。

プラトン主義は感覚で知る現実の背後に、本来の世界が存在すると考え、真の理性的客観的知識とは、その世界にあるものと考えている。現実的感覚界にあるのは主観的意見に過ぎない、従って、誰もが共有する「合理」は現実の背後の想像世界のみの存在となる。

自然界に充ちあふれる音、その音はどんなに美しくとも反復することはない。
録音技術がなければ繰り返し聞くことはできないからだ。
しかし、人間が作った「音楽」は再現可能。繰り返し聞くことが出来ることから、「音楽」は人類最初の記憶装置となった。 

人間は頭脳を持ち、自分たちの生きる糧とそれを得るための情報、あるいは人間として生きていくための知識を頭の中に収納している。
しかし、集団で生きる人間は、知識や情報を仲間たちと共有することが不可欠。
そのために人間はどの文明期においても、頭脳以外の外部記憶装置を必要としてきた。 

人類最初の記憶装置は「歌」つまり「音楽」。人間は様々知識や情報を「歌」に仕込み記憶し保存してきた。
私たちは愛の告白、神への祈願、心に秘めた胸の内を「歌」に託す。「歌」は古来から感情を伝える有効な媒体といって良い。
しかし、集団で生きる人間にとって、感情媒体ではあるが「歌」は知識や情報を保存し共有する、生きる上に不可欠な記憶装置、情報媒体(メディア)でもあったのです。

古代の人々は石や羊皮紙に「文字」を刻んでいる。文字こそ最初の情報媒体、記憶装置と考えられる。
しかし「文字」は古代社会では権力者やエリートの専有物、 彼らの権力装置、呪力装置だった。 
ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」のヴォータンはルーン文字を彫った槍を持ち、神の力を示している。
槍に刻まれた「文字」そのものが、呪力的パワーを発揮しジークフリートを助けるという場面はこのオペラでは極めて重要。
しかし、ここでは「文字」は権力者の力であり、情報装置ではない。
「歌」だけが誰もが共有できる記憶装置となっていた。 

古代社会において、「歌」と同様もう一つ、権力者やエリートだけでなく、誰もが自由に利用できる記憶装置がある。それが「建築」です。
ギリシャの神殿、古代ローマ広場の風の塔あるいは中世の教会。建築はただ使用や利用に役立つだけが目的で作られたものではない。「建築」は権力装置でもあるが、誰もが共有する情報媒体(メディア)であったのです。 

「建築」には様々な物語が託されている。物語は「建築」が人々に体験され、読み取られることで伝達される。
「建築」は神々の世界を伝え、目に見えない歴史を語り、夢と現実を想像させる媒体としての役割を果してきたのです。 

現在「建築」では、デザインから生み出された居住感(安全、便利、快適)が重要視されていて、媒体という側面はほとんど見失われている。
しかし、本来の「建築」が果たしてきた役割、それは「人間と世界」、「人間と人間」、「人間とモノ」との関係をいかに構築するかにあったと考えれば、メディアであることが極めて重要です。

「建築」はシェルターであり快適に生活し、仕事をする為の装置ではあるが、人々が「建築」を媒体とすることで、様々なメッセージをやりとりするという側面。情報媒体、意味発生装置という役割も持っていたことは、「建築」を理解する上で決して忘れるわけにはいかない。 

「建築」は人間の外部にあって、刺激や誘導によって我々を操作する装置であることより、主体としての人間の内実に意味やイメージを発生させる装置。
「建築」が果たさなければならない役割、そこでは個人が気持ちよいか、居心地がよいかということより、集団にとって、「建築」が「意味」があるか否かの方が、はるかに重要であったのです。

音楽を聴き、絵画を観る楽しみは、日常的世界とは異なる別種の世界を体験し想像することと言える。建築の体験も同じ。
この世に存在しない宗教的世界を体験したり、決して目にすることはできない世界の形を建築は建築自身により、その構造をも分かり易く説明してきた。
建築が生み出す想像的世界、それは耳をそばだてたり、眺めさえすれば良いのではなく、体験することが必要となる。
建築物の内外を動き回ることによって、はじめて個々人の内部にその意味が立ち上がってくる。 
音楽と建築が一体となった想像的世界、その世界がいつの時代も「人間として生きる」意味や方法を、あるいは「人と共にある生き方」を私たちに教え続けてくれたのです。

2010年5月15日土曜日

建築家の誕生





絵画は虚構の空間による一遍のドラマ。かって建築の壁面にあって空間の形成に参加していた絵画は、建築とは無関係に、一個の独立した存在として、自らのうちに独自の空間を形成し始めた。それは絵画の自立を意味する。絵画のみで世界をあるいは空間を表現することが可能となったのだ。

透視画法による人間が眺める世界、風景の発見により建築は従来の役割を終え、新しい役割を課せられるようになった。空間が絵画で表現できるのなら、建築は実用的な現実世界へ、つまり、近代建築の始まり。

建築は虚構的表現の場から実体的空間としての役割を重視しなければならなくなっていく。しかし、建築家はすべて実体に関わる技術者の道を歩めば良い、という訳ではない。

空間を生み出しそのコンセプトを表現するのは透視画法だが、建築はさらに新たなテーマを発見し、自らがその問題に答えていく、という役割も浮上した。神に変わり人間自らが問題を発見し答えていく、という近代建築の持つプログレマティズムは、透視画法が開いた新たな使命、生まれたばかりの建築家が果たなければらない重要な役割だ。




