2010年3月24日水曜日

シェーンベルクの音楽と近代建築

「ひとつの基本的な音、すなわち根音が和音の構成を支配し、その連続を制御するという考え方は、拡大された調性の概念へと発展した。すぐに疑問視されるようになったのは、そのような根音が、すべての和声の中心として、依然として維持されうるのかどうかということであった。さらに疑いを持たれるのは、冒頭や終始、あるいはそのほかのどんな 場所に現れるにせよ、主音は構成的意味を持っているのかということであった。」

音楽を生み出す以前から存在している根音や主音に疑問を持ったシェーンベルクは音楽の構成における全く新たな方法を打ち立てた、十二音音楽です。
「互いにのみ関係づけられた十二の音による作曲方法」。

第一次世界大戦勃発までのシェーンベルクは調性和声のシステムに依存することなく、いかにして自律的な音楽構造を達成するかの模索している。
そして1920年から23年、「ピアノのための組曲」など小規模ではあるが十二音技法による重要な作曲された。
しかし、調性を亡くした十二音音楽だが、その後はテクストの内容や感情に依存する、表現主義的傾向を示したことは良く知られている。
シェーンベルクは結局、音楽の外の世界の秩序を、なんらかの形で音楽の内部に取り込むことなしに、音楽を作る方法は見つからなかったのかもしれない。



同時代の建築はどうだろうか。
自律的建築の模索は同じウィーンのアドルス・ロースによってなされている。
彼はシェーンベルグとは大変親しい間柄にあった。
「装飾と犯罪」という彼の著作は有名だが、音楽との関連では「ラウムプラン」(三次元の空間中に各部屋空間を切り取っていく方法)がシューエンベルグの十二音音楽の方法に照合する。

ロースは建築を建築空間だけで作ろうとした最初の人。
建築以外の世界の秩序を使って建築を作ること拒否した人であると言える。
その後、彼の建築を引き継ぐ建築家は沢山登場する。
コルビジェがその筆頭です。

表現主義に陥ったシェーンベルグはその後、古典主義的な方法、伝統的な音楽形式を用いるようになり十二音技法による音楽の制作は全く停滞してしまう。
一方、建築はその後ますます自律の道、外部からの指示(物語・世界観・象徴・記念性)には一切頼ることなく、建築の内部にのみ秩序を与えると称する、機能主義、合理主義に向かったのはすでに良く知られていることだ。


図版1−>ロース設計、ルーファー邸:アドルフ・ロース、鹿島出版会より
図版2−>コルビジェ設計、サヴォア邸:ル・コルビジェの建築、鹿島出版会より

2010年3月23日火曜日

花の聖母大聖堂のブルネレスキとデュファイ

(建築家ブルネレスキ)
フィレンツェは紀元前一世紀、カエサルによって建設された古代ローマの植民都市です。
その位置はローマと北イタリアさらに西のガリア(フランス)を結ぶ交通の要衝となっています。
ローマの滅亡により一度は荒廃したこの都市も、十二世紀になると、新興商人階級の台頭により繁栄がはじまります。
アルテと呼ばれる商工業の同業組合による都市経営がその発展の基盤であり、君主や僭主に頼ることなく、市民みずからがこの都市を確立し、自由都市として発展させました。

十三世紀にはフィレンツェから、毛織物、絹織物業による生産品がヨーロッパ全土に輸出されます。
さらにこの都市の銀行家たち、先行していたロンバルデイアやユダヤの商人を上回る活躍により、フィレンツェの経済は大きな繁栄に包まれます。
ルネサンスは、この歴史と繁栄が基盤です。
都市を反映させた自身が、神や君主に頼ることのない、あらゆるものに対する創造精神によって、市民自らが生み出す大きな文化活動となって花開いていきます。

花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)はフィレンツェのほぼ中央に位置し、都市の象徴であると同時に、焦点です。
赤茶瓦が一面に敷きつめられた町並みに一際高く、花のごとく咲ほこるこの大聖堂のクーポラ(円蓋屋根)、その威容はローマのパンテオンを凌駕し、文字通り花のルネサンス都市のシンボルとなっています。
花の聖母大聖堂は1296年に建設が開始されました。
大聖堂はその後の都市の発展に併せ、徐々に工事が進められ、十五世紀のはじめ、いよいよ大クーポラの建設に取りかかることになりました。
古代ローマを凌駕しようという巨大屋根の建設はフィレンツェの威信、十三世紀以来の自由都市市民の全ての期待が懸けられていて、失敗を許されない大工事です。
その為、工事をまかなう大聖堂造営局と工事の取りまとめを担う、羊毛組合の役員たちは不安と周到な建設の協議に明け暮れる日々を重ねていました。

十六世紀半ば、ジョルジョ・ヴァザーリは「ルネサンス彫刻家建築家列伝」の中で、この大クーポラを完成させたフィリッポ・ブルネレスキの章の冒頭、次のように書いています。
「生来の容姿風貌は貧弱でも、偉大さに溢れた精神と、並はずれた気迫を持つが故に、ほとんど不可能と思えるような困難なことがらであっても、いったん着手したからには、見る人を驚嘆させるように完成せねば生涯安んじえないような人々が少なからず存在する」。
1418年、公証人の息子、金銀細工師のブルネレスキに、大聖堂造営局は大クーポラの建設を任せ、フィレンツェの全ての期待と威信を賭けることになりました。
列伝は続きます。
「彼はジョットに劣らず容姿は貧弱であったが、その天賦の才は抜きん出ており、彼こそすでに幾百年ものあいだ正道をはずれていた建築に、新しい形を与えるために天から遣わされたされた人物であったといえるだろう。建築において当時の人々は、様式を欠き、誤った方法と貧相な構成、異様きわまる着想、優美さからほど遠い外観、劣悪な装飾からな建物を建てては、多くの財を無益に浪費していた。」

たびたびローマを訪れ、パンテオン(図版)を研究したブルネレスキは、直径40mに及ぶ大屋根には足場を掛けることなく、二重構造を持つリブ付きの八枚の尖塔状パネルを掛け渡すことを提案しています。
この方法は古代ローマのパンテオンに学んだものです。
40mを掛け渡しても決して崩れることのない強度を持った屋根と天井、その各々を一枚の板で構成することはとても重さが耐えきれず不可能なこと。そこには厚みを確保し重さを減らす為のアイディアが必要、ブルネレスキは屋根と天井の間にリブを入れた二重構造のパネルを組み合わせることを提案したのです。
何度かの模型制作で、不安に明け暮れる羊毛組合や造営局を説得し、ようやっと着工の許しを得たブルネレスキですが、もう一つの難題が待ち受けていました。
ブルネレスキは新しいアイディアに理解を示さず、旧来の方法のみを主張する、旧態化した工匠たちです。
彼は毎日、工事を進める親方たちとのやりとりに明け暮れざるを得ませんでした。
ブルネレスキの大クーポラでの戦いは、袈構の仕掛けの考案以上に旧来の親方たちが持つ中世的職人気質とその習慣にあったと言えるようです。
親方たちの軋轢から何度か工事を中断しなければならない日々もあったと記録されています。
しかし、1436年8月、大クーポラの着工からちょうど20年、ブルネレスキは最頂部ランタン(頂塔)の設置のみを残し、ついにその偉業を達成しました。

