2010年4月27日火曜日

祝の島 本橋成一


「祝の島」試写会を観る。 会場の中野ゼロは500人収容、ほぼ満員。 会はプロデューサー本橋氏のスタッフ紹介から始まった。 制作の中心となる3人の若い女性とサポートに回ったおじさんたち。 映画は国東半島に近い瀬戸内の離れ島でのドキュメント、山口県上関町祝島の人々の生活。 本土からちぎれたような小さな島は28年前、 フッと湧いた原子力発電所建設騒動に巻き込まれる。 今も昔も、人々は田圃を耕し、漁をし、髪を切り、パンを食べ、テレビを見、お祭りには神楽を楽しみ、歌を歌い、おしゃべりをする。 しかし、その生活は突然、二分される。 無味な呼び名だが原発推進派と反対派。 映画は建設に反対して来た人々の今の生活を刻々と写し取っている。 大半は老人、何人かは既に亡くなった父母の反対の意志を引き継いだ娘夫婦たち。 この映画は単なる原発反対派のドキュメントではない。 祝島の人たちの長い長い時間がテーマなのだ。 自分自身の祖父さんから引き継ぎ、自分の孫子に残して行くもの。 それは苦労して石を組んだ棚田であり、守り続けて来た豊饒の海。 全ての人が生きて行く術であり、術であったもの。 映画は一時の「開発」とか「原発」とは全く相容れない、長い時間を描いている。 過去から引き継ぎ現在に生きる全ての生活そして時間を描き、 これからも延々繰り返されるであろう島の生活、 長い長い未来の時間をも想像させる。 そんな時間を切断し、 人々の今ある生活を破談させる「外から開発」とは一体なんだろう???。 上映後の座談での話の一つ、「二分され、より辛い思いをしているのは、 映画には登場しない推進派という少数派の人々かもしれない。」 昔から何処の都市、何処の街でも繰り返されて来た「開発」、そして今後も続くであろう「外」からの介入。 沢山のダム開発、まだまだ繰り返される原子力発電所建設、 最近のブームとなった新空港建設、はては米軍基地建設。 その中身はきっと何処も同じにちがいない、 この映画はそこまで想像させる普遍性を持っている。 しかし、映画は決して、疑問を描いたわけでもなければ、解答を求めてもいない。 彼女たちはただひたすらに島の人々、その生活を描き続けた。 そのひたすらさが、逞しく、我々凡人の理屈にならない理屈を平然と乗り越えて行く。 これは若い女性三人による、強い強い映画と言っておこう。 http://web.me.com/polepoletimes/hourinoshima/top.html

2010年4月20日火曜日

建築術・印刷術・電脳術

世界の一隅に住まう私たちは、いつの時代も素手で世界とあい対している訳ではない。
私たちが世界と関わろうとするとき、そこにはメディアが介在している。
音楽と建築の役割は「人間と世界、人間と人間の関係を調整」することにあり、その二つはどの時代にあっても、時代を主導するメディアであった。

ギリシャの人々は吟遊詩人の歌を聞くことによって、
中世の人々は大聖堂のミサに参加することによって、
ルネサンスの人々は画家や彫刻家の作品を眺めることによって、世界とはどのようなもの、どのようなかたちであるかを理解しようとしている。
人々は自分自身が何処にいて、何処に行こうか、という思いをいつも強く持っていたからだ。

最近のメディア論は、時代を語る時その時代を支配したメディアがなんであったかを示すことで、多くの説明が可能になると言っている。
メディアはその時代のライフスタイルを移す鏡であるからだ。
そしてメディア論では、古代・中世を建築術の時代、
ルネサンス以降を印刷術の時代と言っている。
加えれば、21世紀は電脳時代ということになる。
現在の私たちは何よりもコンピューターのなかの音や映像を体験することによって、世界を知り、世界と対面しようとしている。
さらにいまや、耳で聴き、眼で見る世界ではなく、身体全体を受容器とすることから生まれて来る想像的世界を求めていると言える。
私たちは今、電子メディアの中のビット化した世界に共振しようとしているかのようだ。
なぜなら、それが私たちの世界であであるからだ

以下は、18世紀、ヴィクトル・ユーゴの小説「ノートル=ダム・ド・パリ」の中のシーンの一つ。
「司教補佐はしばらく黙ってその巨大な建物をながめていましたが、やがて溜息を一つつくと、右手をテーブルにひろげてあった印刷書のほうへ伸ばし、左手を、ノートル= ダム大聖堂のほうへ差し出して、悲しげな目を書物から建物へ移しながら言います。[ああ!これがあれを滅ぼすだろう]」。

これとは印刷されたばかりの聖書であり、あれとはノートル= ダム大聖堂のこと。
ユーゴは建築は現在の書物と同様であり、知識や文化を伝えるメディアであると言っているのだ。
そして15世紀グーテンベルグの発明以降、印刷術の普及によりメディアとしての建築術の時代はまもなく終焉する、と彼はこのシーンで司教補佐に語らせた。
事実、ルネサンス以降、かっての中世大聖堂の役割(=建築)を印刷された聖書が担うようになる。
ノートル= ダム大聖堂という建築は時代を主導するメディアである役割を終え、その役割は印刷された聖書・書物、その中に書かれた知識が果たすことになった。
やがて、教会の中で一体であった音楽と建築は、各々別々の道を、建築は社会的要請に従った実用的な空間構成へ、音楽は個人的要請に従った感情的な表現領域への道を強めることになる。

教会の奥深く厳重に管理されていた、捧げものとしての聖書写本に変わり印刷された聖書は、誰もがいつでも手にすることが可能なメディア。
印刷術の普及により、宗教音楽と教会建築で展開されてきた神の世界は文字で書かれた聖書の中に顕現されます。
土地と一体であった建築は移動させることは不可能ですが、印刷術から生まれた書物は持ち運びが自由(ポータブル)です。
グーテンベルグは知識や情報を建築から剥ぎ取り、印刷された書物に綴じ込むことによって、私たちは何処でも自由に持ち運ぶことが可能となりました。
つまり、音楽と建築が一体であった教会は最早、人々にとって必要ではなく、教会は個々人の枕元の聖書に、あるいは日々持ち歩く鞄の中の書物に変わることとなる。

印刷術が建築術を解体し、枕もとの聖書が教会に変わることで、キリスト教社会は大きく揺らぐ。十五世紀ルネサンスの人々はキリストに変わる新しい神、教会に代わる新しい世界、新しいコスモスを模索している。そして生まれたのが絵画や庭園のなかの理想郷(アルカディア)、あるいは透視画法の中の理想都市。十七世紀、人々はアルカディアや理想都市を背景としたオペラの世界を生み出す。その世界は建築術が解体された後のコスモスであり、人間が神ではなく自分自身の目で眺め、耳で聞く世界だ。

絵画や庭園やオペラの中のアルカディアは実在的ではあるが観念の世界、描かれた画面や印刷されたタブローの中の作品的世界、虚構の世界に他ならない。作品的世界とは神と共存する世界ではなく、神のいる世界を眺めた世界。神々が神殿あるいは教会に実在する世界ではなく、人間自身が想像的に眺める世界、風景の世界なのだ。

風景の世界とは、神が支配するコスモス(秩序世界)ではなく、人間の視覚によって作られたランドスケープ(眺望世界)を意味する。建築術が解体し印刷術に代わることで世界はコスモスからランドスケープへ変容したのだ。

オペラの世界とは、神と共存するコスモスではなく、透視画法に縁取られたプロセニアム・アーチを持つ額縁舞台の中の世界、動く絵画の世界、ランドスケープに他ならない。そしてこの世界を最初に準備したのがテアトロ・オリンピコ。テアトロ・オリンピコは世界がコスモスからランドスケープへ変わる変局点に立っている。それが近代劇場の誕生の真なる所以だ。


2010年4月15日木曜日

東大寺孝

ボルブドールの船
昨日は上津江村で風で倒された山の状況を見学し、「建築」と 「木」そして「山」の間の問題の大きさを、改めて考えさせられています。
一昨日は東京から大分への機中、たまたま機内誌の、インドネシアのボルブドールとい
う、石の寺院の遺跡の記事を読み、この遺跡ははアジアのデザイン、日本の建築、木造建築を考える上の重要なテーマを提供してくれていると気づきました。

石で出来たボルブドールの遺跡には3点の船の浮き彫り彫刻が施されています。
その中の図柄の一つ、沈没しかかった大きな船を本当に再生した、というのが記事の内容です。
ボルブドールは石の建築ですから、石の文化によって仏教建築 を作ったわけですが、図柄から、大きな木造の船を作る技術も、この時代のインド ネシアの人々は持っていたことが解ります。
木造文化は船の文化から始まったと、私は考えていますが、インドネシアではボルブドールを作った8世紀以後、あのような大きな船を作る技術を持っていたにもかかわらず、なぜ、木造文化はそれほどの発達はなかったのでしょうか。
一方、日本では、ボルブドールの建設の同時代、東大寺がつくられております。
この世界最大の木造建築がきっかけとなって、日本はその後、木造文化を花咲かせていきました。