透視画法が建築家を誕生させ、その彼に新たな役割を課す一方、画家と彫刻家の役割もまた明確となった。透視画法は彫刻によらなくとも三次元の立体を作り出すことが可能だ。従って、彫刻家の仕事は現実の立体を作り出すこと、画家の仕事は空間全体を描きだすことがその役割となる。

画家は人物像の周りに、建築を描き空間を生み出す。さらに、画家は空間を生み出すばかりか、部屋を取り囲む建築の壁体をも解体する。そしてついには、平な建築の天井にドーム天井を描くことで、重たい危険なドームを実際に作ることなく、天上の世界の表現が可能となった。つまり、画家は実際の建築を超え、建築家が実際の建築を作る以前に、自由に建築空間を生み出すことが出来たのです。


2010年5月10日月曜日

神話の世界から風景の世界へ

 




(合理主義) 

ヨーロッパでは古代から合理主義への信頼が高い。それは「全ての事柄は理論理性で説明がつく」と硬く信じているからだ。ギリシャのイディアや中世の神に対する信頼は彼らの理性への信頼が生み出したもの。合理主義では現実的経験より、理性による思考が重視されている。 逆に、現実的世界への信頼が高い場合はその思考は経験主義となる。「事柄の理解は全て経験の結果」という考え方であり、理性より経験が先行する我々東洋人は世界の有り様をこのように考えてきた。 人間の五感は不完全なものであり、そこでの経験は信頼できるものではない、と考えるヨーロッパの人々にとって、現実世界はどこまでも不確かなもの。むしろその背後にこそ確かな世界があり、その世界だけが信頼するに足るもの。だからこそ芸術は模倣であり現実とはみなしていない。 つまり、合理主義とは現実にではなく、現実の背後に存在するものへの信頼が、ヨーロッパの人々が考える世界の有り様。このような観点から見れば、世界は「あるがまま」のモノではなく、このように見える「はず」のモノに他ならない。中世の教会の中の絵画や音楽には、この「はず」の世界が表現されている。中世絵画では現実世界をそのままリアルに描くのではなく、現実の背後の世界を理性的思考あるいは想像の結果として、観念的に描くことが必要だった。

(アルス・ノヴァと透視画法)
「あるはずの世界」を「あるがままの世界」に変えたのは透視画法。
透視画法の発見は「人間の視野を哲学者の偏見からの解放」であったと書いたのはゲーザ・サモシ(時間と空間の誕生:青土社)。
しかし、今やこの偏見の方が貴重かもしれない。何故なら、あるがままの世界を「あるがまま」見ようとしなかった古代そして中世という時代の音楽と建築、そこには我々が読み取れない、音楽・建築・絵画があったからだ。
十五世紀のブルネレスキの発明、アルベルティの理論化でルネサンスの画家たちを魅了した透視画法は世界を観念ではなく、実際に見ることが出来るモノとして描く方法を開いてきた。しかし、透視画法の発見以前に「あるはずの世界」を「あるがままの世界」に変えたのは 中世音楽における アルス・ノヴァ。 それは観念や理念先行であった世界を実在の道に導いた音楽運動。
アルス・ノヴァは原則や正当性という理論重視の音楽を、新鮮な響きの世界へと開いていった。 アルスの開発により十三世紀も後半になると、自由なリズムを表記する試みが活発化し、音楽のスタイルは大きく変化し始めたのだ。 1322年頃に音楽の理論書、フィリップ・ド・ヴィトリの「アルス・ノヴァ」(新技法)が登場した。
ヴィトリは詩人であり、数学者、音楽の理論家であり作曲家。ペトラルカの友人でもあった彼はまさにルネサンス人の先駆けと考えられる人。この理論書は、音符の持つ時間の長さを多様化したことが重要。多様化とは、本来は一対三という完全分割しか許されていないキリスト教音楽の記譜法に、一対二という不完全分割をも認められるようにしたことにある。
つまり、三拍子系のリズムでしか表記できなかった音楽が、二拍子系でも表現が可能となった。 従来のキリスト教の中の「三位一体」という理念から、許されなかった二拍子系のリズムの応用がアルス・ノヴァという運動により、論理的に許されることになる。結果、音楽はやがて、現在の我々にとっても聞きやすい、滑らかで自由なリズムと旋律の道を開いていく。

(風景の世界、あるがままの世界)
十五世紀のイタリアでは新しい価値観とキリストに変わる新しい神が求められていたのだ。そんな彼らが新たな「人間と世界、人間と人間」の関係の構築に役立てようと生み出したモノ、それがアルス・ノヴァと透視画法。二つは新しい生き方、新しい神に関わるためのメディアなのだ。 そのメディアに期待された役割、それは神の啓示による中世的「あるはずの世界」をルネサンス的現実、人間が眺める「あるがままの世界」に変容することにあった。超越的な神が君臨する中世キリスト教社会とは異なる、現実的、快楽的、人間的社会を賛美する神を描くことにある。 透視画法の役割は、神の介入無くしても存在しうる、秩序ある統一世界を生み出すこと。画面の中に描かれる平行線は全て一点(焦点)に集まる。この一点を中心として描かれた世界には秩序ある統一が存在するとみなし、建築家や画家たちは、哲学者のイディアや神学者の神に関わらなくとも「生きるに足る確かな世界」を描けることを発見した。 ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチの描く世界は美しい絵画である以前にまず「あるがままという理念」として見なければならない。 ルネサンスの人々を魅了した透視画法は神に変わる秩序を人間によって生み出し得ることを可能としたのだ。その世界は神のいる世界ではなく、神のいる世界を眺めた世界。そしてルネサンス以降「音楽と建築」は「神話」や「聖書」に変わる「風景の世界」に関わることで、新たなデザインの道を開いていくことになる。