パンテオンを凌駕する大クーポラの完成は新時代の幕開けそのものです。
ブルネレスキは赤煉瓦屋根に覆われた中世都市フィレンツェの上に大輪の花を咲かせることによって、誰疑うこともない都市と時代のシンボルを完成させました。
この大輪の開花は技術上の成功ばかりでなく、前代までの建築との決別の宣言、新しい建築の時代の到来を示すものであったといえます。
何故なら、この時から、建築はもはや一過性的な職人的技術ではなく、一貫性を持った建築理論であることが重要視されるようになったからです。
建築デザインとは、様々な工夫や概念を統御することであり、旧来の経験の寄せ集め、という生産技術に支配される職人仕事ではない、ということをブルネレスキは身を持って示したからにほかなりません。
このことは職人とは異なる一人の「建築家」の誕生を意味します。
ヴァザーリーの列伝に名を連ねるまでもなく、彼は個人の持つ叡知によって偉業を成し遂げた最初の建築家です。
ブルネレスキは技術とデザインのみならず、建築そのものを変格した人でもあったのです。
そして新しい建築の時代はこの日、この「建築家」を起点として新たな道を歩み始めまることになったのです。

(ギョーム・デュファイの音楽)
大クーポラの完成の五カ月も前、待ち切れぬフィレンツェ市民は1436年3月25日に花の聖母大聖堂の献堂式(落成式)を行います。
その式典の執行は教皇エウゲニウス四世。反教皇的勢力との確執によってローマを離れていた教皇は、丁度この時、フィレンツェを訪れていました。
エウゲニウス四世の遠征には当然、教皇庁聖歌隊も従っています。
フランドルの音楽家ギョーム・デュファイはその時の筆頭歌手です。
後に、ルネサンス最大の音楽家といわれるデュファイですが、三十代半ばの彼はこの献堂式のために、祝典モテトゥス「新たに薔薇の花は=Nuperーrosarumーflores」を作曲しました。
式典に参列した人文学者マネッティは、鮮やかな衣服をまとったトランペット、ヴィオールなどの楽器の奏者や聖歌隊のことをつぎのように書き残しています。
「彼らの音楽が聴衆の心を打ち畏怖の念で満たしたので、音楽の響きと香の匂いと美しい装飾とで並みいるすべての人々は高揚し始めた・・・聖堂全体が調和の有る合唱と楽器の合奏で一杯に谺したので、天使たちや神聖な天国の合奏や歌が、天から送られてきたかのように思われた。」(西洋音楽史/上・音楽之友社)

ブルネレスキも聴いたであろうこの音楽は、その音楽的構成に大変興味深い仕掛けを持っていました。
その仕掛けとは、祝典モテトウス「新たに薔薇の花」は、完成しつつある大聖堂と「数あわせ」がなされていたのです。
どこの聖堂もそうですが、大聖堂の身廊の長さ、交差部の幅や円蓋の高さという建築の各部分は正確な比例関係を持っています。
一方、音楽もまた数学的配列で構成されていることは良く知られていることです。
四声曲イソリズム技法(一定の決まったリズムが反復されるリズム法)で作曲されたこの曲は、上の二声部は聖母マリアに捧げられたこの大聖堂について歌い、下の二声部は献堂式の為のミサ曲、そこではグレゴリア聖歌の旋律が演奏されます。
ここからが数合わせの方法ですが、下の二声は同じ旋律が4回繰り返され、その4回は回ごとに長さが異なり、その長さの正数比は大聖堂の比例関係に適合しているのです。
その正数比は6対4対2対3、その比率はそのまま身廊の長さ、交差部の幅、後陣の長さと大天井の高さの比を現しています。
つまりデュファイは、大聖堂という建築と、その為の音楽を比例関係で調和させることで、文字どおりマネッティ−のいう、天上の世界を音楽と建築を一体化させることで、現出させようとしていたのです。

音楽とその音楽に讃えられた建築との数による照応は、一種の数遊びに違いありません。しかし、このような発想は当時の音楽と建築にはよくあることでした。
もともと音楽と建築は数の世界、数学の世界に生まれた兄弟のようなものです。
ギリシャ以来、音楽と建築にとって、もっとも重視されていたのはハーモニーです。
建築の美しさは、各々の部材が持つ形や材料が示す味わいに多分に左右されますが、根本的には構成要素の各部分部分と全体との比例関係によって規定されます。
つまり、建築は一種の抽象的な均衡に基づくものと考えられていたのです。
柱と柱の間隔や柱の高さ、それらは全て柱の太さに関わる数量的調和によって決定され、建築は冷徹で明晰な数に支配された完結した秩序をもった高貴な存在であったのです。
つまり建築は、調和を生み出す数比によって構成された音楽のようなものなのです。

ヨーロッパでは古来から、音楽は単なる感覚的な楽しみである、と考えられたことは一度もありません。
音楽は鳴り響く世界、そこは耳で聞く音の世界である以上に、知的営為の対象です。
宇宙や世界の構造を解きあかす物理学同様の一つの学問と見なされていました。
つまり音楽は数学のようなもの。
それ故に、ギリシャ時代だけでなく中世の大学においてさえ、音楽は自由七科の中の必修科目(クオドリビウム)であったのです。
音楽は算術、幾何学、天文学と並ぶ必修四科の一つ、それが、古代そして中世の考え方です。

数と音の関係は協和音程に関わる事柄。従ってすべての音が、数学的関係によって表されるということは容易に理解できことです。
しかし、現代の我々にとって、数にこだわる作曲が音楽の創作上の必然であったとはなかなか理解出来ることではありません。
現在の音楽の価値に直接関わる問題ではないと考えますが、作曲上の構成において、数学的関係にこだわり、一種の「数あわせ」を採用していたことは大変興味深い大事なことです。
事実、「数あわせ」の音楽は十七世紀のバロック時代まで、しばしば見られた方法です。
「数あわせ」の音楽はバッハも作曲しています。
人間の持つ細かい感情を歌い始めたモーツァルト以降、そのような音楽は消えて行ってしまいましたが、バッハそしてモーツアルトの時代の音楽、そこには音として耳に聴こえる音楽とは異なる、もっと大きな音楽の問題、音楽の意味と役割の変容の問題があったと理解すべきだとおもいます。
つまり、近代の最も重要な音楽家の時代、それは学問であり知的営為でもあった音楽が、耳で聞く感覚的な楽しみとしての音楽に変容する時代、集団の為の音楽が個人の為の音楽に変わりつつある時代でもあったのです。



(Dufay : Missa l'homme armé from lelutindecouves on yoitube)
http://www.youtube.com/watch?v=2DBtiTVaJZ0

2010年3月21日日曜日

安田靫彦展 

梅と桜の間の季節に観る、日本画の展覧会。
わが家にとっては、時といい、所といい、すべて絶好の場所での展覧会だ。
ホテル・ニューオータニ内のこの美術館は展示スペースは二部屋のみ。
広さからくる制約で、大作がずらり、と言うことはない。
しかし、毎回の展示は傑作ぞろいで至極贅沢な催し物。
ホテル宿泊客へのサービス企画ということであろうが、ボクにとっては至福の散歩コース。
毎回、週末の午後の絶好の楽しみとなっている。

安田靫彦は誰もが知る花の名手。
特にその枝振りに思いを尽くす梅の絵は、時に自然の香以上に我々を惹き付けて止まない。
今日もまた静かな展示室での柔らかい光の下、そのひとつひとつは静かに花開いていた。
少数展示ではあるが、作品の解説は今回も入念だ。
梅や桜はさておき、多くの掛け軸の題材はみな、万葉集・伊勢物語・・・古歌からの引用。
作品鑑賞はまず歌を読み、その世界を画家に導かれ、また新たにイメージするという趣向。
そして今回の展示で最も気に入ったのが西行像だ。
願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃。
誰もが知る名歌だが、靫彦はこの歌を、描き過ぎず、語り過ぎず、 淡彩のまま、爽やかに、華やかに、筆を走らす。
「芸術は人格の表現」と豪語する、靫彦ならでは世界がそこにある。