インドネシアでは、前史時代から、木や竹を使って小さなカヌーを作り、東南アジアの様々な海域を航海していたのですが、それが木や竹の文化の始まりであり、やがてボルブドールの浮き彫りに彫刻されたような大きな船を作る技術を培っていきました。
日本では、このカヌーや船を作る技術の上に、中国からの仏教による、新しい建築技術を重ねていき、法隆寺、東大寺、伊勢神宮、出雲大社、竹にかかわる桂離宮、東照宮と世界に誇る木造建築が造られてきました。
しかし、昨日のような山の木が軒並みに倒されている状況を見ますと、日本の木造文化も崩壊しつつあるなと考えざるを得ません。
なぜなら、日本の木造文化は「木を使い、建築を作ること」と「木を育て、山を作ること」が一体であったはずだからです。

びっくりするようなデータがあります。
戦後作られた住宅の寿命はたったの15 年であるというのです。
山は3代と言われ、爺さんが植えた木は孫の代にようや く伐採できるのが林業ですが、住宅産業がつくる新築住宅は15年で産業廃棄物になってしまっているのです。
さらにその産業廃棄物は山に捨てられ、山林の環境汚染のもう一つの原凶ともなっているのです。
さらに悪いことに、日本は熱帯雨林材のかなりの量を輸入しながら、コンクリートの型枠パネルとしてたった一 回使用するだけで、これもまた産業廃棄物として捨て去ってしまっているのです。
もはや文化どころではありません、単なる消費・浪費にすぎないのです。
私 たちの木造文化は木を使うことによって社会を育て、人間を育てることが基盤に
あったのですが、最近は単なる木の消費国にすぎません、しかも、世界中から目の敵にされた木材の消費国、浪費国に成り下がってしまったということです。
ボルブドール以後のインドネシアの木造文化はどうなったのかが切っ掛けですが、我々の木造文化は今、どうなっているのかを考えなければなりません。

木造文化の概観
まずは私たちの木造文化とはどのようなものであったのか概観してみたいと思います。
人類の歴史は1万2千年だといわれる中で、8千年が土と石の文化です。
そして、4千年くらい前から鉄の文化が生まれ、木の文化も生まれ、精密な船も作られました。
木造文化は「木と鉄の文化」といえるようです。
日本では、船 を作る技術を使って、一般の建築も作りはじめました。
船では作る以上に修復することが大事ですが、木造建築においても同様、痛んだ部分を絶えず修復し、一度使った材を何回も転用することで、森を砂漠にすることもなく、木を使
う文化を育ててきたのです。
つまり4千年もの長い間、木造という石に比べれば非常に弱く、燃えやすく、脆いにもかかわらず、それを修復しながら、使い続けてきたというのが、我々の文化の特徴だったのです。

更に林業との関連で考えてみたいと思います。
日本の山は中国や韓国に比べると土壌が若く、スポンジみたいに水を含みやすい土地柄です。
だからこそ、大陸では難しいことですが、日本では木が再生しやすい状況にあると言われています。
木曾の例でいうならば、あそこは一度は完全に伐採されてしまったところなのです。
しかしその後、土壌がいいので、自然に桧が天然林として再生された所なのだそうです。つまり日本の山はほっといても自然に再生されるほど土壌もよく環境も恵まれているということです。

その恵まれた環境でも、日本人は木を伐りすぎれば、すぐに植えるということを比較的早くから心掛けてまいりました。
植林の歴史はなんと須佐之男の伝説にも記録されているほど古いことです。
つまり、再生されやすい山を持つ日本人は山を育て、木を伐り、木を使うことで、文化を作ってきたと言えるのです。
木を育て木を使うということは世界中どこでも出来そうなことですが、ヨ−ロッ パでは全くありませんでした。
「木を切り」、「木を使う」ところまでは同じですが、「木を育てる」ということはなかったのです。
ボルブド−ル以後の日本とイ ンドネシアの違いも、多分ここにあったような気がします。

面白いことですが、「木を育てる」ことは須佐之男以来の日本の文化の特徴ですが、しかし、木を育てて、それを「売る」ということは、わずか3百年の歴史にすぎません。
日本では、江戸時代、売るために木を育てるということが積極的に始められたのですが、関東平野の江戸は空っ風が非常に強く、大火が多かった、そして大火のたびに沢山の木材が必要となり、実質的な林業経営が始まりました。
やがて、1657年の振袖火事がきっかけとなり、日本各地で育てた木を売り、金にするということがブ−ムとなっています。
つまりそれ以前は、木を使う為に育てることはありましたが、売る為に育てるという時代が始まったのです。

したがって、林業経営の始まりは木材を商品化していくことであったといえます。
しかし、今、林業はこの商品化という中で苦しんでいます。
他の工業商品との商品上の競争となっているからです。
「どんな土地でも、水と空気とエネルギーさえあれば、同じものが作れる」というのが工業の特徴です。
均一で一定の生産量さえ確保されれば、いつでもどこへでも必要量を持っていける。
これが商品化された工場生産品の競争力の原理です。
しかし、「木材」は違います。
それは自然や風土とかたく結ばれているので、「風土や人に制約された商品」と言わなければなりません。
戦後の工業化社会の中で、林業そして木材が苦しんできたポイントがここにあります。
木材は工業製品」の持つホモジニアス性に対抗出来ません。
「木材」はヘテロジニアスな材です。
自然と地域環境、人間生活と技術、情報と流通といった「工業製品」とは異 なった「様々なしがらみ」を持った「商品」、それが木材です。
そしてこの「しがらみ」が単なる商品文化とは異なる、日本の木造文化を支えていたと言って良いのだろう考えます。
しかし現在、木材は「工業製品」に対抗するヘテロジニアス性を乗り越えることができません。
木材と建築家の間の不幸な関係はこの点にあります。
なぜなら、いまの建築家はヘテロジニアスな材料の利用方法を見つけることが出来ないからです。

木造文化の再生
東大寺という建築を考えてみたいと思います。
有名なお寺です、奈良にある古美術のような世界最大の木造建築です。
幅60メートル、高さ52メートルに及ぶこの大建築は、1200年前の創建以後、2度にわたる戦禍のため焼失し、その度に再建され現在にいたっています。
今日はその東大寺を古美術としてあるいは建設された結果としての建築ではなく、その建設のプロセス、あるいは東大寺を生みだす社会的背景を振り返ってみることで、木造文化の再生の糸口、ヘテロジニアスな木材の新しい道を探ってみたいと思います。

ここでは二つの観点がポイントになります。
一つは現在なぜ住宅は20年足らずで壊されてしまうのでしょうか。
それは住宅の使い方が変わたということですが、東大寺という建築ではその問題はどう考えられていたのでしょうか。
二つ目は技術と材料調達、さらに再建を支える当時の森林状況と地域との関連です。
東大寺は地域の力によって維持されて来たのです。
さらにまた地域にとって東大寺は、文化センターの役割を果たしていました。

一番目のポイント。
東大寺の建築の目的はなんでありましょうか、ただの寺院ではありません。
大学、祈願の場所、病院、国際交流センター、図書館でもありました。
単なるお寺というばかりでなく、いろんな役割を持っていたのがこの建築です。
本来建築はこのように様々な役割を持っていたのが本来の姿です。
これを住宅に当てはめて考えて見たいと思います。
例えば、かっての縁側です。
ここは廊下的役割だけでなく、近所の人々が集まり、コミュニケーションする場でもあったのです。
納戸は何だったのでしょうか、ヨーロッパのクローゼットとは異なります。
我々の生活は季節に応じて、目的に応じて、様々に部屋を室礼ていくのが基本でありました。
そして生活を季節に応じて、次々と浮き上がらせていくための準備室、次の間のような装置が納戸の役割であったことを思い出して下さい。
単なる収納の場所ではないのです。
現在の生活では、あらゆる部屋が壁で仕切られた物置のようになってしまい、それを廊下で繋ぐだけの住宅ばかりを作ってきてしまいましたから、家族や物が増えれば生活できず、たったの15、20年で壊さざるを得なくなってしまいました。

東大寺も単なるお寺だけの役割しか果たせなかったのなら、鎌倉時代の再建はなかったに違いありません。
新しい仏教が流行した時代(鎌倉)、そこはまた大学や図書館でもあったので、新たな再建に沢山のお金と人力が投じられました。
住宅も人や物の倉庫ではありません、何代にもわたる家族の生活の舞台です。
あてがいぶちの住宅建設ではなく、しっかりとした生活設計に基づいた住まいづくりが木造文化再生の第一歩、と考えなければなりません。

次に東大寺の建設の歴史と地域との関係を考えてみたいと思います。
東大寺の創建は8世紀半ば、その建築は天平時代の大陸文化の結集点でありました。
ちょうど現代人が外国に対し様々な興味を持っているように、天平の人々も大陸文化に大変な興味を示していました。
そして大陸との激しい交流の中から東大寺は生まれたのです。
さらに鎌倉の再建の時、その時の中国は宋の時代で、揚子江を中心とした船の文化の時代でした。
中国大陸では東北の「土」そして陸の文化に対して、江南の船と「木」の文化があります。
宋の時代は新しい「木」の文化が中国に生まれたとき、それを一早く取り入れ、形作られたのが、現在に至る東大寺なのです。

