2010年1月31日日曜日

ヴィラ・バルバロ、その建築の物語














ヴェネツィアからは北西方向の内陸部、アゾロ丘陵の麓にマゼールという小さな街がある。
人口5000人足らずのこの街の外れに16世紀の建築家パラーディオが設計したヴィラ・バルバロが建つ。
北斜面を埋める針葉樹の木立を背景として、このヴィラは鮮やかな色彩を放ち、まるで絵本を飾る建築のような趣だ。
イオニア式の四本の円柱を持つギリシャ神殿のような主屋を中心とし、左右はロマネスク風の正円アーチのロジア(開廊)が連なる。
そしてロジアの両端部はともに日時計を持った鳩小屋という建築。
このヴィラはヴェネツィアの貴族バルバロ兄弟がパラーディオに依頼し建設した。
バルバロ家の二人はともに英国やフランス・トルコの大使を務めるヴェネツィアの重鎮。
兄ダニエーレはヴィトルヴィウスの注釈者としても有名であり、弟のマルカントーニオもまた美術好き、彫刻や機械、彫刻等に深い関心を持っていた。

16世紀、ヴェネツィアを抱えたヴェネト地域のヴィラは現在のリゾートハウスとはいささか異なる目的を持っていて、この地域のヴィラは都市からの休養のための自然生活の場ということより、農業経営のための拠点としての役割を担うことにあった。
アドリア海そして地中海を支配しつづけたヴェネツィア貴族だが、その支配が揺らぎ始めたこの時代、彼らは内陸部の農業経営に力を入れ、新しい時代を生きる術を模索していのです。
海の貴族が陸の支配をも目論む建築は、農地や自然というカオスの中にあっても、人間的コスモスを強く意識付けるメッセージが必要、従来のキリスト教建築とは別種の建築的世界を生み出すことが不可欠であった。
その為にはヴィラには自然の中に屹立する人間的秩序世界を象徴する物語が求めら、都市に建つパラッツォ(邸館)と同様、多くの知識人による知的コミュニケーション(社交)が可能な場とならなければならなかったのです。
従って建築設計上のポイントは居心地の良い空間を生み出すと言うことより、新しいライススタイルと知的な人間関係を生み出す社交の場、キリスト教会とは異なるある種の劇場空間となることを目指していた。


主屋の正面に立ち、振り返ると視線は一直線にならぶ木立の列に導かれ無限の一点に消えて行く。
透視画法が生み出す絵画的手法はこのヴィラが神(自然)の支配から離れた人間的世界そのものであることを示している。
透視画法はルネサンスの人間中心主義の象徴、そしてその焦点(中心)に建つのがヴィラ・バルバロの主屋です。
ヴェネツィア貴族バルバロは広大な自然を農地として従え、そのまっただ中に神の力をよらずして自らの館を構える。
左右対称な建築の広がりと十字をなす真一文字の視線の交錯により、自然である無秩序世界(カオス)を秩序ある人間的世界(コスモス)に転換したのです。
しかし、16世紀の時代意識はもはや、やみくもに古典を引用すれば良い時代とはいささか異なっていた。
ヴィラのデザインは黄昏のルネサンス期、バルバロ兄弟が発したオリンポス神話を引用した諧謔的メッセージです。
古来より、建築は詩や音楽同様、様々な物語を語るメディアでもあるのですが、このヴィラは農業神を表象する神話を建築空間と絵画空間を交差させ、リアルでありイリュージュナルな神話と現実を共存させることで物語っています。

このヴィラの主屋の正面には玄関はありません。
入り口と目されるものは一階の厨房のための勝手口に過ぎず、本来の玄関は主屋の裏側の階段を昇った二階部分です。
階段は左右対称のロジアの両側に設置されているが、昇り切ると小さなホール、しかし入り込んだ途端、あっと息を飲まされる。
一瞬のうちに、前後左右のあらゆる壁面からこのヴィラの住人たちと思われる人々の鋭い視線に射すくめられてしまうからです。
入り込んだ世界はバルバロ家の日常世界のまっただ中。
奥方と太った小間使い、少年と遊ぶ小鳥に子犬、そして扉を開き挨拶に出る召使いと可愛らしい少女、奥の扉からは狩りから帰ったばかりの猟犬をつれたご主人の姿。
描かれるのは住人たちだけではない、日常の掃除道具や小物、現実の扉と絵画の扉が混在したイリュージュナルな絵画空間となっている。
そこでは眺める自分自身も絵画の中、リアルな自分も幻像化し真実と虚構が共存するドラマの中に巻き込まれる。
つまり、ヴィラ・バルバロは多くの人々が真実であり虚構であることにより発生する、豊かなコミュニケーションスペース(社交)、劇場空間なのです。




ヴィラの内壁のフレスコ画は画家ヴェネローゼによって描かれている。
施主バルバロは建築家パッラーディオ、彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリアそして画家ヴェネローゼを制作スタッフとして、このヴィラを完成させた。
当代きっての三人の芸術家に託したヴェネツィア貴族による陸支配への意欲、それは並々のものではないことが良くわかる。
そして次に、バルバロが託した陸支配の意味、この建築が表現した劇場的世界そのものの意味を読み解いてみたい。
キーとなるのはパッラーディオが表した彼の著書「建築四書」。
その中でこのヴィラに触れパラーディオは次のように書いている。
「上階の部屋の床面が背後の中庭の地盤面と同一平面にある。その中庭には、家と向かい合った丘に泉が掘りぬかれ、スタッコ細工と絵画による大量な装飾が施されている。この泉は、小さな池となり、これは養魚池として役立っている。そこから溢れ出る水は、台所に流れ込み、それから、建物に向かってゆるやかに上昇してゆく道路の左右にある庭園をうるおし、二つの養魚池を形づくり、公道に面して、家畜の水呑場も設けられている。そこから溢れ出た水は果樹園をうるおしているが、この果樹園はひじょうに広大で、極めて良質の果樹や、さまざまな雑木が豊富に植えられている。」
建築書での解説だが、内容はヴィラの背後の山裾から溢れ出る水のいく末ばかりです。
そう、陸の支配を意味付けるこのヴィラのテーマは「水」にあるのです。


