2010年12月22日水曜日

絵になる都市

「新建築」12月号巻頭のエッセー、「絵になる都市づくり」。 建築家のみならず一度でもヨーロッパの都市を訪れた人が一様に思うこと。 それは「何故、日本の都市は絵にならないか」。 エッセーの内容はヨーロッパ歴史都市の賛美、彼らの保存活動、そして、今後の歴史的公共建築投資への期待。 相変わらずの内容だ。
「絵にならない」疑問と批判は明治以来の露伴や荷風を読むまでもなく今に引き継がれてはいる。 しかし、日本の都市は一向に絵にはなりそうもない。 デザイン力と技術力は進んだが、ボクたちの都市はますます思いと期待から外れていく。
ここで問題にしているのは視覚的都市のこと、居住環境や街づくりのことではない。 あるいはイルミネーションが一段と美しい12月の夜の東京のことではない。 都市は建築によって作られている。 その1つ1つの建築は周到にデザインされ、おのおのはみなそれぞれ「絵になる」ように作られている。 しかし、何故、都市は絵にならないか。

現代都市は貧しいのだ、建設資金は昔に比べれば問題にならないほど少額。 中世以来のヨーロッパ1000年の歴史的建築と都市に比べれば、20世紀の都市はどこも圧倒的に貧困、時間の蓄積にも耐えられない。 現代都市を一掃し、ゼロから新たに都市を建設しても、たぶん「絵にはならない」だろう、その貧しさも変わらない。
現代都市を生み出すもの、それは全て投資効率(RIO)の結果であって、かっての貴族や教会という権力者の資金による示威ではない。 建設投資はすべて市民のお金、それも投資効率の範囲内という条件付き。
現代都市を生み出すものは歴史や文化ではなく、経済でありその効率の結果に外ならない。 可能なのは膨大な資金と時間から生まれた歴史的建築の保存であつて、新たな建築から「絵になる都市」の建設は不可能だ。

現代都市の再構築はもはや「絵になる都市」という静止画に関わることではなく、可変的、動画的に関わることが課題。 その回答の1つが同じ「新建築」12月号のセントラル硝子国際建築設計競技の入賞作にあった。 (本題には関係ないが、このコンペ、面白いと思ったのは上位入賞者がいずれも中国人、韓国人であったこと。) 最優秀案は中国の秋天さんの「汚れない集合胡同」。
アイデアは既存の路地空間の外壁と床を新たな木材で覆い、半屋内のような公共の共有空間を生み出そうとするもの。 この計画案からは「絵にはならない」が新たな統一感のある生活空間が生まれることだけは確かだ。 そして何年かたち汚れたり痛んだりしたら、エーゲ海のミコノスの白壁塗りと同じように、また新たな板で張り替えれば良い。
つまり、これからの都市づくり、それは静止画のような「絵になる都市」を生み出すのではなく、動画のような「生きている都市」を継続することにほかならない。 時系列も読み、持続的投資効率の高い結果を生み出す方法が、都市を貧困から救う唯一の道であろう。

2010年12月20日月曜日

ル・トロネ修道院

 
 ロマネスク建築の時代(10世紀〜12世紀)、教会堂の設計およびその建設の指揮に関わる人はまたその堂内に響く音楽に携わる人でもあった。建築と音楽の担い手はその教会堂の聖職者であり、修道士という人々です。

音楽と建築は各々別々に専門家がいたわけではない。聖職者たちが宗教的メッセージと儀式(グレゴリアンチャント)を音楽化し建築化することでロマネスク聖堂を生み出してきたと考えて良いのではないだろうか。

シトー会のル・トロネ修道院(フランス・プロバンス)は、コルビジェをはじめ近代の多くの建築家を魅了し、その建築記録が小説「粗い石」としてフェルナン・プイヨンによって顕されている。この修道院こそ音楽が建築化された代表的建築と言える。

何故なら、怪奇幻想ユーモアと様々な表象をもったロマネスク彫刻によって彩られるのが流行であった12世紀初頭というこの建築の建設期にあって、ル・トロネはあえて視覚による一切の象徴表現を退け、光と音による神域表現に終始しているからです。そんな建築が示すシンプルなかたちと素材による表現。それはモダニズムの建築家が探していた形態と言えるようだ。

「ヨーロッパ芸術文化と音楽」の中で原田玲子さんはグレゴリアンチャントをつぎのように説明している。
「グレゴリアンチャントは和声も楽器の伴奏もない単声音楽として生まれたものである。したがって豊かな旋律の構成と表現のためには、リズムがどうしても集中的な要件となってくる。そして、世俗的なものへの志向をできるだけひきとめる厳粛な静けさ、ただ官能的にのみ走る美しさを抑制しようとする繊細な均衡のある調和、いたずらに情感を沸き立たせることのない気高い旋律、これらの特性は、たしかにロマネスクの建築とも見合っているであろう。」



(via YouTube by mollro4 : the Cistercian Abbey of Le Thorone )

2010年12月19日日曜日

クリュニー修道院

中世キリスト教社会をリードしたのは、必ずしもカソリックの総本山ローマではなく、ヨーロッパ全域に広がった修道院だった。
事実、ローマでかたち作られたと言われるグレゴリアチャント(聖歌)は、今日私たちが耳にするものとは異なり、もっと素朴な旋律を持っていたといわれている。
現在のグレゴリアチャントはアルプス以北のクリュニー支配下の地域で歌われていたもので、それが私たちの手元に譜面となって残されたと考えられている。

聖歌はクリュニーの典礼改革の大きな柱となっていた。
このクリュニーはスイスに花開いたザンクト・ガレンのユートピア(初期キリスト教社会の修道院)とは異なり典礼を重視していた修道会。
遁世思想に裏付けら、勤労に奉仕し清貧に生きることが重要だったのではなく、不安な時代、貧民救済と典礼を重視し、多くの人の心をキリスト教世界に結びつけることを目標とした修道院。
従って、礼拝重視のクリュニーにとって最も重要であったことは祈りのための音楽と建築。
クリュニー修道院付属教堂を作ったのはグンゾ、かれはもともと典礼音楽に関わる聖職者として良く知られた人。
中世において音楽に意をつくすことは、建築を重視することでもある。音楽家グンゾが建築の設計者であることは当然のことであったであろう。

音楽と建築を支えるものはギリシャ以来、数による秩序。ピタゴラス音階による完全8度、完全5度、完全4度の音の協和は1対2、2対3、3対4という比例関係を持っている。
つまり、近世以前、音楽は数学でもあったのだ。
中世のアウグスティヌスは、この比例原理は建築を含め視覚芸術すべてに当てはまるものであり、この音楽から導かれた数が宇宙の秩序、そしてすべての安定の根源であるとみなしている。

フランス革命によって壊滅したクリュニー修道院、ケネス・コナントは忠実な復元図を作成した。
そして彼は建築のみならず、彫刻さえもその構造と構成において音楽に導かれた幾何学によって作られていたことを証明した。
クリュニーの修道士がいかに楽音に関心を寄せていたか、その証が旧修道院の内陣の柱頭彫刻に記されている。
彼らはグレゴリアンチャントの8つの楽音を重要な柱の柱頭飾に用いていた。
それもアーモンド型のメダイヨンの中という、ロマネスク彫刻のセオリーから離れた特殊な空間の中ではあったのだが。

リュートを弾き、シンバルや鈴を鳴らす人々とともにあるこの内陣は、彼らにとって天国そのものに置き換えられていたと考えて良い。
幸い、その柱頭彫刻の幾つかはフランス革命による壊滅を免れ、オシエ美術館に残されている。
この美術館にはキリスト教にとって最も重要な第三音、「プサルテリウムを弾く男」が保存されている。
第3音はキリストを受難へと押しやり、復活をなすことの象徴であり、まさに人類の救済のテーマにほかならない。




gregorian chant
This is part of the Responsory Benedicamus Patrem, for the feast of the Holy Trinity. As sung from late fifteenth century Antiphonary B-Gu15.
This is from the cd 'Etienne de Liège - In festo sanctissimae Trinitatis' RIC 249. Buy the cd at www.ricercar.be - other discs available as well. Check it out!
Chant group Psallentes was founded and is directed by Hendrik Vanden Abeele. The group particularly focuses on late medieval chant.
www.psallentes.be
(via YouTube by quijote347)

2010年12月18日土曜日

音楽から始まったキリスト教建築

偶像が拒否されていた初期キリスト教時代、礼拝に参加することが許されたのは、建築や絵画・彫刻ではなく音楽。
当初の教会は雨風をしのぐ粗末な小屋や、ありきたりの民家さえあれば充分だった。
そこで必要だったものは音楽、ミサ典礼という音楽によってのみ、キリスト教が示す神の国を現出していた。
やがて、キリスト教典礼は初期中世の人々の日常生活にしっかりと組み込まれて行く。
そして、人々はミサのための恒久施設を必要とするようになり、教会堂建設が始まりまった。

ローマが誇った数々の建築群は敬虔なキリスト教徒にとっては異教であり、不必要な存在。
アルプスの北の人々は当初、自分たちの持っている技術、木造で教会堂を作り始める。
しかし、堅固で永遠の神の館、神の国を視覚化するには、木造より耐久性の優れた石の建築が必要。
堅固な建築なら天井は木材でも良かったのだが、教会堂には石の天井が設けられた。
ローマ建築にある重い石のトンネルヴォールトや交差ヴォールトの建築にする必要は何処にあったのだろうか。

彼らが必要としたのは堅固で恒久的という強度的理由だけではない、石へのこだわりは音響効果にあった。
ドームはその形状によって天空を象徴しているが、天井が石造であることから生れる反響と残響こそが彼らが求めたもの。
教会堂の内部空間に響く単旋律の歌声は悪戯に情感を高めることがなく、厳粛な静けさと繊細な均衡を持った気高い旋律に変化し、その歌声が持続的な音に満たされた神の国を現出する。
彼らは視覚・絵画的象徴より、聴覚・音楽的空間を神の国と見立て必要としていたのだ。

カロリング期に入り、様々な地域は見よう見まねで、石造の教会堂をつくり、建築史の中では最も多様な様式を持つロマネスク時代を迎える。
ミサ典礼という音楽からはじまったキリスト教的芸術感はやがて建築にも反映される。
異教のローマ建築をそのまま引き継ぐのではなく、グレゴリアンチャントの響きとその視覚化による空間の現出が教会堂の使命となった。

教会堂の内部空間を体験してみよう。
身廊のアーケード(アーチの連続)がゆったりとしたリズムを刻む。
その上のトリフォリウムはアーケードの倍音を構成する。
トリフォリウムのアーチから静かに差し込まれた光は身廊の床に反響し柱列が生む旋律に絡まる。
重力と空間全体を支える質量を持った石の厚み、その厚みが織り成す柱のリズム、
それらはすべて聞く人の内面に響くグレゴリアンチャントの体験とまったく同質であると理解される。

音楽と建築のあまりにもぴったりとした照応、この時代はまた音楽において、モノフォニーからポリフォニーへの展開の時期でもあった。
その音楽の展開に誘導されるようにロマネスクの空間もまた多種多様な展開を遂げてゆく。
つまり、ロマネスクは芸術史上唯一、建築と音楽の融合と調和の時代であったと言えるのです。



(Gregorian Chant (Advocatam) Llibre Vermell de Montserrat from quijote347 on YouTube)

ザンクト・ガレン修道院の図面と楽譜

 

 中世ヨーロッパの人々が現実的世界から目を背けることなく、真摯に俗世と関われるようになったのは、修道院が各地に誕生したからだという。
人々は聖なるをものを求める道を修道院にまかせ、俗人は俗世に生きるという道を徹底することが可能となったから、との説明。
物理的のみならず精神的にも人が生きると言うことは、確かに、自分以外の自分をいつも持っていなければ落ち着かない、わかるような気がする、個人的経験としては神を信じたことはないのだが。

