2010年5月28日金曜日

コンサートホール事始め


ヨーロッパ社会で音楽が広く演奏されていたのは宮殿や宮廷でした。
舞踏室、客間、サロン、広間、適当な広ささえあれば、音楽はどこでも演奏されている。
演奏は演奏される部屋の大きさに合わせ、演奏スタイルと曲目を選定し、時には演奏場所の反響に応じ、伴奏楽器の数やテンポまでも調整することで、宮殿や宮廷、さまざまな場所が演奏会場となっていた。

17世紀イギリスは共和制の時代。
革命により貴族的な劇場が閉鎖され、国王の音楽も王制とともに廃止されていた。
音楽家たちは生活するための庇護を中産階級の人々に求めなければなりらない。
そして生まれたのが公共コンサートです。
その最初の場所はロンドン近郊の居酒屋であったと記録されている。

ロジャー・ノースの「音楽の覚え書き」(1728年)によれば「セント・ポール大聖堂路地裏で、小型のオルガンが置いてあるのをフィリップなにがしが演奏し、店の主や職人頭が毎週より合ってはいっしょに歌ったり聞いたり、ビールやタバコを楽しんだりして楽しみました。やがて居酒屋の聴衆の数が次第に多くなっていきました」。
別のある居酒屋では、音楽のために部屋を一つ別にし、ミュージック・ハウスと呼ばれるようになり、大繁盛している。
やがて、居酒屋貸席の演奏会がずいぶん儲かるものだと知られると、こんどは音楽家自身が事業家になることもあり、次々と連続演奏会が開かれ、専用のミュージック・ルームも建てられるようになり、コンサートは益々隆盛して行った。(コンサートの隆盛のために音楽家自身が演奏会のプロモーターだった、ということはとても興味深い)


ロンドン大火の傷もいえ、レン(イギリスの有名な建築家)による新しいセント・ポール大聖堂の建設が始まった年、1675年、ストランドの西端、テムズ川のほとりのヨーク主教の旧邸跡に最初の公共コンサートホール、ヨーク・ビルディングスが誕生する。
「音楽会が開かれたのは大きな部屋で・・・音楽会場にふさわしい飾り付けがほどこされ・・・大勢の人がやってきて、混雑していた」。
ヨーク・ビルディングスのミュージック・ルームは大好評、やがてコヴェント・ガーデンにも同じようなミュージック・ルームが建てられることになる。
コヴェント・ガーデンのミュージックホールは絵の競売場にも使われたことから競売すなわちヴェンデと呼ばれ人気を博した。
そのヴェンデよりもさらに人気になったのがヒックフォーズ・ルーム。
ジョン・ヒックフォードは1697年、ダンス学校兼用のコンサート・ルームを開いた。
このビックフォーズこそ今あるコンサートホール原点かもしれない。

1738年には、手狭になったヒックフォーズ・ルームがジョンの息子によって引っ越し移転される。
そこはピカデリーにほど近いブルワー・ストリート。
このコンサートホールはヒックフォーズ・グレートと名を変え、当時のロンドンの流行の最先端の場となった。
奥行き15.2m、間口9.1m、高さ6.7m、天井は折りあげ、部屋の一端はステージ、それと向かい合ったドアーの上には桟敷席も設けられていた。
ヒックフォーズ・グレート名は音楽史の別の視点からも有名。
1764年、ロンドン滞在中の9歳のモーツアルトが姉のナンネルと一緒に演奏会を開いたのはここ、ヒックフォーズ・グレートだった。

2010年5月15日土曜日

ルネサンス、建築家の誕生





絵画は虚構の空間による一遍のドラマ。かって建築の壁面にあって空間の形成に参加していた絵画は、建築とは無関係に、一個の独立した存在として、自らのうちに独自の空間を形成し始めた。それは絵画の自立を意味する。絵画のみで世界をあるいは空間を表現することが可能となったのだ。

透視画法による人間が眺める世界、風景の発見により建築は従来の役割を終え、新しい役割を課せられるようになった。空間が絵画で表現できるのなら、建築は実用的な現実世界へ、つまり、近代建築の始まり。