2010年5月6日木曜日

アルス・ノヴァ


(アルス・ノヴァ)

オペラを生み出す十六世紀ではなく、十四世紀に戻ると、かって、ノートル・ダム大聖堂のリズミック・モードがガリレオの計量的時間を先取りし、多声音楽の道を開いたように、アルス(技法)に基づく音楽の時間構造の変化が観念や理念先行の音楽を実在の道に導いた。

それはアルス・ノヴァという音楽運動。リズムや拍子に関する考え方を神学者や哲学者がそれまで持っていた考え方から、新しい時間尺度に変えていこうとする運動だ。アルス・ノヴァは原則や正当性という理論重視の音楽を、新鮮な響きの世界へと開いていった。

アルスの開発により十三世紀も後半になると、自由なリズムを表記する試みが活発化し、音楽のスタイルは大きく変化する。そして十四世紀始めに音楽の理論書、フィリップ・ド・ヴィトリの「アルス・ノヴァ」(新技法)が登場した。ヴィトリは詩人であり、数学者、音楽の理論家であり作曲家。ペトラルカの友人でもあった彼はまさにルネサンス人の先駆けと言える人だ。

この理論書が重要なところは「音符の持つ時間の長さを多様化した」ところにある。多様化とは、本来は1対3という完全分割しか許されていないキリスト教音楽の記譜法に、1対2という不完全分割をも認めるようにしたこと。三拍子系のリズムでしか表記できなかった音楽が、二拍子系でも表現が可能となった。

三拍子は舞曲、それは詩的。二拍子は行進、自然の人間の歩行、行動を促す。従来のキリスト教の中の「三位一体」という理念からは許されなかった二拍子系のリズムの応用がアルス・ノヴァにより論理的に可能となった。結果、詩は全て韻文ではなく散文でも許されるように、音楽は理論上の作品も実践上の立場から書かれ、やがて現在の我々にとっても聞きやすい、滑らかで自由なリズムと旋律の道を開いていくことになる。

(音楽家ギョーム・マショー)

十四世紀始めは絶対的権力であった教皇権が没落し始める時代。新しいローマ教皇の選出にあたりフランス王が干渉し、選ばれた教皇がローマに行くことを妨げられる、歴史にいう「アヴィニョン捕囚」の時代だ。ギョーム・ド・マショーの音楽はこのような時代に作られた。それは教会の中の音楽より、宮廷における世俗音楽のほうが主流となる時代の始まりでもある。

教会の中で発展した多声音楽はバラードあるいはシャンソンと言った世俗のポリフォニーとして展開され、技巧に満ちた美しい歌が沢山生み出される。マショーの時代、それはアルス・ノヴァの結果と言えるものだろうが、音楽は教会の道具であることから独立し、自由な形式を持ち、人間性を自由に表現するものとみなされた。結果、教会では聞くことのできない、多彩なメロディーによるメランコリーな音楽が時代の主流となるのだ。

この時代の世俗音楽は、もはや、現代の私たちが聞く音楽の印象と大きな違いはない。十四世紀音楽の世界に起こったアルス・ノヴァは様々な音楽上の着想が取り込まれる新しい道を切り開いていた。面白いことに、アルス・ノヴァ、そしてギョーム・ド・マショーの音楽に示される音楽上のルネサンスは建築や絵画より百年も先行していたのだ。

2010年5月4日火曜日

ルネサンスの透視画法

(透視画法の発見)

透視画法を発見したのはブルネレスキです。 フィレンツェの花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の献堂式の記録を残したマネッティによれば、幕開けはフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂を描いたパネル画にあった。洗礼堂が克明に描かれたパネルの空の部分には銀箔が張られている。そのパネル画の中央には小さな穴が開けられていた。パネルはそのまま手に取って眺めるのではなく、片手に鏡を持ち、もう一方の手にこのパネルを持つ。眺めるときはこのパネルの穴からパネルに描かれた洗礼堂を鏡に写しこんで眺める。

この動作を実際の洗礼堂の前、定められた広場の一点から、鏡の中の鏡像と実際の洗礼堂を同時に合わせて見る。鏡の中に再現されたものは現実の洗礼堂とは区別がつかない、現実性を持ったパネル画と実際の洗礼堂の姿が重なって眺められる。ブルネレスキは何故、このようなことを試みたのか。彼の関心は絵の描きかたではなく都市にあった。都市における建物のをいかに配置するか、その方法への関心が透視画法を発見させている。

中世以来のシニョリーナ広場には、様々な記念建造物が巧みに配置されている。ブルネレスキの時代、この広場の構成はまさしく共和国の中での市民と聖職者、その秩序だった関係の象徴と見なされていた。この秩序を生み出すもの、それは当然、当時の考え方では、神の力によるものであったのだが、ブルネレスキはそのような構成を神の力に寄らずして人間の力で、客観的で科学的な根拠のある方法で生み出し得ると考えた。そして単一の視点より見ることから生まれる幾何学に基づいた一点透視画法を発見したのだ。