ヴィラの背後の山裾から溢れ出る水は神々に導かれ、水の精ニンフに守られる池、ニンファエムに蓄えられる。
グロテスクな神々とニンフを祭るニンファエムは彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリアにより作られた。
そして入り口ホールの北側、主屋の最後尾に配されているのが、このヴィラの最も重要なスペース、オリンポスの間。
オリンポスの間がバルバロが陸支配をメッセージする建築の始まりであり、ヴィラ全体の物語の中心です。
ニンファエムと中庭を挟んで、同じ床の高さで対峙するこの部屋こそ、新たな生命の誕生と豊かな人間生活を保障する神々の世界と意味付けられた。
入り口ホールから南、主屋の生活あるいは社交空間はすべてオリンポスの神々と共にある人間的世界。
そこからの眺めは先に触れた木立による透視画法によって秩序づけられた農業空間。
ニンファエムから湧き出る水はヴィラの神々に導かれ前庭の噴水となり、さらに敷地を通過し一直線に田園地帯(無秩序な自然ではなく、人間の秩序支配により生み出された農業地)に導かれる。
田園に流れ出る水は地をうるおし、安定と繁栄を約束するもの。
東洋でも同じですが、水は生命あるいは再生のシンボルです。
自然の中のニンフやサチュロスもまた生命・再生をイメージさせる小神たち。
海の覇者であったバルバロは時代に追いつめられての農業経営ですが、かっての栄光の再生をこのヴィラを建築することで祈願したのです。

2010年1月28日木曜日

倫敦から来た男


そっけない狭い階段を降りて地下の映写室へ。 まさに、映画マニアのアジトのような趣だが、客席のイスはゆったり、そして柔らかい。 大きすぎないスペースは暗闇の中の映像と親しむにはぴったりだ。(渋谷、シアター・イメージフォーラム) この初めての劇場で見た映画は「倫敦から来た男」。 その印象もまたこの劇場にピッタリ。 息の長いクローズアップによる心理描写。霧笛、靴音、波音、教会の鐘の音を鮮明に響かせ、モノクロの映像とシンクロし、サスペンスは光と影の中を進行していく。 映画の原作者はかってよく読んだ「メグレ警部」の原作者ジョルジョ・シムノン。 今日は久しぶり、彼の小説世界を映画で味わえると思い楽しみにしやってきた。 そして、100%満足した。映画はまさしく、あのシムノンの物語世界そのもの。 監督はハンガリーの鬼才タラ・ベーラとある。 ニューヨークのMOMAやパリのルーブル美術館で上映される芸術監督。 小説で読むなら1時間足らずの掌編だろうが、2時間半という特異の時間を監督は小説の中の息づかいまで細かく描き出し埋めて行く。 その特異の時間はまさしくシムノンそのもの。 サスペンスの中に浮上する人間の持つ脆さと哀しみ。 光と影のドラマは静かな波音と霧笛に始まり、終わって行く。

2010年1月25日月曜日

シュルレアリスム絵画と日本(NHKブックス/速水豊)

「シュルレアリスム絵画と日本」(NHKブックス/速水豊)を読む。
日本の絵画史において西洋の近代を支えるシュルレアリスムをどう受容したか、
大変興味深いテーマ、早速読んでみた。結果として、ヨーロッパが問題とした真の近代性、反芸術性は日本の絵画の中では一切受容されていなかった。
つまり、芸術家たちのバイブル、瀧口の近代芸術は本の中だけの話。しかし、日本の画家たち個々人の超現実主義が個々の絵画として作品化されたことだけは事実、著者は新たな絵画の触媒となったと結び、慰みとも聞こえる、一定の評価を与えている。
西洋の近代主義が徹底されていない日本の現代芸術あるいは表現領域、ポストモダンといわれる現在、美術・建築・デザインが発する言葉やイメージは相も変わらず、商業的差別化戦略の道具に終始するしかないのだろうか。
デザイン時代と言われて久しい、しかし、19世紀のロマン主義を超えられない我々のデザインセンス、デザインは益々矮小化していると言わざるを得ない。

2010年1月24日日曜日

ピーター・クライムズ


ボクにとっては今日が3作目。ネトレプコのジュリエット、マッティラのマノンそして今回30日に品川プリンスシネマでグリファーとラチェットのピーター・グライムズ(メトライブビューイング2008)を楽しんだ。ブリテンのオペラは初めてだ。19世紀末プッチーニ以降のオペラでは今回が一番わかりやすい。ドラマはともかく、ブリテンの音楽は聞き慣れた歴史的音楽に近く絵画的であるからだ。作曲者が住んだオールドバラに似た小さな漁村がドラマの舞台。不幸な漁師と口さがない住民たちのうわさ話がリズミカルな音楽に乗って的確にドラマを盛り上げて行く。

20世紀、小さな貧しい人間集団を秩序立てるものは何なのか。中心が見えない中での唯一の力、支配し意味を持つものは住民たちの疑心暗鬼とうわさ話。主人公ピーター・グライムズは説明出来ない自己の持つ真実と無責任な他者の虚言に翻弄されやがて自己を失う。登場する村民の姿一つ一つは今を生きる私そのものに感じられる。そして狂い惑う主人公もまた現代を生きる全ての人間を象徴しているかのようだ。メト会場の観客のような熱狂的なスタンディングオベーションの情景とは相反するが、不思議な感動が胸を打ち、心豊かのまま午後11時降りしきる雨の中、品川駅へと急いだ。

2010年1月21日木曜日

ヴィラ・ロトンダとアテネの学堂

 
 「パラーディオはラファエロが古代ギリシャを描いた絵に表明した理想に相通じるものを現実に作り出そうとした」(都市と建築:ラスムッセン:東京大学出版p68)と北欧の現代建築家ラスムッセンは書いている。ラ・ロトンダとラファエロの描く「アテネの学堂」はその空間構成において全く同相であると指摘しているのだ。
  彼は、「アテネの学堂」と「ヴィラ・ロトンダ」の違いは、絵画にあっては全体が一目で見渡せるが、建築においてはその歩みによってしか体験できないことの違いだけであると言っている。大変面白い指摘です。
ブルネレスキのサン・ロレンツォ聖堂は建築体験が絵画を眺めることと同質であること示していた貴重な建築だが、ラスムッセンは逆に絵画を眺めることは建築体験と同相であると言っているのです。「アテネの学堂」の絵をじっくり見てみよう。
確かに、この絵画の中には「ヴィラ・ロトンダ」の建築体験が描かれている。
ロレンツォ聖堂とこのラ・ロトンダからルネサンス期における、絵画と建築の違いをどう理解すればよいのか。
絵画の中の空間と建築体験する空間は全く同質のものなのだ。
絵画と建築の違い、それは種類の違いではなく手段の違いであると考えれば良い。
一見、当たり前の話だが、ラスムッセンの指摘は大変重要。
彼はルネサンスの透視画法は等方等質空間の中にシンボルを配置することによって生まれる、全く新たなイマージナルな空間(虚構の空間)、ということを指摘しているのだ。