7世紀のはじめ、アイルランドの聖ガルスがスイスの東北シャルナッハの渓谷に住み着き、多くの人々の信頼と祈りを集めて行く。
やがて、その地は人々の心の安息所であるばかりかザンクト・ガレン修道院と呼ばれ、様々な中世文化の花を咲かせていく。
修道院は決して俗世とは無縁であったわけではない。
聖職者たちもまた土地所有者となり農民を抱え、国王とも交渉し政治にも関わっていく。
中世社会における修道院は祈祷の場であるばかりでなく、大学であり研究所、病院であり、農業開発センター、そして裁判所という役割を担うようになるのだ。

さらに重要なことは、ザンクト・ガレンは9世紀以降の貴重な書物の図書館でもあったことです(エーコの「薔薇の名前」の修道院のモデル)。ここは多くの僧侶たちが写本の筆写に訪れた所、筆写に訪れるということはまた沢山の写本が集まる所ともなっていく。
そんなザンクトガレンであったから、理想都市としての修道院の平面図が残されることとなった(古代ローマのヴィトルヴィウスの建築書もまた、ここザンクト・ガレンに保存されていた)。
この修道院は聖と俗がせめぎあう場でもあった、したがって人間の理念と現実がいつも明解である必要があったのだ。

多くの写本を制作したザンクト・ガレンは音楽史の幕開けの場所でもある。
そしてもっとも重要なことは、ヨーロッパ音楽の原点ともいえる記譜法成立の中心地、グレゴリオ聖歌に多声音(ポリフォニー)を持ち込む試みがなされたところ。
ポリフォニックな音の広がりはヨーロッパ独自のオーケストラの原点、聖なるものを讃えるための音楽が、聖なるものを表現し、聖なる力を広める役割へと転化するのは、ここザンクト・ガレンにおいてでもあったのです。

修道士たちは毎日毎日、夜明けから深夜に至るまで一日八回の聖務日課(定時化された勤行)とミサ典礼(最後の晩餐を再現した典礼)を行った。
その内容は聖書朗読と祈り、そして聖歌、歌を伴わない祈りはあり得ない、福音書朗読さえも、ある特定の音の高さを持って歌われた。
典礼のための福音書や聖歌集、それは聖具として神に捧げられたものだが、9世紀の写本の中に朗読する為の記号が書きこまれた。
ネウマという音符の登場です。
口頭伝承から楽譜記載による伝承へ、聖歌を統一化しようという動きが伝承形態を変化させ、やがて音楽そのものを大きく変える道を開く。

写本であっても聖具であることには変わりはない。
聖具に人為が関わることは許されないことだが、しかし記号の書き込みが許された聖歌集には、新たな歌詞や旋律の挿入も許された。それがトロープスと呼ばれる装飾部分。
この挿入部分がやがてネウマが聖具であることから離れ、楽譜となり作曲することの契機となる。
つまり、神からの授かりものであった音楽が人間的行為の結果としての音楽となる契機となったのがトロープス。

ザンクト・ガレンの写本の中に記されたネウマとトロープス、それは楽譜の成立と作曲の誕生を促した。ネウマとトロープスは単旋律の音の流れを幾条もの重なりをもった複雑な音楽に変えるばかりか、時間の経過とともに消えてしまう音楽では果たすことができなかった、全体を見渡し思考するという場をも音楽に与えていた。つまり音楽はここザンクト・ガレンで建築と同様、空間性を獲得したことにより、やがて作曲という行為が学として認められ、後に数多くの音楽家・作曲家が誕生することとなる。




(Convent of St. Gall from UNESCOVideos on YouTube)

ブッファの原点「奥様女中 」

オペラブッファの原点と言われるこのオペラ、 生の舞台で一度は観てみたいと、 かねてから思っていたが、 年末の休日、昨晩が絶好のチャンスとなった。
いやぁー、面白いのなんの! 登場人物はたった3人、歌手は2人。 これ以上はない小さな舞台だが、二幕も切れなく、 ひっきりなしに客席を沸かしてくれた。
そうだろう、演出はペルゴレージの研究者でもあり、 今晩の企画の責任者ダリオ・ポニッスィ。 かれは前半の舞台でペルゴレージ役を演じるばかりか、 「奥様女中」では召使いヴェスポーネという黙役も演じてくれた芸達者。
小間使いのセルピーナは高橋薫子、 藤原歌劇団のこの役ピッタンコの名歌手。 その歌声は軽やかでやさしい、ユーモアがありコケティッシュ、 モーツアルトやロッシーニのブッファには欠かせぬ逸材だろう。
ウベルト役は立花敏弘。 彼もまたブッファは得意そう、 その伸びのあるバリトンは客席の隅々に朗々と響きわたる。 幕間劇という切っ掛けはともかく、 300年近くも傑作と言われ続けたこのオペラ。 初めて観てその面白さを堪能した。

お話はたわいない。 ウルベルトのお屋敷で生まれた小間使いセルピーナ、 召使いヴェスポーネの力を借り、 まんまとウルベルトの奥様の座を射止めるという物語。
「奥様女中」はオペラのインテルメッゾ(幕間劇)として上演されたのが最初だそうだ。 その本体は1733年にナポリで発表された「誇り高き囚人」。
そう解説を読むとなるほどとも思う。 いまでは全く上演されることのないオペラセリア「誇り高き囚人」だが、 その題名から類推するに、 まさにこの幕間劇のウルベルトこそ、 幕が降りた後の「誇り高き囚人」といえるかもしれない。
これも解説だが、ナポリで名をあげやジョバンニ・バッティスタ・ペルゴレージ、 彼はなんと26歳の若さで結核で死んだと言う。
この生誕記念300年公演を観るかぎり、 モーツアルト以前、 こんな面白いブッファの作曲家がいたんだと改めて知り、 音楽もまた確実に音楽の上に作られていると実感した。

2010年12月5日日曜日

当麻寺の二つの三重塔


大和の西、二上山の麓の当麻寺は西ノ京の薬師寺に似て東西二つの三重塔を持つ古寺だった。

2010年11月27日土曜日

パレルモのクアットロ・カンティ

ミケランジェロはカンピドリオ広場を、舞台の中の演劇的空間としてデザインした。その結果、観客である我々に舞台上の俳優のような体験を提供し、都市広場は劇場空間であることを教えてくれた。
それからほぼ90年後、都市がその内部に劇場を再現した都市が作られた。
シチリア・パレルモのクアットロ・カンティ。

ここでは都市なかの十字路に建つ四つの建築の全てが四十五度に隅切りされ、道路と建物で八角形の広場が生み出されている。
その特異な景観はテアトロ・デル・ソーレ(太陽の劇場)と言われ、パレルモ市民や観光客に愛されている。
特徴的なことは広場の中央に立ち止まりどの方向の建物を見ても、その両側はあたかも舞台の奥へと向かう通路として構成されていることにある。
それはテアトロ・オリンピコの舞台を眺める印象とそっくり。
テアトロ・オリンピコでは正面に大きな道路、左右の建物の両脇にも各々通路が走り、三本の道路で構成される広場となっているが、ここでの背後は舞台からは切り離された客席。
しかし、テアトロ・デル・ソーレでは背後もまた舞台と言える。

四面の舞台に取り囲まれた広場、その広場の周囲は全てが舞台、つまり、広場に入ることで、人々はすでにドラマに参加しているように感じられる。
それはカンピドリオと全く同じ、人々は観客ではなく、演技者として広場を体験し、都市そのものが劇場の舞台空間としてでデザインされているのです。

シチリアの首都パレルモはイタリアでは早くからスペインの支配下にあり、16世紀の宗教改革の渦中にあってもカソリック教会の力が圧倒的に強く、都市全体はローマ以上にバロック的雰囲気に満ち満ちていた。
従ってここでは、祝祭の為の装置が都市を飾るのではなく、都市そのものが始めから祝祭の舞台となるように作られたと考えれば良い。

美術史におけるバロックという観点からみると、その様式を生み出す主導的要因は、宗教的危機に直面したカソリックということ。
バロックはプロテスタントに対抗し、民衆にとって判りやすい宗教体験を生み出すための様式。
知的観照ではなく、理屈ぬきの全身感覚によって信仰を体現させるための様式がバロック本来な意味です。
民衆の感情を高揚させ、その熱情を共通の信仰へと収斂させる最も有効な場、それは祝祭。
従って、バロックとはカソリックの持つ宗教的意味を祝祭つまり、音楽や美術・建築を通し身体的に体現する装置と考えれば良い。
そんな体現装置をパレルモは非日常的な祝祭時だけでなく日常的な都市空間に恒常的に再現した、それがパレルモのクアットロ・カンティ。

バロックの祝祭は、中世のアプリオリの宗教体験とは異なり、主催者である教会あるいは君主が民衆の参加を強く必要としていたイベント。
クアットロ・カンティはそのような祝祭ための、宗教的プロセッション(行列)と各種パレードを実施するための全員参加の野外劇場、と同時に、広場を構成する十字路はキリストを象徴する十字架として意味づけられている。
十字路を持った都市広場はそのまま反宗教改革のイメージを表出するカソリック世界のための大劇場ということになる。

サンタ・ロザーリはパレルモ市の守護聖女。毎年七月の半ばに祭礼が行われるが、1686年の大祭の記録では、巨大な機械仕掛けのトロイの馬が進むと、その後は長い騎馬の行列、さらに四頭の熊と四頭のライオン、四頭の象が引く凱旋の山車が続いたと記録されている。
山車の上の台は大きな黄金の貝殻の形、その上には黄金の鷲が羽を広げ、さらに高いところには聖女ロザーリが勝利の旗を手にしている。
貝殻の上や鷲の背にも聖歌隊や演奏者が乗り、彼らは上からヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカというネームプレートを、さらに下にはヨーロッパとイタリアの主要都市名を記したプレートを持って立つ。
つまり、パレルモのこの祝祭には世界全体を記号化し、カソリックがその全体の支配者であることを示す主催者の意図が明確に表現されるている。

祭りのメイン・イヴェントは仕掛け花火。市の中心の広場には堡塁も壁も橋も鉄の門を持った複雑な精緻なトロイの町の模型が作られる。
その町の内部には劇場、王宮、回廊、さらにドーム屋根の神殿が建られ、ドームの頂にはトロイの町の紋章の鷲が据え付けられる。
この模型のトロイの町は民衆の期待通り、一瞬に火を吹き、最後は、全体が大掛かりな花火に包まれる。
夜が深け暗くなると、トロイの馬から武装した兵士たちが松明を掲げて現れ、宮殿と神殿を囲む城壁に火をかける。
ここが焼け落ちるとやがて火は宮殿にそして神殿、ドームを駆け登り、上の鷲へと燃え移っていく。
最後は大きな火薬がはねる音と共にトロイ陥落の仕掛け花火。やがて、全てが終わり、町は灰燼に帰し、残骸と化した建物だけが煙を残すこととなる。
そんなわかり易いドラマが毎年この広場で展開され、パレルモ市民はその祭に酔いしれる、それが都市が劇場として作られる意味であり、楽しみなのです。

クアットロ・カンティの広場を構成する四つの建物の偶部はわずかな凹面状のカーブで作られている。
その各々の足下には噴水が設けられていて、四つはそれぞれに春夏秋冬を表現する。
三層に構成される建物の上層二層はすべてニッチ(壁龕)が穿かれていて、そのニッチから四人のスペイン人と四人の守護聖人たちが広場を見つめている。
広場は最早、都市に不随する機能的な場というより、明確なコスモロジーに縁取られた物語の世界にほかならない。