2010年3月17日水曜日

竹の建築誌−2/壁と垣根そして桂離宮


屋根の中に仕込まれていた竹の「篭構造」は壁の中にも隠されています。
ジュムサイ氏の言う「六ツ目」ではなく「四ツ目」ではありますが、「篭構造」というアジアウォターフロントの共通の産物は壁の中では、土と協力し強靭な耐力と防火性能、除湿効果を合わせ持つ、日本の気候風土にもっとも適合した複合材を産み出しました。
まさに南の「竹」と北の「土」の協力事業であです。
しかし面白いことに、お隣りの中国や韓国では「土壁」の下地に竹を用いる習慣がまったくありません。
その影響でしょうか、我が国でも法隆寺の時代から寺院建築では、桧という「木」の小舞が使われていて、竹になるのは室町時代、全面的に使われるのは、なんと桃山時代に入ってからだなのだそうです。
では、それ以前の平安時代、京の町屋(庶民の家)や近郊の農家の土壁は、その下地は竹ではなく、木であったというのでしょうか、当然「竹」であったと考えるべきでしょう。



日本の建築を造る集団には二つの流れがありました。
一つは格式的建築とでも言いましょうか、社寺や宮殿、貴族の邸宅建築の流れです。
ここでの建築は大棟梁のもと様々な職方が一体化し、専門家による組織的建築作業により造られていました、まさに、現在の大建築会社による施工組織と同等です。
そして、ここには当然、中国や韓国の新たな技術やノウハウが逐次移入されたでありましょう。
もう一つの流れは非格式的建築、いわゆる庶民の町屋や民家であり、若干の職人たちか、農民という非専門家たちが、祖先から継承した様々な技術を駆使しながら、協同作業によって建築を造っていました。
建築美の表現においても、前者は崇高さや荘重さを、後者は合理的で気持ちが良いを第一としたのであり、つくり手たちの各々は、別々の価値観と別々の美の世界を追い求めてきたと言えるようです。
一つの国に二つの建築の世界が互いに合い関知もせず別々に進行していたのでり、「竹」は前者の格式的建築では全く使われることはありませんでした。
まるで無視といおうか、忌み嫌うかのように。
しかし、庶民の建築では全く逆で、中世の京の街はまさに「竹の風物誌」なのです。
従って「土壁」の発見はむしろ庶民であって、寺院建築の渡来とは異なる、庶民による「竹」と「土」の融合の技術によって、日本独特の「壁」が産み出されたと考えられます。(参考:左官は日本在来のもので、渡来技術に起源を持つものではない。鈴木忠五郎/建築ものはじめ考、新建築社)
そして平安時代の京のまちやや民家では当然、小舞竹と土による協同の産物が彼らの生活空間を形作っていたのです。

やがて近世を迎え、庶民の持つ田楽・猿楽や茶が「能」「茶道」として「格式化」「都市化」されたように、庶民の「竹」は、数奇屋造りの中に「建築化」されていきました。
「建築化」されると言うことは「裏方」ばかりの利用であった竹は、社寺や城郭、貴族の邸宅という「表向き」の世界にも登場し、さらに「桂離宮」に見られるように床、壁、天井、窓、とあらゆる所に技術的洗練と美的配慮を尽くされ、利用されるようになったということです。
桂離宮が造られる桃山時代、農業技術の発達にともなう生産力の増加は庶民の経済力の向上を導きました。
加えて社寺、城郭の大規模な造営が各地で頻繁におこなわれ、建築ブームにのって、たくさんの職人たちが生まれています。
今まで、町屋しか造らなかった職人が、社寺、城郭を造り、そしてまた戻り町屋や民家を造るというように、二つの建築の世界は交流が激しくなり、庶民の持つ様々な技術も、数奇屋造りや桂離宮という新しい美の世界の担い手となっていったのです。

その大きな担い手が「竹」であり、「竹の技術」です。
まさに「竹」による下剋上と呼べるものです。
しかし、その「建築化」により表舞台に立った竹は、何故かパワーを失ってしまいます。
中世の京の町並みを彩り、竹による様々な意匠を凝らした町屋の数々は、「能」や「茶道」が過去の形式として私たちの日常生活から見離されたように、「竹」はその後どんどんと、私たちの生活環境から遠退いていきました。

「竹」の衰退はこの100年ではなく、300年です。
300年という時代のスパンは、「美意識や生き方や価値観」という身近な観点ばかりでなく、「地球規模の社会、その社会構造全体」を見直す必要がある、と指し示しているのではないでしょうか。



垣根
現在、私たちの日常環境で竹が圧倒的に利用されているのは、「垣根」です。
そのデザインの種類は、なんと150を超えるといわれます。
大都会ではともかく中小都市では今でも、まだ「竹垣」が健在であることは興味深いことです。
自動車に襲われれば簡単に壊れてしまう「軽便」な竹垣が、なぜまだ多用されているのでしょうか。
そこには「竹としめ縄」による「ひもろぎ」や正月飾りの門松に示される、竹のもつ神聖さ、「地震が来たら竹薮に逃げよ」と子供のときに聞かされた、「竹林」のもつ安全さが、その物理的役割を超えて私たちの(精神)生活に深く記憶されているように思えてなりません。



竹垣の発達も竹の「建築化」の時代同様、桃山時代です。
茶の湯の成立、茶庭の路地による庭園様式の出現と里における竹林の一般化が竹垣の普及を促したのです。
工作しやすく良質な竹が手短な周辺から沢山産され、優れたデザインが茶の湯の文化の普及と共に一般化したのですが、ここでもまた「都市化」「建築化」に呼応する、自然の「庭園化」に深く関与したのが「竹」でありました。
しかし、竹の「建築化」が何故か竹の衰退を導いているように、自然の「庭園化」は、その後の私たちの生活を大きく変えていったのではないでしょうか。
私には、私たちの日常生活と自然とは一体的(共生)である、という本来の姿を見失わせる原因が、ここにあるように思えてなりません。



桂離宮
月の名所、桂離宮は淀川への注ぎ口に位置する水難の地、そしてまた、古くからの竹の植生の地でもありました。
舟運、魚取り、舟遊び、瓜見、花見、月見等には絶好であったとは言え、一度大雨が続けばまたたく間に、あらゆるものが水流に巻き込まれる、このような場所にあえて建築を決意をさせたのは、当時の水害防備技術に対し、かなりの信頼が寄せられていたことがわかります。
果たせるかな桂離宮はいくたびかの洪水をのりこえ、今日を生きています。
桂離宮を守る水防技術の一端は「竹」にあります。

堤沿いの「桂垣」、御門の両脇の「穗垣」、共に訪れる人を心なごませる美しさですが、この「竹垣」が洪水の時、襲い来る水の速度を和らげ、土石の侵入を防ぎ、桂離宮を今に伝える重要な役割を果たしたのです。
「桂垣」はその姿から笹垣と思われていますが、実は耐水性のよい「淡竹」を生えたままに折曲げて編み付けられています。
垣根沿いには、ほぼ10メートル間隔に欅が植えられ、垣根の裏側は折曲げられた「淡竹」と共に、「真竹」が蜜植されていて、竹林と欅による協働で、襲いかかる水流を和らげ、石礫を濾過し、土砂の流失を防いだのです。
御門脇の「穂垣」は数十センチメートル間隔の太い半割りの竹を支柱に、竹の細い穂先が横に厚く束ねられています。
この「垣根」は明治になって「桂垣」にかわって設けられたものだそうで、水防備の機能の程度は明確ではありません。
しかし、土塀や板塀では不可能であろう役割を果たすことはまったく事実なのです。(桂垣、穂垣の説明では大熊孝著「洪水と治水の河川史」を参考としました)

