2010年4月7日水曜日

不退寺・法華寺 ・海竜王寺

不退寺
奈良二日目は気温が下がり小雨が降る旅先としては最悪の一日。 薄手だが風よけとなるコートを着込み8時過ぎにホテルを出る。
 JR奈良駅から乗ったバスの行き先は不退寺、初めて拝観する。 一条通りのバス停に一人降り、朝の奈良に向かう通勤ラッシュのクルマを歩道橋で交わし住宅街に入ると、そこは突然古寺の参道。 開門前の門前は冷たい雨、境内にも人影は見えずレンギョウや椿が咲き乱れ、 たわわにに咲く大きな桜の木が春爛漫を謳歌している。 

この寺は在原業平が開基したとある。 寄せ棟の小さなお堂には木造の聖観音菩薩立像と五大明王像。 鎌倉時代の明王と聞けば激しい忿怒をイメージするが、ここの仏は顔かたち仕草ともおとなしい。  

法華寺
再び一条通りに戻り国道バイパスを渡るとほどなくまた古びた寺の山門に着く。 光明皇后の総国分尼寺と位置づけられる法華寺だ。 現在の寺域はもともと皇后宮地の一端にすぎず、名前のみをここに持ち込み、 光明皇后崩後一周忌の阿弥陀浄土院がこの寺の本来の姿のようだ。 しかし、その後の戦火で衰退したとは言え秀頼と淀殿の寄進で再建され、 現在は華道の方々の精神的よりどころとなっている所。
境内に入ると、ちょうどその日、関係者の大きな法要があるそうで、 寒空とあいにくの雨の中、本当に法要なの、と疑ってしまうほど、 あでやかな沢山の和服姿が咲き誇る花に負けじと華やいでいた。 そんな寺であるから、ここの見せ場はなんと言っても名勝庭園。 ボク自身の拝観の目的は秘仏とされ、今日までが特別拝観と教えられた十一面観音像だが、 その色彩豊かな仏もさることながら、小さいながらの桃山時代の庭園には圧倒された。  

大げさな書き込みとなったが、昨年の秋の京都では期待していた庭園、どこも手入れが悪く、 そのみすぼらしさに驚かされていたから。 雨の中、しきりに落ち葉を集める庭師に、その手入れの良さを褒めたくて声をかけると。 「京都の庭には、落葉樹は植えられておりませんので、こんなに汚れることはないのですが、奈良の庭はどこも大変ですわ」とのお答え。 このおじさん、地を這う杉苔を傷つけないように、毎日毎日丁寧に庭を掃き続けていたのだ。 したがって、格別の昨夏の苔の傷みに対し、人知れず心を痛め、春になり慈しみ続けてきた成果に彼はいたく満足げであった。


海竜王寺
海竜王寺は法華寺とほぼ隣り合っている。 どちらも光明皇后の父、藤原不比等の邸宅跡地だ。 不比等の全用地の東北の隅にあったことから隅寺の名がつけられたと言われるが確証はない。 その記録は天平8年(731年)の正倉院文書にあり、かの玄ボウが初代住持であったようだが、これにも異説がある。 かの、といったのは先週、たまたまNHKのテレビドラマ「大仏開眼」でその名を知ったからのこと、特別の意味は無い。思うに聖武天皇の大仏建立の詔の20年前。疫病・飢饉・天災が相次ぐ中、天皇家と藤原氏の覇権争いという時代は恐ろしく不安定。何が真であり、何が虚があったかなど同時代であっても、よく分からなかったのではないだろうか。
拝観の目的はここでは小さな五重塔。4m強とあるから今で言えば模型にすぎない。それも大地にあるのではなくお堂の中だ。 長らく奈良国立博物館に寄贈されていたが、ようやっと本来の場所、海竜王寺の西金堂に戻されたので、今日は特別、もともと作られたお堂に立って、はじめて見ることが可能となった。 有名な薬師寺の三重塔に類似した8世紀前半頃の塔と言われれば、日本の木造建築に関心があれば一度は見てみたいと思うではないか、それも、もともとあった場所に建つというならば。 建築にとって建てられた場所は、作られたデザイン以上に、多くのことを語ることがあるからだ。

こんな波乱の時代、何故、五重塔の模型など必要としたのだろうか。先の初代住持が玄肪であることから無責任で勝手な想像をしてしまう。同時代東大寺建立に関わったのは良弁、大仏建立に関わったのは全国の慈善的土木事業で走り回った行基。そして、玄肪は唐から海難を乗り越え帰国した政治家、藤原氏光明皇后に重用され、その海難にあやかり海龍王寺と称す寺を任された。疫病・飢饉・天災・戦争という波乱万乗の時代、玄肪が意図したのは不安と不満のなかにある奈良庶民の人心をいかに安らげ慰めるか。その策は今で言えば建築ブーム、市内のあちこち、数多くの寺そして塔の建設ではないだろうか。事実、同時代、奈良の都には相当数の塔が建てられていた、と書いた本を読んだ記憶がある。何とも壮観な奈良の景観だが、そんな景観づくりに不可欠だったのは、その造作モデル、海龍王寺の五重小塔。
そんな壮観な建築世界を想像すべく、今回、奈良で追って見たいと思っているのは数々の塔なのだ。 与えられた時間内、きままなひとり旅、思う存分、天平・平安・室町の塔を追っかけてみたいと思っている。 最初の一つは工事中であったが、昨日の浄瑠璃寺、そして岩船寺の三重塔だ。 ともに平安の浄土の庭園に建つ珠玉の三重塔として絶対に見逃させないもの。 そして今日は不退寺の多宝塔とここの厨子の中の五重塔、さらに西ノ京へと天気は悪いが寒空の中、塔を見るため歩き回った。
塔のデザインで重要なことは、四隅では45度の角度で突出する組み物とその両隣の組み物との関係にある。 薬師寺の三重塔以前の塔では突出した45度の組み物は単独であり、それ以降は隣の組み物と隅の組み物は肘木で連結される。 この海竜王寺の五重塔は薬師寺と同じ形態、異なるのはこの小塔の軒桁は円形断面であり、薬師寺は角形だ。  
ここからはまたまた専門的研究者無視の個人的見解だが、木材の調達においては天平と白鳳は後世に比べ大径材が入手可能であった、一方、鑿や鋸や台鉋という繊細な工具の発達は中国で言えば明朝以降。 したがって、薬師寺以降の塔は部材が小さくなり、その分、組み物の加工デザインが繊細になる。 ここで言いたいことは、天平の塔が軒が深く大胆なデザインであることは大径部材の自由度が可能にした表現、後世の繊細さに対し、素朴・未熟・繊細さにかけるという批評はあたらない。
 先を急げば、塔を見るなら天平が良い。 そこには技術と素材と精神が三つどもえになった大らかな建築的世界が広がっている。 海竜王寺五重小塔では軒桁断面が円形であるというところがなんとも興味深い。 こんなお堂に納められた小塔とはいえ、当時の建築家たちが、何を考えどうしようとしたのか、その生き様がみえるではないか。 それを確認するだけでも、今回この寺を訪れる価値は充分にあったのだ。