立ち戻れば、ルネサンスの画家や彫刻家を夢中にさせた透視画法の空間は神の絶対的支配を逃れた人間中心の空間にほかならない。そして、その空間の発見により絵画はシンボルを画面に配置することで、実際の建築を作る以前にイマージナルな空間を体験させることが可能となった。絵画は建築同様、空間を生み出すことが可能になったのだ。あるいは絵画は建築することなく建築を生み出すことが可能性になった。

ラスムッセンはラファエロの絵画空間からパラーディオの建築空間が読み取れると書き、ブルネレスキは建築空間を透視画法の絵画として作った。理解を複雑にしているのは、我々はルネサンスの透視画法の空間を理解せず、ルネサンス以降の舞台背景を含め、絵画的なイリュージュナル幻想的な空間のみを透視画法の空間、あるいは絵画空間とみなしていることにある。

ルネサンスの画家や彫刻家を夢中にさせた透視画法の空間は神(キリスト教)の絶対支配を逃れた人間中心の空間。その空間の発見によって、絵画と彫刻の役割が分離し、絵画はシンボルを配置することで、実際の建築以前に空間を体験させることが可能となった。
つまり、ブルネレスキは建築空間を透視画法の絵画として作ったのであり、ラスムッセンはラファエロの絵画空間から建築空間が読み取れると書いている。

イマージナルな空間とイリュージュナルな空間、どちらも虚構の空間であることは変わらない。しかし、前者は想像的自由な空間、後者は人為的に生み出された幻想的な空間だ。後者だけを絵画空間とする現代人はルネサンスの絵画と建築は表現手段が違うだけで、全く同相にあることを理解しようとしない。

透視画法の空間はブルネレスキからベルニーニに至る二百年の間に大きく変わる。それはルネサンスとバロック。美術史を理解するための主要テーマだが、ここでは前述したイマージナルな空間がイリュージュナルな空間へと変容していったと理解出来る。つまり、ルネサンス絵画とバロック絵画、その二つの空間は全く違うものと考えれば、ラスムッセンの説明が理解できるだろう。

中世における絶対的神の世界の揉縛から逃れ、人間中心の世界を標榜したルネッサンス人の賛歌である「アテネの学堂」がヴィラ・ロトンダの直接のモデルであったかどうかはパッラーディオの「建築四書」からはうかがえない。しかし、署名の間を飾る「アテネの学堂」が円形に縁取られたプロセニアム・アーチ舞台に設置された額縁の中の演劇的構成を持っているように、ヴィラ・ロトンダもまた劇場のような敷地環境の中にあって、舞台背景となるように設計されたことだけは間違いない。



アテネの学堂 from kthyk on Vimeo.



(via Vimeo by kthyk)

2010年1月20日水曜日

建築四書のヴィラ・ロトンダ

古来そして現在でも、イタリア建築の中のヴィラは緑豊かな自然風景を長閑な人間的風景に変える空間装置です。特に、ヴェネトやトスカーナを旅するとき、田園風景はヴィラが垣間見えることによって一気に好ましさが強調され、忘れがたい景観となって記憶される。
ローマの時代から郊外所有地に建つ住居がヴィラだが、ルネサンス期には都市のなかのパラッツォ(宮殿あるいは邸館、公的な空間)に対するヴィラ、つまり、ヴィラは田園の中の私的な空間を意味する、と同時にその役割とデザイン方法の違いは明確に意識づけられていた。特にパラーディオのヴィラは現在でいう、リゾートハウスとはかなり異なる役割をもっていた。
ヴィラは都市中のパラッツォとは異なり、私的であり人に安らぎをもたらすものだが、産業や農業などにより資産を増やすための建築、とパラーディオは書いている。つまり、ヴィラは農業経営の為の拠点、特に海の権益を奪われつつあったヴェネチア貴族にとっては陸に作った船なのだ。
パラーディオはヴェネト地方に沢山のヴィラを作るが、大半は農業活動用の建築、納屋や小作人の住居さらに農作業の為の作業庭を持つものも少なくない。その中の一つ、ヴェローナ近郊のヴィラ・サレーゴは現在はヴェネトワインの生産拠点、毎年多くの人が訪れる有数のワイナリーとなっている。しかし、ヴィラ・ロトンダには生産活動の為の施設が一切ない。この館はもっぱら社交や慰安のための建築、あるいは田園にあってパラッツォを補完する都市的建築と考えなければならない。

パラーディオにはアルベルティの「建築論」に負けない自著がある、「建築四書」。名前からも明白のようにアルベルティ同様、古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスの「建築十書」をモデルとし、パラーディオ自身が後世に残した。
「四書」の中でパラーディオは当然、ヴィラ・ロトンダに触れているが、彼はこの建築をヴィラの項ではなく、都市住宅パラッツォの項に掲載している。
「この建物は町ほど近く、ほとんど町のなかにあるといってよいほどなので、私は、これをヴィラ建築のなかに入れることが適切とは思われなかった。敷地は、考えるかぎり美しく、快適なところである。というのは、きわめて登りやすい小さな丘の上にあり、一方の側は、船が通えるバッキリオーネ川によってうるおされ、他の側は、きわめて美しい丘陵地で取り囲まれて、まるでおおきな劇場のような形になっており、また、一面耕されていて、きわめて良質の果物と、きわめてみごとなブドウの樹で充満している。それゆえ、ある方向では視界が限られ、ある方向では、より遠くまで見え、また他の方位では地平線まで見渡せるという、きわめて美しい眺望をあらゆる側から楽しめるので、四方の正面のすべてにロッジアが作られている。」(パラーディオ「建築四書」注解:桐敷眞次郎p162)