神の力に頼らずに秩序を生み出す方法の発見のためのヒントは古代ローマの宇宙論にある。かってのローマ全盛の時代には、宇宙も人体もともに秩序立った世界、コスモスだ。前者はマクロコスモス(大宇宙)、後者をミクロコスモス(小宇宙)。 図で描けば大円である宇宙と人体は一致する。(アントロポモルフィズム=レオナルド・ダ・ヴィンチ図) さらに各々はともに深い関係にあり、二つのコスモスは正確な比例関係を持つものとみなされていた。

この考え方は十五世紀になると復活し、大宇宙=小宇宙の原理に基づく空間概念が後に、新しい建築の原理となり、比例を通じて表現された諸部分の調和ということに関心が持たれるようになる。

ルネサンス建築の特徴とされるのは、アプリオリの全体ではなく部分を重視する視点。全体はその部分の集積として改めて規定されるものという考え方。あるいは部分と全体は決してバラバラにあるのではなく空間的には一体化、統一化されている。この考え方はローマ以来の大宇宙=小宇宙の原理に基づくもの。ブルネレスキは同じ原理に励まされ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂のパネル画の実験を試みるのだ。


(透視画法の原理はヒューマニズム)

ブルネレスキの一点透視画法の発見が当時の知識人たち、人文学者や建築家たちの最大の関心事となったのは、大宇宙=小宇宙の原理の強調や部分・全体の考え方を透視画法が理論づけていたからだ。空間が中心から発する光線によって理論的にも実際的にも把握されることに気が付いたブルネレスキは、目とモノとの間に置かれた画面は視覚錘体の断面を構成していることを示した。つまり、どんな部分も全体とは比例関係にあり、その部分と全体の関係は大宇宙=小宇宙を示している。

それはまた秩序ある都市の配列を導くもの。実際はともかくブルネレスキはシニョリーナ広場における様々な記念建造物の巧みな配置はこのような原理に基づくことを証明しようと考えた。

さらにもうひとつ、一点透視画法の発見がもたらした大事な考え方がある。それは世界を支配し、自然を変革するのは神のみではなく、人間もまた自然と法則を知ることで、世界を有効に支配できるという考え方。

世界は神ではなく、人間が人間のために計画的に支配出来るという確信が、人間が中心となった世界観を生み出す。つまり、人間中心主義というルネサンスのヒューマニズムは透視画法の原理そのものでもあったのです。


(透視画法が開いた世界)

ルネサンス建築の考え方を支配したのは透視画法。透視画法とは自分の目の前に一枚の透明なガラス板を置き、そのガラス板越しに見える世界をガラスの面に正確になぞって書くことだ。結果、目の前の世界は一つの秩序、まとまりを持った表現が可能となる。

そのまとまりは、人の目に「見えるまま」に表現された世界。つまり、ガラスという画面は「あるがままの世界」を写し取る装置。ここで重要なことは、画面に描かれた世界、あるいは空間の中にあるものは、宗教的観点から眺めたものではなく、人間の目が眺めた世界、人間の見た目が意義を持つ。

中世的絵画において、空間にあるものを画面の中に描こうとする時、描かれたものの大きさは宗教上序列、あるいは世俗の世界における階層を表すものに他ならない。つまり、空間は「あるがままの世界」ではなく、神によって秩序付けられ、序列化された世界、「あるはずの世界」なのだ。

ガラス越しに見るという透視画法の中にあっては大きさの違いは距離を示すに過ぎない。中世的絵画にあっては、神は大きく中央に描かれ、序列の下位のものは外側あるいは小さく描かれている。いうならば描かれる前に、描かれる方法は決められていて、描かれる世界は序列化されたシンボルによる寓意の空間、それが中世の絵画空間だ。

透視画法では神ではなく人間の見ための現実が全てに優先される。そこでもっとも重要なこと、透視画法の中の消失点(焦点)や水平線が示していることは、モノや空間が無いのではなく、あるのに見えないだけと認識させたことにある。視覚によって見ることできる現実世界の限界はあっても、その限界は人間の住む世界の限界ではないことを透視画法は明らかにした。このことから、空間は誰の支配も受けない自由な広がりと見なされる。空間は特定な性格や好みも持たない等質で等方なもの、平準で均質なものと考えられた。

もはや空間は神が支配するものではなく、あるいはある種の質感をもった物体が外側にひろがって行くものではなく、その中にモノがあろうが空っぽであろうが、いつでも人間の力で計測・計画出来るもの。空間がこのように認識されることで、建築を支える考え方も大きく変わった。建築は自然を越えるという想像上のものではなく、あるいは目に見えない世界構造を示すというものでもなく、視覚で測定でき、規則的に表現できる、ある法則に基づいた機械のようなものとなったのだ。

さらに、あらたな建築が生み出す空間のイメージとは、それは神が支配するものとしてアプリオリに限定されているのではなく、人がモノや記号を人為的に配列にすることによって生み出されるもの。詩人が言葉の配列によって生み出す空間と同様、シンボルの空間とみなされようになる。つまり、空間はあるいは世界は、神により生み出されるものではなく、詩人による制作、画家や建築家による「作品」となった。