東大寺の建築様式は大仏様、天竺様と言われるものです。
今の東大寺は鎌倉時代と様式は同じですが、江戸時代に再建されています。
江戸時代は鎖国によって外部とは文化的交流は遮断されていたのですが、逆に今まで取り入れた外国の文化を日本の中で、ゆっくりと醸成していった時代でもあります。
現実に東大寺にもその醸成の成果が発揮されています。

再建の時、既に日本の森林の状況は 大変逼迫していました。
東大寺のあのような大きな柱を日本の山から伐りだすのは、もう不可能でした。
したがって、現在の1mくらいある、あの大きな柱は実は寄せ木作りなのです。
その寄せ木作り技術は天平時代のものですが、鎖国という状況にあってその技術をもう一度見直すことで、ものの見事に大建築として実現したのが現在の東大寺です。

現在の東大寺を実現したのは古代からの技術ですが、同時にそれを1200年にわたり維持し、支えてきたのは周辺の地域社会です。
東大寺は古来より、現在の上津江のような山の集落から絶えず沢山の修復材が供給され、維持運営されてきました。
運ばれて来たものは材木だけではありません。
お米や農産物そして山からの様々な恵です。
一方、集落には「山造り処」が作られました。
そこは今でいう地域活性化センタ−です。
そこには東大寺からのお坊さんが沢山住んでいて、新しい技術や考え方を地域に広めてくれました。
都市である東大寺と地域にある集落との橋渡しの役割を果たし、様々な物産と文化の交流を司ってきたのが「山造り処」の役割は極めて重要です。
東大寺を維持運営していった木造文化というものは、それは都市と地域を一体化し、共に
活性化していく文化でもあったことがわかります。
三重県伊賀に大山田村という所があります。
そこは昔から東大寺を支えてきた「山造り処」でありました。
その村に鎌倉時代には大仏寺というお寺が作られています。
東大寺から念仏衆たちが各々の役割と地域との交流をめざしてやってくる。
そして山に登り、今度の修理にどの木を切るか、薬草を採取しその周りをどうするかを村の人々と相談し、研究し、情報を集める。
そこは東大寺にとって地域に作った研究所でもあったのです。
一方、村の人々にとって、そこは新しい農作物の相談の場であり、病んだり痛んだりした体を直す病院でもありました。
これが大仏寺であり、東大寺という都市とこの村を繋ぐコミュニケ−ションセンタ−であったのです。

これからの村、山村の問題を考える場合いつも地域全体と都市とのネットワ−クをどう新しく構築するかがポイントになります。
現在、建築と林業での一つの施策は木材の需要開拓と低迷している木材価格の問題です。しかし、都市と地域がばらばらな需要開拓をいくら叫んでもうまく行く筈ありません。
都市に住んでいる人々と地域の人々が一緒になって、新しい居住文化を作っていけるようなセンタ−づくりが、今、林業地でなされるべきだと思います。
これは上津江という一つの町、村だけで出来ることではありません。
東大寺でいうならば、大山田村からの木材は服部川、木津川を流し、奈良坂を越え東大寺に運ばれました。
東大寺は大山田村だけでなく、流域の様々な資源や考え方人々の力を調整しインテグレ
−トし、結び付けネットワ−ク化してきたのです。
上津江ならば、中津江、日田、大川という一つの流域が新たな大きな居住文化、産業文化センタ−を構築するという可能性があります。
このような視点に立ち、林業という分野をもう一度捉え直してみれば、ただ単に一商品だけで終わらない、大きな世界が見えてくるのではないのでしょうか。
林業と住まいがどう結びつくのか、あるいは木造文化がどう再生されるのか、その手がかりとして東大寺は有効であろうと思い、ブログに書きとめてみました。

2010年4月9日金曜日

法隆寺・室生寺


今回の奈良は塔を見るのが目的。 
最後の一日は室生と長谷に行こうと決めていた。 
しかし、まだ斑鳩にいる。 
朝は8時から法隆寺西院伽藍の見学は出来ると昨日知った。 
春の花咲く斑鳩、もうしばらくここに居ることとし、朝一番でまた西院伽藍に入場した。 
昨夕に比べ、天候は曇り、霧雨か空気が重く、気温も低い。 
見学客もまだいない。 
中門、回廊、金堂、五重塔、修理中の講堂・・・、朝の冷気の中、全く初めて見るんだいう気分に引き戻し、木組みの詳細を眺め回った。 
再三書いているが、法隆寺の木組みは部材が大きく、簡素。 
今回とくに印象的なのは回廊だ。 
その柱・虹梁・回廊幅・柱間隔・棟木・垂木・連司格子・腰と天井の小壁そして床。
 この全体の構成の見事さはほかでは体験できない。 
凛々しく、清楚、伸びやか、ゆるみは無く緊張感があるが決して息苦しくはない、伸びやかでおおらかだ。 
素晴らしい、プロポーション、空間間隔。 
人に邪魔されること無く、一人、靴音を響かせていると、人知れず古代楽器の音楽が聴こえてくるような気がする。

 
帰り際に再び境内から真近かに塔を仰ぎ見た。 
そして、一つだけ気になる。 
松は邪魔だ、貧弱だ、汚らわしい。 
何故、この聖域に松があるんだ。 
どんな意味を持っているのか。
 西洋でも東洋でも、聖域に自然木があることは珍しい。 
火あるいは水はあっても、自然木が植えられていることはほとんどない。 
それと植えられた松の位置が気に食わない。 
多分、この空間内に意味をもって植えたのではなく、外からの眺めのみで決めたに違いない。 
それも、江戸時代だろう、この時代の見識者はすでに聖域に対するセンス、聖域の持つ意味を理解していない。  

もう一つ、昨日拝観損ねた大宝蔵院に行く。 
管理人が床を掃く中、百済観音を拝む。 
いい仏です。 正面から拝む、柔和、やさしい、あたたかな微笑み。 
側面から眺める、ゆるやかな曲線、ここにもまた古代の楽曲。 
大宝蔵院にはさらに夢違い観音、玉虫厨子、金堂の壁画等々。 
東京の展覧会では決してあり得ない、最高の国宝群を独り占めするという贅沢な朝だった。

法隆寺バスセンターから近鉄の小泉に向かう。 
ここから大和八木、そして青山町行きの急行、室生寺大野はあっという間だった。 
室生寺は友人とレンタカー等でクルマで行くことが多かったが、今回は久しぶりの電車。 
じつは前回も電車だったが、その時は三重の仕事のついで、名張経由でとんでもない時間がかかったの覚えがある。 
今日はウソのよう、法隆寺ですっかり朝の時間を楽しんだので、到着は昼過ぎてもしょうがないと思っていた。 

高台のある駅のスロープを広場に降りると、そこにはバス、便利だ、車内は満員だがわずか15分、早い。  
赤い太鼓橋が迎える、女人高野と言われる室生寺。 
ここはいつも山深く寂寥な雰囲気。 今日は参道の茶店の呼び込みも賑やか、花も新緑も人も皆あでやかだ。 赤い門をくぐり階段をあがり本堂をぬけると、赤い三重塔、ここはまた、なお一層あでやか。
 小振りで繊細のこの塔、鎌倉ではない、平安か室町と思っていたが天平だった。 
周りの杉木立の猛々しさに比べ、まさに女人の趣、五重に屋根を広げ舞を舞うかのような印象。

塔まで登れば、ここからは胸突き八丁。 
奥の院までは延々と階段が続く。 
大方の女性客、さすがに、この階段にチャレンジする人はほとんどいない。 
いやぁ!きつい!まだかまだか!脚はガクガク、心臓バクバク。 
ようやっとも思いで奥の院の小さな境内に昇りつく。 
正面には朱印をいただける窓口があり、のほほんと年配の寺守さんが、昇りつく参拝客を見守っている。 
ここまでチャレンジしたのは今日で2回目。 
前回は友人と一緒だが今日は一人。 
苦難を制覇した証拠になるなら、おでこで良いから朱印をいただきたい気持ちだ。
 人心地してから舞台に出る。 
木の間がくれだが、里の屋根が垣間見える、わずかだが、薄赤い山桜の花と一緒に。

帰りのバスでは一駅前の大野寺で降りる。 
曇り空とは言えここは花の名所、室生参りの客は今日は皆ここにも立ち寄るようだ。 
小さな境内のほとんどがしだれ桜か、その豊かさに息を飲む。 
ここはこの境内から室生川の対岸に掘られた磨崖仏を参拝する場。 
しかし、圧倒的に咲きそろう花の見事さにほとんどの客が目を奪われている。 
大野寺の階段をおり、河原に目をやると、大きな磨崖仏の下、ハイキングのお弁当を広げている幾重かの集団。 
生きとし生きるものを眼下にした大仏は、ものみなの幸せを微笑んでいるかのようだ。
 となるとこちらもあやかりたい、道路脇には幸い、屋台の列。 ひと串百円のこんにゃく玉を所望しパクついた。