この建築の建主は「四書」によれば聖職者パオーロ・アルメーリコ、ピウス四世と五世の司法官をつとめ、その功によりローマ市民権者たることを許されたとある。しかし、行状は決してよろしくなく、ヴェネツィアの牢獄に監禁されたこともあるようで、建物は未完のまま、オドリコ・カプラに売却された。

ゲーテが訪れた時のロトンダはヴィラ・カプラと言う名称で呼ばれていた。この時代はオドリコの子孫の所有だったが、その後カプラ家も血統が絶え、建物は悲痛な目にさらされてい。しかし、今世紀に入りヴェネツィア貴族を継承するヴァルマラーナ家に買い取られ、以後十分に修復保護され、建物と環境は十六世紀の姿を今日に残された。

都市住宅でもなければ田園住宅でもない、この特殊な建築状況が反映されたが故に、ヴィラ・ロトンダは完璧な形態が意図されたと考えらる。

この建築とその周辺環境には様々な寓喩による物語が付与されている。それは田園に建つ都市住宅という特殊性が生み出していることだと「パッラーディオ」を書かれた福田氏は指摘している。
都市とは本来、集落から訣別した特別な空間を意味する。そこは利便や効率のための場所であることより、動物とは異なる人間が<人間として生きる特別な場所>と考えなければならない。つまり、都市に建つ建築は文化的内実が備わってこそ「建築」であって、単に機能や利便に供するのみなら、それは集落の住居であって「建築」ではないのだ。このヨーロッパの都市と建築に対する貴重な見識、ボクはそれをトマス・マンの「リューベック」を読み教えられた。
都市的な生活の場であるヴィラ・ロトンダは田園にあっても文化的、人間的世界。あるいは作品的、虚構の世界でなければならない。そしてイメージされるのは当然アルカディア。ヴィラ・ロトンダはアルカディアとして作られた舞台空間であると理解することが重要だ。

まず完璧な対称性、四面の同一の形態は何を意図しているのか、それは特定の場所と方向性の否定、「アテネの学堂」と同様な等方等質なルネサンスの舞台空間。そして舞台に配されるシンボル、それは「四書」にも書かれている古代神話に由来する彫像の数々。四つのペディメント(ロッジアの三角形の破風端部)には三体ずつ十二体。階段の上がり口には二体ずつ八体の等身大の彫刻像。それらは個々に神話から由来するアレゴリー(寓喩)として機能しているが、その全体は円形広間の中央水抜孔のパンを始めとしてアポロンやヴィーナス、ジュピター等々による物語となっているのだ。それはアルカディアに隠棲するミダス王の物語。ヴァネツィアに捕らえられた施主であるアルメリコはミダス王と同じように、アルカディアの住人となって故郷ヴィチェンツァ隠棲するための館、それがヴィラ・ロトンダに付された物語であった。



( La Rotonda on YouTube)

アイーダ

b0055976_2152318.jpg


新国立の最早定番、3月10日オペラ・アイーダは開幕した。アイーダ役はすでに新国立3回目、ノルマ・ファンティーニ、ラダメスは初登場のイタリア人マルコ・ベルティ、このオペラでのボクの好みはアムネリスの歌だが、その役もまた新国立初登場のマリアンナ・タラソワ。3人ともまさに完璧だ。美しく、逞しく、よく響き、たっぷりとオペラの醍醐味を堪能させる4時間、舞台もオケも申し分なし。苦労して手に入れた切符だが、苦労のしがいがある素晴らしい公演だ。人気になるのは当然、これだけのオペラを東京で堪能出来るのだ。オペラファンでなくとも一度は聞いてみたい、あるいは見てみたい舞台のはず。そして初めて訪れた人々もこの公演以降は間違いなくオペラにはまるに違いない。そんなこんなを実感させる申し分のないオペラの楽しみ。 

2010年1月18日月曜日

ウォッチメーカー ジェフリー・ディーヴァー

ジェフリー・ディーヴァは現代アメリカのベストセラー作家だが、このミステリーが初めてだ。 amazoneのプロモーションに乗りpaperwhiteにDLした。 
さすがにベストセラー。 ニューヨーク、ロワーマンハッタンのチェルシー埠頭に残されたクラシックな置き時計がドラマの始まり。 死体はハドソン川だろうか、残された置き時計だけがチクタクと時を刻む。 
しかし、ドラマの魅力は、よくあるサスペンスの刻々と動く針音ではない。 時計というメカニカルな装置の持つ徹底したコンプリケーションがテーマとなっている。 時を刻みドキドキさせるのは時間ではなく、自分自身の身体がこのドラマの中に引き込まれ、登場する多くの刑事たちと一緒に謎解きに参加しているという感覚。 
この楽しみは映画では味わえない。 映画ではどこまでも自分自身はドラマの外側にいて、刑事たちの動き回る街や状況を文字通り動画として眺めているに過ぎない。 しかし、ウォッチメーカーではドラマの中、読んでいると言うより参加しているのだ。 
この人気作家の作品の映画化が少ないのがよく判る。 彼は小説は映像では描けないドラマの臨場感を文章にしている。 そんな小説を日本語にしてくれている訳者も素晴らしい。
 ボクにとってはニューヨークはたった二度しか無い体験だが、 彼の小説は その空間と時間体験をまざまざと蘇らせてくれる、驚くべき魅力だ。 
追加コメント 「ウォッチメーカー」投稿後の昨晩、ディーヴァの「ボーン・コレクター」をレンタルビデオをで観た。 デンゼル・ワシントンのライムとアンジェリーナ・ジェリーのサックス。 好きな二人の共演、見逃せないと思い早速借りてみた。
しかし、成功しているとは思えない。 小説にある知的な部分がエキセントリックで残酷なイメージの連続となってしまっている。
マンハッタンも夜のシーンばかりで、小説にあるマンハッタンのの喧騒が描かれていない。 ディーヴァの作品は映像化するより、電子ブックの中の想像世界として楽しむのが良さそうだ。
 作者が映像化したくないの良くわかる。彼の小説は映画の素材として地味すぎ映像化しにくい。映像の押し付けではなく、文章のイメージをいかに描くかがミステリーやサスペンスの映画化の役割と言える。 