(シンボル配置の方法)

描かれている世界はいかに写実的であっても、絵画空間を構成するのはシンボル。シンボルはいかにありのままの表現であったとしても、それは音楽と同じように、実在物の似姿に過ぎない。絵画は平な画面のなかに様々なシンボルを配置し、意味ある世界を表現したもの。そのシンボルを徹底した写実で表すか、あるいは別の意図を持って象徴的に表すかは、その絵画が描かれた時代の考え方の反映と言って良い。

写実性を生み出すことに熱心であったルネサンス、そこにはギリシャ・ローマと同じ様な自然を客観的に眺める時代精神が色濃く反映されている。反リアリズムであった古代エジプトや中世キリスト教社会、そこでは客観的に眺める以上に、「目に見えない世界」をいかに具体的に表現するかに関心が持たれた。中世社会では「あるはずの世界」が象徴的、超越的に表現されていたのだ。

ローマ時代のポンペイの家のいくつかには写実的な壁画が残されている。しかし、このような描きかたはキリスト教社会の中ではまったく消えている。十四世紀、音楽においてギョーム・ド・マショーがアルスを駆使し世俗音楽を作曲する頃、同じフランドルの画家ファン・アイクやイタリアのジョットが驚くほど写実的な絵画を描くようになった。しかし、彼らは後の透視画法のような奥行きを持った空間を描く技法を持ちえていたわけではない。ただひたすらだった自然観察がこれらの写実性を導き出していたのだ。

音楽におけるアルスへの関わりが「作品」と「作曲」、そしてその研究が音楽の革新となるアルス・ノーヴァを生み出したように、十五世紀の透視画法の研究が画家と建築家を誕生させ、新しい人間と世界の関係を生み出す方法を開いていった。

2010年5月3日月曜日

ガウディ・オペラ/©

優れた建築は、見る人に感覚的喜びだけではなく、想像的な楽しみを与えてくれます。
建築家は形態の持つ動的役割や美しさを追求するばかりか、建築に象徴的意味を付加させ、物語の世界に入り込む楽しさを生み出しているからです。
建築に物語のような意味を与えること、それはヨーロッパではファインアート同様、建築を作る為の当然の方法です。
建築が発することば(詩文)は抽象的、しかし、具体的な象徴的形態を建築に込めることで、建築は初めて誰でも解る(散文)建築に変わるのです。
安全で便利、快適な装置であるばかりでなく、建築は意味あるいはメッセージを伝達する媒体、それがヨーロッパの建築、architectureなのです。
建築デザインの方法が変わる19世紀末、アントニオ・ガウディは近代建築の方法だけではなく、ヨーロッパの建築が本来持つ役割、メディアとしての建築をもつくり続けようとした貴重な建築家です。


ヨーロッパ社会にあって建築と音楽は一体的なもの、あるいは同じ方法を持って生み出されるもの、と考えられていました。
中世、音楽を生み出すものは数学、建築もまた数学をアルゴリズムとする芸術です。
その端的な例は11世紀のクリュニー修道院、その教会堂の建築家はグンゾです。
彼はまた同時代、音楽家として最も名を為した人でもあります。
つまり、修道院の音楽と建築は同じ人によって作られていました。
さらにまた、ルネサンスの祝祭のプロデューサーはすべて建築家であったことは広く知られています。
ダヴィンチ、ジュリオ.ロマーノ、ベルニーニ、彼らは視覚分野の天才であるばかりでなく、彼らの時代、むしろ音楽家あるいは総合芸術家としても重用されていました。

近代のフランク・ロイド・ライトとル・コルビジエ。
ライトは「音楽と建築の違いは素材の本性とその使用法にすぎない」と言っています。コルは「建築は空間のシンフォニー」と語っているのです。
そして「建築の価値はその空間に音楽性があるかどうかだ」と語ったのはガウディ。
彼もまた音楽に強い関心を示す建築家であり、建築本来の方法であった象徴としての意味あるいは物語性を基とした建築を作ることに一際熱心でありました。


象徴性と音楽性に満ちたガウディ建築を読み解く糸口は音楽家リヒャルト・ワーグナーにあります。
ワーグナーのオペラ、バルセロナのガウディは絶えずリセウ劇場に通い、その意味と役割を十分に理解していました。
音楽における近代の象徴的表現という観点ではワーグナーは無視出来ません。
ワーグナー・オペラの特徴は、歌曲と台詞が交互に繰り返されるオペラの形式を変え、
詩と音楽を密接に結びつけ、音楽的に切れ目がなく連続させたところにあります。
その音楽は文学的であり視覚的、舞台の中では全てが一体化され総合化されています。
結果、ワーグナーはモーツアルトに示される日常の一駒としての人間賛歌ではなく、
神話や伝説の中の自然と人間、その生と死のドラマを壮大なスケールを持って描くことができたのです。

若い頃からグレゴリア聖歌を愛し、音楽への関心も高かったガウディ、ワーグナーのオペラに圧倒されていました。
そしてガウディは建築をワーグナーの総合芸術との関連から追求しています。
ガウディの建築の中で最もオペラ的である作品、それはグエル公園とサグラダファミリアです。
前者はユートピアをテーマとした三幕構成の喜歌劇、後者はオペラ以前の壮大な宗教劇です。
その二つのオペラの背景はギリシャ以来のカタロニアとバルセロナ、ちょっと詳しく見てみたいと思います。


