2010年4月7日水曜日

海竜王寺


海竜王寺は法華寺とほぼ隣り合っている。 どちらも光明皇后の父、藤原不比等の邸宅跡地だ。 不比等の全用地の東北の隅にあったことから隅寺の名がつけられたと言われるが確証はない。 その記録は天平8年(731年)の正倉院文書にあり、かの玄ボウが初代住持であったようだが、これにも異説がある。 かの、といったのは先週、たまたまNHKのテレビドラマ「大仏開眼」でその名を知ったからのこと、特別の意味は無い。思うに聖武天皇の大仏建立の詔の20年前。疫病・飢饉・天災が相次ぐ中、天皇家と藤原氏の覇権争いという時代は恐ろしく不安定。何が真であり、何が虚があったかなど同時代であっても、よく分からなかったのではないだろうか。
拝観の目的はここでは小さな五重塔。4m強とあるから今で言えば模型にすぎない。それも大地にあるのではなくお堂の中だ。 長らく奈良国立博物館に寄贈されていたが、ようやっと本来の場所、海竜王寺の西金堂に戻されたので、今日は特別、もともと作られたお堂に立って、はじめて見ることが可能となった。 有名な薬師寺の三重塔に類似した8世紀前半頃の塔と言われれば、日本の木造建築に関心があれば一度は見てみたいと思うではないか、それも、もともとあった場所に建つというならば。 建築にとって建てられた場所は、作られたデザイン以上に、多くのことを語ることがあるからだ。

こんな波乱の時代、何故、五重塔の模型など必要としたのだろうか。先の初代住持が玄肪であることから無責任で勝手な想像をしてしまう。同時代東大寺建立に関わったのは良弁、大仏建立に関わったのは全国の慈善的土木事業で走り回った行基。そして、玄肪は唐から海難を乗り越え帰国した政治家、藤原氏光明皇后に重用され、その海難にあやかり海龍王寺と称す寺を任された。疫病・飢饉・天災・戦争という波乱万乗の時代、玄肪が意図したのは不安と不満のなかにある奈良庶民の人心をいかに安らげ慰めるか。その策は今で言えば建築ブーム、市内のあちこち、数多くの寺そして塔の建設ではないだろうか。事実、同時代、奈良の都には相当数の塔が建てられていた、と書いた本を読んだ記憶がある。何とも壮観な奈良の景観だが、そんな景観づくりに不可欠だったのは、その造作モデル、海龍王寺の五重小塔。
そんな壮観な建築世界を想像すべく、今回、奈良で追って見たいと思っているのは数々の塔なのだ。 与えられた時間内、きままなひとり旅、思う存分、天平・平安・室町の塔を追っかけてみたいと思っている。 最初の一つは工事中であったが、昨日の浄瑠璃寺、そして岩船寺の三重塔だ。 ともに平安の浄土の庭園に建つ珠玉の三重塔として絶対に見逃させないもの。 そして今日は不退寺の多宝塔とここの厨子の中の五重塔、さらに西ノ京へと天気は悪いが寒空の中、塔を見るため歩き回った。
塔のデザインで重要なことは、四隅では45度の角度で突出する組み物とその両隣の組み物との関係にある。 薬師寺の三重塔以前の塔では突出した45度の組み物は単独であり、それ以降は隣の組み物と隅の組み物は肘木で連結される。 この海竜王寺の五重塔は薬師寺と同じ形態、異なるのはこの小塔の軒桁は円形断面であり、薬師寺は角形だ。  
ここからはまたまた専門的研究者無視の個人的見解だが、木材の調達においては天平と白鳳は後世に比べ大径材が入手可能であった、一方、鑿や鋸や台鉋という繊細な工具の発達は中国で言えば明朝以降。 したがって、薬師寺以降の塔は部材が小さくなり、その分、組み物の加工デザインが繊細になる。 ここで言いたいことは、天平の塔が軒が深く大胆なデザインであることは大径部材の自由度が可能にした表現、後世の繊細さに対し、素朴・未熟・繊細さにかけるという批評はあたらない。
 先を急げば、塔を見るなら天平が良い。 そこには技術と素材と精神が三つどもえになった大らかな建築的世界が広がっている。 海竜王寺五重小塔では軒桁断面が円形であるというところがなんとも興味深い。 こんなお堂に納められた小塔とはいえ、当時の建築家たちが、何を考えどうしようとしたのか、その生き様がみえるではないか。 それを確認するだけでも、今回この寺を訪れる価値は充分にあったのだ。
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