建築は虚構的表現の場から実体的空間としての役割を重視しなければならなくなっていく。しかし、建築家はすべて実体に関わる技術者の道を歩めば良い、という訳ではない。

空間を生み出しそのコンセプトを表現するのは透視画法だが、建築はさらに新たなテーマを発見し、自らがその問題に答えていく、という役割も浮上した。神に変わり人間自らが問題を発見し答えていく、という近代建築の持つプログレマティズムは、透視画法が開いた新たな使命、生まれたばかりの建築家が果たなければらない重要な役割だ。




透視画法が建築家を誕生させ、その彼に新たな役割を課す一方、画家と彫刻家の役割もまた明確となった。透視画法は彫刻によらなくとも三次元の立体を作り出すことが可能だ。従って、彫刻家の仕事は現実の立体を作り出すこと、画家の仕事は空間全体を描きだすことがその役割となる。

画家は人物像の周りに、建築を描き空間を生み出す。さらに、画家は空間を生み出すばかりか、部屋を取り囲む建築の壁体をも解体する。そしてついには、平な建築の天井にドーム天井を描くことで、重たい危険なドームを実際に作ることなく、天上の世界の表現が可能となった。つまり、画家は実際の建築を超え、建築家が実際の建築を作る以前に、自由に建築空間を生み出すことが出来たのです。


2010年5月6日木曜日

アルス・ノヴァが開いたルネサンス


(アルス・ノヴァ)

オペラを生み出す十六世紀ではなく、十四世紀に戻ると、かって、ノートル・ダム大聖堂のリズミック・モードがガリレオの計量的時間を先取りし、多声音楽の道を開いたように、アルス(技法)に基づく音楽の時間構造の変化が観念や理念先行の音楽を実在の道に導いた。

それはアルス・ノヴァという音楽運動。リズムや拍子に関する考え方を神学者や哲学者がそれまで持っていた考え方から、新しい時間尺度に変えていこうとする運動だ。アルス・ノヴァは原則や正当性という理論重視の音楽を、新鮮な響きの世界へと開いていった。

アルスの開発により十三世紀も後半になると、自由なリズムを表記する試みが活発化し、音楽のスタイルは大きく変化する。そして十四世紀始めに音楽の理論書、フィリップ・ド・ヴィトリの「アルス・ノヴァ」(新技法)が登場した。ヴィトリは詩人であり、数学者、音楽の理論家であり作曲家。ペトラルカの友人でもあった彼はまさにルネサンス人の先駆けと言える人だ。

この理論書が重要なところは「音符の持つ時間の長さを多様化した」ところにある。多様化とは、本来は1対3という完全分割しか許されていないキリスト教音楽の記譜法に、1対2という不完全分割をも認めるようにしたこと。三拍子系のリズムでしか表記できなかった音楽が、二拍子系でも表現が可能となった。

三拍子は舞曲、それは詩的。二拍子は行進、自然の人間の歩行、行動を促す。従来のキリスト教の中の「三位一体」という理念からは許されなかった二拍子系のリズムの応用がアルス・ノヴァにより論理的に可能となった。結果、詩は全て韻文ではなく散文でも許されるように、音楽は理論上の作品も実践上の立場から書かれ、やがて現在の我々にとっても聞きやすい、滑らかで自由なリズムと旋律の道を開いていくことになる。

(音楽家ギョーム・マショー)

十四世紀始めは絶対的権力であった教皇権が没落し始める時代。新しいローマ教皇の選出にあたりフランス王が干渉し、選ばれた教皇がローマに行くことを妨げられる、歴史にいう「アヴィニョン捕囚」の時代だ。ギョーム・ド・マショーの音楽はこのような時代に作られた。それは教会の中の音楽より、宮廷における世俗音楽のほうが主流となる時代の始まりでもある。

教会の中で発展した多声音楽はバラードあるいはシャンソンと言った世俗のポリフォニーとして展開され、技巧に満ちた美しい歌が沢山生み出される。マショーの時代、それはアルス・ノヴァの結果と言えるものだろうが、音楽は教会の道具であることから独立し、自由な形式を持ち、人間性を自由に表現するものとみなされた。結果、教会では聞くことのできない、多彩なメロディーによるメランコリーな音楽が時代の主流となるのだ。

