2010年1月24日日曜日

ミニョンの故郷、ヴィラ・ロトンダ

十五世紀、ルネサンスの画家が透視画法を用いて生み出した新しい世界、それは理想都市そしてアルカディアです。十六世紀の建築家パラーディオはその二つの世界を建築によって表現しました。テアトロ・オリンピコは理想都市ですが、彼が作ったアルカディアはヴィチェンツァ郊外に建つラ・ロトンダと言う名のヴィラです。「われもまたアルカディアに!」を副題とした「イタリア紀行」を上梓したゲーテですが、彼にとって、ラ・ロトンダは特別に意味深い建築です。実はこの建築、後の研究者たちによって「ラ・ロトンダはミニョンの館」と見なされるようになりました。「われもまたアルカディアに!」は現在ルーブル美術館に展示されているプーサンの絵画に由来します。アルカディアに生きる三人の牧童と一人の少女、4人が見つめている墓碑にこの銘が刻まれています、そして絵のテーマはメメント・モリ。理想郷にも死が存在することを強調し、人生の短さを教え、充実した人生を送るように、とこの絵画はメッセージしています。イタリア紀行のゲーテにとって、この地はただ憧れれば良いアルカディアではなく、日々をより良く生きるための地、自己変革の為の不可欠な旅に他なりません。すでにワイマール公国財務長官の地位にあった若き日のゲーテですが、彼は1786年9月、その職務から逃げようとするかのようにブレンナー峠を越え、アルカディアに旅立ちました。この峠はフランス、ドイツ、オーストリアなどのアルプス北側の国々からイタリアに向かう重要な山道の一つです。ルター、デュラー、モーツアルト、ホルバイン、ニーチェ、ヘッセ、マン、リルケなど、皆、若い日にこの峠を越えイタリアに向かっています。北の人たちにとって、この峠を越えれば、そこは現実のアルカディアであると同時に、より良く生きる人々にとっての必然の場と位置づけられていました。ミニョンは「ヴィルヘルム・マイスター」に登場し、ヴィルヘルムをアルカディアに誘います、まさにゲーテをイタリアに導くかのように。「ヴィルヘルム・マイスター」はゲーテがこの峠を越える前年に書かれた、彼の詩人としての生き方を決定づける、あるいはまた、後の時代の教養小説の原点となる貴重な物語です。物語の中でのミニョンは演劇修業中のヴィルヘルムの旅の共をする不思議な魅力の女の子です。彼女は劇中劇のニンフのように、そこにここにと現れ、物語の進行に関わっていきます。ミニョンと竪琴弾きは人間の認識を超える不可解な力の象徴です、それはある種の対旋律を構成し、その旋律は読み手の心の内外を震わす詩人の役割を果たしてくれています。物語はヴィルヘルムという定旋律に二つの対旋律が絡まり豊かな対位法音楽となって進行していく、「ヴィルヘルム・マイスター」はそんな素晴らしい物語です。
北イタリアの空はどこまでも高く、そよ風はいつまでもさわやか。左手に越えてきたアルプスの山並みを望み、右手にヴェネトの広漠たる平野が横たわる中、まっすぐな大道を馬車に揺られ、ゲーテはミニョンの故郷、ヴィチェンツァに到着するのです。





君知るや、レモンの花咲くかの国を。
小暗き葉陰にオレンジは熟し、
そよ風は碧き空より流れきて、
ミルテはひそやかに、月桂樹は高くー
君知るや、かの国、
いざかの国へ、恋人よ、
いざかの国へともにいかまし。

君知るや、かの家を。円き柱は屋根を支え、
広間は輝き、小さき部屋はほのかに光る。
また立ち並べる大理石像、われを見つめて問う、
「あわれ、いかなる事に出会いし」ー
君知るや、かの家、
いざかしこへ、わが守護者よ、
いざかの家へともに行かまし。
(ウイリアム・マイスターの修行時代、高橋義孝訳:新潮社)

有名なミニョンの歌です。そのミニョンが歌う、「君知るや、かの家を。」その家がイタリアの小都市ヴィチェンツァ郊外に現存する、ヴィラ・ロトンダです。その全体はアルカディアの神殿の趣、1566年、この都市の建築家アンドレア・パラーディオが設計しました(完成は1606年)。
ゲーテと同様、ボクが初めてこの建築を訪れたのも九月半ばでした。澄んだ青空と柔らかい風に包まれ、ヴィラ・ロトンダはまるで現実的な時間の流れを突然止めてしまったかのように建ち、あたりの空間全体はまさに古代詩にあるアルカディアそのもののように思われました。ゲーテはイタリア紀行の中で次のように書いています。「私は町から三十分かかる気持ちのよい丘のうえの金殿玉楼、通称ロトンダを訪れた。上から光線を採った丸い広間を中に囲む方形の建物である。四方いずれからでも、大階段を昇れば、常に六本のコリント式円柱(ゲーテの間違い、イオニア式円柱)によって作られた玄関に達する。」(イタリア紀行:上:岩波文庫p78)ヴィラ・ロトンダ(図面:建築四書p162)の建築的特徴はその完璧な形態にあります。中央の広間は正円、広間を囲む正方形の内部空間、その外側には四面均等にイオニア式の六本の列柱が立つギリシャ神殿風のロッジア(列柱を持つ屋根が架けられているが、外部に開放されているポーチやギャラリー)となっています。四面のロッジアにはどの面もまた均等に、幅一杯の階段が設置されています。中央の円形広間の中心に点を取れば、建築の全ての部分はこの点による点対象。そして、この中心点にはアルカディアの牧神パンの顔が雨水抜きの穴飾りとしてはめ込まれています。円形広間の中心点の床から牧神パンが見上げる天井は球形のドームです。この地点に立ち四方を眺めれば、どの視線も広間をこえ、ロッジアをこえ、無限の彼方まで突き抜けていきます、まさに自分自身が世界の中心にいるかのように感じられる不思議な空間です。