長谷寺・奈良興福寺国宝館・阿修羅像


長谷寺も近かった、室生からは電車でふた駅。 
この寺はちょくちょく訪れる、真言宗豊山派の総本山、わが寺、青梅即清寺の源だからだ。  
当然、わが父もここに眠る、したがって、奈良に行けば立ち寄り、三重に行けば立ち寄ることになる。  
室生とおなじ、駅を出て山を下ればそこは初瀬川、橋を渡れば参道だ。  今日は丁度昼時、橋脇のいつもの店でうどんをすする。 
いやぁ、ここも店主はおばあさんだ。 
わずか600円のうどんだが、決し決して、侮れない。 
もちろん、ここの名物はそうめんには違いない。  
しかし、ボクはこの店の、このばあさんのうどんが好き。

 
人心地ついて参道を歩く、今日は観光客が一杯。
 ツァーバスもあえて山門前を避け、参道を歩く、ゆっくり参拝がメインのようだ。 
したがって、寺まで700メートル位だろうか、まるで、都会の繁華街のようなにぎわい。  
にぎわいは山門をくぐるとなお一層だ。 
この寺は奈良でも大きい。 
今回は東大寺も興福寺も訪れてないが、ここのにぎわいは薬師寺、法隆寺の比ではないようだ。 
名物の階段回廊はラッシュの渋谷駅か、当然だろう、 周辺はここぞとばかり花一杯咲き誇っている。 
立ち止まりカメラに家族を納めたい集団、段数の多さにややへばり、一息つきたいご老人、 その脇をざっとのごとく駆け抜ける高校生らしい男女の華やぎ。 
今日はさすがに、仏となった親父と会うのは難しかろう。 
正式参拝をあきらめ、かって知ったる抜け道を上がり下ろし、 花と塔と舞台をiPhoneに納め、早々に退散した。 

さぁ、終わった。 
帰ろう、あとは近鉄で京都に出れば、もう東京だ。 
たぶん、法隆寺から室生に行く時間と変わらないかもしれない。 
しかし、まだ3時。 
大急ぎ、駅に引き返し、奈良の国宝館に寄ってみることとした。 
国宝館には4時過ぎには入館出来た。 
当然の人ごみだが、ここにはなんと言っても八部衆とそのメイン阿修羅像がある。 
人ごみと言ったって、東京の国立博物館とは違う。  
目の前でたっぷり全像を拝観出来るのだ。 
コースはよく出来ていて、まずは旧山田寺の仏頭、あの凛々しい少年のような仏様。 
そして回り込み、興福寺の国宝の数々を見学し終わると、 最後がいよいよメインの阿修羅。 
その周辺は先ほどの仏頭と入れ子の配置で興福寺西金堂の本尊、 大きな釈迦如来像が君臨している。 手前はこれもまたすばらしい。 
八部衆とは面白い対比となる十大弟子立像。 
そして振り返れば、かの乾漆八部衆。
 このスペースは国宝中の国宝がすべて一望のもと。
 大げさな言い方だが日本で最も贅沢な場所と言って良いかもしれない。 
幸い、ここも閉館は午後5時、まだ時間はある。
 居座りながら阿修羅をたっぷり眺めた。 
そして、気がついた。 
面白い、この像だけが鎧兜がない。 
その仕草、外の七体いや実質六体ははほとんど動きがない。 
手前の十大弟子も同じだ。 
しかし、どうして阿修羅だけ、こんなに手を広げ、首を動かし舞っているのだ。 
まるでギリシャの踊るサチュロス! 
さらに、もう一つ、阿修羅の目は涙目だ! 悲しんでいるのではない、むしろ喜んでいる、 しかし、その瞼には涙が浮かんでいる。
時間が来て国宝館を追い出されたのは定時だが、 その目の前には興福寺の五重塔がまた明るくなったかのような夕の光に照らされていた。 
どうだ、もう帰れるか、もうひとまず、猿沢の池に下り、塔を眺める。 三条をぶらつき駅近のアーケードで土産と車内弁当を仕入れ、 近鉄奈良駅に向かった。

2010年4月8日木曜日

慈光院・法起寺・法輪寺


奈良のホテルは朝飯が大変だ。 宿泊客は京都・大阪という大都市に吸い取られ、奈良全体では、昔に比べ少なくなったそうだ。 その分、どこのホテルもツァー客で一杯。 今朝のレストランは大行列、とても入れそうもないので見学には早いが、街に出ることにした。 といっても、どこの寺院も見学は9時から、しかたがないぶらりぶらりだ。 奈良町は猿沢池と鷺池の間での南の地域と聞いている。 なんのことはない、昨日の高畑からの帰り、奈良公園に出なければ、そのままこの街をぶらついていたはず。 しかし、晴れた朝の街は気持ちよい。 まずは元興寺に行ってみた。 門は閉まっているので外から屋根を見学。 街中にしては寄せ棟の大きな本堂だ、もとは僧坊であったらしい。 奈良時代の建物を鎌倉時代、古材利用で大仏様で建て替えたとある。 次は十輪院、この界隈は寺ばかり、どれをどう見たら良いかさっぱりなので、 横町をまがり、連司格子の家々を眺め、寺の案内板と大きな屋根だけが頼りに歩き回った。 十輪院は鎌倉中期の建築らしいが残念ながら屋根が低い(?)のでよく見えない。 そして次は福智院、ここもまた鎌倉時代ということでよってみたが、門は当然閉じたまま。
大通りに出ると今朝もまた待っていたようにバスが来る。 ホテルの戻るとレストランはガラガラ、大急ぎで食事を、チェックアウトし、駅に向かった。 とんとんだがここに来てさぁ困った。 毎時33分が斑鳩行きのバスのはず、しかし、8時の次は10時、9時台はなし。 それはない、団体客の為に1時間ずらしはしたが、まさか、昼近くに法隆寺についてどうしようというのか。 これでは、昨日の薬師寺同様、観光ラッシュは免れない。 結局、近鉄で郡山に向かった。 今日はどうせ、法隆寺泊まり、見学は夕方だけでもいいではないか。 そう決めれば、話は早い、いや身体は早い。 10時には郡山城の桜のど真ん中に立っていた。 朝から良く晴れ、ここの桜も満開。 内堀を挟んで両側とも文字通り春を桜花している。 しかし、面白いところに行き着いた。 天守閣跡なのになにもない、桜は乏しく人はいない。 城は神社と近代の学校に乗っ取られ、ここの城跡はわずかな櫓と堀ということだろうか。 良く見ると柳沢文庫とある、立派な玄関だ。 天守閣ではないが、この建物こそこの城跡のシンボルだ。 知らなかったが柳沢家は吉保以降この城の主ではないか。 戦国時代以降、入れ替わり立ち替わりの城攻めの街、郡山は徳川家が五代将軍となりようやっと戦火も消え、 かの天下の側用人が城持ちとなり、この地に根を下ろしたのだ。 だからこそ、柳沢神社と柳沢文庫はまさにこの城の本丸、乗っ取られたなど街の人に聴こえたらお小言戴くこと間違いなし。 時間はあるんだ、立派な玄関で靴を脱ぎ、館内を見学させていただく。 展示資料を見て歩くが、ボクの関心は城下町の変遷。 城の外形は昔のままだ、その周辺を近鉄が走る。 しかし、町並みは今と昔、面影なし、全く異っている。 城とお堀と神社と文庫、これだけが昔に通低する残された道ということだろうか。 郡山バスセンターに戻ると、法隆寺行きのバスはともかく、慈光院までならすぐ来ると言う。 何年ぶりだろう慈光院、よって見よう。 この寺はかって本堂が完成したとき見学させていただいた。 友人がここの住職と親しかったからだ。
片桐石州斎が1663年、京都大徳寺から和尚を迎え建立したもの。 周辺は今や住宅地だが、郡山の街が一望出来る絶好の場所に建っている。 前回の拝観で寺や茶室の経緯、さらに、本堂普請の苦労話をいろいろ伺った。 記憶しているのは、建物の新築はすべて施主(旦那)次第とおはなし。 ここの住職は普請にあたって、木材から敷瓦、漆塗料に襖紙、 その調達はご自身で丁寧に吟味し、調達していた。 そして、選んだ職人たちと納得がゆくまで相談し、仕事を完成させている。 いまでは、考えられないことだが、これが従来からある日本人の普請方法。 まぁ、旦那仕事ということだが。 どんな建物をどのような形でどのような材料を使いどう普請するか。 それは工務店や職人、まして建築家の仕事ではなく、住まい手自分自身の仕事であったということなんだ。 素材や材料に対する関心は普請だけではない、ライフスタイルに関わるもの全てだ。 茶室や庭や精進料理の素材も、すべて自分の脚で集め、キープしておく。 その為の裏庭、資材置き場や倉庫、そこそこの家はどこもみな持っていたはず。 いい例は、何処でも良い、ちょっと古い寺や神社の縁の下を覗いてみると良い、 そこには、修理の為の古材、木材や瓦が沢山ストックされているはず。
チェックしていたおいた時間、バス停に戻ると、ようやっと法隆寺行きのバスが来た。 ここから法起寺はあっというま、家並が減り、田園に出たなと思ったら、もう着いた。 余りにあっけなかったので、三重塔を遠望するという楽しみは消化不良。 まぁ、もどればいいか。 この寺は国道脇だが周りは畑とため池。 しかし建立は606年、聖徳太子、斑鳩三塔の一つ、おおらかな塔は706年だ。 こんな案内を見ていると建築は凄いね、歴史の単位は100年、1000年。 今どきの住宅はたったの15年が平均寿命というから、現代建築はなんとも情けない。

