2010年12月22日水曜日

絵になる都市

「新建築」12月号巻頭のエッセー、「絵になる都市づくり」。 建築家のみならず一度でもヨーロッパの都市を訪れた人が一様に思うこと。 それは「何故、日本の都市は絵にならないか」。 エッセーの内容はヨーロッパ歴史都市の賛美、彼らの保存活動、そして、今後の歴史的公共建築投資への期待。 相変わらずの内容だ。 「絵にならない」疑問と批判は明治以来の露伴や荷風を読むまでもなく今に引き継がれてはいる。 しかし、日本の都市は一向に絵にはなりそうもない。 デザイン力と技術力は進んだが、ボクたちの都市はますます思いと期待から外れていく。 ここで問題にしているのは視覚的都市のこと、居住環境や街づくりのことではない。 あるいはイルミネーションが一段と美しい12月の夜の東京のことではない。 都市は建築によって作られている。 その1つ1つの建築は周到にデザインされ、おのおのはみなそれぞれ「絵になる」ように作られている。 しかし、何故、都市は絵にならないか。 現代都市は貧しいのだ、建設資金は昔に比べれば問題にならないほど少額。 中世以来のヨーロッパ1000年の歴史的建築と都市に比べれば、20世紀の都市はどこも圧倒的に貧困、時間の蓄積にも耐えられない。 現代都市を一掃し、ゼロから新たに都市を建設しても、たぶん「絵にはならない」だろう、その貧しさも変わらない。 現代都市を生み出すもの、それは全て投資効率(RIO)の結果であって、かっての貴族や教会という権力者の資金による示威ではない。 建設投資はすべて市民のお金、それも投資効率の範囲内という条件付き。 つまり、現代都市を生み出すものは歴史や文化ではなく、経済でありその効率の結果に外ならない。 可能なのは膨大な資金と時間から生まれた歴史的建築の保存であつて、新たな建築から「絵になる都市」の建設は不可能だ。 現代都市の再構築はもはや「絵になる都市」という静止画に関わることではなく、可変的、動画的に関わることが課題。 その回答の1つが同じ「新建築」12月号のセントラル硝子国際建築設計競技の入賞作にあった。 (本題には関係ないが、このコンペ、面白いと思ったのは上位入賞者がいずれも中国人、韓国人であったこと。) 最優秀案は中国の秋天さんの「汚れない集合胡同」。 アイデアは既存の路地空間の外壁と床を新たな木材で覆い、半屋内のような公共の共有空間を生み出そうとするもの。 この計画案からは「絵にはならない」が新たな統一感のある生活空間が生まれることだけは確かだ。 そして何年かたち汚れたり痛んだりしたら、エーゲ海のミコノスの白壁塗りと同じように、また新たな板で張り替えれば良い。 つまり、これからの都市づくり、それは静止画のような「絵になる都市」を生み出すのではなく、動画のような「生きている都市」を継続することにほかならない。 時系列も読み、持続的投資効率の高い結果を生み出す方法が、都市を貧困から救う唯一の道であろう。

2010年12月18日土曜日

奥様女中 イタリア文化会館

オペラブッファの原点と言われるこのオペラ、 生の舞台で一度は観てみたいと、 かねてから思っていたが、 年末の休日、昨晩が絶好のチャンスとなった。 いやぁー、面白いのなんの! 登場人物はたった3人、歌手は2人。 これ以上はない小さな舞台だが、二幕も切れなく、 ひっきりなしに客席を沸かしてくれた。 そうだろう、演出はペルゴレージの研究者でもあり、 今晩の企画の責任者ダリオ・ポニッスィ。 かれは前半の舞台でペルゴレージ役を演じるばかりか、 「奥様女中」では召使いヴェスポーネという黙役も演じてくれた芸達者。 小間使いのセルピーナは高橋薫子、 藤原歌劇団のこの役ピッタンコの名歌手。 その歌声は軽やかでやさしい、ユーモアがありコケティッシュ、 モーツアルトやロッシーニのブッファには欠かせぬ逸材だろう。 ウベルト役は立花敏弘。 彼もまたブッファは得意そう、 その伸びのあるバリトンは客席の隅々に朗々と響きわたる。 幕間劇という切っ掛けはともかく、 300年近くも傑作と言われ続けたこのオペラ。 初めて観てその面白さを堪能した。 お話はたわいない。 ウルベルトのお屋敷で生まれた小間使いセルピーナ、 召使いヴェスポーネの力を借り、 まんまとウルベルトの奥様の座を射止めるという物語。 「奥様女中」はオペラのインテルメッゾ(幕間劇)として上演されたのが最初だそうだ。 その本体は1733年にナポリで発表された「誇り高き囚人」。 そう解説を読むとなるほどとも思う。 いまでは全く上演されることのないオペラセリア「誇り高き囚人」だが、 その題名から類推するに、 まさにこの幕間劇のウルベルトこそ、 幕が降りた後の「誇り高き囚人」といえるかもしれない。 これも解説だが、ナポリで名をあげやジョバンニ・バッティスタ・ペルゴレージ、 彼はなんと26歳の若さで結核で死んだと言う. この生誕記念300年公演を観るかぎり、 モーツアルト以前、 こんな面白いブッファの作曲家がいたんだと改めて知り、 音楽もまた確実に音楽の上に作られていると実感した。

2010年12月5日日曜日

当麻寺の二つの三重塔


大和の西、二上山の麓の当麻寺は西ノ京の薬師寺に似て東西二つの三重塔を持つ古寺だった。

2010年11月17日水曜日

スティーブン・ホールの建築


スティーブン・ホール、ギャラリーT Space 。 
昔からこの建築家は好き。 
ミニマルだがプアーではない。 
寡黙だが豊穣(さまざまな意味の世界に関わっている)でもある。

2010年11月14日日曜日

イル・カンピエッロ 昭和音大のオペラ


舞台と演奏者は変わるが、連続して同じ出しものを鑑賞することは珍しい。 先週の東京室内劇場コンサートはたまたま二つのラ・ボエームを聴くというプログラムだった。 どうやらボクのOpera趣味もかなりマニアックか? 誘われ時間があれば何でも聴くというのがボクの音楽スタイル、自主的な選択ではないからまだマニアックとは言えないとおもうが。 まぁ、そんな事はどうでもいい、共に研修中の若い歌手たちによるイル・カンピェッロ、どちらも充分に愉しませてくれた。 ポピュラーでは無いがこのOpera、ボクの好みであることは間違いない。 際立ったアリアも無ければ、主役もないイル・カンピェッロ、研修生公演の所以もこの辺りだろうが、結果として、時系列としてのドラマではなく、絵を観るように静止画のような音楽を楽しむというOpera鑑賞法にはピッタリな演目だ。 あそこがいい、あの人がいいに拘ってしまいがちなOperaの鑑賞、拘れば拘るほどある種の不満を引きずってしまう。 壮大な構築物であるOperaでは全てに完璧である事は目標ではあろうが不可能だ。 無責任かもしれないが、スカラ座もメトも奏楽堂もジーリオも変わりはしない。 違いがあるとすれば、時系列に表現されるシーンの出来と舞台構成、むしろどんな壮大なOpera でも、全体が一つの音楽的世界になっていないとしたらそれこそ興ざめだ。 今日の演目のポイントは見終わった後の印象を一幅の絵画のように表現する事、そんな目的と成果が充分に果たされていたことが愉しかった理由だろう。 もっとも、今日のOperaとスカラ座を同じ平面で比較し、語る事はもとより無理な話だ。 しかし、Operaの楽しみは時系列以上に一幅の静止画にあるという観点に立ち返れば、イタリアの小都市で繰り返し演奏されるOpera、その演目がボクたちにとってポピュラーであろうがなかろうが、いつでもどこでも楽しまれているという、本場のOpera事情は容易に理解できる事かもしれない。 残りはちょっとだけ感想を記しておこう。 あえて意味のない時系列で今回の二つのイル・カンピェッロを追ってみると、その出来は今日の方が優れていた。 決して奏楽堂が不満足だったわけではなく、今日の歌手と舞台の出来は先月より一段上だったということだろう。

