2010年1月28日木曜日

倫敦から来た男


そっけない狭い階段を降りて地下の映写室へ。 まさに、映画マニアのアジトのような趣だが、客席のイスはゆったり、そして柔らかい。 大きすぎないスペースは暗闇の中の映像と親しむにはぴったりだ。(渋谷、シアター・イメージフォーラム) この初めての劇場で見た映画は「倫敦から来た男」。 その印象もまたこの劇場にピッタリ。 息の長いクローズアップによる心理描写。霧笛、靴音、波音、教会の鐘の音を鮮明に響かせ、モノクロの映像とシンクロし、サスペンスは光と影の中を進行していく。 映画の原作者はかってよく読んだ「メグレ警部」の原作者ジョルジョ・シムノン。 今日は久しぶり、彼の小説世界を映画で味わえると思い楽しみにしやってきた。 そして、100%満足した。映画はまさしく、あのシムノンの物語世界そのもの。 監督はハンガリーの鬼才タラ・ベーラとある。 ニューヨークのMOMAやパリのルーブル美術館で上映される芸術監督。 小説で読むなら1時間足らずの掌編だろうが、2時間半という特異の時間を監督は小説の中の息づかいまで細かく描き出し埋めて行く。 その特異の時間はまさしくシムノンそのもの。 サスペンスの中に浮上する人間の持つ脆さと哀しみ。 光と影のドラマは静かな波音と霧笛に始まり、終わって行く。

2010年1月18日月曜日

ミレニアム  スティーグ・ラーソン


なんと言ってもスウェーデン・ミステリーであるところがこの映画の魅力だ。かって、「笑う警官」を筆頭とした警察官マルティン・ベック・シリーズを愛読していたものにとっては「ミレニアム」は待望のミステリーなのだ。なにが魅力、それは、アメリカでもイギリスでもフランスでもない、スウェーデンの、あの特異な社会変遷と重厚な空間感覚のなかに浮き沈みする人間像にある。マイ・シューヴァルとペール・ヴァール夫妻はかって警察官マルティン・ベックを書いてミステリー・ファンを唸らせた。「ミレニアム」もまた同じ。雑誌編集者であるスティーグ・ラーソンは女性編集者をパートナーとし、自分自身の経歴と同じミカエルという人物を中心に据え、現在のスウェーデンという社会の中の人間の持つ暗部を描き出して行く。映画にもなった「唾棄すべき男」を含めマルティン・ベックはシリーズ化され10冊あまりの名作となった。「ミレニアム」は3冊だ。編集者ミカエルと背中にドラゴンのタトゥを入れたリスベットという特異で謎の女性をコンビとしたシリーズは3冊出版された。しかし、作者ラーソンは既に亡くなった、シリーズの成功を知ることもなく、6年も前のこと、享年50歳、心筋梗塞と報じられている。ミレニアム・シリーズは全て翻訳され今やベストセラー。しかし、ボクはまだ小説は読んでいない。その評判に追いつかず、本を読む間もないうちに映画は封切り、その二日目の今日、何はともわれ映画館に飛び込んでしまったからだ。予想通り映画は重い。孤島に建つ館とその周辺の冷たい海、もうそれだけでミステリー。物語は富豪の孫娘を捜す話、しかし、戦時を含み富豪大家族が持つ様々な人間模様、犯人が仕組んだ福音書の中の謎、踏み込んでいくのは主人公の編集者と若い女性、彼らとて容易に読み取れない特異な経験と体臭を放つ。そして、IT機器に埋まった海辺の小さな木造小屋、この小屋こそ「ミレニアム」と「我々」を繋ぐ特異なインターフェイスに違いない。

2010年1月5日火曜日

川喜田半泥子展


人生に余裕があるからと言ってしまえば、それまでだ。 半泥子は銀行経営者としての仕事の合間を、好きなことに、徹底的に使った。 それも全てパソコンの中のデータのような希薄なものではなく、実在するかたちをモノとしてのこした。 お金があっても、お金の使い方を知らない人が多いと聞く昨今、半泥子展は、かっては存在していた、ある種のライフスタイルを明快に示す貴重な展覧会であったと考えている。 多芸多才であるから可能であったとは考えたくはない。彼は一つ一つの時間を、想いを、出会いを、こよなく慈しみ、楽しんだ人であるからだ。初めて膨大な作品群を一望のもとに見させていただき、彼が作りえた唯一無二の世界、その成果と作品群に圧倒されました。 焼き物が中心の展覧会であることは予想していた。 偶にしか触れることのない作陶、ほとんど知識を持たないボクにとってのことだが、今回はいつになく、入念に一つ一つの作品を見る機会となっていた。面白かったのだ。作品はバラバラだ、しかし、バラバラゆえに様々な世界が見えてくる。 写しの本家もスタイルの元も知らないボクにとって、その世界から、心の赴くままの自由、好きなものへの熱い想い、がひしひしと伝わってくる。 と同時に、その中にある、ある種の秩序、あるいは言葉も強い親近感をもって伝わってくる。 カタログを読むと展示のための作品整理は厄介な仕事だったとある。 そうだろう、しかし、結果はわかり易い、楽しい展示であった。企画者の苦労があったからこそ、ボクは半泥子の世界に踏み入ることが出来たと考えている。 小展示だがもう一つ興味を惹かれたのは建築だ。 上手・下手ではない、彼の関心に。 彼は建築を良く調べている、良く見ている、好きなんだなと思わせる。 1・2階の高さに極端な違いがある西洋風木造自邸。 正確で繊細なバランス感覚を持った祖母の為の紅梅堂。 当時流行ったであろう部材の細い五十八風のきれいさびの住宅。 どの建築も好き勝手を超えた建築の面白さが表現されている。 会場を後にし、久しぶりに一丁目から京橋にかけてのギャラリーを見て歩いた。 この界隈には若いアーティストの作品が一杯ある。 しかし、そんな新鮮な作品に沢山触れてはきたが、頭の中は終止、半泥子の世界で一杯だった。 なんなんだろう、この充実感。多芸多才、好きなこと、気になることを次々と作品にする健康さ、その表現力。 しかし、その一つ一つは単なる遊びではない、強い言葉だ。 つぶやかれた言葉の一つ一つは、見るものに限りない充足感を与え、語りかけてくるのだ。 「もっと楽しく、愉快に1」。