桂離宮は17世紀中庸、約50年間に渡って段階的に造営されています。
その頃は、公家や僧侶が中心の王朝風文化と、武家や商人による能や茶の湯の文化が重なり合った時代でした。
建築様式も「書院」と「数寄屋」が交じり合い、戦争に明け暮れた時代を乗り越え、新しい文化を創りつつあったのです。
その桂離宮には「竹垣」ばかりでなく、屋根、天井、壁、窓、床と「竹」の持つ機能性、精神性、造形性、簡素な美しさが、巧みに折り込まれています。
とくに月波楼の天井や賞花亭の大窓、竹の雨どいには工芸化された竹には表現できない、自然性、直裁性、時間性を見つけることができ、「竹」に視点を置いて「桂」を見ると清楚、明澄、単純、簡浄、透明、永遠とは異なる、ハイブリッドな、したたかな、たくましい、庶民性を持った桂離宮が発見できるように思えます。

竹は耐久性が短い、虫がつくと始末が悪い。
しかしそのような竹を、時には生きたまま、あるいは周到に伐期を読みながら、身の回りから手軽に調達し、壊れたら直し、絶えず修理し、メンテナンスすることで形を整え、継承していく。
これが桂離宮であり、西洋の永遠性や記念性とは異なる、日本あるいはアジアウォーターフロント共通の「時の継承」の技術、自然と対話した環境技術です。
ここに見いだされる「時の流れに対応する技術」、この技術を私たちは現在、「竹」と共に「桂離宮」に置き忘れてしまったかのようにおもえてなりません。
今、「竹」も「建築」もあまりにも矮小化されてはいないでしょうか。
共に、再び「自然」の真只中にドーンと据え付けてみる必要があります。
そうすれば、開かれた自然との新たな関わりの中から、新しい、大らかな「竹」と「建築」を再び発見できるに違いありません。

2010年3月16日火曜日

竹の建築誌−1/屋根と床

この100年、私たちのライフスタイルは著しく変化しました。
特に最近の30年は、一気に都市化から情報化社会へ。
かっての都市と田園の境界は消え、身近な生活環境は全て都市化され、フラットで商品化されたコモディティな空間へと、その様相をすっかり変えてしまいました。



このドラスティックな生活環境の変化の中で、工芸品としてはともかく、建築材としての「竹」は、全くと言っていいほど姿を消してしまっています。
いや、「竹」がかって建築材として使われていたことすら忘れ去られているのです。
事実、ボクの仲間内でも、日常的な計画物件に「竹」を採用する人はほとんどおりません。
昔は、民家や町屋という庶民の建築では、「竹」は驚くほど様々なところで、自由闊達に沢山使われていました。
川島宙次氏の「滅びゆく民家」を見ますと、「竹」が床、壁、天井、屋根、それも仕上げ材であったり、下地材であったり、様々に形を変えて使われていて、とても、身近で有効な建築素材であったことがよくわかります。
さらに遡れば、中世の「洛中洛外屏風絵」には、板じき石置き屋根の竹の井桁組、竹の連子窓、竹の腰壁、竹の簾、街角には竹売りと、屏風絵の世界はまさに竹の風物誌となっています。

今日は、たまたま業務上の必要から「竹」を探す旅を試みました。
「竹」という素材が「建築」を通して語る、その内側の「世界」を読みとる必要が生じたからです。
調べてみて解ったことをそのまま書いてみたい、と思っていますが、その世界は「竹の素材論」でもなければ「建築史」でもありません、「竹の建築誌」です。

屋根
日本の民家が造る「景観」は屋根の景観と言って良いようです。
民家のひとつひとつは、全て屋根のかたちによって「家」が造られています。
そして、その大きな傘のような屋根の下の幾つかの床が、ボクたちの生活空間と言って良いでしょう。
どこの地方の民家も、様々な屋根と床とのバランスに苦心した結果です。
多くの人たちは知力と技量を尽くし、のどかな田園に、瀬が走る川添いに、あるいは、山深い谷あいに沢山の民家をつくり、幾千の「日本の風景」を造っていきました。
しかし、その風景の主役となる「草屋根」の構造は、驚くほど共通した作られ方をしていました。

屋根構造の歴史的変遷を見てみますと、1000年も前の登呂の遺跡から、そのほとんどは大きな変化はありません。
弥生時代に出来上がった「屋根の構成マニュアル」は後の世、どの時代にあっても、ほとんど変わることなく生き続けてきました。
そのマニュアルの鍵となっているのは「竹」でした。
竹は厚みのある「草屋根」の中で、径を変え、長さを変え、形状を変え、場所を変え、さらに「たるき竹」「屋中竹」「小舞竹」「鉾竹」「えつり竹」「簀竹」「棟竹」と様々に名前を変え、様々の役割を果たしてたのです。
マニュアル化された草屋根ではありますが、その形状は地域の持つ気候風土、時代の変化に対応する豊かなバリエーションを産み出してきました。
そのマニュアルが示す竹の持つ「秘密」、それは「竹篭の原理(篭構造)」にあるのです。

一本一本は細くて弱いが、重ね合わせた接点(篭目)の一つ一つをしっかりと結わえ、総体として支え合いバランスを取りながら、様々な寸法、形状に合わせた豊かなバリエーションを産み出し、しっかりとした強度を生み出していく。
これがマニュアル、日本の屋根の構造です。
まさに、楠正成の故事のような「秘密」が「竹」を媒体として「日本の風景」を造りだしていったと言って過言ではありません。

さらに、竹は「いつでも、どこでも」調達でき、専門的、あるいは特種技術を要することなく、誰でも自由に使用することが出来た素材です。
省資源・リサイクルを指向する最先端「材料学」の現在の課題は「壊したい時、壊れ、壊したい場所が壊れ、難しい道具と技術を利用することなく、大人でも子供でも扱える材料」の開発にあると、参加した研究会で発表されていたことがあります。
つまり、「TAKE」という新しい「素材」の開発が、今の「材料学」の課題となっています。
したがって、「竹篭の原理」の新たな応用こそが、新素材を使っての新たな現代建築テーマとなっている、と言って過言ではありません。





大きな屋根の下の「床」、日本の最初の床は「土間床」です。
地面より50センチほど掘り下げて生活空間としたもので、その建築を竪穴式住居と呼んでいます。
一方、弥生時代、稲作という新しい文化をもった人々の集落であった登呂では、その収穫物の倉として「高床」の建物が建設されました。
高床の建物は古墳時代の家屋文鏡や銅鐸のデザインにも登場し、新技術を取り入れた、時の権力者たちの「象徴」となっていた建築であると考えて良いとおもいます。
しかし、ここで重要なことですが、日本の住まいの源流は、「竪穴式住居」と「高床式住居」、床位置の異なる二つのの流れがあったということを忘れてはいけません。
その一つ、様々な「高床式住居」を持つのは東南アジア地域、そこは「竹建築」の世界と言って良いとおもいます。
特にタイ北部山村のアカ族、ヤオ族の集落では、伊勢神宮と見間違えるようなの「竹の家々」で生活が営まれていました。

タイの建築家スメート・ジュムサイ氏は、その著書「水の神ナーガ」で、高床式住居は稲作、六ツ目編み、と共にアジアウォーターフロント地域の文化的共通項だと指摘されています。
「高床式住居」と「稲作」のセットは、日本でも一般的ですが、「竹の網目」の三角形格子、六ツ目編みを含んだ3つをセットの共通項とし、アジアの建築・都市を探求した「水の神ナーガ」は大変ユニークで興味深い「本」です。
特に「竹」ではなく、竹の網目「篭目」にこだわったところがジュムサイ氏の大事な点。
何故ならば、日本の屋根の「篭構造」もまた、アジアの「水の文化」の産物であったと納得させてくれるからです。