2010年11月4日木曜日

ウフィッツ美術館・自画像コレクション展


ウフィッツ美術館・自画像コレクション展(損保ジャパン東郷青児美術館14日まで)を観る。何年か前、東京芸大の卒業制作が自画像であり、明治以来の四年生の自画像4800枚をNHKが取材し特集番組として放送したことがあった。 絵画制作はもっともラディカルな表現行為だ。 その表現のためのテーマが「自己」だとは、なんと厳しい卒業制作かと驚いた,、 さらにまた、あまりにも明解、直裁なテーマ、全てが己、現実・想像、過去・未来。 表現者として立つことは、かくも過酷なことかと放送を見て感じた。 自画像は文字通り自分自身を描くこと。 自分を見つめ、自分を読み、自己の技術で、自分を描く。 そんな状況に立ち会ったことの無いボク自身、技術のなさは当然としても、 自分なら、自己をどう捉え、どう描き出したいか、しばらく考えてしまった。 「自分は何者なのか」を自分自身で答え、自分自身で表現しなければならない。 ボクには不可能だ。 フィレンツェの「ヴァザーリーの回廊」に展示されている多大なコレクションから選ばれた60点。 その1つ1つ作品は当然だが、一連の展示方法もまた興味深い内容。 全体は17世紀初頭から現代まで5室に分類されていて、群としての通時的な絵画史が読み取れる。 一方、1つの室に留まれば、そこは共時の中の様々な画家の姿。 表現の方法は異なるが、見えてくるのは彼らの生き方。 表現である以上、そこにはあるのは引用と韜晦、目一杯の修辞の結果が小さな額縁の中のキャンバスに閉じ込められている。 面白いと思ったのは19世紀、この時代は芸術は神、その所以は音楽だと思っていたが、それは間違い、かくも画家達が大事にされた時代だったのかと感心した。 見落としていけないのはティントレッタ・ベルニーニ・ハウフラーケン・アングル・ルッソロ・キリコ・タピエス・草間弥生、すべてボクが事前に知識を持つ有名画家たちばかりだが、展示された自画像からは全く予期しない彼らの言葉が聞こえてきた。

2010年10月9日土曜日

イル・カンピエッロ 芸大奏楽堂のオペラ


高校時代の文化祭、 柔道の朝練の仲間たち、 こぞって女装し、パレードした。 あのときの友人たちの顔、テレとはしゃぎ、 とてつもなく楽しく、気持ちよかったのを思い出した。 卒業して初めてのヴェネツィア見学。 サンタ・ルチア駅の近くの安宿のおばさん。 女性なのに、ひげが生えていたのを思い出した。 初めてのオペラ、「イル・カンピエッロ」の観ながらのこんな思い出と感想は不謹慎。 お許しを、しかし、とても楽しいオペラ、その舞台と衣装、音楽も優雅でなめらか。 「イル・カンピエッロ」は小さな広場を意味する、それも下町ヴェネツィア。 ミュンヘンで学んだようだが、ヴェネツィア生まれのフェラーリのオペラ。 ゴルドニーの戯曲が原型というが、19世紀特有のヴェリズモ・オペラ。 小さな広場を囲む住民達の日常、そこにあるのは、ねたみと嫉妬、恋に喧嘩。 かわいい3人のソプラノに、ひげの生えた3人のおばさんテノール。 その親しみのあるドタバタが全てアンサンブル、そして音楽だ。 イタリアに限らず、世界中の下町どこにでもある小さな風景。 いや、もう無いかもしれない、広場や井戸端という楽しみ。 高校時代の友人たちの顔顔顔を思い出し、金のなかった卒業旅行のヴェネツィアがよみがえる。 こんな、オペラはじめて観た、しかし、これが本当のイタリア・オペラかもしれない。 小さな街の小さな劇場、歌われる音楽は一級のアリアというよりアンサンブル。 大言壮語の物語ではないが、全ての人間が絡まる恋と喧嘩と涙のオペラ。

2010年9月29日水曜日

パドヴァ紹介のイベント イタリア文化会館


昨晩(28日)のイタリア文化会館はパドヴァだった。 都市の紹介とコンサート、会場は満員。 イタリア大使も参加してのイベントの盛況は、 現在のイタリア人気そのものを象徴している。 イベントはスライドレクチャーから始まった。 イタリア人女性スタッフが懸命に説明する。 ブレンタ川と運河による水の都市パドヴァ。 15世紀以降はヴェネツィアの支配下に入るが、 古代ローマ以来の自治都市パドヴァは13・14世紀、多くの成果を生み出した。 ジォットのフレスコ画で有名なスクロヴェーニ礼拝堂。 ここはパドヴァの高利貸しスクロヴェーニ家の個人的な教会だが、 フィレンツェ以前、間違いなく中世から近世への橋渡しした名画の宝庫であることは有名です。 次の紹介はドナッテルロやガリレオのパドヴァ大学(イル・ボ)。 発祥はどうやら牛(イル・ボ)をアイコンにしたホテルらしい、 しかし、なんと言っても13世紀に誕生したウルベニスタ(自由)。 近代の学問はホテルからスタートした自由な思考であったことが面白い。 説明はまだまだ続く。 エレミターニ教会(1276年) パラッツォ.ラジョナーレ(1218年) イタリア最初の時計台 扉がなく誰でも自由参加のカフェ・ペドロッキ(1826年) サン・アントニオ大聖堂に植物園、そしてプラート・デッラ・ヴァッレ(広場) この日ボクの最大の関心はコルナーロのロジアと奏楽堂(16世紀)。 何年か前、訪れたこの都市だが、この建築だけは見ることが出来なかった。 この日、修復なったこの建築を舞台上の大画面スライドで初めて魅せていただいた。 ロジアには様々な物語があるが、昨晩は建築のための集まりではない。 このブログでも、今は残念、付け加えるものはなにもない。 ただ一つ、パッラーディオのヴィラも同じだろうが、 16世紀の農業社会と視覚分野のグロテスコとの関係。 パドヴァもまたヴェネツィアの陸の支配拠点であったはず。 いろいろ面白いテーマを抱えているに違いないとだけ、書いておこう。 後半はパドヴァに拠点を置く、日本人音楽家親子によるピアノトリオ。 演目は全てイタリア人作曲家。 ヴィヴァルディ、タルティーニ、ペンテ、c. ポリーニ(マウリッツォではない)にパガニーニ。 面白かったのはパガニーニのディヴェロプメント、「パドヴァの魅力」 なんと、今晩が日本初演だそうだ。 パドヴァ・トリオの主宰者佐々木一樹氏が最近発見された譜面だそうだ。 パドヴァではすでに出版されたらしいが、 コンサートで発表されるのは今晩が最初と言うこと。 曲想は柔らかくイタリア特有のメランコリーに支えられた美しいメロディーの連続。 僅か2楽章の小曲だが、ピアノとチェロとヴァイオリン、その対話劇は絶妙だ。 日本人とは言え、さすがこのトリオ、その遊び心はイタリア育ち。 アンコールはピアノトリオによるヴィヴァルディの四季から「夏」。 あの小刻みな弦の震えによる夏の印象、客席は気持ちのよい夏の終わりを実感した。