この広場に隣接したもう一つの広場、パラッツォ・プレトーリア、ここには大きな円形の噴水が作られている。
噴水は元々、イスラム建築の中庭部分に設けられ楽園を作る装置となっていたが、イタリアの都市なかに設けられるのは17世紀になってからのこと。
パラッツォ・プレトーリアの噴水は十六世紀半ば、フィレンツェのヴィラから持ち込まれたといわれている。
中庭やヴィラという個人的世界を構成していた噴水が、集団的な場である町の中にまで持ち込まれたのはパレルモが最初かもしれない。
長らくアラブ世界からの支配も受けたこの都市のこと、町中にはイスラム的迷路もそこここ見られる。パレルモは劇場都市である以前、すでに楽園(理想郷)としてイメージされていた都市でもあったのです。

劇場都市ローマ

15世紀、アルベルティとニコラウス五世がイメージした神聖都市ローマ、そのシンボルとなるサン・ピエトロ大聖堂のクーポラが燦然と輝き、シクストゥス五世の都市改造による新街路に荘麗な宮殿が建られ、多くの馬車や人々が行きかうようになると、ローマは今までの人々が全く経験したことのない、新たな都市イメージを発揮し始め、文字通りカソリック世界の中心となりました。
同時代はまた、大航海による地理上の発見や科学的天文学による新たな宇宙像が組み立てられた時。
ローマは拡大されつつある世界の原点でもあったのです。
それは古代世界におけるカプート・ムンディ(ラテン語で世界の首都の意)を思い起こさせ、世界中の人々に、世界の首府であることを具体的に実感出来る目にも見える形で表現しました。

バロック・ローマの特徴は都市を劇場として再構成したというところにあります。
現在ある主要なローマの広場や聖堂・宮殿、都市を構成する全ての要素は劇場空間を生み出す装置です。
ルネサンス・イタリアが神の世界と調和した新しい人間世界をイメージし続けたとするならば、バロック・イタリアはそれを目に見える形で具体的に都市の中に実現しています。
それも単に理想像としての世界ではなく、より現実的、具体的、感情的に、祝祭感覚に溢れ、透視画法化された視覚的世界、舞台背景として作られました。
さらにバロック・ローマにとって重要なことは、中世のように「神の世界」を理念・観念で見なしたのではなく、都市と広場、教会と宮殿を人間が具体的に構想し組み立てた構築的世界であったことです。
祝祭的演劇性に満たされる劇場都市、そこはバロックのあらゆる生活様式を育む場ではありますが、都市を生み出すものは教皇庁のメセージそしてプロパガンダであったこともまた事実です。
劇場都市ローマはカトリック・ローマの要請により、建築家たちが生み出したドラマチックな世界と理解して下さい。

2010年11月17日水曜日

スティーブン・ホールの建築


スティーブン・ホール、ギャラリーT Space 。 
昔からこの建築家は好き。 
ミニマルだがプアーではない。 
寡黙だが豊穣(さまざまな意味の世界に関わっている)でもある。

2010年11月15日月曜日

テアトロ・トル・ディ・ノーナ

莫大な財産を持っていたクリスティーナだが、彼女のオペラへの関わりは30年代のバルベリーニ家のオペラとは時代が異なってしまった。ウルバヌス八世時代のバルベリーニ宮殿のオペラは貴族や高位聖職者たちの独占的な楽しみの場。しかし、クリスティーナの時代はすでにヴェネツィアではオペラは商業的事業となっている時代。
巡業オペラ団がイタリア中に広まりつつある60年代、ヴェネツィア・オペラはローマの人々にとって大きなの関心の的となっている。世俗のオペラとその為の公共劇場は、教皇庁のお膝元においても、すでに、充分に採算の取れる事業となっていた。

1671年、クリスティーナは教皇クレメンス九世の許しを得て、ローマで最初の公共劇場テアトロ・トル・ディ・ノーナを建設する。クレメンス九世についてすでに触れている。しかし、この教皇こそオペラのリブレット作家のジューリオ・ロスピリオージだったというところが面白い。バルベリーニ家の人々と共にローマのオペラを生み出した功労者、「アレッシオ聖人伝」のリブレット作者はあの恐惶の迫害から逃れ、やがて、自身が教皇になった。
ウルバヌス八世亡き後、彼自身もスペイン生活を余儀なくされたが、1666年アレクサンデル七世の後継者として教皇に選ばれる。
ローマはオペラの発展にとって最も大事な時期に、最も相応しい人を教皇に選出したことになる。聖なる世界の中心に立つローマ教皇庁が世俗性の強いヴェネツィア・オペラの継続的公演を許すことなど、この教皇以外には考えられない。事実、後の教皇の中にも寛容な人がいないわけではないが、多くの教皇はオペラの公演に対しては厳しく取り締まっている。
それは当然のこと、宮廷に生まれた世俗オペラは聖なる教会とは相反する音楽。カソリック・ローマにとってオペラは当初は全くふさわしくない音楽だったのだ。
しかし、クリスティーナ女王と教皇クレメンス九世という同時代の希有な二人であったからこそ、ローマに公共劇場の建設が実現されるという歴史的なことが起こる。

テアトロ・トル・ディ・ノーナの設計はヴェネツィアのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロの建築家カルロ・フォンターナ。彼は十年ほどベルニーニのもとで修行し、やがて彫刻家、建築のデザイナーとして頭角を表し、劇場建築も手がけるようになった。残された図面によると、この劇場は当初U字形ではなく、楕円の平面型を持っていた。
実際の建設とは異なるが、この時の平面計画が後のオペラ劇場のプロトタイプとなって行くのです。
やがて、楕円形は馬蹄形ないし卵形あるいはベル型へと形を変え、六段の重層した桟敷席を持った十八世紀の典型的なオペラ劇場へと発展、その原型がこのテアトロ・トル・ディ・ノーナ。後の歴史的なローマのオペラ劇場テアトロ・アルジャンティーナやトリノの宮廷劇場テアトロ・レジオ等、名だたるオペラ劇場は全てこの劇場がモデルとなって建設されたと言って過言ではない。


テアトロ・トル・ディ・ノーナがその後のプロトタイプとなったのは理論家・建築家たちが、このプランをオペラ上演にとっての理想的な音響空間と見なしていたからに他ならない。

楕円形平面の劇場は焦点が一つではなく二つ、全体形状が凸型ではなく、凹面であるため、音を拡散させることなく保存し集中させるので、弱音も良く聴こえるというのが当時の音響的判断です。
しかし、これは全くの間違い。
現在の考え方では、微細な音を明瞭で聞き取りやすくするためには、音が重ならないように凸面で反響させ拡散させなければならない。
つまり、彼らは現在とは正反対の理論を信望していた。

現在とは異なるが、当時、最も新しい音響理論を発表したのはピエール・ハットやアタナシアス・キルヒャ−という人たちです。
ハットは1774年、「劇場建築試論」の中で楕円形の講堂は、楕円の一方の焦点に集まった反射音が、もう一つの焦点にも音を集中させて音の「柱」を作り出すから、音を強めるという点で大いに有用だと主張している。
また、楕円が劇場本来の形と考えられたのは、人間の声は方向性を持ち、音波が楕円体で伝搬すると考えられていたからだ。
しかし、凹面形状の持つ音響上の欠点は、現在では誰もが知るところだが、十八世紀のオペラ劇場のこのような欠点は実際上、大きな問題とはならなかったのは何故だろうか。それは隔て壁で仕切られた桟敷席が壁面一杯に並ぶ観客席にある。
必要以上に飾りたてられ、吸音性の高いカーテンや内装材で囲まれている桟敷席は、僅かな反射面部分もレリーフ状の装飾が施され、音は十分に吸音されかつ微細に多方向に反響させていたのだ。
つまり劇場全体が凹面形を持つ欠点はさしたる問題を生じさせることもなく、むしろ多孔質な形状を持つ桟敷席やその内装材が理想的な吸音と微細な反響をもたらしていたと考えれば良い。

フォンターナがテアトロ・トル・ディ・ノーナを楕円形で設計した真意は音響上の配慮ではなく視覚上の理由にあった。
ヴェネツィア以来すでにプロセニアム・アーチ(額縁)が舞台の両袖に設置されるのは常識化していた。
このアーチの存在はテアトロ・ファルネーゼ等の宮廷劇場では、終幕のバレーに参加する貴族たちには不興ではあったのは事実だが、舞台上のスペクタクルを演出しなければならない舞台装置家にとっては、もはや不可決な装置であったのだ。
くわえて演技する場はアーチの後ろ、と限定されつつある為、奥行きの深い客席からは舞台上の透視画法が強調され、アーチの存在は観劇にはますます有効なものとなっていた。

しかし、U字形の形態を楕円形にすることの説明はまだ不十分。
お金を払って劇場にやって来る観客にとって、劇場は観劇だけが目的ではない。
劇場は観客が他の観客から注目されたい場所でもあった。
つまり、楕円形であることにより、観客は舞台だけでなく観客席をも同時に見渡すことが可能でなければならなかった。
フォンターナは劇場空間のすべての視覚を統一するため、楕円形プランを採用したと考えられる。

劇場は古来より観劇だけが目的ではない。
舞台を眺めるだけなら、全ての座席はまっすぐに舞台を向くのが合理的、それが現代の劇場の形態。
しかし、バロック時代、フォンターナは舞台が見やすい劇場であると同時に、ギリシャ以来の劇場の本来の目的、演者・観客が一体となった全員参加の祝祭の場であることも意図していたのだ。

祝祭を起源とした二千年余りの劇場の歴史。
その歴史の中にあって十七世紀のフォンターナはまさに古代と現代という中間に立つ両義的な劇場の型を示したと言える。
透視画法の強調という個人に帰着する視覚の重視の劇場と、全員参加の祝祭を支える集団の場としての劇場。
テアトロ・トルディノーナの楕円形はこの両義的意味の結果であり、その形態は十八世紀、十九世紀と引き継がれ、個人と集団を支える市民社会の社交空間へと発展していく。




2010年11月14日日曜日

小都市の魅力「イル・カンピエッロ 」


舞台と演奏者は変わるが、連続して同じ出しものを鑑賞することは珍しい。 先週の東京室内劇場コンサートはたまたま二つのラ・ボエームを聴くというプログラムだった。  
どうやらボクのOpera趣味もかなりマニアックか? 誘われ時間があれば何でも聴くというのがボクの音楽スタイル、自主的な選択ではないからまだマニアックとは言えないとおもうが。 まぁ、そんな事はどうでもいい、共に研修中の若い歌手たちによるイル・カンピェッロ、どちらも充分に愉しませてくれた。 

 ポピュラーでは無いがこのOpera、ボクの好みであることは間違いない。 際立ったアリアも無ければ、主役もないイル・カンピェッロ、研修生公演の所以もこの辺りだろうが、結果として、時系列としてのドラマではなく、絵を観るように静止画のような音楽を楽しむというOpera鑑賞法にはピッタリな演目だ。 あそこがいい、あの人がいいに拘ってしまいがちなOperaの鑑賞、拘れば拘るほどある種の不満を引きずってしまう。 壮大な構築物であるOperaでは全てに完璧である事は目標ではあろうが不可能だ。 無責任かもしれないが、スカラ座もメトも奏楽堂もジーリオも変わりはしない。 違いがあるとすれば、時系列に表現されるシーンの出来と舞台構成、むしろどんな壮大なOpera でも、全体が一つの音楽的世界になっていないとしたらそれこそ興ざめだ。  