東南アジアは竹の「住居」や「生活用品」の中心地です。
従って、その高床式住居の「床」の簀の子が竹で造られ、「六ツ目編み」の竹蓆が敷かれているのは当然のこと。
しかし、日本家屋の「床」がこの高床と同一であり、同じものの発展と決めてしまうのはちょっと早計です。
「床の文化」を持つ日本、ちょっと専門的説明ですが読み取って下さい。

日本の床は、東南アジアの高床とは異なる、もう一つの「秘密」を持っていた考えられます。
東南アジアでの高床の構造は人間の背長けほどある高さの位置で柱の間に床梁を架け渡します。
それは高倉(伊勢神宮)の形式。
2階部分を作る一般的な方法と言って良いとおもいます。
一方、注意して見て欲しいのですが、日本家屋の「床」は住居の主体構造とは切り離されたものなのです。
つまり、日本の「床」は、屋根を支える「柱」とは無関係な台のようなモノであることを忘れてはいけません。
柱と柱の間に、何本かの束(床だけを支える短い柱)を地表に建て、大引きで足固めし、床を貼る。
これが「日本の床」、高床とは異なる束床です。
東南アジアの「高床」とは全く異なるの構造です。

東南アジアとは異なる「日本の床」は「土間」とは異なる「第二の床」として、古墳時代の竪穴式住居では、もうすでに採用されていました。
「土間」と共存するが、僅かな高さの違いで、主体構造とは別のテンポラリーの「第二の床」の発見。
この発見は平安時代には、その「床」の上に「畳」を敷くという、「第三の床」の発見を導きました。
「土間」「床」「畳」、この「三つの床」の発見が日本独特の「床の文化」「間の文化」を育んだでいったと考えられます。
「三つの床」の構成は住居空間の機能分化と深く関わり、接客空間の発展を促し、秩序あるコミュニケーションと社会的統合の「場」を提供しました。
やがて、「三つの床」は「仕つらえ」「身振り」「仕草」という、きめ細かな日本の文化を展開する格好の「舞台」、「道具としての床」ではなく、「文化としての床」を提供することとなりました。

「建物」とは異なる「床」の発見は、その後、日本の文化を展開する上で最も重要な基盤となりました。
さらに、この日本の「床」の秘密はアジアの「水の文化」に通底する大事な視点をも提供してくれました。
日本の建築の特徴は、「大屋根全体を支える構造」と、「生活を支える構造」とが分化しているところにあるのです。
今度は「床」ではなく「床」と「屋根」を支える「構造」に着目してください。
高床構造の柱は「屋根」と「床」を支えますが、「日本の床」は屋根を支える柱とは無関係、つまり、一つの建築が「二つの構造」を持っているところが重要です。
「二つの構造」を持つ日本の建築の意味は、別々の時系列に対応した、別々の建築が一つの建築的世界を作っているということを意味しているのです。
つまり、「第一の建築」は地形や自然現象と一体となり100年、200年を越す時間を生きなければならないのですが、「第二の建築」はその時代のライフスタイルに合わせて、20年も持てばよい。
これが日本の住宅の「時の流れ」に対応したしたたかな方法です。

西洋化した日本人は「新陳代謝」が日本の「建築の方法論」として極めて重要と、度々とりあげています。
しかし、それが単なる代替えを意味するとしたら、それは大きな間違えです。
「二つの構造」、「竹の床」と「束の床」の意味が読み取れていないとするならば、「水の文化」あるいは「時間の流れ」に対応した日本建築は理解されていない。
つまり、それは「作っては壊す」だけの浅薄な歴史認識にほかならず、したたかな、本来の日本建築の方法が読み取られていないことになってしまいます。

2010年3月14日日曜日

ラトルの「神々のたそがれ」

NHK BShi 久しぶりのワーグナーだった。ラトル指揮の「神々のたそがれ」はスピード感ある演奏で気持ちがよい。どこからみてもボリュームたっぷり。
ワーグナーはやはりじっくり聴いてこそ意味があるのだろう。一度、バイロイトでとは言わない、オペラパレスで聴いてみたい。

ツィートしたことでもあるが、ジークフリードの死はドラマからは理解出来ても、物語として容易に理解したい事柄。彼の死は「神々のたそがれ」ということより、ここからハーゲンやグンターという「人間」たちの世界が始まるということの認識。なんとも悲しい始まりではないか。

2010年3月12日金曜日

よく笑った「ファルスタッフ」 

3月12日、オペラ研修所公演「ファルスタッフ」を観る。 若いオペラ研修生たちの公演をいつも楽しみにしている。 オペラパレスではまだまだ主要な役割を演じられなくとも、 中劇場では思う存分、日頃の成果を披露出来る。 開所以来12期60人足らずのメンバーたち、 毎回、様々な役柄や歌に取り組み、多くの観客を楽しませる。 最大の楽しみはやはり彼ら彼女たちの成長だ。 えっ、この人こんなに高音、柔らかかったっけ。 いやぁ、前回に比べ、発声も無理がなく、音質にボリュームが出て来た。 こんな、とてつものない早い節回しの重唱、今日は声もリズムもピッタリ。 そして、われわれ一般のファンから見て、最もうれしいのはチケット代。 オペラづくりは最もお金がかかかる商業的パフォーマンス。 研修生だって、既に自律した立派な社会人、出演料だって一人前で当然だ。 しかし、どんな仕組みかは知らないが、他のオペラ公演に比べれば、 とんでもない安い料金で提供されている。 「ファルスタッフ」はヴェルディ最晩年の喜劇。 作品としては、若い彼らにはちょっと難しいのではないかと思っていた。 しかし、とんでもない、ファッタジックな舞台美術にのって、 文字通り、とんだり、はねたり、歌ったり、なんとも、楽しい舞台を作ってくれた。 その貢献の第一はファルスタッフ役の青山貴。 彼の歌と演技は何処から見てもこのオペラの中心。 その役割を彼はきっちりはたし、最後までこのオペラの難しい役どころを歌い演じ切った。 つぎに評価すべきは特別参加の演劇研修所第4期生たち。 このオペラ、彼らの応援無しでは華やがない。 ドラマと音楽にリズムを与えたのは、無音だが若い彼らのダンスと演技。 たぶん、オペラ研修生たちだけではここまでの楽しい喜劇は難しかろう。 そして、特筆すべきは、オーケストラだ。 時たま、聴きに行く、オペラパレスのオペラで、いつも不満に思うのはオーケストラ。 なぜ、いつもあんなにバランスが悪いのか。 理由は歌手たちの音量の違いにあるのかもしれないが、 何度か聴いた中では満足のいくオーケストラは一度もなかった。 しかし、今日はすばらしい。 アンサンブルも歌手との間合いもピッタリだ。 指揮はアリ・ベルト、管弦楽は東京シティ・フィルハーモニック。 最後に触れておこう、当然、関心の女性たち。 今日のアリーチェは高橋絵里、メグ夫人は堀万里絵、ナンネッタは上田真野子、ウィックリー夫人は茂垣裕子。 茂垣さんは賛助だから当然だが、他の3人も期待以上に素晴らしかった。 とくにナンネッタの上田真野子、彼女は昨年からのまだ12期生、あの柔らかい高音はまだまだ磨かれるだろう。 ただひとつ残念なのは、楽しみしている、やはりアリーチェを歌うはずの中村真紀。 彼女は今日は公演日ではなかったのだ。 ほっとしたのは、他のオペラ公演では必ず登場する、「追っかけおじさん」の幕間のかけ声。 この研修所公演では、そんな鈍感なおじさんたちは一人もいない。 はつらつとした爽やかな楽しいオペラは今日の初台のおじさんたちにとっては、 台本どおり「一番よく笑った者が、最後に笑うのだ」。