2010年9月22日水曜日

バルバラ・カポキン国際建築ビエンナーレ イタリア文化会館


21日の九段のイタリア文化会館は「バルバラ・カポキン国際建築ビエンナーレ」日本巡回展記念シンポジウム「地方から発信する建築」。 久しぶり、建築をテーマとした楽しいシンポジウム。 イタリアのパドヴァを拠点とする国際建築ビエンナーレは2003年の「バルバラ・カポキン賞」からスタート、2007年からは建築賞、展示会、各種イベントがパラッツォ・デッラ・ラジオナーレを拠点として隔年で開かれている。 当日の主宰者の説明では、過去430点の建築賞応募があり、日本からは66件もの応募、イタリアに次いで第二位の出品だそうだ。 評価成績も素晴らしく、日本の建築家が4回の建築賞のうちグランプリを2回、他に住宅部門賞、商業建築賞を受賞している。 当日のシンポジウムはその受賞者4名と賞の審査員の一人であり、2007年のラジオナーレの展示作品制作者である隈研吾氏によるもの。 スライド説明の受賞作はみな、東京ではなく、地域で活躍する建築家の作品、住宅を中心とした小規模建築ばかりです。 そして、皆さん共通して、「賞をいただき、このことが自分自身の建築活動の’自信につながった」とおっしゃられたのが印象的。 受賞作は大規模でもなければ、グローバルな提案ではない、しかし、どの作品も建築の原点である「建築の建つ場所」を懸命に読み取っての新鮮な提案。 一極集中のグローバル東京にいるボクが最近忘れていた何かを、このシンポは確実に思い出させる貴重な内容でした。 さらに、面白かったのは、隈氏の話。 日本の幕藩体制から明治維新を龍馬等人間像を透して読み取ることがよくあるが、同時代の地域像、その歴史と文化をよくよく眺めると、各々の地域が個々別々に独特の興味深い内容を持っていた。この地域のかたちの違いはイタリア半島も全く同じ、という指摘。 さらに彼はシンポの終わりに全員に「今後、建築はどう変わるか」と問うた。 こんな難しい質問に対し、受賞者は短時間ながら真摯に答えた。 そして、皆さんの話を要約すれば、環境やサステーナブルは当然だが、むしろ、グローバル・スタンダードでは届かない部分、それは決して反語としてのローカリズムと言うことではないのだが、どんなに小さい、弱い建築でも、その建築に秘められた「哲学」が問題となる。 ボクも全く同感だ。

2010年9月5日日曜日

瞳の中の秘密


野暮用をこなした休日の夕方、映画・瞳の中の秘密を見る。 
ポカッと取り残された一人時間、有楽町で映画を見ることとした。 9月になっての夕方だが、まだ真夏としか言えない街景色。
 しかも、駅前は当然、日比谷に近い映画街も人ひと人だ。 
案の定、シャンテの館内も一杯だった。 
この映画は賞も取り、人気は集中、混むのは当然だろう。 
いやぁ、いい映画だ。
 見終わった感想は、 評判通りの大人の恋とサスペンスに大満足。 
何が大人かって、それは「耐えるしかない、静かな恋だ」。 
しかし、見てるところは見ている、 そして、お互い全てがわかっている。
どうにもわからない男が一人登場する。
 主人公は親友を亡くした時、 初めて、わからない男と自分自身の恋を確信した。 
映画ではなんて言っても主人公リカルド・ダーリンが魅力的だ、 男にとっても。 
彼の甘く渋いマスクだけでなく、声がいい。 
アルゼンチンの映画だから、言葉は全くわからないのだが、 彼の言葉のリズムと感情はこのドラマにはピッタリだ。
 また、いつも通り、ボクの映画への関心は音楽だが、 このドラマにはこの国の定番のタンゴは登場しない。 
クラシックとジャズとミロンガのような民族音楽。 
ビートも重低音もなく、その通奏低音の音の流れは彼らの感情そのもの。 
音楽は静かに大人の恋とサスペンスを奏でている。

2010年8月27日金曜日

テオ・アンゲロプロス


ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスの4作品がBS2で連続放送された。 23日 シテール島への船出 24日 霧の中の風景 25日 永遠と一日 26日 エレニの旅 毎夜半、12時過ぎからの放送。 睡魔との戦いと思っていたが、何のことはない、物語と映像に魅せられた4ヶ日間は大満足な夏の夜の楽しみだった。 すでに、見ていた作品は最後の「エレニの旅」のみ。 しかし、どの作品も間違いなくアンゲロプロス。 全て、現代ギリシャを背景とした彼の初期の名作「旅芸人の記録」を引き継ぐ、音と映像の神話的叙事詩と言えるだろう。
今回の4作品もまた、飽きさせず、奇をてらうこともなく、じっくりと現代の悲劇を歌い続けた。 その背景は圧倒的な音と映像の魅力にある。 ただただ美しいとしか言いようのない、言葉にすることが出来ない映像世界。 そして、それを支える音と音楽の確かさ。 音はスタジオ取りでは、映像にはめ込むと嘘になり、映画にならない。 現場の、映像化された空間で発せられる雨音、水音、風音、靴音、クルマの音、汽車と汽船の霧笛、ドアが開き閉じる音、ホールに反響するアコーディオンやギター、そして歌声と会話、罵声やすすり泣き、絶望の絶叫が映像と協和し映画を生み出す。
4作品から敢えて1作をセレクトするなら、今回は「霧の中の風景」を挙げておこう。 まだ幼い姉と弟の旅。 大人たちは、居るはずもないと子供たちに語り、やめさせようと呻吟するが、 二人は頑に、父を求め、父を捜しにドイツを目指す。 心もとない、拠り所のない、生きる術が何処にも見つからない二人の旅。 その旅は「霧の中の一本の立ち木」を終着点とし、映画は終わる。 しかし、まだ、なにも終わっていない。 食べるものも、頼るものも、すがるものも、泣くところもない二人の旅はまだ続いているのだ。 ボクの心の中では。 それが、人生! と言ってしまうのは、あまりにも悲しいが。 5年前、「エレニの旅」を劇場で観たときの感想ブログは以下です。 http://leporello.exblog.jp/13857242/