斑鳩の道

法輪寺からの法隆寺へはクルマなら10分位か、 しかし、今日はのんびり山道をゆく。 ここからは南ではなく、東、右手の坂道を上る。 無粋なゴルフ場への道とおサラバすれば、もうクルマは通れない。 ポカポカ陽気のハイキング、連れはないが、なんとなくこころ楽しい。 ここはいたるところ、かの厩戸皇子の縁の場所だ。 山道を進めば、うぐいすばかり、人の気配が珍しいのか、 その啼きごえは歩み入るごとにますます高まる感じだ。 やがて前方は高台の畑、法隆寺はもう近いはず、 そろそろ塔の姿でも見えないかなと背伸びしながら歩き続ける。
30分も歩いたろうか、道はまた舗装路に出る、 右手は土盛りの堤、左手の小山は古墳のような木立の固まり。 2〜3mほどの堤に上がって、ようやっと見つけた、法隆寺の五重塔。 手前は天満池、木立は斑鳩神社。 正面から春の日を一杯に受け、池の水もまぶしい。 iPhoneカメラで塔の姿を、とチャレンジしたが全く絵にならない。 その場に留まり、しばらく池を前景とした日を浴びる塔を眺めることにした。 堤の上を半周すると法隆寺への降り口あった。 たぶん法隆寺からの参拝客は遠回りする登り口が待ちきれず、 早く塔を見たいと、この堤をよじ上った跡のようだ。 確かにここからは塔はもう目の前だ。 近からず、遠からず、幾重か瓦の波を超えて見れば、 あこがれの斑鳩の塔が毅然たる姿で微笑んでいるようだ。 畑と住宅の間の一本道、ほどなく、この町特有の土色の塀。 やがて右手は西院伽藍。 左手は東院(夢殿)と中宮寺。 観光客の人ごみにまじり、まずは中宮寺の如意輪観音を訪ねることにした。

法隆寺


中宮寺は法隆寺ではない。 
太子の御母、穴穂部間人皇后のお住まいを崩御の後、そのまま尼寺にしたと書かれている。 
その建築も鎌倉時代には荒廃に次ぐ荒廃。 
現在は水に囲まれた楼閣風の雅な近代建築、 尼寺の面影を宿す国宝の観音像にピッタリなお堂となっている。 
周囲は初めて触れる古代への感動だろうか、高校生たちの嬌声がかまびしい。
 靴を脱ぎ、堂内に入れば、 そこでは半跏思惟といわれる童顔で清浄な中性的微笑みが迎えてくれる。 
静寂の中に、かっては金色だろうが、今は残された漆で真っ黒な仏が、 正面からの自然光をうまく取り入れ、親しげに鎮座している。 
不思議なお顔です、微笑んでいるかと思うと悲しんでいるようにも思える。
 両隅はこれもまた国宝の天寿国曼荼羅、 しかし、大勢が堂内に入り、触れれば倒れてしまうような展示。 
多分レプリカだろうが、この曼荼羅を息も吹きかけんばかりの、 マジかで鑑賞出来るのはここだけに許される楽しみだと思う。

 
中宮寺は一番奥です、入り口がわは東院の四脚門の正面は夢殿。 
二重基壇八角円堂のこの建築は天平にあっては考えられないほど繊細な建築。 
この複雑繊細な建築を修理に修理を重ね、持ちこたえて来た工人たち意志のようなものが感じられ、 高校生たちの嬌声と雑踏の中ではあるが、しばらく立ちすくみ眺めていた。 
堂内は当然、有名な救世観音。 
しかし、今日は拝観日ではない、むなしく廻廊を巡り、段を降りる。 降りて裏の伝法堂を見学したが、ここもまた人人人、そして、疲れた。 
早めに宿に行くこととし雑踏を離れる。 
宿は老舗だが今はうらぶれている、しかし、部屋の作りは一流だ。 
二間続きの本格的設えの和室など最近泊まったことないので、やや、感激。
 顔をあらい、茶を飲み、畳の上、大の字に寝そべる。
 ひとしきりまどろむかとも思っていたが、一休みすればもう元気。 
夕食は7時にと、宿の帳場に言いおいて外に出た。

 
宿の裏手、住宅街の先の山の麓は藤ノ木古墳とある。 
そこまでの道筋、比較的上質の住宅ばかりで驚いた。 
斑鳩特有の土塀がそこここ、もちろん古い農家風の家がないわけではない。 
しかし、全体は一見、高級住宅街。 クルマがやたらに通りかかるわけではない路地風の街路、 新しくはないが古くもない家々。
 低い家並の瓦と左官の壁が遅い午後の光を反射させている。 
藤ノ木古墳は何処にでもある幼児用の公園という雰囲気。 
都会からであろうご夫人が二人、日当りの良いベンチに腰掛け、おしゃべりに夢中。 
考古学に関心のないボクができることはiPhone を取り出し、ポチポチポチ。 
山麓から家並と畑に降りる先端となるこの円墳の位置、 なるほど、大昔とはいえ、墓をつくるならこの場所が絶好と、 妙な得心を得たことを潮に法隆寺西院伽藍に向かうこととした。

山裾の道をそのまま東に戻ると、法隆寺の西大門。 
しかし、まだ境内に踏み込むのは時間が早い、左に折れ築地塀に沿い上り勾配の道を歩く。 
予測通り、ちょうど良い場所に出て来た。
右手には塀沿いにお目当ての五重塔だ。
 iPhone片手に、上り道を歩きポチ、歩きポチ。 
こういう時はさすがにデジタルは便利。 
枚数は関係ない、ただただ歩きポチポチポチ。 
一頻り登った後、また引き返し、今度はようやっと門をくぐり西円堂へ。 
ここの石段を上るともう五重塔は目の前だ。 
しかし、まだ時間は早い。 
伽藍の見学は5時まで可能、見学者がある限り中門をくぐるのは後回しにしようと考えていた。
 今は、ゆっくり外から眺めるだけ。 

確かに、この寺は古い。 
そして、作りは簡素、部材は大きい。 春の西日は何処までも優しく、決してこの建築だけを強調しない。 
しかし、周辺の木立に負けず、整然と立ち尽くす塔の姿、 それはまさに静かなる人間の力そのままを表している。
 何を見るわけではない、のんびりとこの聖域に佇んでいたいだけの旅。 
今は、ただひたすら、伽藍の外側から塔を眺めている。 
そして、気がついた。 iPhone のポチポチをしばらく忘れていたと。
 
中門の西側の回廊入口が西院伽藍の見学入り口。 
チケット買い、中に入るともう見学者はほとんどいない。 
閉館近く、手持ち無沙汰の管理のおじさんたちは、 写真を撮るならあそこがいい、ここがいいと教えてくれる。 
そろそろ、金堂は扉を閉めるから先にここから見学してくれ。 
まぁ、親切なのか、おせっかいなのか、一日の仕事を無事に終え、 管理の責任を果たした安堵感だろう、 やけに馴れ馴れしいのは何となく解るような気がする。 
こんな時間の入場、先方から見れば、特殊な見学者と思えるかもしれないが、 写真を撮ると言ったて、所詮、ボクの手にあるのはiPhoneのみ。 
とっておきの芸術写真が欲しいわけではなく、 ただ朴ねんと歩き回り、古代の時間を感じたいだけなのだ。
5時を回り、おじさんたちにさよならを言う。 
いや何のことはない、追い出されたのだ。 
夕食にはまだ時間があるので、来る時に写真を撮った天満池にもう一度行ってみる。 
この時間、まだ日は暮れない、 右手には木の間隠れに五重塔、左手は何処にでもある畑と家と諸々。 
何の変わり映えしない日常の風景、しかし、ここは太子と共にあった歴史ある場所。 
爽やかな春の風と柔らかな夕方の光を感じ、 呆然と時間をやり過ごし、漠然と空にある白い雲を眺めていた。