この時代の世俗音楽は、もはや、現代の私たちが聞く音楽の印象と大きな違いはない。十四世紀音楽の世界に起こったアルス・ノヴァは様々な音楽上の着想が取り込まれる新しい道を切り開いていた。面白いことに、アルス・ノヴァ、そしてギョーム・ド・マショーの音楽に示される音楽上のルネサンスは建築や絵画より百年も先行していたのだ。

2010年5月4日火曜日

ルネサンスの透視画法

(透視画法の発見)

透視画法を発見したのはブルネレスキです。 フィレンツェの花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の献堂式の記録を残したマネッティによれば、幕開けはフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂を描いたパネル画にあった。洗礼堂が克明に描かれたパネルの空の部分には銀箔が張られている。そのパネル画の中央には小さな穴が開けられていた。パネルはそのまま手に取って眺めるのではなく、片手に鏡を持ち、もう一方の手にこのパネルを持つ。眺めるときはこのパネルの穴からパネルに描かれた洗礼堂を鏡に写しこんで眺める。

この動作を実際の洗礼堂の前、定められた広場の一点から、鏡の中の鏡像と実際の洗礼堂を同時に合わせて見る。鏡の中に再現されたものは現実の洗礼堂とは区別がつかない、現実性を持ったパネル画と実際の洗礼堂の姿が重なって眺められる。ブルネレスキは何故、このようなことを試みたのか。彼の関心は絵の描きかたではなく都市にあった。都市における建物のをいかに配置するか、その方法への関心が透視画法を発見させている。

中世以来のシニョリーナ広場には、様々な記念建造物が巧みに配置されている。ブルネレスキの時代、この広場の構成はまさしく共和国の中での市民と聖職者、その秩序だった関係の象徴と見なされていた。この秩序を生み出すもの、それは当然、当時の考え方では、神の力によるものであったのだが、ブルネレスキはそのような構成を神の力に寄らずして人間の力で、客観的で科学的な根拠のある方法で生み出し得ると考えた。そして単一の視点より見ることから生まれる幾何学に基づいた一点透視画法を発見したのだ。

神の力に頼らずに秩序を生み出す方法の発見のためのヒントは古代ローマの宇宙論にある。かってのローマ全盛の時代には、宇宙も人体もともに秩序立った世界、コスモスだ。前者はマクロコスモス(大宇宙)、後者をミクロコスモス(小宇宙)。 図で描けば大円である宇宙と人体は一致する。(アントロポモルフィズム=レオナルド・ダ・ヴィンチ図) さらに各々はともに深い関係にあり、二つのコスモスは正確な比例関係を持つものとみなされていた。

この考え方は十五世紀になると復活し、大宇宙=小宇宙の原理に基づく空間概念が後に、新しい建築の原理となり、比例を通じて表現された諸部分の調和ということに関心が持たれるようになる。

ルネサンス建築の特徴とされるのは、アプリオリの全体ではなく部分を重視する視点。全体はその部分の集積として改めて規定されるものという考え方。あるいは部分と全体は決してバラバラにあるのではなく空間的には一体化、統一化されている。この考え方はローマ以来の大宇宙=小宇宙の原理に基づくもの。ブルネレスキは同じ原理に励まされ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂のパネル画の実験を試みるのだ。


(透視画法の原理はヒューマニズム)

ブルネレスキの一点透視画法の発見が当時の知識人たち、人文学者や建築家たちの最大の関心事となったのは、大宇宙=小宇宙の原理の強調や部分・全体の考え方を透視画法が理論づけていたからだ。空間が中心から発する光線によって理論的にも実際的にも把握されることに気が付いたブルネレスキは、目とモノとの間に置かれた画面は視覚錘体の断面を構成していることを示した。つまり、どんな部分も全体とは比例関係にあり、その部分と全体の関係は大宇宙=小宇宙を示している。

それはまた秩序ある都市の配列を導くもの。実際はともかくブルネレスキはシニョリーナ広場における様々な記念建造物の巧みな配置はこのような原理に基づくことを証明しようと考えた。