2010年8月24日火曜日

ホフマン物語

19世紀のワーグナー、ヴェルディのオペラに匹敵する作品と言われる、 オッフエンバックの「ホフマン物語」を観た。 メト・ライブビューイング、東劇。 名作とは言え、このオペラを全曲聴くチャンスは非常に少ない。 そのせいか会場はいつものポピュラーなオペラに比べ空席がめだった。 3時間半に及ぶ「ホフマン物語」は、 自動人形、歌うことを止められたソプラノ歌手、高級娼婦という3人に恋をする詩人の話。 舟歌でも知られるように、その全体は華々しくかつ幻想的だが、 実際は、詩とは詩人とは何かを問う、 19世紀の切実な芸術の問題がテーマとなっている。 一幕と終幕、その間に三つの挿話が挟まれている。 オペラは情景も内容も多彩で複雑だ。 変化に富む場面と沢山の歌手たちによるアリアに重唱に合唱、 どの場面を切り取っても、そこは魅力一杯の音楽と舞台の展開。 全曲を通し、一貫した役割を演じるのは物語を語り演じるホムマンだけ。 しかし、実際はミューズはニクラウス、 リンドルフはコッペリウスとミラクルとダンベルトット、 場面と衣装が変わっても、 同じ歌手が幻想的には同じ人物を演じると言う複雑さ。 力量ある歌手でなければ、 多彩に演技し歌い続けることは至難と言える。 メトの公演。 世界中の名歌手を集められるこの劇場だからこそ、 可能であったと考えられるのが今日のオペラだ。 この鑑賞がよい切っ掛けだ、 改めてこのオペラのDVD化された他の公演を引き続き聴いてみたい、と今は思っている。 その理由はなんと言っても先に書いた、このオペラのテーマにある。 それは19世紀における芸術とは何かということ。 オッフェンバックは軽快なオペレッタだけの作曲家ではなかった。 17世紀のモンテヴェルディがオルフェに音楽家である自身のテーマを託したように、 19世紀のオフェンバックは市民社会の芸術家とは何か、 自分自身は何者なのかを、このオペラで語ろうとしている。 ミューズがニクラウスであるように、このオペラのポイントは、 三つの物語は全てホフマンが振られたステッラであることだ。 17世紀のオルフェも19世紀のホフマンも共にミューズから始まるところが面白い。 ミューズはご存知、詩歌の神、音楽の神、芸術の導き手だ。 そんなミューズと。 このオペラではホフマンは終始ミューズであるニクラウスと共にある。 そう、ミューズであるニクラウスは「音楽」ではあるが19世紀では「社会」なのだ。 ここにこのオペラのテーマが仕込まれている。 ニクラウスはリンドルフと共にホフマンからステッラを奪った。 全ての恋を失ったホフマンはミューズとわかれ、一人机に向かうところで幕が閉じられる。

2010年8月18日水曜日

有元利夫展「天空の音楽」を観る


音楽は音を聴くことだけが楽しみではない。 
絵画もまたタブローの上の色や形を眺めるだけが喜びではない。 
有元利夫はそんな当り前のことを教えてくれる、魅力ある大好きな画家だ。 
白金の庭園美術館、長時間、彼の作品を楽しんだ。 
こんなに恋しいのに、こんなに夢中なのに。 
しかし、絵は今回もまた、一言も、何も答えてはくれなかった。 b0055976_15383033.jpg

学生時代、ピエロ・デラ・フランチェスカに触れたのがこの画家の始まりだ。 
以来、その画風は一貫してルネサンス風、いや、中世的。 柔らかみのある色調の中の静かな安定した造形。 
どの作品もパースベクティブがない空間にたった一人の演者というテアトロン。 
「天空の音楽」と名付けられた美術展は確かに、聴こえない音も響き続けていたような気がする。 
絵のそばに置かれた小さな説明バネルの一つにこんな言葉が書かれていた。 
「僕が舞台を描くのは、 そこが演技をする空間だから、嘘をつく空間だからと言っていいかもしれません。 いっぱい嘘をついて いっぱい演技をして 様式を抽出すれば より真実に近づき 本当のリアリティが 出せると思うのです。」
 有元利夫は25年前 38歳の若さで亡くなった。

2010年7月24日土曜日

本物と偽物の峻別にもそれほど意味がなくなった時代

「偽物が本物と信じられた時代から、今日は本物も偽物に見えてしまう。 いや、本物と偽物の峻別にもそれほど意味がなくなった時代を、私たちは生きている。」 と文化欄「住まう技法」は書いている。 30年ほど前、ゴッドフリー・レッジョ監督はドキュメンタリー映画「コヤニスカッツィ」を製作した。 コヤニスカッツィはアメリア先住民の言葉で「常軌を逸し、混乱した生活、平衡を失った世界」という意味がある。 1956年に完成したアメリア・ミズーリ州セントルイスにあった巨大集合住宅は住宅計画史上最大の失敗作。 その集合住宅は1972年に爆破解体される。 ゴッドフリー・レッジョ監督は巨大集合住宅の建設から解体の経緯を映画にした。 つまり、ドキュメンタリー映画「コヤニスカッシュ」は常軌を逸した現実の建築の自爆状況の記録なのです。 一方、2001年9月11日、同時多発テロにより、WTCは崩落する。 ニュース映像を見る限り、この崩落は劇場で見る今風のどんなSFX映画以上に現実的であり衝撃的。 偶然ではあるが、セントルイスとWTC、どちらの建築もミノル・ヤマサキの設計。 繊細な機能美を誇った近代の名作と言われている。 そして、WTCの崩落は「モダニズム建築の終焉の日」と呼ばれるようになった。 冒頭の言葉に戻って欲しい。 ボクには「われわれは住まう技法(=建築批評)を失っている」と読み取れるのだ。 他方、同じ夕刊の6面、映画欄の下の四段の広告はユンカーマン監督の「老人と海」。 この映画も「コヤニスカッツィ」同様、30年ほど前のドキュメンタリー。 与那国島に住まい、小さなサバニを大海に浮かべ、大きなカジキと格闘する老人の記録だ。 というのは簡単だが、格闘と言う映画の中のクライマックスまでは、映画を創る人々にとって、 気の遠くなるような、長い待ち時間と思考と逡巡の日々。 むしろ、この映画は「待ちこそ人生」と語っていたのかもしれない。 じじつ、後で聞いた話だが、この映画のサバニの漁師は、映画に記録された格闘のあと、 嘘のように人生を閉じられたと言う。 映画の撮影は東中野「ポレポレ座」のスタートの頃だった。 ポレポレ座は写真家本橋成一氏の発案から誕生した、アクセスフリーのたまり場だ。 アフリカでの撮影旅行から帰り、その大地と動物たちの営みに触れ、彼はそこに生きる人々の言葉『ポレポレ」を仲間とともに共有しようとした。 お判りだと思うポレポレはスワヒリ語で「ゆっくり、ゆっくり」を意味する。 当時の、急ぎすぎる時代風潮、なんか変だなと感じる人々が沢山集まるようになったのだ。 たまり場となったのは青林堂という本屋さんの三階。 そこは男女半々、20代から60代、いつも様々の分野の人々で一杯だった。 ドキュメンタリー映画「老人と海」のプロデューサーはシグロの山上さん。 そして、彼もポレポレ座スタート時の主要メンバー。 撮影時の苦労話はいろいろ聞かされ、陣中応援に与奈国には必ず出向く約束しながら、 遂に果たせず、今にして思うと、ちょっと残念ことをした懐かしい思い出の人。 ボクにとって「老人と海」はそんな様々な記憶がある映画 しかし今日、夕刊では突然の四段の大広告。 金もなくスポンサーもままならない当時のこと、新聞広告など考えられなかった。 だから、びっくり、何事かとしばし、考えさせられてしまったのだ。 考えてみると、先ほどの文化欄「住まう技法」とは全く呼応している。 あの時代は批評があったのだ。 ポレポレ座ではよく議論もした、時に喧嘩にもなった。 しかし、今は批評がない、みあたらない。 本物と偽物の峻別にも意味がない。 だから、いま上映されることには大きな意味がある。 この映画には四段の大広告で宣伝し、多くの人に観てもらいたい、峻別があるからだ。