今日の演目のポイントは見終わった後の印象を一幅の絵画のように表現する事、そんな目的と成果が充分に果たされていたことが愉しかった理由だろう。 もっとも、今日のOperaとスカラ座を同じ平面で比較し、語る事はもとより無理な話だ。  
しかし、Operaの楽しみは時系列以上に一幅の静止画にあるという観点に立ち返れば、イタリアの小都市で繰り返し演奏されるOpera、その演目がボクたちにとってポピュラーであろうがなかろうが、いつでもどこでも楽しまれているという、本場のOpera事情は容易に理解できる事かもしれない。 

 残りはちょっとだけ感想を記しておこう。 あえて意味のない時系列で今回の二つのイル・カンピェッロを追ってみると、その出来は今日の方が優れていた。 決して奏楽堂が不満足だったわけではなく、今日の歌手と舞台の出来は先月より一段上だったということだろう。

2010年11月10日水曜日

バロック・ローマのオペラ


( カヴァリエーリの 「チェフアロの強奪 」)

1600年10月のフィレンツェ・ピッティ宮殿でのオペラ「エウリディーチェ」の上演はトスカーナ大公の娘マリアとフランス王アンリ四世の結婚式だった。その祝宴のメインイベントは実は「エウリディーチェ」ではなく、ヴェッキオ宮殿で上演された 「チェフアロの強奪」だったのだ。

ピッティ宮殿は私宅であり、メディチ家の本来の居城はヴェッキオ宮殿。当然、祝宴はヴェッキオ宮殿で行われており、音楽家でありローマの貴族、エミーリオ・デ・カヴァリエーリが作曲した。

しかし、この上演は舞台や衣装が完全に仕上がっていないこともあって「エウリディーチェ」ほどの評判を得ることが出来なかった。結果、カヴァリエーリはフィレンツェを即座に立ち去りローマに戻ってしまう。

この時代のローマとフィレンツェ・メディチ家との関係はきわめて深かった。大公となったフェルディナンドは即位と同時に父親が重用したバルディ伯をローマに追いやり、代わりにローマの聖十字架信徒会の聖歌隊長であり、ローマの貴族であったカヴァリエーリをフィレンツェの芸術監督の地位に置いていた。

(キエーザ・ヌオーボの「オラトリオ」)

フィレンツェでの実験であったモノディー様式の音楽劇も早くからローマには伝わっていたと考えられる。実は、「エウリディーチェ」の上演以前、ローマでもモノディー様式の音楽劇が上演されているのだ。

1600年2月、サンタ・マリア・イン・ヴァリデッラ教会での「魂と肉体の劇」の上演。作曲者はフィレンツェでは水が合わず逃げ帰えることになるカヴァリエーリ。

この教会は今ではキエーザ・ヌオーボの名で知られる教会。反宗教改革の騎士フィリッポ・ネーリの意向で再建が開始され、ちょうど「魂と肉体の劇」の上演の一年前、1599年に献堂されている。

 (fig92)

現在、ルーベンスの壁画やネーリの礼拝堂で有名なキエーザ・ヌオーボだが、「魂と肉体の劇」は「十字架に掛けられた人の祈祷室」という名の祈祷室(オラトリオ)での上演だった。

オラトリオ会の聖人であり、音楽家でもあったネーリーとローマの貴族カヴァリエーリはもともと親しい間柄。献堂されたばかりのオラトリオでの十六世紀末の謝肉祭、この音楽劇の上演はこの教会にとっていかに大事であったか想像できる。

「魂と肉体の劇」がオペラであるかどうか音楽学者にとっては意見が別れるところ。舞台も衣装もないオラトリオでの上演だが「エウリディーチェ」よりも八ヶ月も前であったと言う事実は大変興味深い。この時の楽譜や台本は出版された音楽劇としては最も早い作品でもあり、現在に残されている。

(言葉の意味が伝わる音楽劇)

「魂と肉体の劇」は フランドルのポリフォニーがベースではあるが、各声部やリズムに独立性を与えたことから明快に歌詞の意味が聞き取れる。

パレストリーナの音楽は世俗の人々の反宗教改革運動を推進したオラトリオ会やイエズス会の音楽に大きな影響を与えていた。 「魂と肉体の劇」はまさにパレストリーニの音楽を引き継ぐもの。 ラテン語ではなく、イタリア語での礼拝を行ったことからフィリッポ・ネーリーのオラトリオ(祈祷所)はラテン語を理解できない多くの人々を引きつけていた。

この祈祷所において信徒たちが参加し、歌える簡素なシラビック・スタイル(一音節一音)の音楽はとても重要であり、「魂と肉体の劇」の音楽はそのような流れを汲むものだったのだ。

音楽劇の内容はアニマ(魂)とコルボ(肉体)がヴィタ・ムンダナ(地上の生活)の誘惑と天国の契約との間で引き裂かれという寓意劇。舞踏や合唱が取り入れられた牧歌劇のようでもあり、最終的には天国での祝福を得るという宗教道徳劇。祈祷所の音楽劇は教会の中とは言え、多くの人々が楽しめるものであり、後々のオペラの展開にとっても重要なものとなっていく。

(コッレッジョの学生たちのオペラ)

イエズス会ではアゴシティーノ・アガッツァーリ作曲のオペラ「エウメリオ」が上演されている。1606年の謝肉祭、コッレッジョ (ローマのイエズス会の教育機関、反宗教改革には音楽による布教が有効) の学生たちによるこの作品の上演もまた牧歌劇と寓意劇の混合となっている。地上と天国の争いは最終的には人格化されたアポロンによって天国の力が勝利するという物語。

イエズス会のコッレッジョの学生であったステファーノ・ランディ、彼は後にローマの音楽家の最高峰、システィーナ礼拝堂の聖歌隊長に任命されるが、まだ若かった1619年、オペラ「オルフェオの死」を作曲している。

ローマ最初のギリシャ神話素材の音楽劇であるこの物語はフィレンツェとは異なり地上に戻ったオルフェオに重きが置かれていて、場面ごとの舞台効果や大規模なポリフォニックな合唱に特徴がある。全体としてはフィレンツェ同様、叙唱とアリオーソの連なる。

しかし、アリア風の歌も数多く登場し、その後のオペラを先取る音楽だ。牧歌的悲喜劇と名付けられ出版されたオペラだが、残念ながら、上演された形跡はない。宮廷を持たないローマでは、さらに十年あまり後のバルベリーニ一家の時代までは、豪華な舞台や劇場もなく、オペラは単なる個人的な娯楽の一つにすぎなかったのだ。

(バルベリーニ劇場のオペラ)
マッフェオ・バルベリーニは裕福なフィレンツェの市民の息子でした。風采があり豊かな教養を持ち、学者であり、詩人でもあった彼は1623年、五十五歳で教皇の座につき、ウルバヌス八世を名乗ります。
建築をこよなく愛したこの教皇は在任中の二十年余り、いつもジャン・ロレンツォ・ベルニーニを手元に置き、ローマの新しい都市イメージの生成を要請します。
詩人でもあり音楽好きでもあったウルバヌスの周辺にはベルニーニだけではなく、音楽家たちも絶えず控え、学者や文学者も加わり活発なサロンが展開されていました。
そのようなサロンの中の有力な一人がピストイヤ出身のジューリオ・ロスピリオージ。彼は同時代の最大のオペラ・リブレット作者であり、後に枢機卿から教皇にまで上り詰めたクレメンス九世です。
ウルバヌス八世には三人の甥がいました。フランチェスコとアントーニオは枢機卿、まん中のタッディオはローマの旧家コロンナ家の娘と結婚し、ローマ総督となった人。バルバリーニ家出身のウルバヌスは聖俗両面を一族の力で支配し、多くの芸術家、知識人を従え、バチカンとバルベニーニ宮殿はまさに宮廷の趣であったのです。

聖アレッシオ from kthyk on Vimeo.


バルベリーニ劇場の幕開けは1632年の謝肉祭です。
新婚間もないタッデオ夫婦と二人の枢機卿が住むバルベリーニ宮殿、この宮殿には三千人の収容能力を持つ劇場が設えられました。しかし、実際の観客は数百人、ここはまだ市民のための劇場ではなく、当時のローマの特権的な聴衆の為に作られた劇場であったのです。
柿落としでの上演はオペラ「アレッシオ聖人伝」。作曲は例の「オルフェオの死」を作ったステーファノ・ランディ、リブレット作家はジューリオ・ロスピリオージです。
二人はイエズス会セミナリオで教育を受けた間柄、「アレッシオ聖人伝」は題名からも判るとおり、イエズス会の持つ中世的宗教劇となっています。
しかし、このオペラには古典的悲劇と喜劇、牧歌劇とインテルメディオ、と同時代のすべての劇スタイルが一体化されていたと言えるようです。

「アレッシオ聖人伝」を有名にしている理由の一つは、史上初めて高声部が最も優位となったオペラであることにあります。主役のアレッシオはソプラノ・カストラートが演じています。
他のキャストもまた、全て教皇の聖歌隊の歌手たち。ローマの貴族であるがアレッシオは世俗を退け、深く宗教に帰依する人、そんな人間であるアレッシオは、この世の人とは思えない聖人の声である必要があったのです。そのためには、男性でもなければ女性でもないカストラートの声はピッタリであったいえましょう。

内容はローマのアレッシオが世俗の楽しみを全て捨て、乞食姿となって信仰の道を探す話です。五世紀の聖人アレクシウス伝説に基づいています。1634年制作の版画(図版:西洋の音楽と社会=3p74)をみると、端正な透視画法によるローマの都会風景の中に、姿を隠したアレッシオを探す旅に旅立とうする悲痛な婚約者が歌うシーンが描かれています。
この舞台背景の制作はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。新装なったバルベリーニ宮殿の設計者が劇場はもちろん舞台背景を手がけるのは当然のことでありました。バルベリーニ劇場とその宮殿は宮廷のような世界とはいえ、ここはどこまでも教皇ローマ・カソリックのお膝元です。
フィレンツェやマントヴァ宮廷のようにあからさまに異教であるアルカデイアをテーマとすることは出来ません。台本を書いたロスピリオージにとっては、オペラの持つ世俗的楽しみを、いかに正当化するかが問題でした。その為には「アレッシオ聖人伝」という道徳的な教えをもった聖人伝説は、もっとも都合のよい題材でもあったのです。

(ローマの世俗オペラ、二つ)

ローマでも世俗的なオペラがないわけではなかったが、舞台や劇場では上演されることのない、単なる個人的な娯楽にすぎなかった。

そんな作品の中ではロマン・ロランが十七世紀前半のもっとも美しい抒情的なドラマと評した「ガラテアの女」が有名。1639年、カストラートのロレート・ヴィットーリが作詞作曲した作品と言われている。

ギリシャ神話の海のニンフの物語。イタリア最後の牧歌劇と目される作品で、ローマでは上演されなかったが、やがて1644年ナポリで初演され、多くの人に知られるものとなった。

ローマでもっとも大掛かりの世俗オペラは「魔法にかけられた宮殿」。1642年、バルベリーニ宮殿に住む枢機卿アントーニオがパトロンとなって上演された。バルベリーニ家お抱えの音楽家ルイージ・ロッシの作曲、ロスピリオージのリブレットによるこのオペラ、七組もの恋人たちが巻き込まれる誤解と混乱のドラマ。

魔術に彩られての悲劇と喜劇の連続は、そのまま後のヴェネツィア・オペラに引き継がれるもの。このオペラの上演はウルバヌス八世在位のローマであるからこそ許されたことであって、新たな教皇が支配する後々のローマでは決して生まれることはなかった出来事なのです。

(ローマのオペラのパリ亡命)