2010年4月7日水曜日

不退寺・法華寺


奈良二日目は気温が下がり小雨が降る旅先としては最悪の一日。 薄手だが風よけとなるコートを着込み8時過ぎにホテルを出る。 JR奈良駅から乗ったバスの行き先は不退寺、初めて拝観する。 一条通りのバス停に一人降り、朝の奈良に向かう通勤ラッシュのクルマを歩道橋で交わし住宅街に入ると、そこは突然古寺の参道。 開門前の門前は冷たい雨、境内にも人影は見えずレンギョウや椿が咲き乱れ、 たわわにに咲く大きな桜の木が春爛漫を謳歌している。 この寺は在原業平が開基したとある。 寄せ棟の小さなお堂には木造の聖観音菩薩立像と五大明王像。 鎌倉時代の明王と聞けば激しい忿怒をイメージするが、ここの仏は顔かたち仕草ともおとなしい。 再び一条通りに戻り国道バイパスを渡るとほどなくまた古びた寺の山門に着く。 光明皇后の総国分尼寺と位置づけられる法華寺だ。 現在の寺域はもともと皇后宮地の一端にすぎず、名前のみをここに持ち込み、 光明皇后崩後一周忌の阿弥陀浄土院がこの寺の本来の姿のようだ。 しかし、その後の戦火で衰退したとは言え秀頼と淀殿の寄進で再建され、 現在は華道の方々の精神的よりどころとなっている所。
境内に入ると、ちょうどその日、関係者の大きな法要があるそうで、 寒空とあいにくの雨の中、本当に法要なの、と疑ってしまうほど、 あでやかな沢山の和服姿が咲き誇る花に負けじと華やいでいた。 そんな寺であるから、ここの見せ場はなんと言っても名勝庭園。 ボク自身の拝観の目的は秘仏とされ、今日までが特別拝観と教えられた十一面観音像だが、 その色彩豊かな仏もさることながら、小さいながらの桃山時代の庭園には圧倒された。 大げさな書き込みとなったが、昨年の秋の京都では期待していた庭園、どこも手入れが悪く、 そのみすぼらしさに驚かされていたから。 雨の中、しきりに落ち葉を集める庭師に、その手入れの良さを褒めたくて声をかけると。 「京都の庭には、落葉樹は植えられておりませんので、こんなに汚れることはないのですが、奈良の庭はどこも大変ですわ」とのお答え。 このおじさん、地を這う杉苔を傷つけないように、毎日毎日丁寧に庭を掃き続けていたのだ。 したがって、格別の昨夏の苔の傷みに対し、人知れず心を痛め、春になり慈しみ続けてきた成果に彼はいたく満足げであった。

海竜王寺


海竜王寺は法華寺とほぼ隣り合っている。 どちらも光明皇后の父、藤原不比等の邸宅跡地だ。 全用地の東北の隅にあったことから隅寺の名がつけられている。 その記録は天平8年(731年)の正倉院文書にもあり、かの玄ぼうが初代住持であったようだ。 かの、といったのは先週、たまたまNHKのテレビドラマ「大仏開眼」でその名を知っただけの話。特別の意味は無い。 拝観の目的はここでは小さな五重等、それも地にあるのではなくお堂の中だ。 長らく奈良国立博物館に寄贈されていたが、ようやっと本来の場所、海竜王寺の西金堂に戻されたので、今日は特別、もともと作られたお堂にたって、はじめて見ることが可能となった。 有名な薬師寺の三重塔に類似した8世紀前半頃の塔と言われれば、日本の木造建築に関心があれば一度は見てみたいと思うではないか、それも本来の場所。 建築にとって作られた場所は、作られたデザイン以上に、多くのことを語ることがあるからだ。
実は、今回の奈良でボクが追って見たいと思っているのは塔なのだ。 与えられた時間内、きままなひとり旅、思う存分、天平・平安・室町の塔を追っかけてみたいと思っている。 最初の一つは工事中であったが、昨日の浄瑠璃寺、そして岩船寺の三重塔だ。 ともに平安の浄土の庭園に建つ珠玉の三重塔として絶対に見逃させないもの。 そして今日は不退寺の多宝塔とここの厨子の中の五重塔、さらに西ノ京へと天気は悪いが寒空の中、塔を見るため歩き回った。 塔のデザインで重要なことは、四隅では45度の角度で突出する組み物とその両隣の組み物との関係にある。 薬師寺の三重塔以前の塔では突出した45度の組み物は単独であり、それ以降は隣の組み物と隅の組み物は肘木で連結される。 この海竜王寺の五重塔は薬師寺と同じ形態、異なるのはこの小塔の軒桁は円形断面であり、薬師寺は角形だ。 ここからは専門的研究者無視のボクの個人的見解。 木材の調達においては天平、白鳳は後世に比べ大径材が入手可能であった、一方、鑿や鋸や台鉋という繊細な工具の発達は中国で言えば明朝以降。 したがって、薬師寺以降の塔は部材が小さくなり、その分、組み物の加工デザインが繊細になる。 ここで言いたいことは、天平の塔が軒が深く大胆なデザインであることは大径部材の自由度が可能にした表現、後世の繊細さに対し、素朴・未熟・繊細さにかけるという批評はあたらない。 先を急げば、塔を見るなら天平が良い。 そこには技術と素材と精神が三つどもえになった大らかな建築的世界が広がっている。 海竜王寺五重小塔では軒桁断面が円形であるというところがなんとも興味深い。 こんなお堂に納められた小塔とはいえ、当時の建築家たちが、何を考えどうしようとしたのか、その生き様がみえるではないか。 それを確認するだけでも、今回この寺を訪れる価値はボクには充分にあったのだ。

平城宮旧阯


昼近くなって雨脚は小さくなったが、相変わらず、風が強い、そして寒い。 歩けば暖かくなる、とにかく、歩くしかない。 バスを待つのも寒いので風の中、平城京旧阯に向かう。 海竜王寺のある法華寺町の東の隅から一直線の真西に歩くと、 ほどなく視界が開け、遠くに朱塗りの大極殿が見えてくる。 さすが、広い、冷たい風が右から左、北から南へ、人影はまばらだ。 到着した遺構展示館で一休みと思ったが、オープンは24日だそうだ。 しかたなく、再び外に出た。
さぁ、どっちに行こう。 朱塗りの大極殿がある西か、東院庭園がある南か。 結論はやはり先週「大仏開眼」で見た阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇) いや石原さとみ縁の東院庭園へ。 南に下る水溝に沿い、風で桜が舞うが人いない、ただ広いだけの旧阯を歩く。 そして、ふっと考えた。 やはり、ボクは考古学には縁がない。 歴史については人並みの知識はあるつもりだが、 さらに、万葉集に関してもそこそこの関心は持っているはずだが、 この歴史的空間にあって、只只寒いとしか感じないとはなんたることか。 この荒野で途中、溝の中の水を掻い出し、懸命に遺物を探す作業の集団に出会ったが、 一足も立ち止まることなく、東院庭園の入り口となる建物の中に入った。 出来たばかりの展示館には旧阯の写真と説明パネルと模型。 ボクの大なる関心はただ一つ、当時の建築、その掘ったて柱の地業実物大模型。 直径50センチメートルほどの柱の地中部分だが、 真下には周長を一周り大きくした径の一枚岩。 周辺は30センチぐらいの玉石が一杯に敷き詰められている。 柱の下方に、浮き上がりによるカイサキを防ぐ長さで丸太を突き通し、 1本の柱の鉛直荷重を3方に分散して支持している。 さすが、立派だ、半端じゃない。 塔でも触れたが、古代の技術は決して未熟ではない、周到だ。 さて、次はどこへ、南か、北に戻るか。 ここまで来たのだから、今日はもう大極殿はあきらめよう。 その先の西大寺から秋篠寺も今日の予定コースではあるが、 伝技芸天立像は幸い一昨年前の飛鳥の帰り、 一目お目にかかったのでパスすることにし、南に向かった。 南の大門、朱雀門は立派な門だ。 ここに立つと、まさに旧阯の全貌を手にした気分。 寒さも忘れ、平城京を治める貴族にでもなった積もりで天地を眺めた。 いい気分になっていると、親切なおじさんが近寄って来た。 淡いグリーンジャンパーを羽織った、旧阯を説明するボランティの方だ。 「いい所ですね。まだ、何もない平城京を見るのは、作る楽しみがあって、 当時の貴族と同じですよ」って冗談をいうと、 「いや、このままじゃお客さんが来てくれない。 お役所仕事でいつになるか解らないが、出来上がるのは 、私が死んだずっとずっと先であることは間違いない」 なかなか、面白い方、いろいろお話を伺ったが、 腹も減ったので近場の旨い食堂を教えてもらい、 門脇の工事現場にある出来立ての事物大遣唐使船を覗かせてもらい、 さよならをした。

