2010年2月8日月曜日

ヴェネツィアのオペラ劇場

ゴンドラ競争や数々の祝典が展開される大運河、ここはいつの時代も大舞台のような様相を示している。運河沿いの豪華な館はまさに着飾った人々が陣取って演技を見る桟敷席だ。
ヴェネツィアはオペラが誕生する以前から、すでに都市そのものが壮大なオペラ劇場であったと言えるようだ。

イタリア半島の都市がスペイン・フランス・神聖ローマ帝国の圧力で次々と君主国家化していく中、ヴェネツィアだけは中世以来の自治を守り、共和国として存続していた。
共和国ヴェネツィアでの祝祭は君主のためのものではなく、どこまでも市民のもの。季候の良い5〜6月に行われるキリスト昇天祭はヴェネツィア最大の祝祭でもあった。
その日、海の共和国であるヴェネツィアは海との結婚の日と見立てられ、その婚儀を祝し、全員参加のフェスティバルとなる。そして、ヴェネツィア中の人々は思い思いの服装と仮面をかぶり、身分や貧富の区別なくサン・マルコの広場に集まり都市と海との結婚を祝し合った。

古代ギリシャの劇場は全員参加の祝祭から演技者と観客に分離した時が劇場の誕生です。
近代劇場もまた同じ。教会や都市の祝祭から市民という自覚をもった観客が誕生し、はじめてその存在理由を明確にしていきた。
マントヴァの宮廷楽長だったモンテヴェルディがサン・マルコの聖歌隊長に再就職したのはそんな時代。彼がヴェネツィア共和国に移ってから次々とオペラを作曲するようになるのは、この都市には宮廷劇場に変わる公共劇場、商業劇場という受け皿が存在したからです。
16世紀末、フィレンツェで誕生したオペラは17世紀になりヴェネツィアの公共劇場へと開催の場を広げ、市民オペラへと変貌していった。
宮廷での祝宴・祝祭に端を発したオペラは、ヴェネツィアでは市民のための祝祭の出し物。宮廷の貴族に変わり、共和国の市民たちが観客が入場料を払い観劇する、商業劇場での演じものとなったのです。

ヴェネツィアはまたグランドツァーの目的地でもあった。
ヨーロッパ各地からやってくる、新しく台頭してきた市民たち、彼らは貴族や僧侶ばかりでなく事業に成功したブルジョワジーの息子たちです。
ヴェネツィアの公共劇場はアルプスの北の国からの人々にとって、ギリシャ・ローマに繋がるアルカディアであり、レモンの花咲く祝祭空間となっていた。
1645年、ロンドンのジョン・イーヴリンは人気になりはじめたヴェネツィアのオペラ劇場に出掛け、その印象を記録に残している。

同時代の日記作家、仕立て屋の息子ピープス氏(ピープス氏の秘められた日記:臼田昭 岩波新書)には不可能であったであろうヨーロッパ大陸のあちこちの漫遊、名家の次男坊であるジョン・イーヴリンはケンブリッジを卒業後、グランドツァーでヴェネツィアを訪れた。
「今夜は座席を予約して置いたので、ブルース卿といっしょにオペラ劇場へ行ったが、そこでは喜劇やその他の芝居が、非常に優れた声楽家や器楽者たちの、歌い、奏する朗誦風の音楽を伴奏として上演された。舞台装置も透視画法技術で描かれた、やはり精巧なものだったし、さらには、空中を飛ぶ機械仕掛けとか、その他いろいろなすばらしい工夫が凝らされていて、要するに今夜観たものは、人間の知恵がこしらえ上げた非常に豪華で、おびただしく金のかかる娯楽番組の一つだった。」(世界オペラ史p38)
イーヴリンの書くヴェネツィアのオペラと劇場は、まだ、始まったばかりの頃、しかし、その後の状況と大きな変わりはない。つまり、市民という新しい観客を得たオペラと劇場はここヴェネツィアを端緒とし、この頃よりヨーロッパ中の都市と生活の中に深く浸透していく。