寛容なバルベリーニ家のウルバヌス八世が1644年没するとローマの世俗音楽は一気に停滞する。次に即位した パンフィーリ家のインノケンティウス十世は音楽には無関心の人。世俗に走りすぎる前教皇の施策にはいつも苦々しく思っていた。

新教皇が実権を握るとウルバヌス八世の甥、アントーニオ・バルベリーニ枢機卿は当然居る場所が無くなる。彼は政変に敗れ、財産没収のまま、パリに亡命せざるを得なかった。やがて、バルベリーニ劇場は打ち捨てられ、ロスピリオージはスペインへと旅立って行く。

しかし、バルベリーニ家の音楽家たち、ルイジ・ロッシもまたフランス宰相ジュール・マゼランの好意によりパリに招かれる。ローマ・バルベリーニ劇場のオペラはそっくりパリに亡命した。

ルイジ・ロッシが1647年3月、パレロワイヤルで「オルフェオ」を上演する。フランチェスコ・ブーティによる台本は最早、フィレンツェのオルフェオに見るヒューマニストの理想からは程遠いもの。しかし、その音楽は極めて多彩。フランス人好みのバレーも入り、様々な情景が入れ替わり立ちかわり変化する。

ヴェネツィア生まれの機械仕掛けの中、後の定番ダカーポ・アリアも数多く挿入される。音楽の神オルフェオはついにパリにおいても、その力を宮廷の人々に披露することとなったのだ。



(イーブリンのローマ)

グランド・ツァーのジョン・イーヴリンはヴェネツィアを訪れる前年、1644年ローマに立ち寄った。その時の日記の一部、建築家ベルニ−ニについて次のように書いている。

「わたしがこの都市に到着する少し以前に、彫刻家・建築家・画家・詩人の騎士ベルニーニが、公衆歌劇(パブリック・オペラ)を上演したが、自ら背景を描き、彫刻を刻み、装置を考案し、作曲し、喜劇を書いて、舞台を全部独りで作り上げたのだ。」

イーヴリンが訪れたローマはオペラ好きの教皇ウルバヌス八世が亡くなりオペラはもちろん、絵画や彫刻の裸体表現をも嫌悪したインノケンティウス十世が即位した年のこと。
ベルニーニやプーサン等の絵画・彫刻は退けられ、もはやバルベリーニ宮殿のオペラはまったく鳴りを潜めていた。
実際のベルニーニの多芸多才の活躍はイーヴリンの帰国後に発揮されているのだが、ケンブリッジで学んだイーヴリンにはローマやヴェネツィアのオペラの評判は十分に伝わっていたと考えられる。
新しい芸術表現を嫌っていたはずのインノケンティウス、しかし、彼がベルニーニにナヴォナ広場の「四大河川の泉」の制作を依頼するのはイーヴリンの帰国後から4年後のこと。
サン・ピエトロ広場の計画が現在のように決定されるのも教皇アレクサンデル七世の時代、12年後のことだ。
つまり、イーヴリンの日記はその後のベルニーニの活躍を予見したもの、バロック時代最大の建築家への賛辞となっている。


(クリスティーナ女王の謝肉祭)

べルニーニとオペラを本格的に活気づける出来事は、イギリスのイーヴリンの訪問ではなく、スェーデンの一人の 王女です。
1655年12月、スェーデンの前女王クリスティーナがローマにやってきた。彼女はその18ヶ月程前、カソリック信仰に帰依し、王位を放棄した人、王位放棄してまでのプロテスタントからカソリックへの帰依は、失われつつあるローマの政治的影響力を復活させる画期的の出来事だった。
クリスティーナ女王はローマ教皇庁にとっては大歓迎の人材、女王のローマ訪問はわざわざその年の謝肉祭の季節に合わされ盛大に実施されることとになったのです。

インノケンティウス亡き後、新教皇アレクサンデル七世の教皇庁主任建築家べルニーニは寸暇の暇もなく、クリスティーナ歓迎の準備と様々な飾り物の制作に忙殺される。
クリスティーナのローマ入場は北のポポロ門、そこにはベルニーニによって壮麗な飾り付けが施されている。
王位のない彼女の教皇との謁見は、本来は許されることがないのだが、ベルニーニの特別なデザインによる肘掛け椅子が用意された。
婦人同席による教皇の食事も、儀礼上前例が無かったのだが、クリスティーナ歓迎の宴会では、ここでもベルニーニの弟子たちによる、金箔を振りかけられた砂糖菓子など周到な準備とあらゆる種類の飾りものが並べられることになり実施された。

クリスティーナの歓迎祝典は教皇庁だけではない。
コッレッジョ・ゲルマーニコでは宗教劇「イサーコの犠牲」が上演される。
貴族の宮殿では音楽の伴奏付きのバレェと宴会そして馬上武術試合等々。
中でも最大の呼び物はやはりバルベリーニ宮殿。
ここではジューリオ・ロスピリオージによる二つのオペラ、「禍転じて福となる」と「人間の生あるいは慈悲の勝利」が上演されている。
ウルバヌス八世の他界の後、バルベリーニ家に親しかったロスピリオージもしばらくはスペインでの生活を強いられていたが、インノケンティウス十世の治世も終わり、新しい教皇のもとローマに戻った彼は幾つかのオペラの台本を書いていたのだ。

「女王の謝肉祭」で上演された「人間の生あるいは慈悲の勝利」はカヴァリエーリの「魂と肉体の劇」と似たような主題を持っている。クリスティーナ歓待の為の寓意が込められ教訓的主題を持つこのオペラは、マルコ・マラッツォーリにより作曲されている。
クライマックスとなった終幕のシーンでは、サン・タンジェロ城を取り囲んだローマの町並みを背景に、祝典の主人役マッフェオ・バルベリーニによって、女王クリスティナとローマを讃える盛大な花火が打ち上げられ、その壮大な花火は版画によって後々の世までもつたえられることとなった。(図版;西洋の音楽と社会ー3P81)

(クリスティーヌが庇護した音楽家)

活発で機知に富み因習に拘束されないクリスティーナは、その後、四人の教皇の治世の間、ローマの芸術の庇護者の立場を取り続ける。

彼女の貢献はオペラが最大であろうが、いくつかのオラトリオへに対しても財政的な援助も行い、さらに当時まだ若いがすでに才覚を表していた二人の音楽家に大規模な作品を依頼している。
アレッサンドロ・スカルラッティとアルカンジェロ・コレッリです。

クリスティーナ自身の音楽監督にも任命されたスカルラッティは1683年にナポリに去るまでの間、「顔のとり違え」というオペラを含み、彼女のためにオペラ、オラトリオ、カンタータと沢山の曲を作曲する。

この頃、オラトリオもまたローマ以外の様々なイタリアの都市に拡がっていく。
その特徴は通奏低音の伴奏の上に載ったアリアにある。
スカルラッティと彼の音楽はクリスティーナによって育てられたと言っても過言ではない。

クリスティーナはテレベ川に近い道ぞいに邸館を一つ借り受け「王妃のサロン」と呼ばれる集会を開催した。
当初、非公式であったサロンだが1674年にはアッカデミア・レアーレ(王立協会)と称され教皇庁からも公認されるようにもなる。
そこには音楽家や文学者ばかりでなく考古学者、天文学者、古典学者も集まった。
著名な学者の講義、論文発表、ゼミナール、そして様々な新しい音楽。器楽の演奏に始まり、声楽の演奏で閉じるというこのサロンは定期的に開催され、ローマ最大のサロンとなっていく。
その集会ではカンタータにコンチェルト・グロッソやトリオ・ソナタというまだ発展途中の音楽の形式も沢山試みられ、厳しくその質が吟味されている。
スカルラッティやコレッリの新曲はこのサロンで披露され、主催者クリスティーナ女王に献呈される、つまり、アッカデミア・レアーレは二人の音楽家を育てる格好の場となっていたのです。

(クリスティーナと教皇クレメンス九世)

莫大な財産を持っていたクリスティーナだが、彼女のオペラへの関わりは三十年代のバルベリーニ家とは異なっていた。ウルバヌス八世時代のバルベリーニ宮殿のオペラは貴族や高位聖職者たちの独占的な楽しみの場だった。しかし、ヴェネツィアではすでにオペラはビジネスとなっている。

巡業オペラ団がイタリア中に広まりつつある六十年代、ヴェネツィア・オペラはローマの人々にとって大きな関心の的となっていた。世俗のオペラとその為の公共劇場はすでに教皇庁のお膝元においても、充分に採算の取れる事業と考えられていたのだ。


1671年、クリスティーナは教皇クレメンス九世の許しを得て、ローマで最初の公共劇場テアトロ・トル・ディ・ノーナを建設した。クレメンス九世について先に触れておこう。この教皇、実はオペラのリブレット作家のジューリオ・ロスピリオージのことだ。バルベリーニ家の人々と共にローマのオペラを生み出した功労者、「アレッシオ聖人伝」のリブレット作者、その人。ウルバヌス八世亡き後、彼自身もスペインでの亡命生活を余儀なくされたが、1666年アレクサンデル七世の後継者として教皇に選ばれた。

ローマはオペラの発展にとって最も大事な時期に、最も相応しい人を教皇に選出した。聖なる世界の中心に立つ教皇庁ローマが世俗性の強いヴェネツィア・オペラの継続的公演を許すことなど、この教皇以外に考えられない。事実、後の教皇の中には寛容な人がいないわけではなかったが、多くの教皇はオペラの公演に対しては厳しく取り締まっている。つまり、ローマの公共劇場の建設はクリスティーナ女王と教皇クレメンス九世という同時代の希有な二人によって実現された歴史的事件であったのだ。



ローマ・バルベリーニ宮殿

バロック・ローマの音楽と建築にとって、最も重要な人物はバルベリーニ家のマッフェオ、後のウルバヌス八世でしょう。彼はベルニーニやボロミーニを世に送り出すばかりか、生まれたばかりのオペラを育てた人でもあるからです。
17世紀の入るとシクストゥス五世の都市計画は形になりはじめ、ローマは新しいイメージを表し始めました。大聖堂の竣工に合わせるかのように、主要街路には沢山のパラッツォ(宮殿)、豪華な彫刻や噴水に飾られた広場が建設されたからです。ローマにはヨーロッパ中の貴族が集まり、様々な外交の花が開き、新しい都市は一大コミュニケーション・シティとしての役割を担うようになりました。
ローマに集う貴族たちのコミュニケーションに欠かせぬもの、それは音楽と美術です。ローマにはまた多くの芸術家たちが集い、制作し、発表する、あるいは各々の力量を示す彼らの格好の舞台、ショールームの役割も果たすようになります。

そんなローマでいち早く力量を発揮するのがベルニーニです。彼は主要街路の一つ、現在のローマにとっても最も賑やかな街路であるシスティーナ通りの中央にトリトーネの泉を持つ広場を従えたパラッツォ(宮殿)を建設しました。このパラッツォがマッフェオ・バルベリーニ、後のウルバヌス八世のバルベリーニ宮殿です。
ポポロ広場からの巡礼者たちはまずサンタ・マリア・マジョーレを目指します。その街路はかってはフェリーチェ街道、後に道路の開設者シクストゥスの名がそのまま取りシスティナ通り(現在はクワトロ・フォンターナ通り)と呼ばれますが、バルベリーニ宮殿はその新設のもっと主要な通り、それもスペイン階段上広場とサンタ・マリア・マジョーレの中央に位置します。従って、バルベリーニ宮殿とその設計者ベルニーニは一躍有名になりました。