唐招提寺

二条通まで下り、ロードサイドでボランティアのおじさんに教えてもらった、 餃子付き肉そばを注文する。 いやぁ、さすがだ、広い店内は一杯。 それも、通りかかりのドライバーはもちろん、 ご近所の老夫婦、それと、学齢前の子どもたちとそのお母さん集団。 黒いTシャツの若い店員がきびきび働く、その光景は間違いなく、 何処にでもあるファミレス・ラーメン店。 しかし、奈良から大阪に抜ける主要幹線道路とは言え、新旧入り交じった住宅地のど真ん中。 その客層のバラエティはさすが1000年の街、奈良だけの光景かもしれない。 二条通から住宅街を三条に降りる。 条間の距離は京都に比べれば半分ほどだろうか。 さらに尼ケ辻から古びた国道を進むと程なく唐招提寺右の道路看板。 天気もよくなり、奈良観光では外せない名所寺院の一つ。 秋篠川を渡ると、門前は観光バスのラッシュだった。 しかし、幸い、集団客は一気に引き上げる雰囲気、 ここはのんびりやり過ごそうと、門前の茶店に入る。
赤い毛氈を敷いた小さな式台と4人テーブルが一つ。 客はいないが、店番のおばあさんがTVを見ている。 毛氈に坐りわらび餅を注文すると、 おばあさんは、TVの内容が気になるらしいが、腰を上げ藍染めの暖簾の中に入って行った。 どうやら、このおばあさんだけが一人で賄っている店。 店番ではない、店のオーナー店長ということだ。 この季節のわらび餅だが、関西らしい、不規則だがもちもちの蕨の固まりに、 これでもかっと、おもうほど目一杯にきな粉がかかっている。 けっして、甘すぎず、口に入れると柔らかいが多少の歯ごたえ、 かすかな土臭い香りが広がってくる。 「この周辺もずいぶん家が建ちましたねぇ」 見ていたTVが若い人の歌番組に変わり、おばあさん手持ち無沙汰のようなので、声を掛けた。 「昔は田圃ばかりで、日照り続きの時は大変でしたよ。 でもここは秋篠川が整備され心配が無くなりましたなぁ。 秋篠川は郡山で佐保川と一緒になり、大和川に流れ込む私たちには大事な川。 しかし、整備された途端、今度は一気に田圃が無くなり、住宅ばかりなりましたなぁ。」 のんびり茶をすするボクに対し、急ぎ客ではないと知り、おばあさんは、いろいろ話してくれる。 「最初は、近鉄が通る線路むこうは全部田圃でした。 最初はなんとかいう小さな大阪の不動産屋さんがが土地を買ったんですわ。 気がつくと、小さな家がぎっしり。 そうしたら、今度は出来たばかりの用水から田圃に水が回らなくなり、 住宅の下水がどうのこうで難儀ばかりでしたな。 今じゃもうご覧の通り、この辺は住宅ばかりですよ。」
店を出て山門を覗くと、見学者がまばらになっていた。 雨も風も治まり、いつもの長閑な大和の古寺見物だ。 正面は整然とした金堂の佇み。 著名な文学者ではなくとも、両側の植え込みのパースペクティブに強調された、 大らかな屋根とそれを支える列柱のバランスには感嘆する。 これが古代8世紀、天平人のセンスなんですね。 この寺の特徴は立派な鮪を戴く屋根やふっくらとした大きな柱のゆったりとした柱間隔だけではなく、 その間の田の字形の白い小壁にある。 2段組み斗キョウを額縁とするこの小壁と屋根と柱、 この三つどもえのバランスがこの金堂の独特の風格を源となっている。 今回の奈良紀行でこの寺が外せないのは理由がある。 平安・鎌倉・江戸・明治と過去4回の大修理はともかくとして、 1995年の阪神大震災を経験して以来の、 2000年から10年間かかっての大修理がつい先日終わったばかりだからだ。 完成した金堂は大瓦が新しすぎ、ややウスペラな感じは免れないが、 これでまた100年、200年、周辺の田圃が住宅に変わったように、 住宅が無味乾燥なコンクリートのビル群に変わったとしても、 どこまでもこのバランスと風格を保ち続けるだろう。 もちろん、この寺の目玉は金堂だけではない。 金堂の後ろの講堂は平城京にあった東朝集殿を改装移築したもの。 柔らかな入母屋屋根の佇まいは、一目でこれは寺ではなく、宮廷だと気がつかせてくれる。 かの鑑真和上の像を拝観するのは御影堂。 ここには東山魁夷のふすま絵があるのだが、今日は残念、公開日ではない。 東京の博物館での記憶を頼りに、外からの一礼のみで引き上げた。
この寺の紹介はこのブログのテーマではない。 さらに関心ある人は次のリンクを。http://www.toshodaiji.jp/ ボクの関心は塔ということは再三書いた。 しかし、ここには立派な木造の塔はない。 代わりにと言ってはなんだが、木立に囲まれた境内の一画に面白い塔がある。 戒壇とその最上段の宝塔だ。 仏教教典や受戒の仕組みの知識は一切ないが、江戸時代に作られた、その造型には興味がそそられる。 簡素で粛然とした方形の石敷の床、その中央は三段の石組みの戒壇、そして白い球形の宝冠が毅然と載る。 この空間、雰囲気はなんだろう。 インドでもない、中国でもない、天平でも、日本でもない、つまり日常知る世界ではないのだ。 人間の理念だけの風景はかくも冷たく硬質。 雨に濡れ、晴れた光で見るこの宝塔、ボクに何を伝えようとしているのだろうか。

薬師寺


唐招提寺の次は当然、薬師寺だ。 例によって秋篠川と近鉄の中間に伸びる一本道を南に向かう。 路地の両側、最近だろう、茶店やみやげもの店が軒を連ねている。 曇り空だが、目の前はもう薬師寺の塔。 なんとも優美、リズミカルな六つの屋根の重なりはいつ見ても心を踊らせる。 しかし、薬師寺の楽しみは今日はここまで。 雨風に叩かれた一日とはいえ、今は絶好の観光シーズン。 周辺の駐車場は何処も満員。 タクシーやドライブで見学する客も大勢だが、大型バスから次々とはきだされる修学旅行生と老若男女のツアー客。 とても、のんびり見学出来る様子ではない。 とわいえ、ここまで来て、ただただ帰るというのでは格好良すぎる 大前はたいて、白鳳伽藍や東院堂、宝物殿、玄奘院伽藍のセット券を買い、南門ではなく、北の興楽門から入場した。 まずは塔が見たかった。 急ぎ足、集団がいなくなるのを幸いに東西の塔を眺める。 やはり、文句無し、新築の金堂ともども西塔の朱の輝きは曇り空でも圧巻だ。 こうなると見慣れた国宝の東塔や東院堂がやや寂しげに感じられる。 しかし、次の集団が押し掛ける前、眺めていて、ふと考えた。 この塔はもちろん最高の塔だが、でも、何故か、遠くから眺めることの方につよく惹かれる。 そうか、塔は遠くから見るべき建築かもしれない。 近くから見るのは木組み、ディテールの面白さ。 今日のような春の昼下がりは、やはり、田園の遥か遠くから臨む塔の姿が、本来のデザインであったかもしれない。 そうと気がつくと、もう写真はいらない。 東院堂の聖観音立像は今日はレプリカだ。 ホンモノは昨日、博物館で閉館時間で追い出されるまで眺めて来たのだから。 それと金堂の薬師如来と二つの名菩薩。 その国宝としての価値の保存に入念なのは当然かもしれない。 しかし、本来の丸柱に防火シャッターの額縁をむき出しに取り付ける無神経さには言葉がない。 日本人は何故、見える見せ方、その空間全体への配慮を怠るのだろう。 これでは国宝の仏様がかわいそう。 そう、ここは博物館というニュートラルな空間ではない。 長きにわたり、多くの人々が大事にして来た仏であり仏の場、一期一会の建築空間ではなかったのか。 b0055976_125041100.jpg

