2010年4月15日木曜日

東大寺孝

ボルブドールの船
昨日は上津江村で風で倒された山の状況を見学し、「建築」と 「木」そして「山」の間の問題の大きさを、改めて考えさせられています。
一昨日は東京から大分への機中、たまたま機内誌の、インドネシアのボルブドールとい
う、石の寺院の遺跡の記事を読み、この遺跡ははアジアのデザイン、日本の建築、木造建築を考える上の重要なテーマを提供してくれていると気づきました。

石で出来たボルブドールの遺跡には3点の船の浮き彫り彫刻が施されています。
その中の図柄の一つ、沈没しかかった大きな船を本当に再生した、というのが記事の内容です。
ボルブドールは石の建築ですから、石の文化によって仏教建築 を作ったわけですが、図柄から、大きな木造の船を作る技術も、この時代のインド ネシアの人々は持っていたことが解ります。
木造文化は船の文化から始まったと、私は考えていますが、インドネシアではボルブドールを作った8世紀以後、あのような大きな船を作る技術を持っていたにもかかわらず、なぜ、木造文化はそれほどの発達はなかったのでしょうか。
一方、日本では、ボルブドールの建設の同時代、東大寺がつくられております。
この世界最大の木造建築がきっかけとなって、日本はその後、木造文化を花咲かせていきました。

インドネシアでは、前史時代から、木や竹を使って小さなカヌーを作り、東南アジアの様々な海域を航海していたのですが、それが木や竹の文化の始まりであり、やがてボルブドールの浮き彫りに彫刻されたような大きな船を作る技術を培っていきました。
日本では、このカヌーや船を作る技術の上に、中国からの仏教による、新しい建築技術を重ねていき、法隆寺、東大寺、伊勢神宮、出雲大社、竹にかかわる桂離宮、東照宮と世界に誇る木造建築が造られてきました。
しかし、昨日のような山の木が軒並みに倒されている状況を見ますと、日本の木造文化も崩壊しつつあるなと考えざるを得ません。
なぜなら、日本の木造文化は「木を使い、建築を作ること」と「木を育て、山を作ること」が一体であったはずだからです。

びっくりするようなデータがあります。
戦後作られた住宅の寿命はたったの15 年であるというのです。
山は3代と言われ、爺さんが植えた木は孫の代にようや く伐採できるのが林業ですが、住宅産業がつくる新築住宅は15年で産業廃棄物になってしまっているのです。
さらにその産業廃棄物は山に捨てられ、山林の環境汚染のもう一つの原凶ともなっているのです。
さらに悪いことに、日本は熱帯雨林材のかなりの量を輸入しながら、コンクリートの型枠パネルとしてたった一 回使用するだけで、これもまた産業廃棄物として捨て去ってしまっているのです。
もはや文化どころではありません、単なる消費・浪費にすぎないのです。
私 たちの木造文化は木を使うことによって社会を育て、人間を育てることが基盤に
あったのですが、最近は単なる木の消費国にすぎません、しかも、世界中から目の敵にされた木材の消費国、浪費国に成り下がってしまったということです。
ボルブドール以後のインドネシアの木造文化はどうなったのかが切っ掛けですが、我々の木造文化は今、どうなっているのかを考えなければなりません。

木造文化の概観
まずは私たちの木造文化とはどのようなものであったのか概観してみたいと思います。
人類の歴史は1万2千年だといわれる中で、8千年が土と石の文化です。
そして、4千年くらい前から鉄の文化が生まれ、木の文化も生まれ、精密な船も作られました。
木造文化は「木と鉄の文化」といえるようです。
日本では、船 を作る技術を使って、一般の建築も作りはじめました。
船では作る以上に修復することが大事ですが、木造建築においても同様、痛んだ部分を絶えず修復し、一度使った材を何回も転用することで、森を砂漠にすることもなく、木を使
う文化を育ててきたのです。
つまり4千年もの長い間、木造という石に比べれば非常に弱く、燃えやすく、脆いにもかかわらず、それを修復しながら、使い続けてきたというのが、我々の文化の特徴だったのです。

更に林業との関連で考えてみたいと思います。
日本の山は中国や韓国に比べると土壌が若く、スポンジみたいに水を含みやすい土地柄です。
だからこそ、大陸では難しいことですが、日本では木が再生しやすい状況にあると言われています。
木曾の例でいうならば、あそこは一度は完全に伐採されてしまったところなのです。
しかしその後、土壌がいいので、自然に桧が天然林として再生された所なのだそうです。つまり日本の山はほっといても自然に再生されるほど土壌もよく環境も恵まれているということです。