バルベリーニ家のウルバヌス八世が即位したこの時期がまさにサン・ピエトロ大聖堂の竣工の時でもあります。1626年11月18日サン・ピエトロ大聖堂は歴史的献堂式を迎えました。バルベリーニ宮殿の建設もまた同じ時期、最初の設計者は教皇庁の主任建築家カルロ・マデルノ(トスカの舞台、サンタンドレア・デッラ・バッレの設計者)です。
マデルノはシクストゥス五世の都市改造の建築家カルロス・フオンターナの甥に当たります。従って、彼はミケランジェロに引き続きサン・ピエトロ大聖堂の建設を任され、同時に、バルベリーニ宮殿の設計も担当しました。
しかし、彼はウフィッツ美術館に保存されている一枚の図面を残したまま1629年他界します。そして引き継いだのがジャン・ロレンツォ・ベルニーニだったのです。工事はすでに始まっていましたが、マデルノの仕事場で石工として働いていたフランチェスコ・ボッロミーニと共に宮殿建設の指揮を執り、現在のパラッツォを竣工させました。

バロック時代を代表する2人の建築家があいまみえたこの建築、そのデザインは当時のローマの宮殿建築としては革新的なデザインであったと言えます。
マデルノの設計は中庭を中央に配し、四周をブロックで囲うという典型的なルネサンススタイル。しかし、実施された建築は中庭は廃棄され、現在に見るH型の平面形を持っています。
ルネサンスのパラッツォの特徴は中央にオープンな中庭を確保し、外周を比例的配列で構成された堅い閉鎖的なブロックで囲うという形態が一般的です。
しかし、このパラッツォは中庭はなく、前面は都市的状況を引き寄せるかのように、凹型の列柱エントランスを持ち、後方はまだ庭園としては整備されていないままの自然環境に対応したデザインとなっています。

ベルニーニの果たした革新とは、静的な形態を持ち、閉じられた求心的なルネサンスの宮殿を、動的で開かれたバロックの宮殿に変容したことにあります。しかし、動的な建築とはいっても、部分部分がバラバラになったわけではありません。一つ一つの空間は中央の主軸を中心にしっかりと対称的に構成されています。つまり、ルネサンス以来のシステムへ向かう強い計画性は厳然と全体を支配しているのです。一方、得られた空間は都市や自然環境と対応し、実用性を確保、エントランスに示されるように奥行き感が強調され、全体は開かれかつ動きを持ったダイナミックな印象を与えています。
中世の城郭からルネサンスの宮殿への変化、そこでは戦いの為の建築から、交渉あるいは外交の場としての建築の時代への変化が端的に反映されなければなりません。しかし、中世・ルネサンスどちらもともに、まだ厳しいその形態は権力の象徴や防御の姿勢をそのまま表現していたのです。バルベリーニ宮殿はこの動的で開かれた形態を強調することで、新しい時代の建築であることを示しています。この変化はやがて、宮廷オペラを市民のオペラへと開いていく流れにも符号します。建築と音楽はルネサンスからバロックへと、その新しい表現手法を移行しつつあったのです。



(viia YouTube by navigata)

ローマのパレストリーナ

ルターやカルヴィンの宗教改革に対抗しなければならなかった、16世紀のカトリック・ローマが最も必要としたものは音楽です。プロテスタントは豪華な建築や美術ではなく、聖書の言葉によって民衆の支持を得ていく新しいキリスト教です。そのプロテスタントに対抗する為には、カトリックもまた建築や美術で理念を表現するよりも、具体的・直感的にわかりやすく神の世界を示してくれる音楽を必要としました。サン・ピエトロ大聖堂やサンタ・マリア・マジョーレ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの礼拝堂、イエズス会のオラトリオ、16世紀ローマの教会は何処もミサ典例や宗教儀式の為に聖歌隊は大活躍だつたと言えましょう。
その聖歌隊で子供の頃から自己の才能を発揮し、生涯に渡ってカトリック・ローマに貢献した音楽家がジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナです。彼はサン・ピエトロ大聖堂の建設が着々と進むなか、ローマにカトリックの音楽的世界を生み出す、まさに、ローマが必要とした時、最も必要とされた音楽家として活躍しました。


(via Youtube by Giocvanni Palestrina-Missa Papae Marcelli - Kyrie)



生まれ故郷パレストリーナの教会の聖歌隊で子供の頃から自己の才能を発揮し、生涯に渡ってカトリック・ローマに貢献した最大の音楽家がジョヴァンニ・ピエル・ルイジ・ダ・パレストリーナ。 彼はサン・ピエトロ大聖堂の建設が着々と進むなか、建設に呼応するかのようにカトリック・ローマ全体を新しい音楽的世界に変えていった音楽家です。
パレストリーナの時代は教会における聖なる音楽だけでなく、宮廷における世俗の音楽も発達した時代。その音楽は17世紀、オペラを生み出すことになりますが、パレストリーナは世俗の音楽には関わることが少なかった、いや、関われなかった音楽家でもあったのです。
何故なら、同時代の画家・音楽家・建築家、誰でもそうでしょうが、彼らはまだ、教会から離れて家族の生活を守ることがほとんど出来なかった時代です。
3人の子供との家庭生活を持つ彼は教皇庁だけでなく諸都市の貴族、宮廷からの招請も少なくはなかったのですが、ローマとその周辺で生涯を送り、教会の音楽を作り続けることになります。
しかし、面白いことに、宮廷の音楽を作ることが少なかったパレストリーナ、彼は宮廷が生み出したオペラの題材にされた唯一の音楽家でもあるのす。1917年、ミュンヘンのプレンツレゲンテン劇場、ハンス・プフィッツナー作曲のオペラ「パレストリーナ」がそれで、ブルーノ・ワルターの指揮で初演されました。

ルターの宗教改革への対抗から開かれたトレント公会議では世俗に傾きすぎた音楽に対し数々の苦情が寄せられていました。世俗の定旋律に基ずくシャンソン風のミサ曲や言葉の理解を不可能にする複雑なポリフォニー、あるいは教会における楽器使用や不作法な歌手たちの振る舞いに対してです。そして多声音楽を廃止し、昔のグレゴリオ聖歌のみで典礼を行うという案が体勢を占めつつあった時、パレストリーナのミサ曲が会議の席上で演奏され、そのすばらしさに感動した人々は、従来通りポリフォニーを典礼の音楽として認めたという伝説がオペラ化されました。
1545年から63年までのトレント公会議、そこでは教会からの悪弊を追放し、カトリック信仰の原点に立ち戻ることが確認されましたが、その席上、卑俗で不純な音楽の排除が決議され、当時、北ヨーロッパで流行していた複雑なポリフォニーに対する批判が強まっていたのです。
しかし、パレストリーナの音楽はフランドルのポリフォニーを基礎としながら、各声部には独立性を与え、異なったリズムと歌詞を与えるもの。このことによりポリフォニーであっても、その宗教音楽が、決して不敬虔でも、歌詞の意味が不明となる音楽でもなく、厳粛さと透明性を保持しているものであることを示していました。真偽のほどは不明ですが、伝説上のミサ曲は「教皇マルチェルスのミサ曲」ということになっています。そして、パレストリーナは教会音楽の救い主として長く伝えられて来たのです。

様式の持つ正当性を自らの演奏で守り抜いた伝説を持つパレストリーナは、バッハ、ヘンデル以前のもっとも人気のある作曲家であり、ルネサンス最大の宗教音楽家と言って良いようです。サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会、サンタ・マリア・マジョーレ教会というサン・ピエトロに並ぶローマ最大の教会の楽長を歴任したパレストリーナは、皇帝マクシミーリアン2世やマントバのゴンザーガ公からの誘いにも一切応じることなく、生涯、ローマの宗教音楽家としての生を全うしました。
百に及ぶミサ曲や四百を数えるモテットと並び、わずかであるが世俗のマドリガーレも作曲しています。当時全盛の世俗の音楽、マドリガーレにも幾多の名曲を残している彼ですが、後に、恋愛詩に作曲したことを恥じ、悔やんでいると告白しています。
しかし、その告白は本意ではなく、彼と家族が安心してローマで生活していく上での方便だと、後世の研究者は指摘する。そんな方便を必要とするパレストリーナのローマは、十七世紀を迎えても、オラトリオにおける音楽劇はともかくとして、オペラはほとんど根付くことはなかったのです。
1594年、パレストリーナが死ぬと、その後の二十年、教皇たちの音楽に対する関心は急激に薄れて行きます。1610年「聖母マリアの夕べを」を教皇パウロ五世に献呈すべくモンティヴェルディがローマにやってくる話は有名ですが、彼は一切のポストも支持も得ることもなくローマを引き上げヴェネチアに向かうことになるのです。

ア・カペラとカストラート

故郷のパレストリーナの街の司教がローマ教皇に選出されたことから、若くしてシスティーナ礼拝堂の聖歌隊員に抜擢されたパレストリーナですが、教皇亡き後は当然解雇され不遇の身となります。しかし、40代後半、彼は実力でカペラ・ジュリアの楽長の座を勝ち取り、教皇庁に復帰するのです。パレストリーナの活躍によって、ジュリアやシスティーナの礼拝堂がローマ音楽の中心となっていく頃、ア・カペラが育ちます。ア・カペラとは「楽器などの演奏が無く、無伴奏」でという意味で使われる音楽用語ですが、本来は「礼拝堂風に」と訳されます。つまり、ア・カペラのカペラは礼拝堂、システィーナ礼拝堂を意味しているのです。

この礼拝堂で演奏される曲は全て無伴奏で演奏されるのが習慣でした、記録によればオルガン伴奏さえなかったのです。従って、仮に外では楽器伴奏付きの曲であったとしても、ここでは一切の楽器伴奏は許されませんでした。従って、ア・カペラは礼拝堂風に、つまり楽器伴奏なしの歌曲ということになったのです。
この礼拝堂の秘曲と言われるミゼレーレを、十四歳のモーツアルトが聴いた逸話が残されています。ミゼレーレは十七世紀の作曲家グレゴリオ・アレグリの作曲ですが、モーツアルトはこの曲を一度聴いただけで宿に帰り、秘曲を全て間違いなく楽譜に書き移したという神童逸話です。パレストリーナが活躍し、モーツアルトが秘曲を聴いたシスティーナ礼拝堂。しかし、現在ではバチカン美術館の中心と位置つけられ、音楽の為の空間というよりミケランジェロの美術館として有名です。毎日、ミケランジェロを一目見ようと、沢山の人々が押し寄せる現在の礼拝堂ですが、ここは様々な音楽と音楽家が活躍し、対抗宗教改革の中心となった場所、バチカンの浮沈を担う場所でもあったのです。


(via Youtube : Allegri-Miserere)

カストラートの誕生も実はこの頃のこと。礼拝堂の中では、徐々にではあるが、より強く、より幅広い音域を持つ彼らの歌声が重要な役割を占めていきます。カストラートとは声変わりを迎える少年時代に去勢し、青年になっても子ども時代の高音で歌える男性ソプラノ歌手のことです。男性であるが故にその歌声は圧倒的に力強い、そして高音です。様々な音量と音域の歌手の歌声が合唱され、音楽はますますその表現領域を広めていきました。無伴奏の歌曲と女性に頼ることのない高音の歌手の誕生は、やがて始まるオペラの時代の中心的役割を担うもの、後々はカペラで生まれたカストラートが世俗のオペラの大スターとなって行くのです。