2010年3月10日水曜日

風の建築誌/3−風のかたち

香港の超高層ビルが「風の相」による建築であるとするならば、関西国際空港は「風のかたち」の建築です。
その建築家はハイテク建築の創始者と呼ばれている、パリ・ポンピドーセンターで世界を驚かせたイタリア人レンゾ・ピアノです。
ポンピドーセンターが完成した当時、彼自身はハイテク建築家と呼ばれることを、頑強に拒否していました。
「ポンピドーセンターは既製の文化センター、あるいは固定観念化した建築に対するアイロニー」と彼は語っています。
その建築は技術の勝利でもないし、工業技術を生かした建築でもない、中世の建築同様、少しづつ人間の手で作られた工芸品なのだと、説明しているのです。
一般に美術館あるいは文化センターにあるものは過去の時代の遺物、あるいは同時代とは一線を画した洗練された芸術品。
しかし、ピアノはそんな形骸化した価値に縛られた美術館、固定化した文化都市パリに対するアンチ・メセージとして、この建築を芸術ではなく職人の技、歴史的文化都市パリではなく日常的等身大の都市パリ、にあるものと位置づけたかったのです。
ジュノバで建設業を営む家族の元に生まれたレンゾ・ピアノは小さい時から工事現場で働く父親を見て成長しました。
ジェノバ職人の技術を身を持って体験してきた彼は船が様々な部品の集積であるように、ポンピドーセンターも一つ一つが丹念にデザインされ造られた部品の集積として作り上げています。
つまり、高度の洗練された工業技術の成果であることより、中世的職人技術の集積と主張しているのです。
「文化センターは名も無き人々(職人)の生きた証(工芸品)の集積であることが重要であって、制度的で、深遠かつ恐れ多い場であってはならない。そこは形式ばらず、解放的で、一般市民に馴染めるものでなければならない。」
その建築は当時の傲慢で畏怖させるような建築およびパリの既製の文化観への強烈なオブジェクション、それがポンピドーセンターの持つ意味です。


父親の仕事場で、建物が部品と部品の組み合わせから形作られることを観察したピアノは、同時に建物は部品と部品とに解体されるという、その可逆性をも理解したハズです。
しかし、建築は空間的にはともかく、時間的には可逆的ではあり得ません。
建築という行為は「都市の歴史」という絶え間ない層への参加。
そして「建築は歴史的コンテクストの中への一時的な挿入物」であると彼は明言します。
ここが彼の建築のポイントです。
そして、ようやっと関西国際空港のデザイン・コンセプトにたどり着いたのですが、
この観点はまた「建築は同時に、自然の中への一時的挿入物」を導きだしました。
「一時的挿入物としての建築は周囲の自然状況に、いかに適用するかを言明しなければならない」。
これが彼の設計姿勢であり「風のかたち」の根拠です。
「彼の建築は自然の形態からの抽象ではなく、自然の形態なのであり、適応性の結果なのである。」(建築と都市・1989年)

自然への適応、これは建築の永続的テーマであり、古来からの形態バリエーションの源泉でもありました。
インド・ジャイプールに建つ「風の宮殿」、18世紀ハーレムとしても使われたこの建物の薄い透かし彫りの窓は、風は通してくれますが、捕らわれの女性たちには永遠の鉄格子です。
「風のかたち」は時と場合によっては、人間の特別な心理への増幅装置ともなっている。
そんな観点から建築を眺めることも、非人道的かもしれませんが、建築もまたひとつの虚構、「作品」であるかぎり許されことボクは思っています。


自然とみごとに適応したもうひとつの「風のかたち」を見てみましょう。
アメリカ・カリフォルニア海岸、と言っても不動産屋が見離していた、岩のゴツゴツとした荒涼とした海岸線の一角に、チャールズ・ムーアによって10戸のコンドミニアムが作れました。(シーランチ)
岩場にへばりつく貝のようなその建築は、屋根も壁もレッドウッド、それもシングルスタイルという、かってのアメリカで最もポピュラーな材と方法によって作られています。
強い海からの風を配置と屋根の形態でしっかりガードし、バラバラでは対抗できない自然の驚異に集落のように寄りあつまり、へばりついている建築。
この建築も「風のかたち」により生み出されたデザインです。
その庇のない造形と素朴な板壁を飾る大胆なスーパーグラフィックはとても新鮮でした。
シーランチはボクの若い頃のあこがれの建築の一つ。
シーランチに刺激され、庇のない木造建築を沢山デザインし、多くの方々から叱責をうけたのは懐かしい思い出です。
しかし、その建築のポスターはいつまでも自室の壁を飾り、「風のかたち」シーランチはボク自身の建築の実質的な「窓=風の道」でもあったのもまた事実です。

カリフォルニアのシーランチに熱中していたころ、イギリスの建築評論家が「クリップ止めの建築」という論文を発表しました。
「アーキグラム」の全作品を紹介した本の中に掲載されています。(アーキテクチュアル・デザイン1965年)
アーキグラムはビートルスやミニスカートが登場したのと同じ時期、同じイギリスに生まれた建築家グループです。
彼らは建築を実際に、具体的に作るチャンスに恵まれなくとも、メディアを通じて、建築の考え方を言葉やグラフィカルな映像によって表現し、次々と発表していきました。
土着性、固定性、不可動性から解放された建築を軽妙でファッショナブルな、それもメディアの中にのみ存在させる、つまり建築を情報的世界に還元してしまったのです。
(建築デザインを情報として扱い、実在の土地から遊離し多くのメッセージを発信したのは16世紀の建築家パッラーディオの「建築四書」が有名)
ちょうどビートルズの「イエローサブマリン」が歌というより、情報空間そのものであったように。
アーキグラムの建築イメージは実際の建築以上にメッセージを持ち世界中に広がっていきました。

アーキグラムのメンバーの一人ピーター・クックは「ロンドン・エクスプレス1968年」誌上に「インスタント・シティ」を発表しました。
「ほとんどの文明国では、いわゆる地方やローカルな文化文化は停滞しがちで、ときにしばしば貧弱であり、それよりも条件のいいメトロポリタン地域(例えばニューヨーク、ウエストコースト、ロンドン、パリ)に羨望をいだく。文化の環とか世界の窓としてのテレビの効果が云々されることが多いのだが、人々はなお、満たされない空しさを感じている。若い連中の懸念は、ひょっとして自分たちが自らの地平をひろげてくれるものを受けそこなっているのではないかということだ。彼らは、自らの経験が、そのまま現在進行中の生活の位相に巻き込まれることを願う」磯崎新の著作の中の説明です。

そのような願いに答えるかのように、風に乗ってプカプカとやって来た都市、「旅するメトロポリタン」、それがインスタント・シティ計画です。
プカプカとやって来て、メトロポリタンの持つダイナミックな活気を与え、しばらく滞在している間にやがて、コミュニティーは停滞に加えられた衝撃から立ち直り、そのコミュニティ自らが全国にメッセージを発信するようになる。

インスタント・シティ計画は、風が作り出す建築というより、「風そのものが建築」になったということを意味します。
「風」が「建築」、素晴らしい発想です。
60年代のインスタント・シティ計画は地方を活気づけることが、そのメインコンセプトでありましょうが、21世紀の現在、大都市でも地方都市でも必要なのは、固定観念化した「建築」ではなく、生きている「風」という建築を作ることにあるのではないでしょうか。
その建築により人々は、形骸化した建築の世界から抜け出て、生身で自然と関わり、じかに自然と対話し、そして再び、神々のメッセージを物語ることが出来るようになる。
今、ボクたちはそのような「風のかたち」を必要としているのです。