その恵まれた環境でも、日本人は木を伐りすぎれば、すぐに植えるということを比較的早くから心掛けてまいりました。
植林の歴史はなんと須佐之男の伝説にも記録されているほど古いことです。
つまり、再生されやすい山を持つ日本人は山を育て、木を伐り、木を使うことで、文化を作ってきたと言えるのです。
木を育て木を使うということは世界中どこでも出来そうなことですが、ヨ−ロッ パでは全くありませんでした。
「木を切り」、「木を使う」ところまでは同じですが、「木を育てる」ということはなかったのです。
ボルブド−ル以後の日本とイ ンドネシアの違いも、多分ここにあったような気がします。

面白いことですが、「木を育てる」ことは須佐之男以来の日本の文化の特徴ですが、しかし、木を育てて、それを「売る」ということは、わずか3百年の歴史にすぎません。
日本では、江戸時代、売るために木を育てるということが積極的に始められたのですが、関東平野の江戸は空っ風が非常に強く、大火が多かった、そして大火のたびに沢山の木材が必要となり、実質的な林業経営が始まりました。
やがて、1657年の振袖火事がきっかけとなり、日本各地で育てた木を売り、金にするということがブ−ムとなっています。
つまりそれ以前は、木を使う為に育てることはありましたが、売る為に育てるという時代が始まったのです。

したがって、林業経営の始まりは木材を商品化していくことであったといえます。
しかし、今、林業はこの商品化という中で苦しんでいます。
他の工業商品との商品上の競争となっているからです。
「どんな土地でも、水と空気とエネルギーさえあれば、同じものが作れる」というのが工業の特徴です。
均一で一定の生産量さえ確保されれば、いつでもどこへでも必要量を持っていける。
これが商品化された工場生産品の競争力の原理です。
しかし、「木材」は違います。
それは自然や風土とかたく結ばれているので、「風土や人に制約された商品」と言わなければなりません。
戦後の工業化社会の中で、林業そして木材が苦しんできたポイントがここにあります。
木材は工業製品」の持つホモジニアス性に対抗出来ません。
「木材」はヘテロジニアスな材です。
自然と地域環境、人間生活と技術、情報と流通といった「工業製品」とは異 なった「様々なしがらみ」を持った「商品」、それが木材です。
そしてこの「しがらみ」が単なる商品文化とは異なる、日本の木造文化を支えていたと言って良いのだろう考えます。
しかし現在、木材は「工業製品」に対抗するヘテロジニアス性を乗り越えることができません。
木材と建築家の間の不幸な関係はこの点にあります。
なぜなら、いまの建築家はヘテロジニアスな材料の利用方法を見つけることが出来ないからです。

木造文化の再生
東大寺という建築を考えてみたいと思います。
有名なお寺です、奈良にある古美術のような世界最大の木造建築です。
幅60メートル、高さ52メートルに及ぶこの大建築は、1200年前の創建以後、2度にわたる戦禍のため焼失し、その度に再建され現在にいたっています。
今日はその東大寺を古美術としてあるいは建設された結果としての建築ではなく、その建設のプロセス、あるいは東大寺を生みだす社会的背景を振り返ってみることで、木造文化の再生の糸口、ヘテロジニアスな木材の新しい道を探ってみたいと思います。

ここでは二つの観点がポイントになります。
一つは現在なぜ住宅は20年足らずで壊されてしまうのでしょうか。
それは住宅の使い方が変わたということですが、東大寺という建築ではその問題はどう考えられていたのでしょうか。
二つ目は技術と材料調達、さらに再建を支える当時の森林状況と地域との関連です。
東大寺は地域の力によって維持されて来たのです。
さらにまた地域にとって東大寺は、文化センターの役割を果たしていました。

一番目のポイント。
東大寺の建築の目的はなんでありましょうか、ただの寺院ではありません。
大学、祈願の場所、病院、国際交流センター、図書館でもありました。
単なるお寺というばかりでなく、いろんな役割を持っていたのがこの建築です。
本来建築はこのように様々な役割を持っていたのが本来の姿です。
これを住宅に当てはめて考えて見たいと思います。
例えば、かっての縁側です。
ここは廊下的役割だけでなく、近所の人々が集まり、コミュニケーションする場でもあったのです。
納戸は何だったのでしょうか、ヨーロッパのクローゼットとは異なります。
我々の生活は季節に応じて、目的に応じて、様々に部屋を室礼ていくのが基本でありました。
そして生活を季節に応じて、次々と浮き上がらせていくための準備室、次の間のような装置が納戸の役割であったことを思い出して下さい。
単なる収納の場所ではないのです。
現在の生活では、あらゆる部屋が壁で仕切られた物置のようになってしまい、それを廊下で繋ぐだけの住宅ばかりを作ってきてしまいましたから、家族や物が増えれば生活できず、たったの15、20年で壊さざるを得なくなってしまいました。