さらにもうひとつ、一点透視画法の発見がもたらした大事な考え方がある。それは世界を支配し、自然を変革するのは神のみではなく、人間もまた自然と法則を知ることで、世界を有効に支配できるという考え方。

世界は神ではなく、人間が人間のために計画的に支配出来るという確信が、人間が中心となった世界観を生み出す。つまり、人間中心主義というルネサンスのヒューマニズムは透視画法の原理そのものでもあったのです。


(透視画法が開いた世界)

ルネサンス建築の考え方を支配したのは透視画法。透視画法とは自分の目の前に一枚の透明なガラス板を置き、そのガラス板越しに見える世界をガラスの面に正確になぞって書くことだ。結果、目の前の世界は一つの秩序、まとまりを持った表現が可能となる。

そのまとまりは、人の目に「見えるまま」に表現された世界。つまり、ガラスという画面は「あるがままの世界」を写し取る装置。ここで重要なことは、画面に描かれた世界、あるいは空間の中にあるものは、宗教的観点から眺めたものではなく、人間の目が眺めた世界、人間の見た目が意義を持つ。

中世的絵画において、空間にあるものを画面の中に描こうとする時、描かれたものの大きさは宗教上序列、あるいは世俗の世界における階層を表すものに他ならない。つまり、空間は「あるがままの世界」ではなく、神によって秩序付けられ、序列化された世界、「あるはずの世界」なのだ。

ガラス越しに見るという透視画法の中にあっては大きさの違いは距離を示すに過ぎない。中世的絵画にあっては、神は大きく中央に描かれ、序列の下位のものは外側あるいは小さく描かれている。いうならば描かれる前に、描かれる方法は決められていて、描かれる世界は序列化されたシンボルによる寓意の空間、それが中世の絵画空間だ。

透視画法では神ではなく人間の見ための現実が全てに優先される。そこでもっとも重要なこと、透視画法の中の消失点(焦点)や水平線が示していることは、モノや空間が無いのではなく、あるのに見えないだけと認識させたことにある。視覚によって見ることできる現実世界の限界はあっても、その限界は人間の住む世界の限界ではないことを透視画法は明らかにした。このことから、空間は誰の支配も受けない自由な広がりと見なされる。空間は特定な性格や好みも持たない等質で等方なもの、平準で均質なものと考えられた。

もはや空間は神が支配するものではなく、あるいはある種の質感をもった物体が外側にひろがって行くものではなく、その中にモノがあろうが空っぽであろうが、いつでも人間の力で計測・計画出来るもの。空間がこのように認識されることで、建築を支える考え方も大きく変わった。建築は自然を越えるという想像上のものではなく、あるいは目に見えない世界構造を示すというものでもなく、視覚で測定でき、規則的に表現できる、ある法則に基づいた機械のようなものとなったのだ。

さらに、あらたな建築が生み出す空間のイメージとは、それは神が支配するものとしてアプリオリに限定されているのではなく、人がモノや記号を人為的に配列にすることによって生み出されるもの。詩人が言葉の配列によって生み出す空間と同様、シンボルの空間とみなされようになる。つまり、空間はあるいは世界は、神により生み出されるものではなく、詩人による制作、画家や建築家による「作品」となった。


(シンボル配置の方法)

描かれている世界はいかに写実的であっても、絵画空間を構成するのはシンボル。シンボルはいかにありのままの表現であったとしても、それは音楽と同じように、実在物の似姿に過ぎない。絵画は平な画面のなかに様々なシンボルを配置し、意味ある世界を表現したもの。そのシンボルを徹底した写実で表すか、あるいは別の意図を持って象徴的に表すかは、その絵画が描かれた時代の考え方の反映と言って良い。

写実性を生み出すことに熱心であったルネサンス、そこにはギリシャ・ローマと同じ様な自然を客観的に眺める時代精神が色濃く反映されている。反リアリズムであった古代エジプトや中世キリスト教社会、そこでは客観的に眺める以上に、「目に見えない世界」をいかに具体的に表現するかに関心が持たれた。中世社会では「あるはずの世界」が象徴的、超越的に表現されていたのだ。