2010年3月9日火曜日

風の建築誌/2−風の相

日本の都市計画においても「風」は重要でした。
平城京、平安京はともに条坊制と言って、東西4.5km、南北5.3kmほどの長方形を直交する大路、小路によって区画し構成していました。
幅85mの朱雀大路は南北にまっすぐに長方形の中央を貫き、北の端に宮殿、南の端に羅城門を設置し、その大路の両側を右京・左京と呼んでいます。
この都市計画の方法は中国の洛陽や長安にならったものですが、条坊制であることは風と直接関係はありません。
しかし、京都は中国の古代技術「風水」が色濃く反映され計画されていました。


中国には古来から日常の私たちには目にすることが出来ない、もう一つの現実世界が存在しています。
それは現在の西洋的三次元あるいは四次元という観点からでは容易に理解することが出来ませんが、
「風水」と呼ばれる、地形や「風」や「水」の「流れ」を読み取ることから生まれた貴重な技術です。
なんだ、易や家相、迷信的占いではないかとおっしゃるかもしれません。
確かに、その一端は家相術として喜ばれたり、TVや雑誌で人気になったり、馬鹿にされたりしています。
しかし、本来の「風水」は西洋の技術思想では決して到達できないものであり、
環境を調律し、自然と人間が共生する技術の集体制であることが最近わかりと注目されれいます。

「風水」は長い歴史や風土、気候も異なる広い大陸の様々の地域や民族によって育まれ熟成された環境技術です。
従って、その論は多用多種、方法や考え方が微妙に異なる別種の考え方が様々に共存し容易に理解出来ません。
日本では隠陽道と結びついた「風水論」が江戸時代かなり重視されましたが、明治期、西洋技術の輸入とともに下火となりました。
しかし、鬼門が悪くて辰巳が良いというような言葉だけが残ってしまい、その全体も長らく、単なる迷信と打ち捨てられてしまいました。
本来、「風水」は技術論のみならず地理学でもありましたので、韓国、沖縄、台湾、香港ではかなり重視され、さらにフィリピンやインドネシアにも存在しました。
特にインドネシアではパマヒイン、プリンボンと言われ、現在でも、街づくり、建物づくりに多いに役立てていると聞いています。



「風」を読み「水」を読み、「地形」を読む、いわゆる環境の「相」を読み、人間の生活と自然との調和をめざす「風水」は平安京の計画には色濃く反映されていました。
「風水」の採用により、当時の加茂川の流れを大工事の末に付け替え、現在の流れに修正したと記録されています。
「風水」の上の必要なら川の流れを変え、山がなければ作ってしまう、ということを実施したのです。
従って、この環境技術はひ弱な自然保護論者やエコロジストにはとてもついていけない技術論でもあるのです。
しかし、周到に地形や風、水を読んだからこそ、川の付け替えを実行し、地底に流れる豊かな伏流水を有効に利用することに成功しました。
京都の街は大内裏の雄大な神仙苑を含み、あちこちの庭園と池泉に恵まれています。
この豊かな池泉を支え、市民の生活を1000年余り守ったのは「風水」技術の結果であると考えなければなりません。

京都もその典型ですが、背後に山を背負い、左右に丘陵を控え、前方のみ開いている地形を「蔵風得水」の相と呼んでいます。
「一般に理論思想が形づくられ、それが現実に受け入れられていくためには、それ相当の現実的な裏付けがなければならない。蔵風得水型の地形の型が理論化された背景には、このような地形の型が棲息地として好ましいものであるという心理的事実があるに違いない。」(日本の景観・樋口忠彦)
日当たりもよく、風が一方的に吹き抜けず、前方に眺望が広がり、ゆったりとした落ち着きを持った雰囲気の景観は、風水を適用するしないにかかわらず、日本各地の集落に数多く見出すことができる、と樋口氏は指摘しています。
母の膝に抱かれたようなゆったりとした居心地の良さ、それを風水では「蔵風得水」の相と呼んでいるのです。

この環境の持つ実感としての快適さのようなものを理論化しようということが、風水の基盤ということでありましょうが、風水の面白さは地形の型を読むことだけではありません、環境の「相」を読むことにあるのです。
その読み方のポイントは人体の「経絡理論」同様、「気」(気=風=魂)の流れを読むことにあります。
ボクたちの体内を流れる「気」は地中にも流れているという理論です。
「気」はミクロコスモスとしての「人体」とマクロコスモスとしての「地球」を大きく循環しています。
その地中の「気」をいかに読み、いかにうまく流れるようにするかが「風水」の技術と考えられています。
つまり「風水」では「自然」も人体同様に生きたものとして扱うことに基本があるのです。

渡邊欣雄氏は「風水思想」(現代思想91年11月)で以下のように書かれています。
「生きている自然に対し、人間の側から絶えず働きかけて行かなければならない、人間の側から働きかけないところには、自然というものは成り立たない。何にも作用しないかぎり、自然環境は死んでしまうけれど、作用すればそれに応じて自然自体も変わってくる。自然環境は人間の働きかけで、どんどん変わっていくもの。かと言って、人間の主体性だけではない、自然の中にある「気」の流れのリズムは無視できない。あらかじめ与えられている環境への「適応」ということではなく、自然との互いの働き掛けによる「調和」が大事である。」

生きた自然とどうのような関わりを持ち、どのような働きかけを行うのか、それはギリシャ人が見えない「風」を擬人化した神々として捉え、その神々と語り合うことで、都市を計画し建築したこととどこか似ています。
風の相を読む計画手法はどの時代も、どの地域にも必要とされています。
そして現代もまた同様です。

風水に関連した現代建築を二つ紹介しましょう。
釧路のフィッシャーマンズワーフ(設計/毛綱毅)香港上海銀行(設計/ノーマン・フォスター)です。
釧路はその地形全体を読み取ると3つの丘の連なる「風水」でいう「竜車牽引型」の相を持っていると毛綱氏は説明します。
この相をフィッシャーマンズワーフの全体計画に反映させ、3つの丘と2つの坂道を空間構成の中心に据え、様々の領域を計画して行きました。
この建築は「風水」によって建築したというより、「風水術」を手掛かりにとして読み取った地形を建築に投影し、建築環境全体の調和を計った、と考えればよいと思います。
つまり、「風水による記憶の再生」と言うことなのですが、この建築の中に入るとそこは館内というより、屋外、自然、街中にいるような体験を与えてくれます。
釧路の地形を知らない私にとっても、ある種の親近感が感じられ、無味乾燥した人工環境ではなく、生き生きとした屋外環境を、冬長いこの町にもたらしたとするならば、「風水」は有効であったと言えるのではないでしょうか。

次に紹介したい香港上海銀行(設計はフォスター)は、その立地は商売に最適な背山臨水の相を持つ地ということです。
小さな島、香港ならばどこでもこの相を持つことになるのではないかとボクは思いますが、この計画には香港の専門の風水師が登場するのです。
風水判断には「環境の相」を判断する形勢学派と方位盤によって「気」の運動を読み取る方位盤派がありますが、この建築は後者「方位盤派」の風水師に相談したと記されていました。
地上47階、高さ180m、吊り構造のユニークな超高層ビルが、それもなんとイギリス人建築家が風水師のアドバイスを受け設計されました。
もうこれだけで話題沸騰、1986年完成のこの建築はその後、週刊誌やグラビア誌に取り上げ続けられました。
しかし、残念ながら私はまだ香港に行ったことがありません。
現代の最高度の建築技術は中国古来の環境技術とどう折り合いを付けているのか、そこではまた「風」という目に見えぬ神の御手とどう関わったのか、一度見学したいと思っています。
ps。
「風水」は5年ほど前、日本建築学会編「集住の知恵ー美しく住むかたち」の中の一項として、ボク自身が執筆しています。詳細はこちらをご覧下さい。
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%8FW%8FZ%82%CC%92m%8Cb&x=0&y=0