2010年1月16日土曜日

アカデミア・オリンピカ


16世紀後半、北イタリアの小都市ヴィチェンツァにヨーロッパ最初の近代劇場、テアトロ・オリンピコが建設された。フィレンツェにオペラが誕生する14、5年前のこと。
ヴィチェンツァの劇場とフィレンツェのオペラ、ルネサンスの黄昏期に誕生した音楽と建築は、どちらも当時はやりのアカデミアが生みの親、今日はこのアカデミアについて触れてみたい。
アカデミアとは貴族を中心とした知識人の集まりです。15世紀の半ば、ナポリやフィレンツェの文化人(ヒューマニスト)たちが、ギリシャ・ローマ時代の詩の文体を模倣し研究することから始まったのがアカデミア。

新しい時代の担い手である自由都市市民は、中世キリスト教社会の聖職者に代わり、正しい人間の生き方を学び得る場を必要としていた。アカデミアはそんな必要を満たす教会や修道院に代わる大学のようなものであり、ポポロ・グラッツ(大市民)と呼ばれる有力市民たちの文化サークル。そして、16世紀後半にはアカデミアは学問の研究というより、様々な考え方を討論実践する場、文化活動運営の為の都市市民の集まりとなっていく。
つまり、そこは学ぶ場というより社会的貢献の場であった。豪華絢爛、趣味と娯楽の集大成、その後のヨーロッパ社会には欠くことのできないオペラと劇場だが、それを生み出すきっかけは「貴族の責務」としての音楽や建築、絵画や彫刻等、様々な作品を制作し上演しようとする文化活動、つまり、アカデミアの活動にあったと言える。
15世紀から16世紀のイタリア半島は中世キリスト教社会とは異なる新しい世界の創造に蠢いていた。文芸復興は単に、古代回帰だけを目指していたのではない。ポスト・キリスト教時代の新しい神、新しい生き方、新しい芸術を探していたと言える。その模索の中心となったのがアカデミアだ。
アカデミアの流行はこの時期のイタリアがいかに新しい世界の創造に躍起となっていたかの証でもあり、と同時に、アカデミアから生み出されるおびたたしい作品群、美術そして音楽や建築、当時の作品が持つ創意と工夫は、現代の作品に見られる趣味と娯楽とはほど遠いものといえるかもしれない。作品は個人に帰するものではなく、集団としての人間が如何に生きるべきかのメッセージとみなされていたからに他ならない。

アカデミアは神から離れた人間が人間として如何に生きるかを古代の詩編やドラマを通し模索していたと考えて良いのだが、その成果の一端がギリシャ悲劇やローマ時代のラテン喜劇の上演となって表れた。そして十六世紀後半、その上演の姿を変えたものがオペラや劇場を生み出して行く。つまり、フィレンツェそしてヴィチェンツァでのオペラと劇場はこうしたルネサンス以来の主知的な理論理性が生み出したもの。従ってオペラ誕生の契機となった「オルフェオの物語=エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、美しいメロディや華々しい音響効果以上に、詩の意味、言葉の中身をいかに的確に伝えるかが重要であったと理解される。

アカデミア・オリンピカは、ゲーテの時代も、そして現在も健在。ヴィチェンツァを訪れたゲーテはこのアカデミアに招かれている。1500名もの人を集めてのその日の演題は「創意と模倣のいずれが美術のためにより多くの利益をもたらしたか」という議論であったとイタリア紀行には書かれている。(イタリア紀行・上p80)
1556年創設のこのアカデミアは1561年とその翌年、ヴィチェンツァの大会堂・パラッツォ・デッラ・ラジョーネの二階大ホールで、シエナの古典学者ピッコロミーニのラテン喜劇「変わらぬ愛」とヴィチェンツァの文人トリッシノの悲劇「ソフォニスバ」を上演した。(その情景はテアトロ・オリンピコの前室の欄間を飾るグリサイユに残されている。)
公演の舞台はパラッツォ・デッラ・ラジョーネ、後のロッジェ・ディ・バシリカ。この建築とテアトロ・オリンピコは、共に建築家パラーディオの設計、どちらの建築も依頼者のアカデミアと同様、現代も当時と同様活動している。

テアトロ・オリンピコ誕生の20年あまり前、パラッツォ・デッラ・ラジョーネでの公演の時、ラジョーネ自体もまだ改装中だった。
アカデミア・オリンピカは会場の建設と公演費の捻出で火の車であったようだ。しかし、幸い「変わらぬ愛」と「ソフォニスバ」の公演は大成功をおさめた。
多すぎた観客を一度には収容しきれず三度も上演が繰り返されたと「パッラーディオ」の著者、福田晴虔氏は書かれている。(パッラーディオ/p17)

ソフォニスバはカルタゴ将軍の娘。ドラマは政争の道具となり数奇な運命をたどるが、最後はローマ人の手を逃れようとして自殺するという悲しい話。
ヴィチェンツァの市民たちは「都市」と我が身をこの将軍の娘に置き換えていたに違いない。だからこその大ヒット。そして、この公演の成功が近代最初の常設劇場を作らせるきっかけとなったのです。

アカデミア・オリンピカは資金難のため何度か工事を中断し、ヴィチェンツァ市当局との交渉に明け暮れた。しかし、新しい時代を生きる為、自分自身の「都市」のイメージを必要とし、同時にそのような「都市」のイメージに合う建築を作り続けたパラーディオを愛したヴィチェンツァ市民たちは、すでに没していた彼の遺作を未完のまま放置するわけにはいかぬという強い意志で奮い立ち、ようやっと1585年3月8日、テアトロ・オリンピコは柿落としを迎えることとなったのです。



(via YouTube by Mitridate Mozart Harnoncourt)


アカデミアを構成するヴィチェンツァの貴族や文人たちの集まりは同時代のフェラーラやメディチの宮廷とはいささか異なる世界を模索していた。
ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコは古代ローマあるいはルネサンスの理想都市そのもの。それも仮設ではなく常設、広間や中庭ではなく、専用劇場を作った。彼らが求めていたものは16世紀のフェラーラやメディチの宮廷が必要とした祝宴の為の余興の場ではない。
ヴィチェンツァの劇場は演技や朗読の為であることには違いないが、むしろ劇場空間全体がイメージとして都市そのものとなることが求められていた考えられる。