ローマ時代のポンペイの家のいくつかには写実的な壁画が残されている。しかし、このような描きかたはキリスト教社会の中ではまったく消えている。十四世紀、音楽においてギョーム・ド・マショーがアルスを駆使し世俗音楽を作曲する頃、同じフランドルの画家ファン・アイクやイタリアのジョットが驚くほど写実的な絵画を描くようになった。しかし、彼らは後の透視画法のような奥行きを持った空間を描く技法を持ちえていたわけではない。ただひたすらだった自然観察がこれらの写実性を導き出していたのだ。

音楽におけるアルスへの関わりが「作品」と「作曲」、そしてその研究が音楽の革新となるアルス・ノーヴァを生み出したように、十五世紀の透視画法の研究が画家と建築家を誕生させ、新しい人間と世界の関係を生み出す方法を開いていった。

2010年5月1日土曜日

大クーポラの建設と献堂式の音楽、ブルネレスキとデュファイ

 
 
(建築家ブルネレスキ)
フィレンツェは紀元前一世紀、カエサルによって建設された古代ローマの植民都市です。
その位置はローマと北イタリアさらに西のガリア(フランス)を結ぶ交通の要衝となっている。
ローマの滅亡により一度は荒廃したこの都市も、十二世紀になると、新興商人階級の台頭により繁栄がはじまる。
アルテと呼ばれる商工業の同業組合による都市経営がその発展の基盤であり、君主や僭主に頼ることなく、市民みずからがこの都市を確立し、自由都市として発展させた。
十三世紀にはフィレンツェから、毛織物、絹織物業による生産品がヨーロッパ全土に輸出される。
さらにこの都市の銀行家たち、先行していたロンバルデイアやユダヤの商人を上回る活躍により、フィレンツェの経済は大きな繁栄に包まれた。
ルネサンスは、この歴史と繁栄が基盤。都市を反映させた自分自身が、神や君主に頼ることのなく、あらゆるものに対する創造精神によって生み出す新しい世界。その世界の創造が大きな文化活動となって花開いていく。

花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)はフィレンツェのほぼ中央に位置し、都市の象徴であると同時に、焦点となっている。
赤茶瓦が一面に敷きつめられた町並みに一際高く、花のごとく咲きほこるこの大聖堂のクーポラ(円蓋屋根)。その威容はローマのパンテオンを凌駕し、文字通り花のルネサンス都市のシンボルと言える。
花の聖母大聖堂は1296年に建設が開始された。
大聖堂はその後の都市の発展に併せ、徐々に工事が進められ、十五世紀のはじめ、いよいよ大クーポラの建設に取りかかることになった。
古代ローマを凌駕しようという巨大屋根の建設はフィレンツェの威信、十三世紀以来の自由都市市民の全ての期待が懸けられていて、失敗を許されない大工事。その為、工事をまかなう大聖堂造営局と工事の取りまとめを担う、羊毛組合の役員たちは不安と周到な建設の協議に明け暮れる日々を重ねていた。

十六世紀半ば、ジョルジョ・ヴァザーリは「ルネサンス彫刻家建築家列伝」の中で、この大クーポラを完成させたフィリッポ・ブルネレスキの章の冒頭、次のように書いている。
「生来の容姿風貌は貧弱でも、偉大さに溢れた精神と、並はずれた気迫を持つが故に、ほとんど不可能と思えるような困難なことがらであっても、いったん着手したからには、見る人を驚嘆させるように完成せねば生涯安んじえないような人々が少なからず存在する」。
1418年、公証人の息子、金銀細工師のブルネレスキに、大聖堂造営局は大クーポラの建設を任せ、フィレンツェの全ての期待と威信を賭けることになった。
列伝は続く。
「彼はジョットに劣らず容姿は貧弱であったが、その天賦の才は抜きん出ており、彼こそすでに幾百年ものあいだ正道をはずれていた建築に、新しい形を与えるために天から遣わされたされた人物であったといえるだろう。建築において当時の人々は、様式を欠き、誤った方法と貧相な構成、異様きわまる着想、優美さからほど遠い外観、劣悪な装飾からな建物を建てては、多くの財を無益に浪費していた。」