グランド・ツァーの旅行者たちはヴェネツィアで知った豊かさとプロ精神に育まれたオペラと劇場をヨーロッパ全体の都市と宮廷に持ち帰って行くのだが、彼らが持ち帰った重要な側面は二つある。
それは音楽的側面ではなくむしろ劇場的側面といえるが、一つは透視画法を利用した高度な変換可能な機構を持った舞台背景。二つ目は高価なスペクタクルを維持運営する劇場システムです。
君主となるような突出した貴族が存在しないが故に、共和国を維持し続けることが出来たヴェネツィアでは、有力な貴族と商人が株主となり公共商業劇場を経営した。建設の動機は利益を上げること。
所有者はボックス席を賃貸し、平土間や桟敷席からの収益により俳優や歌手への支払いを賄う、という劇場の維持運営を行った。
このような劇場システムがやがて国家あるいは上層階級全体の助成の上に立った高価でスペクタクルなオペラの上演、そしてヨーロッパ各国の豪華な劇場の維持運営という概念を生み出していくことになるのだ。

ヴェネツィアの公共劇場の最初は、ヴェネツィア領内、ユーゴスラヴィアのレジナ島にあった小さな劇場(現在名ファブール劇場/劇場P95)、1612年に完成している。
本土では1639年ベネット・フェルラーリ設計によりテアトロ・サン・カッシーノが完成が最初となっている。その後1699年までにはヴェネツィアには16もの劇場が建設され、そのほとんどが劇場の建つ教区の名前で呼ばれていて、オペラと劇場の都市内での人気と繁栄ぶりがよくわかる。
これらの劇場は貴族や有力商人が出資者、動機は利益を上げること、劇場では出来うる限り多くの観客席を確保することが最優先となっていた。

貴重な資料がある(図版:音楽の為の建築p61)。ヴェネツィアの名門グリマーニ家が1638年、演劇用に建設した劇場をオペラ用に改造した、テアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ劇場。
ちょうど、イーヴリンがヴェネツィアを訪れた年、1645年に完成した。この劇場はパラーディオのテアトロ・オリンピコ、アレオッティのファルネーゼ劇場をモデルとしてデザインされている。
しかし、古代劇場が原型のオリンピコやファルネーゼでは観客席は傾斜のついた座席であったのだが、フォンターナは観客席を5段に積層するばかりか、平土間(アレーナ)部分も座席で埋めた。
公共劇場はいかに多くの観客を劇場に取り込むかが重要だったのですから当然です。
所有者は積層した部分に桟敷席を押し込め、その一部をボックス席として賃貸する。ここは貴族や富裕の商人がシーズンを通して使用、その為には権利金も必要が、席の背後には客間も設置し、商取引や政治的話し合いが可能な場ともなっていたのです。
平土間部分は当初は立ち見、やがてはベンチそして座席が設けられた。つまり、劇場全体はオペラ好きの庶民の格好の娯楽の場であり社交の場となったのです。

近代劇場の形式はこのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロによってほぼ完成されたと言える。1678年にはヴェネツィア最大の劇場、サン・ジョヴァンニ・グリソストーモ劇場が建設された。テアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロに引き続きグリマーニ家が、今度はオペラ専用の新設の劇場としての建設。
各フロアを小さな桟敷席で構成する観客席はヴェネツィアの劇場の特徴だが、ここでは合計175の桟敷席は1年契約で売りに出され、買い取った上級市民たちはその場所を自由に使うことが許された。
一方、1階平戸間席は各上演ごとに売りに出され、誰でもがチケットを手にし、観劇することができたのです。
グランドツァーのイーヴリンも多分この席からオペラを楽しんだのだと思う。外国からの公使や外交官、はては兵士や将校たち、あらゆる人々がこの劇場でヴェネツィア旅行の思い出としてのオペラを楽しんだ。



(Monteverdi: L'incoronazione di Poppea - Poppea and Arnalta from CzarDodon on YouTube)