2010年7月15日木曜日

二期会オペラ「ファウストの刧罰」

久しぶり、二期会オペラに行く。ベルリオーズの「ファウストの刧罰」。 ゲーテのファウストではあるが、誰でもが知るこの物語を、 ベルリオーズはかなり抽象化してオペラにしている。 メトの体験では、主役はむしろメフィストペレスにあり、 その全体は交響曲「幻想」のオペラ化という印象を持っていた。 http://leporello.exblog.jp/12083661 しかし、二期会の「刧罰」は全く違うものだった。 当然だろう、演出は様々、それが舞台を観る我々の楽しみだ。 今日の二期会は華やかだ。 まるで「宝塚」。 抽象化されているオペラだが、全体はものすごく具体的。 地を這い、空中を舞うニンフたちが随所に登場するが、 その役割りはメフィストペレスの魔法により生み出される、 ファウストの想像的世界の創造にある。 しかし、終始登場するダンスの動きは、 舞台を一層華やかなものに変えてはいるが、 全体は恐ろしく直接的、具体的なものとして表現されていた。 まぁ、これはオペラなの、あるいはバレー? と思う人もいるのではないか。 ボクは不満足。 背景であるはずのダンス、その出来はともかく、 オペラ全体の流れのなかでは、余りにも頻繁すぎて、 歌手の歌を聴く楽しみ阻害している。 さらに、そのダンスそのものが表現していることだが、 振り付けはあまりにも単調、 全場面を通じて、その動きにメリハリがなく、 え、またなのと、 終盤に近づくほど嫌悪感さえ持ってしまった。 とは言え、やはり「ファウストの刧罰」はオペラだ。 音楽が終始全体をリードして行く。 ベルリーオーズはグノー以上に音楽としては具体的な表現を取っているので、 その流れはわかり易く戸惑うことはない。 ファウストやマルグリートの歌声はオーケストラとのバランスもよく、 のんびり、ゆったり、楽しく聴かせていただいた。 一点、不満を付け加えると、メフィストペレスは今イチだ。 メトのフアウスは、彼に魅せられたのだ。 しかし、今日は、メフィストペレスが何処にいたのか、 3階の観客席から舞台を見る限り、 演技・音楽からその存在を見いだすことが出来ず、赤い衣装を探す始末。 katohiroyuki/iPhone

2010年7月14日水曜日

カポディモンテ美術館展 国立西洋美術館

ダヴィンチやラファエロ、ミケランジェロという優れた画家たちの登場で、 どんな複雑な題材に遭遇しても、いつも調和があり、目を惹く、 絵画を生み出すことがあたりまえとなった16世紀前半。 次に登場する画家たちは、さらにどんな工夫をこらしたのであろうか。 彼らは、もはや単純な調和ではなく、不自然でわかりにくい絵画であっても、 まずは多くの目を唸らせることに腐心したであろうことは充分に理解出来る。 さらに、絵の中にいろんな意志や特別な知識を潜ませることは、 中世以来のヨーロッパ絵画の常道だが、絵画を解釈するにあたって、 より高度の知識がなければ理解出来ないような作品を描くようになったということも、 また理解出来ることです。 貴族が楽しんだ、16世紀絵画、いわゆるマニエリスム期絵画は、 もはやルネサンス絵画とは異なり、奇想と新趣向に富み、 高度な知的関心を持って鑑賞しなければ理解できないもの、と言えるようです。 さらに時代が進み16世紀末から17世紀以降の絵画作品。 それはカラヴァッジョたちが活躍したバロック時代のこと。 この時代のイタリアの画家たちが最も腐心したこと。 それはパレストリーナの音楽に明解に示されていることだが、 対抗宗教改革の目的に有効に機能する作品であることではなかったか。 知性豊かな貴族のためだけの作品ではなく、多くのローマの大衆にとって、 あるいはローマ以外の沢山のキリスト教信者にとって、新興プロテスタントとは異なる、 バチカンを中心としたカソリックの教えが、 直接的に、感覚的に充分に理解出来る作品であることが求められた。 そこでの作品を生み出す画家たちの格闘、 それは描き出したい伝説的な神話や物語の場面について、 もはや奇抜さを競うことでもなければ、 従来の見慣れた形式化された場面でもない。 画家たちの心に描かれる明確なビジョンを、 よりドラマチック場面として的確に表現することが求められていたのです。 つまり、バロックとは最初の近代画家たちの格闘の時代でもあったのです。 ルネサンス以降、多くの有名画家が沢山の作品を生み出したイタリアにあって、 このマニエリスムとバロックという二つの時代を理解することは容易ではない。 しかし、時代の異なる画家たちの取り組みの違いが少しでも見えて来ると、 今日の国立西洋美術館「カポディモンテ美術館展」はこよなく有効、 楽しい展覧会になるはずです。 展示ルートの中間に素描展の一室を挟んで、マニエリスムとバロック、 作品はこの前・後半に明解に分離され展示されています。 さらに、この分離はもう一つ、この美術館の形成過程をも説明してくれている。 前半マニエリスム期の作品はローマ・ファルネーゼ宮殿でのコレクション。 後半バロック期はカラヴァッジョがやってきたナポリのカルロス3世の宮殿の作品です。 会場はまだ開催間際で、平日は観客は少なく、ゆったりのんびりの鑑賞。 そして、なんと言っても前半の圧巻はこの美術館の珠玉の一品、 パルミジャニーノの「貴婦人の肖像」だった。 暗闇から、いま毅然と登場し、見るものに「無言」の言葉を発する、動き生きている屈指の美女。 彼女が貴婦人なのかコルテジア(高級娼婦)か、 美術史専門家間でも意見が割れているとの説明。 ボクにとっては、同時代を書いた多くの物語の中のコルテジアを全て想像させる、 まさに鋭く、強く、知的で気品ある女性の生の存在が実感される。 そこにある同時代に誘い込まれるような、強烈で誘惑的イメージが溜まらなく快楽なのだ。 後半の作品はカラヴァッジョではない、彼に影響を受けた画家たちの作品。 幾つか興味ある作品に触れたが、ひとつだけ挙げるならば、「ユディットとホロフエルネス」。 画家であるアルテミジアはカラヴァッジョやバロックの物語には、 必ず登場する、当時には珍しい女性画家。 その彼女の苦しみと環境をイメージするに、よくぞ描いたこの「ユディット」をと、 おもわず拍手喝采したくなる迫力とリアリティに、しばし留まらせ釘付けにされていたのだ。 面白かったのはヴァザーリとグレコ。 前者はやはり画家としてはこよなくへた糞。 そして、後者は若き日の習作の小品。 しかし、グレコはこの淡彩な一作ですでに後の全作品にある天才ぶりを充分に発揮していたのです。

2010年6月21日月曜日

サンデル教授の最終回

サンデル教授の12回シリーズは完結した。 昨日の放映、その最終回は「善き生の追求」だ。 近代個人主義の進展の中「全体」の再構成の試みは存在した。 しかし、個人が自由を望んでいる限り、統合化の試案は成功しない。 旧態の共同体を望む事はアナクロニズムであり、 統合化を作り上げる事は、外部からの区別にほかならないからだ。 彼の講義も結局ここに帰結する。 ではどうすればいよいのか。 個人主義の進展はあるいは個人の細分化はますます人間を孤立化する。 したがって、明確な結論はない。 さらにまた、個人主義の問題の克服は集団化でない、という結論は、現代の何人かの識者の見解と同一だ。 サンデル教授は「自分たちの人生をいかに最善に生きるかをそれぞれに選ばせるようにするべき」と言っている。 つまり、人間を人間らしく生きるのは各々個々人の生き方「ライフスタイルの問題」そのスタイルにおける議論そして重層化の問題、と言う事なのだろう。