「建築とは世界を模倣するもの」と言ったのはローマ時代の建築家ヴィトルヴィウス、このアカデミアの人たちにとって必要であったものは、自分たちの世界が古代都市ローマであることだった。
それも絵に描いた世界ではなく、実在感ある理想都市そのものであることが求められていた。
従って小都市とは言え実在のヴィチェンツァは、壮麗なパラッツオが軒をつらね、劇場の中の立体模型とはいえ、そこには実在感のある都市が作られる必要があったのです。
しかし、同時代のローマではすでにバロックが始まろうとする、まさに世紀末。この劇場を必要としたヴィチャンツァの人々には、ルネサンスを継続すべきどんな理由があったのだろうか。

ベリーチ山脈の山麓に位置し、交通の要衝でもあるヴィチェンツァは12世紀以来の自由都市。しかし、近隣都市のパドヴァやヴェローナとは絶えず衝突を繰り返していた。
15世紀に入り、ようやっと争いも減り安定もするが、それはヴィチェンツァ自身が本来持つ自治権を捨て、ヴェネツィア共和国の保護下に置かれたからに他ならない。
風光明媚なこの都市は、皮革や織物という手工芸よりも土地そのものによる農産に依存している。
土地持ちの有力者がこの都市の支配者であったが、彼らは絶えず近隣に侵される微力で不安定な少壮貴族に過ぎない。
少壮貴族たちはてんでんばらばら、外部の諸勢力と各々かってにつながりを持つことで貴族たちは個々の地位を守っている。
ヴィチェンツァは様々な外部勢力の手先となった貴族たちによって構成されていた都市に過ぎないと言えるようだ。
自治都市であればどこでも必要とする、市民同士の連帯や困難な時の対処のための一致団結は、この都市では思いもよらぬことだった。各々がバラバラに外部勢力と手を結び、ただただ共に住む都市人間として、都市空間を共有してきたヴィチェンツァ市民、ヴェネツィアの支配下に置かれてからの彼らには共通したテーマが浮上した。
それは彼らに連帯や一致団結は必要ないにしろ、利害抜きの社交あるいは交渉により「都市」を保持し続けようとする意志です。

都市が都会化し巨大な集落となった現代都市ではすでに見ることはないが、「都市」に生きると言う意志、そして「都市」にともに住むことの存在理由、あるいは「都市」を存続させる根拠、それは「都市」の持つ「社交の場」という目的のみを保持することに他ならない。
ヴィチャンツァは『都市」のみを存続させる必要があったのです、それ故、壮麗なパラッツォが連なり、もはや黄昏期だというのに、劇場の中にまでルネサンス期のオマージュとしての「理想都市」を作る必要があったと考えなければならない。

さらにまた、16世紀後半のイタリア半島は事実上はスペインの支配下、情勢は逼迫し、どの都市もその生き残りを掛け様々に画策する。その画策とは合従連衡、その為の政略結婚そして沢山の祝宴だったわけだが、ヴェネツィアの支配下にあり、海の貴族もまた沢山住まうヴィチェンツァは他の都市とは異なる。フィレンツェを始めとして半島の大半の都市が君主国家化したのに対し、ヴェネツィアは共和国として存続しつつづける。ヴェネツィアだけは一人の貴族、君主に牛耳られることなく、複数の貴族による共和制を維持してきた。

地中海、アドリア海を席巻し、海に生きた誇り高きヴェネツィア貴族の末裔達、16世紀、彼らは伝統的な外交術を駆使し、一君主や力ある大国のあるいは法王庁の権力にも屈することなく、この時代を生き抜いていた。
生き抜く為の一つ策は、海の貴族もまた陸にも基盤を持つ必要があった。その為にヴィチェンツァを支配下に置くことが彼らには不可欠であり、ここを農業経営の拠点と位置づけ、新しい生き方の基盤となる場所と見なしていた。
パラーディオの沢山のヴィッラはその結果でもあるのだが、もともとのヴィチェンツァの市民とヴェネツィアの市民を含めこの都市を共和国としての新しい生き方を模索する場として見なされていた。
従って、彼らは100年前のブルネレスキやアルベルティ同様、ルネサンスを継続し続けなければならなかったのだ。
テアトロ・オリンピコは結果として、現存する唯一のルネサンス劇場でもあるが、何よりも建築によって新しい生き方、あるいは自分自身が生きるべく世界の在り方を示そうとした「世界劇場」であったと理解しなければならない。


 



(via YouTube by Vicenza)



2010年1月6日水曜日

テアトロ・オリンピコ

十六世紀の建築家パラ−ディオは北イタリアの小都市ヴィチェンツァとその周辺に沢山のヴィラとパラッツォを作った。彼が最初の住宅作家とも言われる所以です。当時、建築家として名をなす人の仕事は全て聖なる世界の宗教建築です。ルネサンスの建築家は教会を作ることで名をなしているが、パラ−ディオは貴族の為の住宅ばかりを作る。かれは最初の世俗の建築家なのです。
イタリアでは当たり前ことだが、16世紀とは言えパラ−ディオの建築の大半は現存する。それも記念館や博物館としてではなく、建設当時と同様、オフィスや生活のためのスペースとして使われている。ヴィチェンツァは彼の名が被せられた通りがメインストリート。パラ−ディオ通り、この建築家が作ったパラッツォが軒を連ねている。パラ−ディオ通りは十五分も歩けば突き抜けてしまう、ヴィチェンツァはそんな小さな都市なのです。
しかし誇り高い海の支配者ヴェネツィアとカソリックローマと一線を画した自治都市ヴィチェンツァの貴族のパラッツォが連なるこの都市の佇まい、それはキリスト教に依存しない、都市人間による秩序と自負の誇示に満ちた姿。現在ではローマのコンドッティに勝るとも劣らず有名店が店を開き、小都市とはヴィチェンツァは世界中から多くの観光客を迎え入れる魅力ある都市となっている。

街はずれの広場の一角にテアトロ・オリンピコがある。ここがあの有名な劇場。中世時代のレンガ積みの擁壁と鉄の門扉に囲まれ、外観から劇場をイメージさせるものは何もない。
半信半疑のまま路地側の壁にうがかれた小さな木戸をくぐりぬけると突然、そこはもう、16世紀の世界。
パラ−ディオ時代もここが劇場入り口だったそうで、オデオ(広間)とは名ばかりの天井の高い、小さな入り口ホール、しかし、次の部屋、そこは舞台や客席に至る為の前室だが、ここで目を凝らしてみると、天井に接する壁面の上部の四面にはすべて、グリサイユ(単彩フレスコ)が描かれていた。
ちょうどこの劇場の完成期に訪れた日本の若き少年たちはヴィチェンツァ市民にとっても大変に珍しく、歓待されたに違いない。天正の少年たちは得体の知れないこの劇場そして舞台をどんな思いで見学したのだろうか。どきどきしながら、劇場にいたる扉を開けました。