2010年3月8日月曜日

風の建築誌/1−風の物語

野や原に吹く風は植物の種子や花粉、小動物の乗り物となって様々な生き物たちのドラマを演出する。
天にある風は雲を動かし、地にある風は大地をほり、水のある風は波を作り船を動かす。
目に見えぬ風は、古来よりどこの国でも神の御手と考えられ、恐れ、親しまれ、愛されていた。
その風は大地の精霊たちと手を結んだ「建築」と、どのような物語を作り出してきたのか、その物語を訪ねて、風まかせの旅に出よう。

風の物語
ヨ−ロッパの田舎町。
どこを訪れても必ず目につくのが、教会の塔と市庁舎の時計塔です。
その「トンガリ帽子」のてっぺんには「風見鶏」が載っています。
この屋根の上の飾り物の歴史はかなり古い。
日本の東大寺の大屋根に金色の鴟尾が載り、仏教による新しい国づくりが始まったのは8世紀ですが、この風見鶏は9世紀、時のロ−マ教皇ニコラウス一世は緩みがちなキリスト教精神の復活をめざし、キリストとペテロの最後の晩餐の故事にちなみ、聖ペテロの苦しみを忘れないようにと、修道院や教会に「鷄」を設置するようにと宣令を下したのが始まりです。
そのペテロの鶏はやがて風見の役割を担い、風見は、船、畑、病、馬、鯨、・・・・と様々なバリエ−ションを持つこととなったのです。

多くのヨーロッパの街の建設の時代はキリスト教が社会を支配した中世です。
「風見鶏」が彩る景観はヨ−ロッパの町並みの大事なモチ−フとなり、現在までの長い間、そこに住まう人々はもちろん、訪れる私達をも楽しませてくれます。
誰もが持つ腕時計なんてない時代、時計はとても貴重です。
町の周囲どこからでも良く見える教会や市庁舎の高い部分の時計塔は、多くの人々に時を知らせる重要な役割を担っていましたが、当時の人々が時刻だけでなく、風の方向を知ることにも、とても熱心であったことについては、現在の私たちは意外に気がつきません。
アテネにあるロ−マの広場に「風の塔」と呼ばれる大理石の八角形の建物が建っています。
水時計と風見が組み合わされた、紀元前1世紀の建築です。

塔の内部の水面の高さで「時」をはかり、屋根のてっぺんのトリトンの右手の杖の位置で「風」の方向がわかるようになっていました。
つまりロ−マ時代の風見鶏は海神トリトンであったのです。
ズングリムックリしたその塔の八つの壁の上部には、吹いてくる風の方向に合わせ、その風を擬人化したギリシャ神話の風の神々が飾られています。
北の壁は北風ボレアス、西風はゼピュロス、南風ノトス、東風エウロスそしてさらに、カイキオス、アペロテス、リップス、スキロンと浮き彫り像が描かれていて、東西南北の四面とその中間の四面を加えた合計八面の壁が正確に方位に方向づけられて建築されています。

花の女神フロ−ラの愛人であった西風ゼピュロスが、ニンフのアネモネに恋をします、その恋に嫉妬したフロ−ラはアネモネを風のひと吹きで散りやすい花の姿に変えてしまった話など、ギリシャの風の神々の物語は、風の恐ろしさ、優し さ、豊穰さ、気まぐれさ、に満ちあふれています。
そのような神々に囲まれた 「風の塔」はアテネの人々の風に対する深い関心と、その都市における生活のなかでの風とのきめ細かな関わりを示しているのです。
さらにまた、「本」や「印刷物」をほとんど手にすることがなかった彼らにとって、風の神々の物語がデザインされた「風の塔」は「一冊の書物」であり大事な「愛読書」となっていたのです。

「愛読書」であったこの建築の本当の役割は「風向計」「風見」であったことは「海神トリトンの杖」が示しています。
ギリシャそして日本でも、古来より風の方向を知ることは、季節を知ることであり、それは「時」を知ること以上にとても大切なことでありました。
やがてくる季節の前触れとなって風向きが変わる、その風を一早く知ることによって人々は、農作業、漁撈作業の開始のきっかけを知り、航海の方向や日程の決定を行なったのです。
つまり人々は目に見えない 「風を見る」ことで、生きていく上での不可欠な「糧」と「リズム」を生みだしてきたのです。
したがって「風の塔」はロ−マ時代のライフスタイルのメトロノ−ムであったといえるようです。

日本に比べ、季節ごとの風の方向が比較的一定であったヨ−ロッパでは、「風の塔」や「風見鶏」の果たした役割は、私たちの予想を超えてはるかに大きいと言えます。
石の塊であるヨ−ロッパの町にとって、湿った夏の熱気と、いてつく冬に吹きすさぶ風をいかにコントロ−ルし、和ませるかは最大の関心事であり死活問題であったのです。
つまり「風見鶏」はヨ−ロッパのどこの町でも、のどかな屋根飾りというより、町づくり、都市計画のための大事な指針ともなっていました。

アテネの「風の塔」がつくられた時代、ロ−マ皇帝アウグスティヌスに使えた建築家ヴィトルヴィウスは、その業績を「全十書の建築術」としてまとめていますが、その書の中に「風の計画」に失敗した都市の例として、レジボス島の都市ミュティレ−ネの話が登場します。
「ミュティレ−ネは壮大華麗な建物で出来てはいますが、位置が予め考慮されていません。この都市では、南風の吹くころには健康を取り戻すが、寒さが厳しいので大路小路には立ち止ることが出来ない。」(ヴィトルヴィウス建築書/森田慶一訳註)
「建築十書」は建築のための技術だけでなく、土木や機械さらに日時計や兵器をつくる話などが網羅されていて、当時の高度で広範、壮大な技術全書であり、現存する世界最古の建築書でありました。

「風の塔」の話も第一書第六章に登場します。
第四章では都市づくりの第一原則は「最も健康的な場所の選択」であると書き、第五章で場所選択の後の都市の塔と城壁の配置と構築の話がつづきます。
そして第六章、「城壁」が巡らされた後の「大路小路の計画」の話となるのです。
ミュティレ−ネの失敗例はここに登場いたします。
大路小路の計画では風向きとその調整の話に終止するのですが、簡単に言えば、まず第一に日時計とコンパスで正確な方位を決定し、アテネのような八角形の「風の塔」を設置しなさい、そして道をつくるときは、その八角形の面ではなく角の方向に合わせなさい、と言うものです。
つまり街路の方向は風の方向と一致させてはいけない、そうすれば北風は挫かれ、押し返され、散らされるであろうということなのです。

ロ−マ時代の都市計画はほとんど「風の計画」であったと言って過言ではないと思いますが、都市計画イコ−ル「風の計画」は紀元前3000年シュメ−ル人の都市に於ても同様であったようです。
というのは、いくつかの都市遺跡の図面を見ますと、不正形に囲まれた城壁の中で、宮殿と砦の位置は決まって全体の北西部分に置かれています。
メソポタミア平原は北東と南西に高い山を持ち、冬の寒さはそこそこと言うことですが、夏の暑さは相当であったようです。
その平原のなかのレンガ壁で囲われた細長いウナギの寝床のような居室部分は決して快適なものではなかったでありましょう。
そのような居住環境にとって最も必要なもの。
それは心地良い北西の風であったに違いありません。