2010年6月20日日曜日

ロトチェンコ展から考えていたこと


昨日、ロトチェンコ展を観ながら気になったことをつけたそう。 感想は昨日書いた通り、何か痛々しいものを感じたこと。 それはもちろん、作品そのものがではなく、自分自身が、ということなのだが。 同時代の印象派絵画、決して嫌いではない。 しかし、最近何故か、ヌクヌク感じられて空々しい。 名作であろうが傑作であろうが、作品は作品である以上、全て虚構の世界なのだ。 その世界が、現在のボクの世界とどう関わるかが、展覧会に行く楽しみ。 「いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。」 これは今朝、読んだある人のブログだ。 http://gitanez.seesaa.net/article/153703729.html 建築も絵画もまたデザイン、そしてある種の虚構の世界。 ロトチェンコを観ていて気づかされたのは、このブログに近いもののような気がする。 20世紀初頭、作家は「虚構を生み出す方法」を失った。 少なくとも従来の方法からは模倣はともかく、虚構は生まれない。 印象派は様々な画法を駆使する事で、新たな虚構、作家の現実との橋を作品化した。 しかし、そこにあるのは「うぬぼれ」だ。 かたちは、あるいはフォルムは、虚構と現実を橋渡しする言葉を失って久しい。 ロトチェンコのみならず、モダニストはすべてこの失った言葉の再生に関わった。 しかし・・・・。 最近、なぜ、展覧会に行く事にこだわるのか。 あるいは、しきりに「いいと思われる作品に出会いたい」と思わせるのか。 秋には京都に、春には奈良に行った。 どうやら、ボクも「うぬぼれ」に気がつき始めたようだ。 失ったのは言葉ではない、ライフスタイルなのだから。

2010年6月19日土曜日

ロシア構成主義のまなざし 庭園美術館

形あるものから形が失われて行く時代にあって懸命に形を求めるロトチェンコの構成主義はある種の痛々しさを感じてしまう。 展示作品を眺めていて気がついた、建築も絵画も音楽に成りたがっていると。 「建築」と書かれたコーナーに9点ほどのタブローがあり、そこにあるのは空間ではない、運動と時間だ。 形のない現代、二次元の画面に形を生み出そうとするなら、表現されるものは時間、つまり音楽なのだだ。 様々な戯れ言を語らせる展覧会は明日が最終日。 梅雨の休み、夏の日が輝いたり曇ったりの午後。 同時代の建築、アールデコの旧朝香宮邸、庭園美術館。 昨日、ロトチェンコ展を観ながら気になったことをつけたそう。 感想は昨日書いた通り、何か痛々しいものを感じたこと。 それはもちろん、作品そのものがではなく、自分自身が、ということなのだが。 同時代の印象派絵画、決して嫌いではない。 しかし、最近何故か、ヌクヌク感じられて空々しい。 名作であろうが傑作であろうが、作品は作品である以上、全て虚構の世界なのだ。 その世界が、現在のボクの世界とどう関わるかが、展覧会に行く楽しみ。 「いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。」 これは今朝、読んだある人のブログだ。 http://gitanez.seesaa.net/article/153703729.html 建築も絵画もまたデザイン、そしてある種の虚構の世界。 ロトチェンコを観ていて気づかされたのは、このブログに近いもののような気がする。 20世紀初頭、作家は「虚構を生み出す方法」を失った。 少なくとも従来の方法からは模倣はともかく、虚構は生まれない。 印象派は様々な画法を駆使する事で、新たな虚構、作家の現実との橋を作品化した。 しかし、そこにあるのは「うぬぼれ」だ。 かたちは、あるいはフォルムは、虚構と現実を橋渡しする言葉を失って久しい。 ロトチェンコのみならず、モダニストはすべてこの失った言葉の再生に関わった。 しかし・・・・。 最近、なぜ、展覧会に行く事にこだわるのか。 あるいは、しきりに「いいと思われる作品に出会いたい」と思わせるのか。 秋には京都に、春には奈良に行った。 どうやら、ボクも「うぬぼれ」に気がつき始めたようだ。 失ったのは言葉ではない、ライフスタイルのようだ。

2010年6月13日日曜日

鞘堂美術館での若仲展

千葉市美術館は鞘堂と言われるユニークな建築です。 昭和2年に建設された旧川崎銀行千葉市店の建物を、新しい建物が鞘のようにオーバラップし建設されている。 鞘堂方式と言われるこの建築の保存方法は、当時、建築関係者には話題となり、15・6年前のことだが、その経過を見学に行ったことがある懐かしい建築だ。 古い建物を基礎から浮かし、レールが敷かれた車輪の上に載せ移動出来る状態にする。 そして全体を100メートルほどバックさせ、空いた用地に新築部分を建築する。 やがて、大きな一階ホールが建設された後、再び古い建築を静々と前にせり出し、 新築途中のホールの中に引き入れ、ようやっと全体の工事を完成させる。 そう、昔、日本の木造住宅の増築等ではよく使われた引き屋の工法による建設工事。 その工法を旧川崎銀行の保存のために実施するというので、かって、建築中に友人たちと2回ほど見学に行ったことがあったのだ。 しかし、完成してからは一度も見学していない。 今日「伊藤若冲展」を見学に行き、その会場がかっての引き屋建物、新しい美術館であることをはじめて知った。 珍しいことに、突然、息子が「昼飯」を食べにやってきた。 そして、彼の誘いで午後から急遽、若仲展を見に行くことになった。 つまり、千葉市美術館で「若冲展」をやっている事、また、この美術館が鞘堂である事は、昼飯までは全く知らないことだった。 つゆ空の千葉までのドライブは些か面倒でもあったのだが、 今日は息子の運転、たまには素直に誘いには応ずるもの。 結果、美術展と美術館まさに一石二鳥、何とも楽しい見学となったです。 美術展は7・8階。 階層分断はこの手の美術展ではやや不便。 作品の説明板が小さくてやや読みにくい事もあり、入館当初の最も重要なことでもある、全体の展示構成を掴めないままの見学となった。 展示は若仲の師匠筋の絵師の作品も同時に集められていて、若冲とその周辺を理解させようとする画期的なもの。 そして、一つ一つと作品を見るごとに感じられて来る若冲の世界。 彼の作品はいつも大らかだ、その作風も内容も。 絵を描かせるスポンサーたちもまた同じ。 18世紀後半と言う時代、そこは今とは異なる、何ともユーモラスでのんびりとした空気が流れていたに違いない。 いやぁ、そんなことはないだろう。 ここは若冲の世界なのだ、それも絵の中にのみ広がっている彼独特の世界だ。 今回の展示作品、かなりが個人蔵のもののように感じられた。 いつものきらびやかな彩色に比べ、水墨による無彩が多く、また、小品が沢山だから。 しかし、その全体はいつものと同じ彼独特の世界、その絵は造形的であり、物語的、どこまでも自由、かつ大胆な画面構成と表現上の工夫。 そのどれもが、入念な観察と逞しい創作欲の結果である事が良く判る。 なかでも、今回、はじめて見た「樹花鳥獣図屏風」は圧巻。 綿密な独特の点描は「デジタル時代の先駆けではないか」と思ってしまう。 今日の若仲展はしばらくブームが続き、一段落した若仲をもう一度、あるいは改めて日本の絵画の大スターとして、じっくり観てもらおうと言う企画のようだ。 その意図は十分に果たされている。 やや手狭な会場だが、決してせせこましい、がやがやした雰囲気ではない。 近め遠目、自由に立ち位置を変え、じっくり作品が楽しめた。 楽しみにしていた「像と鯨図屏風」は明日からの展示でお目にかかれなかったが、これはまたこの次の楽しみと言う事だろう。 梅雨空の元だが、思いもよらぬ息子の運転での素晴らしい半日。 幸い、この展覧会は6月27日まで開かれている。 お近くの方は決して、お見逃しのないように。