扉を開けると、左手に正円アーチで穿かれた都市の門、右手の半円形の周縁は列柱とその上の聖人像、全体は時代がかった物語の中にでも入り込んだ印象。
しかし、左手は舞台、右手が観客席、ここは劇場なのです。驚きから立ち直り、入念に見回すと舞台の上には実物大の立体模型と化した建築が本物の街並みのように連なっている。右手は観客席はサン・ピエトロと同様、列柱に取り囲まれたルネサンスの都市広場の趣。
広場は階段状の観客席が古代劇場のように半円形の形状を作って立ち上がっている。
見学者は舞台脇から階段を下り、広場の中央に導かれるが、天井を見上げると陽光が射す青空が一面に描かれている。やはりここはルネサンスの広場と言うより、ローマの古代劇場と言った方が良いのかもしれない。

中央に進むと立体模型化した都市風景はますます現実感を帯びて迫ってくる。
透視画法で遠近感が強調された舞台上の街並みは劇の為の固定背景。
それはアルベルティ以来思考され、幾たびか描かれてきた理想都市の情景。
しかし、この都市の中に、俳優がじかに入り込むことは出来ない。奥に行くほど街路はせり上がり、作られた建物は極端に小さくなるからだ。
この固定背景は遠近感を強調し、客席からの視線に深い奥行き感を与える装置となっている。従って、現実に演技できる場はこの背景の前のわずか3メートルほどのスペースだけ、舞台は大きな立体化した都市風景による固定背景と小さな演技スペースという構成。

テアトロ・オリンピコではドラマが始まる前から、ドラマがすでに演じられているといって良い。既に演じられているドラマとは建築によるドラマ、ヴィチェンツァのアカデミアの人たちのメッセージ、自治都市ヴィチェンツァを神の支配ではない人間による世界だと誇示するドラマです。
空間の全体はルネッサンス都市の広場のような姿、しかし、その形態は古代のローマ劇場の形をそのまま模したもの。固定背景の舞台と列柱で取り巻かれた観客席、その全体の情景は理想都市という「虚構の世界」を写し取っている。
客席の観客は古代のローマ劇場そのものを体験する、と同時にルネサンスの理想都市の広場にも立たされてもいるのだ。
つまり、観客はドラマが始まる前からすでに、古代のローマ人という役とルネサンスの理想都市の住人という二役を同時に演じさせられているのです。

劇場全体は決して大きいものではない。しかし、空間の密度の高いこの劇場は驚くほど饒舌、テアトロ・オリンピコは残存する最古の屋内劇場。古来、劇場は野外が一般的ですが、ここは屋内、つまりこの劇場は近代劇場の原点と言われる所以でもある。
古代のギリシャやローマ劇場には屋根はない、あっても日除け用のテントだけ。しかし、この劇場には屋根がある。既に触れたが、その天井には、ここがあたかも野外劇場でもあるかのように、円形の青空の中、幾すじもの雲がたなびいている。
この手法はマンティーニャの天井画同様、ルネサンスの成果でもあるのだ。舞台背景画を生み出す透視画法は今度は天井画として使われた。結果、建築物の持つ重たい屋根は消えてしまう。
野外の古代劇場は劇場である以前に、天体に覆われた世界の中心、聖なる場所、祝祭空間と意味づけられていた。古代劇場を模したオリンピコもまた世界の中心であることを主張している。透視画法から生まれた、屋内ではあるが野外劇場、オリンピコは古代の祝祭空間、そしてまた、都市の聖人・英雄たちと共に生きるルネサンスの理想都市でもあるのです。

屋内であり木造で作られている為、テアトロ・オリンピコは石造の中世教会に比べ必要以上の残響が響きわたることはない。したがって、ギリシャ・ローマの野外劇場同様、この劇場は細やかなニュアンスを持った台詞を聞き分けるに程よい反響を作り出している。
テアトロ・オリンピコが近代劇場として大事な点がここにもある。中世の教会や礼拝堂では微妙な音の変化や声の意味が明瞭に聞き取ることは不可能、しかし、この劇場では詩や劇の朗唱が明瞭に聞こえる。
つまり、宗教音楽の為の教会とは全く異なる、新しい音楽のための空間が初めて建設されたと言って良い。そして、あとはオペラの誕生を待つばかり。1700年、フィレンツェのアカデミアは繊細な器械である楽器、豪華な衣装、絢爛たる装置によって統合化された祝祭は宗教に変わるオペラを生み出した。ヴィチェンツァにテアトロ・オリンピコが完成した25年後のことだ。
新時代の祝祭であるオペラ、その誕生をまるでテアトロ・オリンピコが先に立ち、待ち望んでいたかのようにおもえてならない。




(via YouTube by Andrea Palladio, Renaissance architect)