アルカディア・寧楽


西ノ京の駅に着くと幸い、計ったように京都行きが到着した。 とんとんと西大寺で乗り換え、近鉄奈良に戻り、春日大社へバスで急ぐ。 もうすっかり晴れている。 さすがにの大社、参道も木立もみんな大きい、そしてガラガラだ。 やや急ぎ足で参拝すると、案内書に書かれている、ささやきの小径を歩くことにした。 いや、ささやくわけではない、近道だ。 この道はかっての大社の社守たちが通った社家の街高畑へ通じる林の中の道。 木立が一杯に茂り、やや薄暗く、時たま人慣れしない鹿にも出くわすこの道は、 ささやくどころか、人知らぬ山道のような趣だが、あっという間に高畑の街、そして新薬師寺に到着する。 いそぎ新薬師寺を訪ねようと思ったのは、明日は早々に斑鳩に向かおうと思ったからだ。 この寺の目的は誰もが知る十二神将像。 薬師如来を守護する12の塑像、一大国宝だ。 この像、なかなか東京へはやってこない。 街はずれの小さな寺でしか会えないことが解っているからこそ、 奈良に来た時は毎回、必ず立ち寄ることになる。 そして、今回はなんと言ってもフリーパスを持っての旅。 タクシーでは勿体ないが、ささやきの道を急いでこそ価値があるのだ。
境内には晴れたとはいえ寒い中、何故か、竹を割るおじさん二人。 そして、幼げな山桜と花桃だろう、本堂の両脇、たわわに花を咲かせている。 おじさんたちの作業は程なく解明した。 明日はこの寺の修二会なのだ。 作業の手を休めてくれたのでお話を伺うと、 本堂の前で二月堂と同じように竹の束の火の粉を境内一杯に振りまくと言う。 舞台もないし、小さな境内、見学者は目のあたりに火の粉に襲われ、大変迫力だとおっしゃる。 しかし、今回の予定は、明日は斑鳩泊まり。 ボクの奈良はいつも3月半ば、何回となく二月堂の火祭りは体験しているので興味深いが、残念、一日違いの日程では後の祭りだ(いや前の祭)。 一瞬、変更しようかとも思ったが、今回は塔を見る旅、室生や長谷にもよって見たいので、あきらめた。 本堂に戻ろう、低い基壇に載る入母屋のこの建築は、もとは大伽藍の一画の食堂と言われている。 光明皇后が聖武天皇の病気快癒を願い建てられたと言うこの寺は最近、 お隣の奈良教育大学の構内から発掘された大伽藍の様相をもつ石組みその全容のようだ。 解明は容易でないが、天平に建てられた生き残りのようなこの小さなお堂は、 長きにわたり薬師如来と十二神将を守り続けて来たことだけは確かなのだ。
堂内に入ると面白いもに出くわした、丁度、バサラ大将の脇だから堂内の南東の隅、 20インチぐらいのモニターに新薬師寺の案内映像が放映されている。 イスに腰掛け眺め始めると、タイトルバックの名前の羅列に、なんと友人の名があるではないか。 ややぁ、と思って良く見ると、十二神将のカラーシミュレーション映像、それも大変珍しいすぐれもの。 かっての神将の全像をシミュレーションした映像と目の前にある実物を見比べて検討出来る仕掛けとなっていたのだ。 これぞ、AR の極地、ただただ驚き、堂内に他に見学者がないことを幸いに、映像と画像を見比べ、 時間を1000年前に引き戻し、引き戻るという、今までにない楽しい時間を費やした。 友人の仕事は地図情報や建築情報をコンピューターに克明にインプットし、あらゆる場面にも再現出来る、 日本一のシュミレーション・プレゼンテーション技術者集団のひとり。 ひところ、東京からよく消え、京都の立命館大学に行っている、とは聞いていたが、 彼は新薬師寺でこんな仕事もしていたのだ。 早速、堂内からiPhone でメールを入れる。 返事もリアルタイム。 「新薬師寺ですか、いいですね。十二神将の映像を作ったのはずいぶん前になりますが、 まだ堂内で上映しているようで、うれしく思います。」 土塀の坂道を降りると、志賀直哉旧邸。 ちょっと疲れたので、休ませてもらうつもりで入館した。 もう何回も訪れている住宅だ。 2階の座敷に上がり、床を背に文人になったつもりで坐らせてもらう。 静かな場所、彼はこんな部屋で想を練ったんだ。 建物全体は、今では少なくなった、かっての中産階級の住宅だ。 きをてらうものはどこにもない、当たり前の者が当たり前に設えられ、 それでいて、誰のうちでもない、彼だけの住まい。 すべてが慎ましやかに整えられ、今でも文人が階段を上がってきそうな趣。 もうこんな当たり前の住宅はほとんどなくなってしまった。 どこにいってしまったんだろうか? 高畑の住宅街を降りると、程なく奈良公園。 この街をこんな時間、ひとり散歩していると、こんな空想が広がってくる。 新緑の公園では鹿が草をはみ、周辺の木々は色とりどりの花を咲かせている。 青空には屹立する、古色に輝く五重塔。 「そう、やはり寧楽はアルカディアなんだ!」 アルカディアはイタリアの象徴、黄金郷です。 緑に満たされた草原は色とりどりの花を咲かせる木々に囲まれる。 青空のもと、人の声は天にこだまし、草原では牧人たちが動物と戯れている。 アルカディアの本来はギリシャ神話、パルナソス山麓と言うことだろうが、 この言葉がイメージさせるものはイタリア・トスカーナ、春のフィレンツェ、 そして今、ボクが歩く寧楽なのだ。

2010年4月6日火曜日

岩船寺


岩船寺は浄瑠璃寺からバスで10分足らず、初めて訪れた。
 バス路線の周辺は鎌倉時代からの石仏・石塔が沢山つくられた所。 
京都・奈良からほどよく離れた場所であることから、多くの修行僧が移り住む格好な場所であったようだ。 
岩船寺は729年聖武天皇の発願により行基が建立したと言うから歴史は浄瑠璃寺より古い。 
しかし、承久の変(1221年)の兵火で建物は焼失、室町時代に三重塔(1442年)等が再建されている。
浄瑠璃寺と同様、寺域は小さい。 
小さな池を囲む土佐水木や三つ又等の豊かな花々、そして朱に塗られた三重塔。 
本堂には3メートル近い大きな阿弥陀様座像。
 おおらかでふっくらした平安初期の木像はここもまた来世の浄福を体現する桃源郷ですよと伝えてくれる。

大遣唐使展


岩船寺からバスで再び浄瑠璃寺へ、そして近鉄奈良駅へ戻る。 
今回はフリー切符を持っての旅なので近鉄、奈良交通は全部フリー。 
さらに、こんな遠隔地だが季節がばっちり、 いままでは行きも帰りもタクシー以外は考えられなかった浄瑠璃寺拝観も、 今日はバス・スケジュールも頻繁、待たされることなくあっという間に奈良公園に到着した。 b0055976_2042733.jpg
ホテルに立ち寄ることもなく、そのまま国立博物館の「大遣唐使展」を見学する。 
この展覧会の目玉は薬師寺東院堂の聖観音菩薩立像とアメリカ・ペンシルバニア大学博物館が持つ観音菩薩立像のそろい踏み。 
エントランスの正面はなんとこの二体が堂々と、 ガラス囲いや防御の柵もなく、観客を出迎えてている。 
一瞬、その呆気無さに息を飲む。
 いいの、むき出しで大丈夫! 薬師寺の聖観音立像は中学生以上の誰もが知る、日本の最も美しい観音様。 
人気がある分、東京にも度々出張されるが、 しかし、こんな身近で拝観出来ることはほとんどない。
今日は東院堂以上に身近で、さらに遠いペンシルバニアから来訪の貴重な観音様とともにお目にかかれる絶好の機会というわけだ。 
この二体を並び立たせる意味は素人ながら理解出来る。 
素材は異なるが日本と中国、同時代につくられた同寸法の全く良く似た観音立像。 
この二体を奈良で邂ごうさせることこそ、まさに1300年前の遣唐使そのものの再現なのだ。 
しかし、時間をかけじっくりと二つの観音様を眺めていて、気になった。
 やはり、違う、いや、まったく違う。 
寸法はともかく、お顔も身につけているもののデザインも。 
どう見ても親しんだ聖観音立像は日本のデザイン。 
白鳳か天平かは専門家の関心だが、ペンシルバニアつまり中国の観音立像は間違いなく薬師寺の聖観音とは異なるメッセージを持っている。 
まぁ、どうでも良いことなのだが、奈良に来て遣唐使を実感するまたとない機会。 
長い長い時間、観客が消え閉館と言われてもまだ踏みとどまり二体の邂ゴウにお付き合いさせていただいた。
閉館の会場を後にし奈良公園を散歩する。 
そして、夕方になれば誰もが行く、二月堂の舞台に立った。
 ここで見る夕景は間違いなく日本の空、と言うことだろう。

2010年4月5日月曜日

奈良紀行は浄瑠璃寺から


久しぶり春の奈良を歩きたいと思い、1人で出かけることにした。
 まずは浄瑠璃寺。 
東京を8時前に経ち、近鉄奈良駅から路線バスで30分。 
なんともスムーズ、昼前には浄瑠璃寺門前に着いた。 
ここを訪れるのは三度目、前回からはウン10年も経過している。 
最初の訪問で秘仏の吉祥天にお目にかかり、その色彩豊かな、 ふくよかで親しみやすい仏の姿に魅せられた。

 毎回、奈良を訪れると、寄ってみたいとおもいつつ時間がない。 二回目は大枚はたき、タクシーで出かけたが、残念、秘仏は厨子の中。 小さな華奢な扉は硬く閉じられていた。 そして今回はフリーの旅。 
公開日に合わせ、わざわざ出かけたのだから間違いない。 
それほど拝観したい、と思っているのには理由がある。 
ライフスタイルのリストラだ。 
いいものだけを持つ、見る、聴くに心がけ、 余計なことには煩わされない、買わない、追っかけない。
 そんな生き方を心がけたいと思ったから。 
浄瑠璃寺は九体寺とも言われ、9体の阿弥陀仏が鎮座する浄土体現の寺。 
平安末期建立のこの寺は寺域周辺を含めヨーロッパで言えばまさに桃源郷のような趣。 
静寂な池に小さなお堂を写し、仰ぎ見れば金色の三重塔。 
訪れたこの日、残念ながら、この塔は工事中。 
しかし、写真を撮るために来たのではない。 いい時間、いい空間が目的だ。