2010年6月7日月曜日

家康の直轄地 桐生


日本中の都市はどこもかしこも今、その構造と新たな仕組み作りに悩んでいる。 急激な経済的社会変化はこの国だけのことではなく、世界中どこも同じ。 しかし、我々の周辺、特に地域の中心から外れた中小都市は、 どこも若者人口の減少、その結果としての過疎と高齢化が問題となった。 「エコと街づくり」という言葉は聞こえて来るが、 どうしても見えてこない「明日をどう生きるのか」その手だてと方法。 街づくりには「バカ者、若者、余所者」が必要とよく言われる。 街の未来を夢想するばか者、その夢想を具体化する若者、 加えて、外から資源と情報を供給する余所者、と言う事のようだ。 足尾から渡良瀬川に沿い渓谷を下ると桐生の街に至る。 この街はかっては天領だった。 徳川家康は領地となったこの場所を、他の大名に与える事なく、 直轄の代官を置き開発した。 その開発は些かユニーク。 古くからあった天神様の鳥居をゼロ点とし、 そこから南に向かって真一文字の道路を設置。 次にその道の両側を間口6間奥行き40間、 短冊状に丁割し、町立てを施した。 ユニークなのはここからで、 分割され開発された用地は近郷からの入植希望者、 誰に対しても自由に分け与えたという。 結果、町は封建都市とは異なり、あたかも門前都市(自由都市)のおもむき、 各地から集まった住民は各々自身の持つ才覚と働きにより、 主体的かつ自由に活動し、営みを発展させ利益を得る事が出来たという。 近郷村から入植した新たな住人たちが最も得意とするところ、 ある人は養蚕農家、そして糸にする家、糸を染める家、機織りをする家。 やがて、街は必然的に西の西陣に負けない、 大きな繊維産業都市として発展し、成功して行った。 その成功によりGDPの15%近くをかっての桐生が占めたのだそうだ。 つまり、現代のトヨタ一社分より高い利益をこの小さな町は毎年はじき出していたのです。 大きく発展した小都市桐生ですが、戦後の繊維不況により街は徐々に疲弊していきます。 そして、生き残りの策どころか、疲弊して行く小都市の現状すら、 感知しようとしない人々が大半、と語るのはこの街の「ばか者」、 未来を夢想する住民たちの言葉でした。

2010年6月6日日曜日

足尾再訪


6月はじめの週末、足尾を訪ねた。 日頃の建築仲間、20人余の集団ドライブ。 毎年の恒例行事だが、今回は新人数名が新たに加わり、 マイカーを7台を連ねての、何とも騒がしい旅行となった。 一段となってのこのドライブには親睦に加えもう一つの目的がある、 それは単に建築を観る、体験すること以上に、 街の生活・歴史・文化・自然に触れ、街の人々とともに、 人間環境の有り様を学び、考えたいということだ。 足尾は風光明媚な日光の山々を背にした渡良瀬渓谷の最奥地。 しかしまた、誰もがよく知る鉱害の街でもある。 かっては、見上げれば禿げ山と岩山ばかりの渡良瀬の谷間であったが、 10数年ぶりの今回、まず気がつく事は、全山とは言わないが、 山々は新緑に覆われ、谷間には新しい家々が沢山立ち並んでいたこと。 そして、今回もっとも貴重であったのは、かっての公害の街はまた、 日本の産業近代化技術の発祥の地でもあった、と言う事の確認だった。 今年がちょうど、足尾銅山発見から400年。 写真集「足尾銅山」を出版された小野崎一徳氏のレクチャーと現場見学が実施された。 貴重なとき、貴重な方からの詳しいお話、 集団ドライブはにわかに有効な研究会と化していた。 足尾の近代化、その先端技術と人々の営み、そして不幸な惨状は、 一徳氏に伝わる小野崎家4代に渡る写真家によって、全てが記録されている。 「足尾鉱毒事件」は田中正造氏の活躍によって知られる日本の産業公害の原点、 その事件の情宣に小野崎家先代の方々の記録が大きな役割を占めている。 しかし、その写真は同時に、 日本の産業技術の歴史そのものの貴重な記録でもあったのです。 急速な産業の近代化は、大きな環境破壊を、その対策の失敗は、 覆いがたい人災を招いてしまった。 それが、再訪した足尾の現実だが、 同時にまた、この街は日本の様々な産業技術発祥の地でもありました。 明治政府により軽便鉄道をフランスから取り入れられ、 その技術に加え、足尾では削岩技術も導入された。 さらにこの地で最初に水力発電を実施され、 得たる電力により動力ポンプや構内電話設備を設置、 運搬のための鉄索から坑内巻上機や運搬車運行が可能となる。 結果、規模にして巨大な地下都市、上下1200m、 長さ4000メートルに及ぶ大坑道が建設されたのです。 一方、これもまた新技術だが、脱硫装置や坑内水浄水中和装置、 あるいは大規模砂防工事も実施された。 しかし、残念ながら、こちらの新技術はことごとく、 無惨な状況を招いてしまった。 明治以来の僅か80年間で、 近代技術は江戸期300年間の4倍余の銅を産出した。(総量82万トン) 急ぎすぎた近代化の代償は大きく、負の遺産であることは免れない。 しかし、そこには正なる部分もあり、新技術にチャレンジし続けた、 先人たちの存在もまた、けっして忘れてはならない。 今の足尾の姿は、正負併せ持った日本の近代化技術遺産そのものであろう。 その足尾では今日、 天高い青空とうぐいすが啼く若木のもと、 沢山の学生たちの参加も含め、緑化作業が進められていた。