たびたびローマを訪れ、パンテオンを研究したブルネレスキは、直径40mに及ぶ大屋根には足場を掛けることなく、二重構造を持つリブ付きの八枚の尖塔状パネルを掛け渡すことを提案している。

この方法は古代ローマのパンテオンに学んだもの。
40mを掛け渡しても決して崩れることのない強度を持った屋根と天井、その各々を一枚の板で構成することはとても重さが耐えきれず不可能なこと。そこには厚みを確保し重さを減らす為のアイディアが必要、ブルネレスキは屋根と天井の間にリブを入れた二重構造のパネルを組み合わせることを提案した。
何度かの模型制作で、不安に明け暮れる羊毛組合や造営局を説得し、ようやっと着工の許しを得たブルネレスキだが、もう一つの難題が待ち受けていた。ブルネレスキは新しいアイディアに理解を示さず、旧来の方法のみを主張する、旧態化した工匠たち。彼は毎日、工事を進める親方たちとのやりとりに明け暮れざるを得なかった。
ブルネレスキの大クーポラでの戦いは、袈構の仕掛けの考案以上に旧来の親方たちが持つ中世的職人気質とその習慣にあったと言えるようだ。親方たちの軋轢から何度か工事を中断しなければならない日々もあったと記録されている。しかし、1436年8月、大クーポラの着工からちょうど20年、ブルネレスキは最頂部ランタン(頂塔)の設置のみを残し、ついにその偉業を達成した。

パンテオンを凌駕する大クーポラの完成は新時代の幕開けそのもの。ブルネレスキは赤煉瓦屋根に覆われた中世都市フィレンツェの上に大輪の花を咲かせることによって、誰疑うこともない都市と時代のシンボルを完成させた。
この大輪の開花は技術上の成功ばかりでなく、前代までの建築との決別の宣言、新しい建築の時代の到来を示すものであったといえる。何故なら、この時から、建築はもはや一過性的な職人的技術ではなく、一貫性を持った建築理論であることが重要視されるようになったからだ。
建築デザインとは、様々な工夫や概念を統御することであり、旧来の経験の寄せ集め、という生産技術に支配される職人仕事ではない、ということをブルネレスキは身を持って示したからにほかならない。
このことは職人とは異なる一人の「建築家」の誕生を意味する。
ヴァザーリーの列伝に名を連ねるまでもなく、彼は個人の持つ叡知によって偉業を成し遂げた最初の建築家。ブルネレスキは技術とデザインのみならず、建築そのものを変格した人でもあったのだ。そして新しい建築の時代はこの日、この「建築家」を起点として新たな道を歩み始めまることになった。

(ギョーム・デュファイの音楽)
大クーポラの完成の五カ月も前、待ち切れぬフィレンツェ市民は1436年3月25日に花の聖母大聖堂の献堂式(落成式)を行う。その式典の執行は教皇エウゲニウス四世。反教皇的勢力との確執によってローマを離れていた教皇は、丁度この時、フィレンツェを訪れていた。
エウゲニウス四世の遠征には当然、教皇庁聖歌隊も従っている。
フランドルの音楽家ギョーム・デュファイはその時の筆頭歌手。後に、ルネサンス最大の音楽家といわれるデュファイだが、まだ30代半ばの彼はこの献堂式のために、祝典モテトゥス「新たに薔薇の花は=Nuperーrosarumーflores」を作曲した。
式典に参列した人文学者マネッティは、鮮やかな衣服をまとったトランペット、ヴィオールなどの楽器の奏者や聖歌隊のことをつぎのように書き残している。
「彼らの音楽が聴衆の心を打ち畏怖の念で満たしたので、音楽の響きと香の匂いと美しい装飾とで並みいるすべての人々は高揚し始めた・・・聖堂全体が調和の有る合唱と楽器の合奏で一杯に谺したので、天使たちや神聖な天国の合奏や歌が、天から送られてきたかのように思われた。」(西洋音楽史/上・音楽之友社)

