2010年4月20日火曜日

建築術と印刷術

世界の一隅に住まう私たちは、いつの時代も素手で世界とあい対している訳ではありません。
私たちが世界と関わろうとするとき、そこにはメディアが介在しています。
音楽と建築の役割は「人間と世界、人間と人間の関係を調整」することにあり、その二つはどの時代にあっても、時代を主導するメディアでありました。

ギリシャの人々は吟遊詩人の歌を聞くことによって、
中世の人々は大聖堂のミサに参加することによって、
ルネサンスの人々は画家や彫刻家の作品を眺めることによって、
世界とはどのようなもの、どのようなかたちであるかを理解しようとしています。
ヨーロッパの人々は、自分自身が何処にいて、何処に行こうかという思いをいつも強く持っていたからに他なりません。

最近のメディア論では、時代を語る時その時代を支配したメディアがなんであったかを示すことで、多くの説明が可能になると言われています。
メディアはその時代のライフスタイルを移す鏡であるからです。
そしてメディア論では、古代・中世を建築術の時代、
ルネサンス以降を印刷術の時代と言っています。
加えれば、21世紀は電脳時代です。
現在の私たちは何よりもコンピューターのなかの音や映像を体験することによって、世界を知り、世界と対面しようとしているからです。
いやさらに、耳で聴き、眼で見る世界ではなく、身体全体を受容器とすることから生まれて来る想像的世界を求めています。
私たちは今、電子メディアの中のビット化した世界に共振しようとしているかのようです。

18世紀、ヴィクトル・ユーゴの小説「ノートル=ダム・ド・パリ」の中のシーンです。
「司教補佐はしばらく黙ってその巨大な建物をながめていましたが、やがて溜息を一つつくと、右手をテーブルにひろげてあった印刷書のほうへ伸ばし、左手を、ノートル= ダム大聖堂のほうへ差し出して、悲しげな目を書物から建物へ移しながら言います。[ああ!これがあれを滅ぼすだろう]」。
これとは印刷されたばかりの聖書であり、あれとはノートル= ダム大聖堂のことです。
ユーゴは建築は現在の書物と同様であり、知識や文化を伝えるメディアであると言っているのです。
そして15世紀グーテンベルグの発明以降、印刷術の普及によりメディアとしての建築術の時代はまもなく終焉する、と彼はこのシーンの中で語りました。
事実、ルネサンス以降、かっての中世大聖堂の役割(=建築)を印刷された聖書が担うようになります。
ノートル= ダム大聖堂という建築は時代を主導するメディアである役割を終え、その役割は印刷された聖書・書物、その中に書かれた知識が果たすことになりました。
やがて、教会の中で一体であった音楽と建築は、各々別々の道を、建築は社会の要請に従った機能的な空間構成へ、音楽は個人的要請に従った感情的表現領域への道を強めることになるのです。

教会の奥深く厳重に管理されていた、捧げものとしての聖書写本に変わり印刷された聖書は、誰もがいつでも手にすることが可能なメディアです。
印刷術の普及により、宗教音楽と教会建築で展開されてきた神の世界は文字で書かれた聖書の中に顕現されます。
土地と一体であった建築は移動させることは不可能ですが、印刷術から生まれた書物は持ち運びが自由(ポータブル)です。
グーテンベルグは知識や情報を建築から剥ぎ取り、印刷された書物に綴じ込むことによって、私たちは何処でも自由に持ち運ぶことが可能となりました。
つまり、音楽と建築が一体であった教会は最早、人々にとって必要ではなく、教会は個々人の枕元の聖書に、あるいは日々持ち歩く鞄の中の書物に変わることとなりました。