グエル公園は、訪れる人が門に到着すると幕が開きます。
第一幕は破砕タイルに彩られたカタロニア神話。
おとぎ話の中の家と階段を飾る蛇とドラゴンと蜥蜴。
それはギリシャの神ヘラクレスからオレンジを守るカタロニアのユートピア、ヘスペリデスの動物たちです。

第二幕はマーケット広場と遊歩道。
田園都市の一部として計画されたこの公園は、山裾にある地形を有効利用するために等高線に沿って高さを三等分して作られました。
その中段部分は山から掘り出された岩を積みあげただけの高架遊歩道とドリス円柱の林立するマーケット広場です。
緩やかに連なるごつごつした石の柱と壁による不整形なトンネルヴォールト。
半人工的な遊歩道全体は前史の巨大生物の胎内か、あるいは自然に穿かれたドラゴンの住む洞窟のように作られています。
つまり第二幕では、未分化で生命感溢れるおどろおどしいメロディが、ギリシャ風の人間的世界へと変奏されていくのです。

第三幕は地中海の陽光を一杯に浴びる空中広場、ギリシャ劇場です。
この広場からの正面には中世ゴシックの大聖堂とサグラダ・ファミリア教会が強いリズムを刻み、大都市バルセロナの息づかいを伝えています。
それは古代ギリシャの劇場が神々を象徴する大自然の息づかいを背景として建築されたのと全く同じ情景です。
周辺では色鮮やかな破砕タイルのベンチの一つ一つが聖母マリアに祈りの歌声を捧げています。
うねうねと続くそのベンチの連なりは、歌声の旋律を通奏しているかのように感じられます。
後方を振り返ると蛇行する道がさらに上方へ、天空へと続いています。
頂上はゴルゴダの丘。
この広場はまさに世界劇場なのです。
ここは間違いなく、古代・中世・近代を通底する神と人間の迎合の場所。
そして聖地であり世界の中心、天空の音楽が響くところ。
ガウディはそのようにイメージしていたに違いありません。


オペラ・サグラダファミリアはまだ未完成です。
しかし、そそり立つ八本の鐘塔はすでにその音楽を世界中に轟かせています。
「聴覚は信仰の感覚であり、視覚は栄光の感覚。栄光は神のヴィジョンであり、視覚は光の、空間の、造形の感覚である」と語るガウディ「聖堂は天と地を結ぶ場であると同時に視覚と聴覚が絡まり合い、壮大なメッセージを発するところ」と位置づけています。

繊維工業を中心とする産業革命を成功させ、いち早く近代都市開発にも着手したバルセロナですが、反面、急激に社会的秩序は乱れ、市民の宗教心も日毎、遠のいていました。
敬虔なカトリック信者、宗教書の店主ホセ・ボカベーリァはそんなバロセロナを嘆き、聖家族を範とする聖堂の建設を思い立ちました。
ボカベーリァの意を継いだガウディは、彼のメッセージを聖堂全体を通じバルセロナ中にいかに響かせるかに腐心しました。


以下はガウディの言葉です。
生誕の門は、八十四本の鐘が吊され、巨大なピアノになる。
受難の門はパイプオルガン。
栄光の門は…打楽器系の楽器にしようとしていたことが、生前につくられた模型などから推測できます。
…高さ100mを超す巨大な楽器による演奏を、聖堂本体が石の共鳴箱となって響かせる。
ガウディはワーグナーの最後のオペラ(楽劇)、「パルジファル」に習い鐘の音にこだわっていました。

「パルジファル」の中では遠くから響く鐘の音が汚れた聖杯城を救うパルジファル自身を象徴するもの、贖罪をテーマとした神聖祝祭劇(オペラ)のテーマはまさに鐘によって表現されています。
そそり立つ鐘塔には、やがてガウディが苦心した20メートルもの長さを持つパイプ状の鐘が何本も吊され、
贖罪の鐘がバロセロナ中に響き渡るに違いありません。


多分、完成すればその鐘の音はオペラ「パルジファル」を超えているでしょう。
ガウディは均一の音が一音で奏でられる従来の釣り鐘とは全く異なり、電気ハンマーによって連打されることで様々な音域、ハーモニーを奏でる鐘を考案しました。
そして風の通りよく穿れた多孔質な鐘塔の形は、そのまま音楽のための共鳴箱となっています。
つまり、サグラダファミリアの鐘塔は視覚的には神のビジョンを伝え、聴覚的には贖罪の音楽を奏でる巨大な音楽装置としてデザインされているのです。

2010年5月1日土曜日

花の聖母大聖堂のブルネレスキとデュファイ

 
 
(建築家ブルネレスキ)
フィレンツェは紀元前一世紀、カエサルによって建設された古代ローマの植民都市です。
その位置はローマと北イタリアさらに西のガリア(フランス)を結ぶ交通の要衝となっている。
ローマの滅亡により一度は荒廃したこの都市も、十二世紀になると、新興商人階級の台頭により繁栄がはじまる。
アルテと呼ばれる商工業の同業組合による都市経営がその発展の基盤であり、君主や僭主に頼ることなく、市民みずからがこの都市を確立し、自由都市として発展させた。
十三世紀にはフィレンツェから、毛織物、絹織物業による生産品がヨーロッパ全土に輸出される。
さらにこの都市の銀行家たち、先行していたロンバルデイアやユダヤの商人を上回る活躍により、フィレンツェの経済は大きな繁栄に包まれた。
ルネサンスは、この歴史と繁栄が基盤。都市を反映させた自分自身が、神や君主に頼ることのなく、あらゆるものに対する創造精神によって生み出す新しい世界。その世界の創造が大きな文化活動となって花開いていく。