ブルネレスキも聴いたであろうこの音楽は、その音楽的構成に大変興味深い仕掛けを持っていた。
その仕掛けとは、祝典モテトウス「新たに薔薇の花」は、完成しつつある大聖堂と「数あわせ」がなされていた。
どこの聖堂もそうだが、大聖堂の身廊の長さ、交差部の幅や円蓋の高さという建築の各部分は正確な比例関係を持っている。一方、音楽もまた数学的配列で構成されていることは良く知られている。
四声曲イソリズム技法(一定の決まったリズムが反復されるリズム法)で作曲されたこの曲は、上の二声部は聖母マリアに捧げられたこの大聖堂について歌い、下の二声部は献堂式の為のミサ曲、そこではグレゴリア聖歌の旋律が演奏される。
ここからが数合わせの方法、下の二声は同じ旋律が4回繰り返され、その4回は回ごとに長さが異なり、その長さの正数比は大聖堂の比例関係に適合している。その正数比は6対4対2対3、その比率はそのまま身廊の長さ、交差部の幅、後陣の長さと大天井の高さの比を現しているのだ。
つまりデュファイは、大聖堂という建築と、その為の音楽を比例関係で調和させることで、文字どおりマネッティ−のいう、天上の世界を音楽と建築を一体化させることで、現出させようとしていたのです。

音楽とその音楽に讃えられた建築との数による照応は、一種の数遊びに違いない。しかし、このような発想は当時の音楽と建築にはよくあることだった。もともと音楽と建築は数の世界、数学の世界に生まれた兄弟のようなもの。ギリシャ以来、音楽と建築にとって、もっとも重視されていたのはハーモニー。建築の美しさの現実は、各々の部材が持つ形や材料が示す味わいに多分に左右されるが、根本的には構成要素の各部分部分と全体との比例関係によって規定される。つまり、建築は一種の抽象的な均衡に基づくものと考えられていた。
柱と柱の間隔や柱の高さ、それらは全て柱の太さに関わる数量的調和によって決定され、建築は冷徹で明晰な数に支配された完結した秩序をもった高貴な存在であった。そして、建築は古来から、調和を生み出す数比によって構成された音楽のようなものと考えられていた。

ヨーロッパでは、音楽は単なる感覚的な楽しみ、と考えられたことは一度もない。音楽は鳴り響く世界、そこは耳で聞く音の世界である以上に、知的営為の対象であったのだ。そして、宇宙や世界の構造を解きあかす物理学同様の一つの学問と見なされていた。つまり音楽は数学のようなもの。
それ故に、ギリシャ時代だけでなく中世の大学においてさえ、音楽は自由七科の中の必修科目(クオドリビウム)であったのです。音楽は算術、幾何学、天文学と並ぶ必修四科の一つ、それが、古代そして中世の考え方。

数と音の関係は協和音程に関わる事柄。従ってすべての音が、数学的関係によって表されるということは容易に理解できる。しかし、現代の我々にとって、数にこだわる作曲が音楽の創作上の必然であったとはなかなか理解出来ることではない。
現在の音楽の価値に直接関わる問題ではないと考えるが、作曲上の構成において、数学的関係にこだわり、一種の「数あわせ」を採用していたことは大変興味深い事柄だ。事実、「数あわせ」の音楽は十七世紀のバロック時代まで、しばしば見られた方法だった。「数あわせ」の音楽はバッハも作曲しているのだ。
人間の持つ細かい感情を歌い始めたモーツァルト以降、そのような音楽は消えて行ってしまったが、バッハそしてモーツアルトの時代の音楽、そこには音として耳に聴こえる音楽とは異なる、もっと大きな音楽の問題、音楽の意味と役割、そして、その変容の問題があったと理解すべきだ。つまり、音楽家の時代と言われる近代を理解するもっとも重要な課題、それは学問であり知的営為でもあった音楽が、耳で聞く感覚的な楽しみとしての音楽に変容する時代、集団の為の音楽が個人の為の音楽に変わりつつある時代でもあったからです。



(Dufay : Missa l'homme armé from lelutindecouves on yoitube)
http://www.youtube.com/watch?v=2DBtiTVaJZ0