システィーナ礼拝堂の音楽はオラトリオ会やイエズス会の音楽とも巧みに連携していきます。オラトリオとは対抗宗教改革の機運の中、より多くの人々、一般の人々が、ラテン語ではなく日常語で、気楽に神に接することが可能な場、祈祷所を意味しています。そこでの音楽は宗教的ラウダが中心。ラウダとは中世以来、イタリアの俗語によって歌われた民衆の中の宗教歌謡です。一般家庭での祈りの際、あるいは巡礼、行列の際に歌われた民衆的な音楽のことです。
民衆が中心となった祈祷所(オラトリオ)に多くの人々を集めたオラトリオ会やイエズス会は十七世紀にはいると、このラウダと礼拝堂の音楽、そしてフィレンツェのモノディを組み入れて、教会の中のオペラとも言えるオラトリオを生みだしました。さらにまた、この二つの会は音楽の教育機関となるコレッジョを運営し、やがて多くのオペラ歌手を誕生させて行きます、つまり、近代の音楽のすべてはこの時代の礼拝堂と祈祷所が担っていたと考えて良いのではないでしょうか。

システィーナ礼拝堂


大聖堂の建設はカトリックの復興を内外に示す格好の舞台ではあるが、その姿が実際に都市ローマを凌駕するようになるのは17世紀を迎えてからのこと。
それはちょうどオペラの誕生に似て、16世紀という丸々の一世紀が、生まれ出る為の準備の時間、大半が大建築構築の為の基礎工事に費やされていた。
一方、アルプスの北の人々の間に広がりつつあるローマ・カトリック批判に対抗するためには、16世紀の始め、ユリウス二世は敬虔なカトリック信仰の持つ真の意味を、早急に説明する必要があった。
大聖堂の完成を待つまでもなく、至急にローマ・カトリックのメッセージを示すもの、それがミケランジェロやラファエロの壁画・天井画であったのです。
システィーナ礼拝堂が全世界に示さなければならないメッセージとは、それは「最後の審判図」や「天地創造図」という旧約聖書に記される「神と人間との契約の物語」、ローマ・カトリックは初源に立ち戻り、神と人間との関係という最も重要なメッセージを発信しなければならなかった。

システィーナ礼拝堂は先の教皇シストゥス四世によって造営されている。
長さ40.93m、幅13.41m、旧約聖書に記されたソロモンの寺院と全く同規模、同型のプランによって作られていたパラフィナ礼拝堂を、この教皇は改築整備し、自分自身の名シクストゥスを冠し、1483年に最初の礼拝を行った。

シクストゥス四世はニコラウス五世やピウス二世に続く人文主義教皇として知られている。
彼はトルコへの対策や教皇領の安定、無法な貴族の横行に対し精力的に関わると同時に、文学や芸術のパトロンとしての役割もニコラウス五世にならい充分に発揮した。
ニコラウス五世が創設したバチカン図書館を一般の学者に解放したのも、この教皇だが、彼の最大の業績はカッペラ・グランデと呼ばれた聖歌隊に25名も歌手を雇い、教皇の聖歌隊、カッペラ・システィーナ(システィーナ礼拝堂聖歌隊)として組織し直したことにある。

シクストゥス四世はユリウス二世にとっては叔父に当たる人。
甥であるユリウスはこの教皇によって枢機卿に抜擢され、やがて自分自身も教皇となる道が開かれた。従って、叔父の創設したこの礼拝堂こそユリウス二世にとって、全ての要であった。

その内部装飾を仕上げることはシクストゥスを継承する彼自身の存在の証でもある。さらにまた、彼は13世紀以来のローマ法王選挙秘密会議であるコンクラーベをここで実施するばかりか、教皇自身の為の公式の礼拝の場所をこの礼拝堂に位置付けた。つまり、システィーナ礼拝堂はユリウス二世によって教皇庁で最も重要な建築として位置づけられたのだ。

ユリウス二世は叔父にならい音楽にも貢献している。
1513年創設されたカッペラ・ジューリア(ユリウス)は大聖堂の聖歌隊。
ユリウスは教皇の私的聖歌隊であるシスティーナ礼拝堂聖歌隊に対し、もう一つ大聖堂の聖歌隊をも組織した。このことから音楽家の立場は、教皇や君主という個人に雇われる仕事ではなく、大聖堂という公的な場に職を得ることとなる。

後に、この公的な聖歌隊がモデルとなり、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーナ教会やサンタ・マリア・マジョ−レ教会にもカッペラが創設され、数多くの音楽家たちの活躍が公的にも社会的にも多くの人々国々に知られ音楽家の立場は画家に劣らぬものとなる。
音楽家の社会的立場作りにも貢献したユリウス二世だが、時はまさにフランドルに代わりイタリアの音楽家が盛んに力を発揮した時期でもあった。
16世紀初めのこの教皇は、武器を持つことが好きで、戦う教皇と見なされていが、音楽と建築をこよなく愛した人でもあったでもあったのです。




(via YouTube by bacabaca420)

2010年11月6日土曜日

ベルニーニのサン・ピエトロ広場



世界でもっとも劇的な公共広場と言えばサン・ピエトロ広場。
その壮大な形態は、この場所こそ全人類が出会う場所、と位置づけたカソリック・ローマの強いメッセージです。
宗教改革に揺れるヨーロッパに対し、いや世界中の人々に対し、改めてローマは世界の中心であることを示さなければならない時の最も重要な建築。
デザイナーはジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。

この広場にネロ帝のオベリクスがフォンタナによって設置されてから70年後の1657年、ようよっと最終案が決定し工事が始まった。
設計を依頼したのはトスカーナ地方の高名な銀行家の子孫、キージ家出身の教皇アレキサンデル七世。
この教皇の治世の12年は、後に「大いなる造営家」と記録されるほど数々の絵画・建築が制作された時代でもあった。

サン・ピエトロ広場計画の基点となるのはもちろん、その中央に立つ巨大なオベリスク。
ベルニーニはこのモノリスの持つ意味、焦点として全て意識や視線を集めずにはおかない強力な集中力にまず着目する。
そして、この一点が全ての世界と繋がるように計画する。
結果、ベルニーニは壁ではなく柱によって広場を囲う案をつくり、建設に着手することになる。

扁平な楕円の形状に柱が並べられた列柱廊(コロンナート)、その形態は閉じられていると同時に開かれている。
「聖ペテロの教会が、その他のほとんどの教会の母であるように、この広場は、カトリック信者たちを迎えるために、あたかも母が両腕を差し出しているように見せる列柱を備えていなくてはならない。それによって信者たちは信仰を確認し、異端の信者たちはこの教会に再び統合され、異教徒の者たちは真実の信仰に教化されるのである。」
(図説世界建築史ー11p35)とベルニーニは語っている。

母の両腕によって囲まれるこの広場は閉じている以上に、開かれていることが大事であって、ベルニーニはこの腕を壁ではなくスクリーンのようにつくることで、広場を全人類が出会うところ、そして、広場からのメッセージが世界全体に放射されるようにと計画したのだ。

壁ではなくスクリーンとして作られたことの意味はさらに大きいなことを意味する。
完結した形態ではなく、背後の世界との相互作用が可能なコロンナート、それは街と広場が分離されるが、しかし同時に結びつけられていることをも意味している。
中世ヨーロッパから遠く隔たったバロック・ローマ、そこは最早、教皇や貴族のローマではある以上に一般の人々の為のローマである必要があったのです。
壁ではなく透過性を持ったコロンナートによって生み出された広場、そこではすべての身分も消滅し、貴賎の別無く、調和して暮らす場であることを意味づけてもいる。

さらに方形の形状を持つオベリスクは世界全体から集まる意識を大聖堂に向かう方向へと統一する役割を持っている。
広場の中央のオベリスクは求心化作用と目標に向かう方向性を指し示す作用を合わせ持っていることが極めて重要。
ベルニーニの当初の計画では大聖堂のファサードの前面に一対の鐘塔が建つことになっていた。
この鐘塔は広場から聖堂の内部空間へ、大ドームに至る為の門の役割を果たすべく計画された。
この門を通過した世界からの意識は聖者の体内と見なしうる大身廊、さらに大ドームが屹立し、聖者の墓が埋められた交差部まで至ると、そこからはオベリスクや広場の列柱が指し示すように垂直に天への方向へと意識が広がるようイメージされ計画された。

楕円形の列柱廊で囲まれたサン・ピエトロ広場は大ドームと全く同じ寓意を秘めている。
オベリスクが立ち、屋根のないこの大広場はまた大ドームで覆われた聖ペトロが眠るマルテリウム(殉教者記念堂)そのものの姿でもある。
つまり、広場は屋根のないマルテリウムと見なされているのだ。

このようにベルニーニの計画で重要なことは、形態は幾何学ではあるが、観念だけで終わるものではないということ。
表現されるものは行動と体験によってのみ理解されうる、劇場的世界となっていることが求められていたのです。


(via YouTube by castrovllllgluseppe)

2010年11月5日金曜日

劇場としてのカンピドリオ広場

計画案は一見、コルシーニャの丘のピエンツァの理想都市を思い起こさせます。台形の広場を囲み、正面に舞台背景のような建築を配しているからです。http://sadohara.blogspot.jp/2012/09/blog-post_28.html

しかし、ピエンツァの計画からすでに八十年余り、アルベルティの理想もミケランジェロの時代に至っては大きく変質しています。ミケランジェロの時代とは美術史でいうマニエリスムの時代です。静縊なウルビーノの理想都市図が現実的なセルリオの都市風景に変容するように、あるいは聖堂のモテトゥスより宮廷での知的なマドリガーレが人気を博す時代です。

十六世紀始めの芸術はルネサンスの持つ等質等方な静的秩序から動的で現実的、感情的経験の対象へと変わっていきました。つまり、広場は最早、かってのように都市の理念を想起させる場ではなく、視覚的世界、舞台背景として作る必要があったのです。そして、ここからがミケランジェロの面目躍如たる計画です。バロック都市あるいは劇場都市ローマを先駆けるこの広場は只眺めるためだけの広場ではありません。そこは動的に体験する場、実感をもってドラマを体験する場としてデザインされているのです。

コルドナータ(階段状の斜路)をゆっくりと登ると、中央のマルクス・アウレリウス像と左右の邸館は舞台上の透視画法を強調するように立ち上がってくるように感じられます。正面は騎馬像の背景としてのパラッツォ・デル・セナトーリオです。かっての元老院、中世には市庁舎として使われたこの建物、ミケランジェロは鐘塔を中央に付け替え、主階玄関テラスへの階段を左右に設置しました。対称形に置かれた階段の側面で囲われた三角形の中央のニッチには、これもまた古代ローマ時代のもの、ミネルヴァ像が据えられています。その左右にはナイルとテヴェレの川の神が座しこの像を守っています。広場の内部に立入ると、ここは屋根のない建築の内部空間の趣きです。ここはまさにドラマの中の古代ローマを体験する場として設えられているのです。

マルクス・アウレリウスを起点とした正面の舞台構成を都市ローマを守護する祭壇とするならば、広場はちょうどその聖堂の身廊の役割を担っているように見えてきます。左右の邸館のファサードを飾る大きなピラスター(壁柱)、基壇に載り厚いコーニスを支えるコリントの柱頭を持つこのジャイアント・オーダーが聖堂の身廊を構成する列柱となっています。その背後が小さな円柱が立ちならぶ側廊なのです。大きなピラスターの両脇に建つ小さな一層分の円柱が側廊部分列柱を構成している。つまり、この内部空間あるいはドラマの空間は、別の見方では、カソリック聖堂を見慣れた人であるならば、ここは聖堂の内部空間の構成と全く同じでもあることがわかります。

一方、広場を囲む左右の邸館は建物というより舞台を構成するスクリーンに過ぎません。ミケランジェロはこの一枚のスクリーンに異なる尺度のピラスターと円柱を組み合わせることで、小さな広場を一幅の絵であることより、動き回ることで具体的に体験できる古代神殿あるいは中世聖堂という演劇的世界としてデザインしているのです。