花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)はフィレンツェのほぼ中央に位置し、都市の象徴であると同時に、焦点となっている。
赤茶瓦が一面に敷きつめられた町並みに一際高く、花のごとく咲きほこるこの大聖堂のクーポラ(円蓋屋根)。その威容はローマのパンテオンを凌駕し、文字通り花のルネサンス都市のシンボルと言える。
花の聖母大聖堂は1296年に建設が開始された。
大聖堂はその後の都市の発展に併せ、徐々に工事が進められ、十五世紀のはじめ、いよいよ大クーポラの建設に取りかかることになった。
古代ローマを凌駕しようという巨大屋根の建設はフィレンツェの威信、十三世紀以来の自由都市市民の全ての期待が懸けられていて、失敗を許されない大工事。その為、工事をまかなう大聖堂造営局と工事の取りまとめを担う、羊毛組合の役員たちは不安と周到な建設の協議に明け暮れる日々を重ねていた。

十六世紀半ば、ジョルジョ・ヴァザーリは「ルネサンス彫刻家建築家列伝」の中で、この大クーポラを完成させたフィリッポ・ブルネレスキの章の冒頭、次のように書いている。
「生来の容姿風貌は貧弱でも、偉大さに溢れた精神と、並はずれた気迫を持つが故に、ほとんど不可能と思えるような困難なことがらであっても、いったん着手したからには、見る人を驚嘆させるように完成せねば生涯安んじえないような人々が少なからず存在する」。
1418年、公証人の息子、金銀細工師のブルネレスキに、大聖堂造営局は大クーポラの建設を任せ、フィレンツェの全ての期待と威信を賭けることになった。
列伝は続く。
「彼はジョットに劣らず容姿は貧弱であったが、その天賦の才は抜きん出ており、彼こそすでに幾百年ものあいだ正道をはずれていた建築に、新しい形を与えるために天から遣わされたされた人物であったといえるだろう。建築において当時の人々は、様式を欠き、誤った方法と貧相な構成、異様きわまる着想、優美さからほど遠い外観、劣悪な装飾からな建物を建てては、多くの財を無益に浪費していた。」

たびたびローマを訪れ、パンテオンを研究したブルネレスキは、直径40mに及ぶ大屋根には足場を掛けることなく、二重構造を持つリブ付きの八枚の尖塔状パネルを掛け渡すことを提案している。

この方法は古代ローマのパンテオンに学んだもの。
40mを掛け渡しても決して崩れることのない強度を持った屋根と天井、その各々を一枚の板で構成することはとても重さが耐えきれず不可能なこと。そこには厚みを確保し重さを減らす為のアイディアが必要、ブルネレスキは屋根と天井の間にリブを入れた二重構造のパネルを組み合わせることを提案した。
何度かの模型制作で、不安に明け暮れる羊毛組合や造営局を説得し、ようやっと着工の許しを得たブルネレスキだが、もう一つの難題が待ち受けていた。ブルネレスキは新しいアイディアに理解を示さず、旧来の方法のみを主張する、旧態化した工匠たち。彼は毎日、工事を進める親方たちとのやりとりに明け暮れざるを得なかった。
ブルネレスキの大クーポラでの戦いは、袈構の仕掛けの考案以上に旧来の親方たちが持つ中世的職人気質とその習慣にあったと言えるようだ。親方たちの軋轢から何度か工事を中断しなければならない日々もあったと記録されている。しかし、1436年8月、大クーポラの着工からちょうど20年、ブルネレスキは最頂部ランタン(頂塔)の設置のみを残し、ついにその偉業を達成した。

パンテオンを凌駕する大クーポラの完成は新時代の幕開けそのもの。ブルネレスキは赤煉瓦屋根に覆われた中世都市フィレンツェの上に大輪の花を咲かせることによって、誰疑うこともない都市と時代のシンボルを完成させた。
この大輪の開花は技術上の成功ばかりでなく、前代までの建築との決別の宣言、新しい建築の時代の到来を示すものであったといえる。何故なら、この時から、建築はもはや一過性的な職人的技術ではなく、一貫性を持った建築理論であることが重要視されるようになったからだ。
建築デザインとは、様々な工夫や概念を統御することであり、旧来の経験の寄せ集め、という生産技術に支配される職人仕事ではない、ということをブルネレスキは身を持って示したからにほかならない。
このことは職人とは異なる一人の「建築家」の誕生を意味する。
ヴァザーリーの列伝に名を連ねるまでもなく、彼は個人の持つ叡知によって偉業を成し遂げた最初の建築家。ブルネレスキは技術とデザインのみならず、建築そのものを変格した人でもあったのだ。そして新しい建築の時代はこの日、この「建築家」を起点として新たな道を歩み始めまることになった。