2010年1月5日火曜日

川喜田半泥子展


人生に余裕があるからと言ってしまえば、それまでだ。 半泥子は銀行経営者としての仕事の合間を、好きなことに、徹底的に使った。 それも全てパソコンの中のデータのような希薄なものではなく、実在するかたちをモノとしてのこした。 お金があっても、お金の使い方を知らない人が多いと聞く昨今、半泥子展は、かっては存在していた、ある種のライフスタイルを明快に示す貴重な展覧会であったと考えている。 多芸多才であるから可能であったとは考えたくはない。彼は一つ一つの時間を、想いを、出会いを、こよなく慈しみ、楽しんだ人であるからだ。初めて膨大な作品群を一望のもとに見させていただき、彼が作りえた唯一無二の世界、その成果と作品群に圧倒されました。 焼き物が中心の展覧会であることは予想していた。 偶にしか触れることのない作陶、ほとんど知識を持たないボクにとってのことだが、今回はいつになく、入念に一つ一つの作品を見る機会となっていた。面白かったのだ。作品はバラバラだ、しかし、バラバラゆえに様々な世界が見えてくる。 写しの本家もスタイルの元も知らないボクにとって、その世界から、心の赴くままの自由、好きなものへの熱い想い、がひしひしと伝わってくる。 と同時に、その中にある、ある種の秩序、あるいは言葉も強い親近感をもって伝わってくる。 カタログを読むと展示のための作品整理は厄介な仕事だったとある。 そうだろう、しかし、結果はわかり易い、楽しい展示であった。企画者の苦労があったからこそ、ボクは半泥子の世界に踏み入ることが出来たと考えている。 小展示だがもう一つ興味を惹かれたのは建築だ。 上手・下手ではない、彼の関心に。 彼は建築を良く調べている、良く見ている、好きなんだなと思わせる。 1・2階の高さに極端な違いがある西洋風木造自邸。 正確で繊細なバランス感覚を持った祖母の為の紅梅堂。 当時流行ったであろう部材の細い五十八風のきれいさびの住宅。 どの建築も好き勝手を超えた建築の面白さが表現されている。 会場を後にし、久しぶりに一丁目から京橋にかけてのギャラリーを見て歩いた。 この界隈には若いアーティストの作品が一杯ある。 しかし、そんな新鮮な作品に沢山触れてはきたが、頭の中は終止、半泥子の世界で一杯だった。 なんなんだろう、この充実感。多芸多才、好きなこと、気になることを次々と作品にする健康さ、その表現力。 しかし、その一つ一つは単なる遊びではない、強い言葉だ。 つぶやかれた言葉の一つ一つは、見るものに限りない充足感を与え、語りかけてくるのだ。 「もっと楽しく、愉快に1」。

2010年1月4日月曜日

テアトロ・オリンピコの音楽




(via YouTube by Händel "Lascia la Spina", Cecilia Bartoli)

「イタリア紀行」を書いたゲーテ、彼は北イタリアの小都市ウ゛ィチェンチャに着くと早々にテアトロ・オリンピコを訪れている。
「数時間まえに当地に到着し、もう、町を一わたり駆けまわって、パラディオ作のオリンピコ劇場や建物をみてきた。」(イタリア紀行・岩波文庫)

パラディオ贔屓のゲーテの早る気持ちが伝わって来る。テアトロ・オリンピコは神人同形的な世界像(古代ローマ劇場)と古代の理想都市のイメージを合わせ持つ、興味深い劇場、ヨーロッパ最初の独立した近代劇場。
ゲーテが訪れたのが誕生後200年、それからさらに200年、すでに400年あまりを経過したこの劇場、幸い、火災に遭遇することもなく、丹念に保守され、1998年6月には冒頭のYouTube映像、チェチリア・バルトリの演奏会が開かれた

テアトロ・オリンピコを作ったのはヴェネトの小都市ヴィチェンツァの文化人サークル<アカデミア・オリンピカ>。ルネサンスの黄昏期、フェラーラやマントヴァという北イタリア小都市の宮廷では盛んにラテン喜劇の上演が行われた。
当時の演劇は娯楽ということより、真の宮廷人に塞わしい教養とライフスタイルを身につける格好な手段と考えられ、ルネサンス劇場は生活上の規範とみなされた古典文化に直接触れる機会であり、紳士の教養とされる会話文体を学びとる場所でもあったのです。
しかし、宮廷では劇場と言っても大きなサロンや中庭が上演のための格好な場であり、独立した建築である劇場はまだ必要とされていない。

独立した劇場を必要としたのは宮廷ではなく、共和国ヴェネツィアと同様、君主を持たない貴族たち。宮廷人に劣らぬ教養とヒューマニズムを身につけた都市市民、<アカデミア・オリンピカ>という文化サークルを構成したヴィチェンツァの人々です。アッカデミアの人々は盛んにラテン喜劇の上演を行い、その為の劇場として、ヨーロッパで始めて近代劇場を建設した。
テアトロ・オリンピコを作ったアッカデミア・オリンピカは劇場と同様、現在も尚、存続している。「イタリア紀行」にはヴィチェンツァを訪れたばかりの(1786年)ゲーテが<アカデミア・オリンピカ>に招かれ、「創作と模倣、美術上どちらが多くの利益をもたらしたか」という議論に参加した様子が書かれている。
そして、既に触れた、この劇場でのチェチーリア・バルトリ、そのCDは日本でも発売されているが、YouTubeにアップされていたので、聴いてみたくなりこのブログを書いた。
コロラトゥーラの歌姫はゲーテを越え、パラディオを越え、澄みきった北イタリアの時空をその歌声に乗せ、私達の部屋へと運んでくれる。

1585年、テアトロ・オリンピコの柿落としの演目はソポクレースの「オイディープス」であったことが知られている。
2400年前のギリシャ悲劇の名作、建築家パラディオはこの時はすでに亡きひとであったのだが、ヴィチェンチャの市民たちは、オイディープスの「意思と運命」と、この劇場をどんな想いで重ね合わせたか。
ルネサンス理想都市あるいは古代ローマの広場と見立てられたこの劇場の設えは「人間が人間として生きるべき本来の世界」を表している。そんな世界であるからこそ、オイディープスはその過酷な運命を、全てをあるがままに受け入れて行く、人間としての生き様を一つの悲劇として、あるいは美学として存分に示し得たのではないだろうか。

最初の公演の劇中音楽はヴェネツィアのサン・マルコ寺院の第一オルガニストのアンドレア・ガブリエリとなっている。残念ながら音楽そのものの記録は見つからないが、ガブリエリの名は音楽史では重要。
フイレンツエ中心のルネサンス美術は、16世紀以降ヴェネツイアに移る。パラディオをはじめ、サンソビーノ、サンミッケーリというローマの主要な建築家は皆ヴェネツィアで活躍する。
ジョルジョーネ、ティッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ、彼らは皆ヴェネツィアで活躍した画家たちだ。

音楽もまたフランドルの音楽家によるフイレンツエからイタリア人音楽家中心のヴェネツィアに移りつつあった。そして、北のフランドルやフランスの人々による複雑なポリフォニーに変わり、イタリア人によるホモフォニー、朗々とした和声の響きが重視され始めるようになる。
その中心がサン・マルコ寺院の音楽、そして2人のオルガニスト、ガブリエリ。アンドレア・ガブリエリはヴェネツィア発の新しい音楽の起点となる人、そんな彼がヨーロッパ近代劇場の幕開けの音楽を作曲した。
テアトロ・オリンピコは音楽も美術も建築も決して離れることなく一体であったことを、今に生きるその姿から、いつまでも私たちに教え続けているのです。