東大寺も単なるお寺だけの役割しか果たせなかったのなら、鎌倉時代の再建はなかったに違いありません。
新しい仏教が流行した時代(鎌倉)、そこはまた大学や図書館でもあったので、新たな再建に沢山のお金と人力が投じられました。
住宅も人や物の倉庫ではありません、何代にもわたる家族の生活の舞台です。
あてがいぶちの住宅建設ではなく、しっかりとした生活設計に基づいた住まいづくりが木造文化再生の第一歩、と考えなければなりません。

次に東大寺の建設の歴史と地域との関係を考えてみたいと思います。
東大寺の創建は8世紀半ば、その建築は天平時代の大陸文化の結集点でありました。
ちょうど現代人が外国に対し様々な興味を持っているように、天平の人々も大陸文化に大変な興味を示していました。
そして大陸との激しい交流の中から東大寺は生まれたのです。
さらに鎌倉の再建の時、その時の中国は宋の時代で、揚子江を中心とした船の文化の時代でした。
中国大陸では東北の「土」そして陸の文化に対して、江南の船と「木」の文化があります。
宋の時代は新しい「木」の文化が中国に生まれたとき、それを一早く取り入れ、形作られたのが、現在に至る東大寺なのです。

東大寺の建築様式は大仏様、天竺様と言われるものです。
今の東大寺は鎌倉時代と様式は同じですが、江戸時代に再建されています。
江戸時代は鎖国によって外部とは文化的交流は遮断されていたのですが、逆に今まで取り入れた外国の文化を日本の中で、ゆっくりと醸成していった時代でもあります。
現実に東大寺にもその醸成の成果が発揮されています。

再建の時、既に日本の森林の状況は 大変逼迫していました。
東大寺のあのような大きな柱を日本の山から伐りだすのは、もう不可能でした。
したがって、現在の1mくらいある、あの大きな柱は実は寄せ木作りなのです。
その寄せ木作り技術は天平時代のものですが、鎖国という状況にあってその技術をもう一度見直すことで、ものの見事に大建築として実現したのが現在の東大寺です。

現在の東大寺を実現したのは古代からの技術ですが、同時にそれを1200年にわたり維持し、支えてきたのは周辺の地域社会です。
東大寺は古来より、現在の上津江のような山の集落から絶えず沢山の修復材が供給され、維持運営されてきました。
運ばれて来たものは材木だけではありません。
お米や農産物そして山からの様々な恵です。
一方、集落には「山造り処」が作られました。
そこは今でいう地域活性化センタ−です。
そこには東大寺からのお坊さんが沢山住んでいて、新しい技術や考え方を地域に広めてくれました。
都市である東大寺と地域にある集落との橋渡しの役割を果たし、様々な物産と文化の交流を司ってきたのが「山造り処」の役割は極めて重要です。
東大寺を維持運営していった木造文化というものは、それは都市と地域を一体化し、共に
活性化していく文化でもあったことがわかります。
三重県伊賀に大山田村という所があります。
そこは昔から東大寺を支えてきた「山造り処」でありました。
その村に鎌倉時代には大仏寺というお寺が作られています。
東大寺から念仏衆たちが各々の役割と地域との交流をめざしてやってくる。
そして山に登り、今度の修理にどの木を切るか、薬草を採取しその周りをどうするかを村の人々と相談し、研究し、情報を集める。
そこは東大寺にとって地域に作った研究所でもあったのです。
一方、村の人々にとって、そこは新しい農作物の相談の場であり、病んだり痛んだりした体を直す病院でもありました。
これが大仏寺であり、東大寺という都市とこの村を繋ぐコミュニケ−ションセンタ−であったのです。

これからの村、山村の問題を考える場合いつも地域全体と都市とのネットワ−クをどう新しく構築するかがポイントになります。
現在、建築と林業での一つの施策は木材の需要開拓と低迷している木材価格の問題です。しかし、都市と地域がばらばらな需要開拓をいくら叫んでもうまく行く筈ありません。
都市に住んでいる人々と地域の人々が一緒になって、新しい居住文化を作っていけるようなセンタ−づくりが、今、林業地でなされるべきだと思います。
これは上津江という一つの町、村だけで出来ることではありません。
東大寺でいうならば、大山田村からの木材は服部川、木津川を流し、奈良坂を越え東大寺に運ばれました。
東大寺は大山田村だけでなく、流域の様々な資源や考え方人々の力を調整しインテグレ
−トし、結び付けネットワ−ク化してきたのです。
上津江ならば、中津江、日田、大川という一つの流域が新たな大きな居住文化、産業文化センタ−を構築するという可能性があります。
このような視点に立ち、林業という分野をもう一度捉え直してみれば、ただ単に一商品だけで終わらない、大きな世界が見えてくるのではないのでしょうか。
林業と住まいがどう結びつくのか、あるいは木造文化がどう再生されるのか、その手がかりとして東大寺は有効であろうと思い、ブログに書きとめてみました。