(ギョーム・デュファイの音楽)
大クーポラの完成の五カ月も前、待ち切れぬフィレンツェ市民は1436年3月25日に花の聖母大聖堂の献堂式(落成式)を行う。その式典の執行は教皇エウゲニウス四世。反教皇的勢力との確執によってローマを離れていた教皇は、丁度この時、フィレンツェを訪れていた。
エウゲニウス四世の遠征には当然、教皇庁聖歌隊も従っている。
フランドルの音楽家ギョーム・デュファイはその時の筆頭歌手。後に、ルネサンス最大の音楽家といわれるデュファイだが、まだ30代半ばの彼はこの献堂式のために、祝典モテトゥス「新たに薔薇の花は=Nuperーrosarumーflores」を作曲した。
式典に参列した人文学者マネッティは、鮮やかな衣服をまとったトランペット、ヴィオールなどの楽器の奏者や聖歌隊のことをつぎのように書き残している。
「彼らの音楽が聴衆の心を打ち畏怖の念で満たしたので、音楽の響きと香の匂いと美しい装飾とで並みいるすべての人々は高揚し始めた・・・聖堂全体が調和の有る合唱と楽器の合奏で一杯に谺したので、天使たちや神聖な天国の合奏や歌が、天から送られてきたかのように思われた。」(西洋音楽史/上・音楽之友社)

ブルネレスキも聴いたであろうこの音楽は、その音楽的構成に大変興味深い仕掛けを持っていた。
その仕掛けとは、祝典モテトウス「新たに薔薇の花」は、完成しつつある大聖堂と「数あわせ」がなされていた。
どこの聖堂もそうだが、大聖堂の身廊の長さ、交差部の幅や円蓋の高さという建築の各部分は正確な比例関係を持っている。一方、音楽もまた数学的配列で構成されていることは良く知られている。
四声曲イソリズム技法(一定の決まったリズムが反復されるリズム法)で作曲されたこの曲は、上の二声部は聖母マリアに捧げられたこの大聖堂について歌い、下の二声部は献堂式の為のミサ曲、そこではグレゴリア聖歌の旋律が演奏される。
ここからが数合わせの方法、下の二声は同じ旋律が4回繰り返され、その4回は回ごとに長さが異なり、その長さの正数比は大聖堂の比例関係に適合している。その正数比は6対4対2対3、その比率はそのまま身廊の長さ、交差部の幅、後陣の長さと大天井の高さの比を現しているのだ。
つまりデュファイは、大聖堂という建築と、その為の音楽を比例関係で調和させることで、文字どおりマネッティ−のいう、天上の世界を音楽と建築を一体化させることで、現出させようとしていたのです。

音楽とその音楽に讃えられた建築との数による照応は、一種の数遊びに違いない。しかし、このような発想は当時の音楽と建築にはよくあることだった。もともと音楽と建築は数の世界、数学の世界に生まれた兄弟のようなもの。ギリシャ以来、音楽と建築にとって、もっとも重視されていたのはハーモニー。建築の美しさの現実は、各々の部材が持つ形や材料が示す味わいに多分に左右されるが、根本的には構成要素の各部分部分と全体との比例関係によって規定される。つまり、建築は一種の抽象的な均衡に基づくものと考えられていた。
柱と柱の間隔や柱の高さ、それらは全て柱の太さに関わる数量的調和によって決定され、建築は冷徹で明晰な数に支配された完結した秩序をもった高貴な存在であった。そして、建築は古来から、調和を生み出す数比によって構成された音楽のようなものと考えられていた。

ヨーロッパでは、音楽は単なる感覚的な楽しみ、と考えられたことは一度もない。音楽は鳴り響く世界、そこは耳で聞く音の世界である以上に、知的営為の対象であったのだ。そして、宇宙や世界の構造を解きあかす物理学同様の一つの学問と見なされていた。つまり音楽は数学のようなもの。
それ故に、ギリシャ時代だけでなく中世の大学においてさえ、音楽は自由七科の中の必修科目(クオドリビウム)であったのです。音楽は算術、幾何学、天文学と並ぶ必修四科の一つ、それが、古代そして中世の考え方。

数と音の関係は協和音程に関わる事柄。従ってすべての音が、数学的関係によって表されるということは容易に理解できる。しかし、現代の我々にとって、数にこだわる作曲が音楽の創作上の必然であったとはなかなか理解出来ることではない。
現在の音楽の価値に直接関わる問題ではないと考えるが、作曲上の構成において、数学的関係にこだわり、一種の「数あわせ」を採用していたことは大変興味深い事柄だ。事実、「数あわせ」の音楽は十七世紀のバロック時代まで、しばしば見られた方法だった。「数あわせ」の音楽はバッハも作曲しているのだ。
人間の持つ細かい感情を歌い始めたモーツァルト以降、そのような音楽は消えて行ってしまったが、バッハそしてモーツアルトの時代の音楽、そこには音として耳に聴こえる音楽とは異なる、もっと大きな音楽の問題、音楽の意味と役割、そして、その変容の問題があったと理解すべきだ。つまり、音楽家の時代と言われる近代を理解するもっとも重要な課題、それは学問であり知的営為でもあった音楽が、耳で聞く感覚的な楽しみとしての音楽に変容する時代、集団の為の音楽が個人の為の音楽に変わりつつある時代でもあったからです。



(Dufay : Missa l'homme armé from lelutindecouves on yoitube)
http://www.youtube.com/watch?v=2DBtiTVaJZ0