空間のドラマとみなしうるカンピドリオの広場では床面の模様は特に重要な意味を持っています。ピエンツァの広場と同様、透視画法としては逆台形、遠方の風景を近寄せる効果を持つ平面形状ですが、この広場の床面のデザインはピエンツァのような単純な透視画法としての距離、後退を表現するものではありません。

左右の列柱が都市の内部空間としてのドラマを表現しているように、楕円形と放射状の石貼りで構成された床面はルネサンスの静縊や安定性とは全く異なる意味と体験を我々に準備しています。正方形でも正円でもない床面は完全であることより不完全、静止することより動くことを要求しています。楕円形はその空間に中心性は与えますが、それと同時に長軸の強さをも強調します。

コルドナータを登り、楕円の長軸の一端にたどり着いた我々は祭壇に向かう身廊を進むことを強要されるのです。しかし、その中央には騎馬像ですから放射状の床石に促され回り込まなければなりません。そして、我々は楕円の単軸の一端に立たされることになります。そこから眺められるこの騎馬像はまさにジャイアント・オーダーを背景とし、古代ローマの都市を凱旋するマルクス・アウレリウスそのものの現実の姿に立ち会わされます。

再び正面に目を転じ、祭壇に赴きますと、そこは聖堂であるならば十字交差部分、空間は左右一気に解放されます。この開放はコルドナータと直行する新たな軸を生み出しているわけですが、正面右手は公園に続くギャラリーへ、左手はサンタ・マリア・イン・アラコエリ教会に向かう階段となり開かれています。この軸に平行するパラッツォ・デル・セナトーリオの階段を昇ると、この建物の玄関ポーチ、爽やかな風が感じられる空間です。振り返り見おろせば広場と騎馬像、それを取り巻く多くの人々、上げた視線のかなたは一望のもとのローマ、そこに広がるのは現実の都市ローマのドームと瓦屋根の建築群。マルクス・アウレリウス右手を挙げ、この幻想と現実にある永遠の都市ローマを賞賛しています。そして再び床面に目を凝らしてみましょう。この騎馬像を頂点とし床面は突然、円形の凸状の形態を描き盛り上がってくるではありませんか。それはまさに地球の曲面のように見えます。つまり、ここで意味するものは世界の頂(カプート・ムンディ)に立つマルクス・アウレリウス帝に他なりません。ルネサンスから隔たったとはいえミケランジェロもまた穏やかな安定した理想都市をイメージしているのです。しかし、その方法は絵画ではなくドラマとして。ミケランジェロは我々を客席ではなく舞台の上に立たせ、理想都市ローマを実感させるべく、この広場をデザインしたのです。

カンピドリオ広場の持つメッセージ

ローマで最初に舞台背景のような都市装置を導入したのはミケランジェロです。その都市装置とはバロック広場の先駆けとなるカンピドリオ広場。1537年、ミケランジェロは彫刻でも、建築でもない、広場のデザインの仕事に取りかかります。サン・ピエトロ大聖堂の再建がようやっと軌道に乗った頃のこと。ファルネーゼ家出身のパウロ三世はカピトリーノの丘の整備をミケランジェロに命じました。パウロ三世は久しぶりに登場したローマ出身の教皇です。子どもの頃からのローマを知るこの教皇にとって、サッコ・ディ・ローマ(1527年)の惨状は耐え難いものと想像出来ます。そこにきて、チェニジアにおけるオスマン・トルコ壊滅に成功したドイツ皇帝カール五世(イスパニア王カルロス一世)がなんとローマに凱旋してくるというのです。カール五世こそローマを壊滅に追いやった張本人。パウロ三世は何が何でも不死鳥のように再生した聖なる都市ローマの姿をカールに示さなければなりません。かっては百万人もの人々が溢れかえっていた大都市ですが、この時のローマ人口は僅か三万人と言われています。ローマは至るところ古代の円柱や煉瓦の残骸が転がり、壮大なモニュメント、パンテオンやコロセウムのみがそそり立つ、荒野のような状況だったのです。そんな壊滅的なローマの再建、少なくともカルロスが凱旋する道筋だけは整備したい、それがパウロ三世の想いであり、ミケランジェロへの命令であったのです。
ローマに七つの丘があり、カピトリーノの丘はその中央に位置します。古代ローマ時代、この丘は幾つかの神殿がたてられた聖地、中世にあっては教皇庁にも対抗出来る都市国家ローマの政庁舎が建つところ。長きにわたってのローマの中心、文字通り「すべての道はローマに通じる」、そのローマの終着点です。ミケランジェロはこの時期、教皇の私邸パラッツォ・ファルネーゼ(現在のフランス大使館)の建設にも忙殺されていましたが、カール五世の凱旋により、急遽、カピトリーノの丘、カンピドリオ広場の整備に取り掛かることになりました。(ファルネーゼ宮殿は十九世紀末に作られたプッチーニのオペラ・トスカの舞台として知られています。守旧派警視総監スカルピオ男爵の拠点、アリア「歌に生き、愛に生き」を歌うトスカが男爵を刺殺するクライマックスの舞台が、この時代、ミケランジェロによって建設が進められていた。)
バロック都市ローマの計画は平坦な主要街路の結節点に噴水とオベリスクを持った広場を置き、その広場を多焦点化することで、視覚的にも観念的にもわかり易い都市構成を目指しますが、カンピドリオ広場は街路の結節点ではなく、また、丘の上の広場です。平坦な結節点でのオベリスクは視覚的にも意味的にも広場の性格を演出する上で極めて有効な装置となりますが、丘の上で高すぎて役にたちません。カンピドリオ広場の演出においてはミケランジェロはオベリスクではなく、マルクス・アウレリウス帝の騎馬像を設置しました。中世の時代、古代ローマの遺物はすべて異教に属するものとみなされ、大半は破壊されましたが、この像は誤解により破壊を免れました。ラテラノ大聖堂の一隅にあり魔除けのごとく思われていたこの騎馬像は当初、コンスタンチヌス大帝の像であると見なされていたからです。コンスタンチヌスは四世紀始めにキリスト教寛容令を発布した、カソリックにとっては意味深い重要な皇帝です。その皇帝の像が古代ローマの聖地に建つことは、カソリックが古代ローマをも凌駕し、世界の冠たることを示す絶好の情景でもあると考えられました。
ミケランジェロはまず、騎馬像の広場への移動を監督し、台座の制作をおこないました。しかし、設置の際には既に、この像はコンスタンテイヌスではなくマルクス・アウレリウスであることは判っていたようです。彫刻家であるミケランジェロからみれば、騎馬像はかけがえのない美術品です。彼が生み出しつつあるカンピドリオの広場を象徴する、欠くことの出来ない芸術作品とみなしていました。彫刻像はもともと建築物の付属品、その一部とされるか、精々一隅に置かれるのが通例です。しかし、ミケランジェロはこの騎馬像を広場の中央に設置したのです。このことだけで、すでにカピトリーノの丘は重要なメッセージを発揮し始めました。フラミア街道、ノメンタナ街道、アッピア街道という、かってのローマ帝国の隅々からの全ての道の終着点の丘の上に建つマルクス・アウレリウス騎馬像、それは「すべての道はローマに通じる」ことを文字通り示すことであり、多くの人々にこの場所こそ再び古代ローマのカプート・ムンディ(世界の中心)であることを示し始めたのです。カンピドリオ広場はコンスタンティヌス像による、カソリック・ローマの象徴以上に、広場の中央に建つアウレリウス騎馬像によって、北の国々に対し古代ローマ帝国をも想起させ、カンピドリオ広場が世界の中心であることを示しました。
マルクス・アウレリウス像はローマの中心からサン・ピエトロ大聖堂に至る主要街路パーパレ通りからの軸線と対峙する位置関係にあります。ミケランジェロは広場に立つ騎馬像の眼下からこの街路に対し一直線、幅が広くゆったりとしたコルドナータ(階段状の斜路)を計画しています。このコルドナータによって古代ローマの象徴マルクス・アウレリウスはカトリック・ローマの首府とも関連づけられ、古代からカソリックへと続く不滅の都市ローマをつよく意識づけることが目論まれていました。皇帝カール五世凱旋の際、ミケランジェロに可能であったことは、この騎馬像の設置と仮設の記念門のいくつかを、アッピア街道から続く街路のそこここに設置したことに過ぎません。しかし、この時のミケランジェロの構想によるカンピドリオ広場は、その後、本質的な変更は一切なく、100年余りのちの1655年に完成します。広場の計画でミケランジェロは決して難しいことをしたわけではありません。既存の二つの建物に外被を纏わせ、十三世紀の教会サンタ・マリア・イン・アラコエリの壁面を隠すように第三の建物を建てただけです。広場の大きさも、偶角をなす建物配置もミケランジェロは元々の形状に従っただけなのです。パーパレ通りから別れた街路を通しコルドナータを見上げると左右の手すり頂部には一対の像が立ちます。劇場のプロセニアムアーチのように舞台の両脇に古代ローマの聖なる双生児、カストルとポリュデウケスの像。この一対の像は1560年、この丘の近くで発掘されています。16・7世紀、ローマ建設の時代はまた発掘の時代でもあったからです。

2010年11月4日木曜日

コルソ流し、ノッリのローマ地図

十八世紀に作られた有名な地図があります、ノッリのローマ地図(1748年:図版)。
ネガフィルムの黒色部分を構成するかのようにビッシリと建ち並ぶ住宅やパラッツォ(宮殿)に聖堂、その中を貫き、広がりを持つ白色部分が街路であり、教会の内部空間となっています。
貧富貴顕に関わらず、全ての人々の生活と精神を支えるのがこの白色部分であり、庶民のための都市空間、公共の空間なのです。
つまり、ローマでは聖堂は全ての人々に開放された場所、ノッリの地図で見る限り、光が降り注ぐドーム屋根のもとの内部空間は都市の広場とまったく同じ意味と役割を持っていて、どちらも、誰もが自由に使える広場であり都市のリビングルームであることを示している。

十七世紀、改善されたとはいえ、ローマのパラッツォ(宮殿)での生活は決して快適ではない。
夏の暑さは貴族も庶民も全く同じです。
特に石づくりのパラッツォの中は、とても耐えきれるものではなかった。
従って、多くのパラッツォの住人は暑い一日が終わりかける頃、馬車を繰り出し夕涼みに出掛けるのが習慣となる。
出掛ける先はフウラミア通り、ポポロ広場の双子の聖堂を門とした中央の街路。
整備されたばかりのこの街路には涼やかな風が吹き通る。
そこには、すでに貴婦人たちの馬車が連らなっている。
彼女たちもまた夕涼み?。
若き貴族の殿方たちもまたパラッツォにいては体験できない風を求め、ゆっくりと街路を馬車で流していく。
それはオペラ劇場の桟敷席を訪ね歩く光景そのまま。
街路は次々にならぶ留め置かれた馬車で埋まり、それはまるでオペラ劇場の桟敷席。
馬車はご婦人方各々の部屋のように連なっている。
そして、夕涼みで馬車を流す若殿たちはその部屋(桟敷席)を一つ一つ訪ね歩く、愛らしき未来の伯爵夫人を見つけるために。

コルソは道筋を意味する。
夕方の道筋を馬車で流すことの流行は、そのまま「コルソ流し」として定着した。
そしていつか、ローマのメインストリートはコルソと呼ばれるようになり、フウラミア通りは現在のコルソ通りと名前を変えることになったのだ。
つまり、街路はローマという大建築の廊下であり応接間、あるいはまた前奏曲が鳴り響く桟敷席を持ったオペラ劇場となっていたと言えるようです。