2010年5月28日金曜日

アルミーダ

「METライブビューイン」、昨日(2010年5月27日)、久しぶりに東劇に出かけました。 ルネ・フレミングがタイトロールの「アルミーダ」メトの最新版だそうです。 このオペラは今回が初めてです。 CDでアルノンクールとバルトリの「アルミーダ」は聴いていました。 しかし、それはハイドンのもの。 今日はロッシーニです、劇場ではなく映画ですが。 実は映画が始まるまではメトでは珍しいというので、 ハイドンの「アルミーダ」だと思っていました。 上映が始まって、序曲から当然、音が違います。 そして、気がつきました、これはロッシーニだと。 本当はハイドンを聴いてみたい、いや観てみたいと思っています。 しかし、違ったとは言え、大好きなロッシーニです。 彼のオペラはどんな演目でも楽しいことは間違いなしですから。 事実、映画はフレミングを中心に華やかなオペラです。 特に2幕の魔女の宮殿のシーン。 そこでは文字通り、恍惚とした魔女の宮殿を、 ダンスと音楽によって、ふんだんに実感させてくれました。 実際の公演ではなく、映像画面からのこんな不満は不謹慎かもしれませんが、 チェチーリア・バルトリを聞き慣れているせいか、 フレミングは不満です、コロラツーラはお粗末でした。 しかし、魔女の魅力と三幕の気が狂わんばかりの恋情、 それは、フレミングならでは、男心には迫るものがありました。 ですが、ここはやはり映画ではなく、オペラなのです。 歌も表現もバルトリとどうしても比べてしまいます。 埒のないことですが。 こんなことを書いていて、さらに余計なことに気がつきました。 オペラの公演それも全盛期の歌手たちの歌声など、 生ではなかなか聴くことができません。 せいぜい、初台のオペラか、やっとこさの文化会館での体験だけです。 オペラの上演にはお金がかかります。 貴族がスポンサーだった大昔のヨーロッパとは異なります。 現在の大衆にとっては、とても支えきれない贅沢なエンターテイメントなのです。 好きだからといって、いつでもイタリアやアメリカに行き、オペラが楽しめる立場ではありません。 そんなボクにとっては、だからこそ、 この「METライブビューイン」は大いなる楽しみということになるのですが。 しかし、やはり、映画やCD・DVDだけで楽しむオペラ鑑賞は批評も出来ず問題ではないかと。 先週末、NHKの「20世紀の名演奏」のビデオを聴いていて、考えてしまいました。 そういえば最近、オペラどころかオーケストラの演奏もCDばかりです。 久しぶりのTVで観た「名演奏」はみな素晴らしかった、懐かしかった。 しかし、懐かしかったのは、そのほとんどを、かって、生で聴いていたからです。 音楽は演奏会場で聴くということが当たり前でした。 TVは聴いてきた感動の再体験、あるいは、聴き所の再確認にすぎませんでした。 今は、ほとんどの音楽受容をCDやDVDあるいは映画に委ねています。 確かに iTuneなら、何処にいても好きな曲をふんだんに聴くことができます。 しかし、「20世紀の名演奏」を聴いていて考えてしまったのは、 かっての感動との同体験は、最近はほとんど得られていないということです。 TVの「名演奏」は実体験が思い出されどれもこれも素晴らしかった。 ベームやチェリビダッケの演奏は古い映像とは言え唖然として聞き惚れていました。 現在では、演奏がつまらなくなったのかもしれません。 ワクワクさせるような、徹夜してでも絶対にチケットは手に入れたい演奏会、 最近は思いつきません。 クラシック音楽それもオーケストラに限定しての話ですが。 多分、常識的なプロモーターのプログラムにボクは飽きているのです。 もっと、演奏者が「これは聴いて」という演奏会が見つからないのです。 LP時代以上に簡便になったことは有り難いことです。 しかし、逆にチケットが簡単に手に入るからでしょうか、 沢山ある演奏会の広告はどれもこれも、おざなりの感じがしてしまいます。 余りにも便利すぎて、今のボクは音楽を聴く感動を忘れてしまったのかもしれない。 以下は「METライブビューイン」公式ページの「アルミーダ」の解説 指揮:リッカルド・フリッツァ 演出:メアリー・ジマーマン 出演:ルネ・フレミング(アルミーダ)、ローレンス・ブラウンリー(リナルド)、ブルース ・フォード(ゴッフレード)、ホセ・マヌエル・サパータ(ジェルナンド) 中世のエルサレム近く。十字軍の前にダマスカスの女王で魔女のアルミーダが現れ、「我が王冠を親族が狙っています。戦士をお与え下さい」と懇願する。しかしそれは偽りの言であり、彼女の真の狙いは愛するリナルドを手元に置くことにある。十字軍の次の指揮官にリナルドが指名されると騎士ジェルナンドが憤慨、アリア〈耐えはしない〉を歌う。彼は愛し合うリナルドとアルミーダを嘲笑、リナルドは決闘でジェルナンドを斃(たお)す。騎士たちはリナルドを責め、アルミーダは「上手くいった!」とほくそ笑む。場面が変わり魔法の園になる。逃れてきたアルミーダとリナルドは甘美な二重唱を歌い、続いてアルミーダが超絶技巧を駆使して大アリア〈愛の甘き帝国に〉を歌い上げる。しかし、愛に溺れるリナルドの前に騎士ウバルドとカルロが現れ、彼を説得して三人で逃亡する(テノールの三重唱〈一つになって戦おう〉)。アルミーダは魔力を使ってリナルドの後を追う。【岸純信(オペラ研究家)】

2010年5月3日月曜日

ガウディ・オペラ

優れた建築は、見る人に感覚的喜びだけではなく、想像的な楽しみを与えてくれます。
建築家は形態の持つ動的役割や美しさを追求するばかりか、建築に象徴的意味を付加させ、物語の世界に入り込む楽しさを生み出しているからです。
建築に物語のような意味を与えること、それはヨーロッパではファインアート同様、建築を作る為の当然の方法です。
建築が発することば(詩文)は抽象的、しかし、具体的な象徴的形態を建築に込めることで、建築は初めて誰でも解る(散文)建築に変わるのです。
安全で便利、快適な装置であるばかりでなく、建築は意味あるいはメッセージを伝達する媒体、それがヨーロッパの建築、architectureなのです。
建築デザインの方法が変わる19世紀末、アントニオ・ガウディは近代建築の方法だけではなく、ヨーロッパの建築が本来持つ役割、メディアとしての建築をもつくり続けようとした貴重な建築家です。


ヨーロッパ社会にあって建築と音楽は一体的なもの、あるいは同じ方法を持って生み出されるもの、と考えられていました。
中世、音楽を生み出すものは数学、建築もまた数学をアルゴリズムとする芸術です。
その端的な例は11世紀のクリュニー修道院、その教会堂の建築家はグンゾです。
彼はまた同時代、音楽家として最も名を為した人でもあります。
つまり、修道院の音楽と建築は同じ人によって作られていました。
さらにまた、ルネサンスの祝祭のプロデューサーはすべて建築家であったことは広く知られています。
ダヴィンチ、ジュリオ.ロマーノ、ベルニーニ、彼らは視覚分野の天才であるばかりでなく、彼らの時代、むしろ音楽家あるいは総合芸術家としても重用されていました。

近代のフランク・ロイド・ライトとル・コルビジエ。
ライトは「音楽と建築の違いは素材の本性とその使用法にすぎない」と言っています。コルは「建築は空間のシンフォニー」と語っているのです。
そして「建築の価値はその空間に音楽性があるかどうかだ」と語ったのはガウディ。
彼もまた音楽に強い関心を示す建築家であり、建築本来の方法であった象徴としての意味あるいは物語性を基とした建築を作ることに一際熱心でありました。


象徴性と音楽性に満ちたガウディ建築を読み解く糸口は音楽家リヒャルト・ワーグナーにあります。
ワーグナーのオペラ、バルセロナのガウディは絶えずリセウ劇場に通い、その意味と役割を十分に理解していました。
音楽における近代の象徴的表現という観点ではワーグナーは無視出来ません。
ワーグナー・オペラの特徴は、歌曲と台詞が交互に繰り返されるオペラの形式を変え、
詩と音楽を密接に結びつけ、音楽的に切れ目がなく連続させたところにあります。
その音楽は文学的であり視覚的、舞台の中では全てが一体化され総合化されています。
結果、ワーグナーはモーツアルトに示される日常の一駒としての人間賛歌ではなく、
神話や伝説の中の自然と人間、その生と死のドラマを壮大なスケールを持って描くことができたのです。

若い頃からグレゴリア聖歌を愛し、音楽への関心も高かったガウディ、ワーグナーのオペラに圧倒されていました。
そしてガウディは建築をワーグナーの総合芸術との関連から追求しています。
ガウディの建築の中で最もオペラ的である作品、それはグエル公園とサグラダファミリアです。
前者はユートピアをテーマとした三幕構成の喜歌劇、後者はオペラ以前の壮大な宗教劇です。
その二つのオペラの背景はギリシャ以来のカタロニアとバルセロナ、ちょっと詳しく見てみたいと思います。


グエル公園は、訪れる人が門に到着すると幕が開きます。
第一幕は破砕タイルに彩られたカタロニア神話。
おとぎ話の中の家と階段を飾る蛇とドラゴンと蜥蜴。
それはギリシャの神ヘラクレスからオレンジを守るカタロニアのユートピア、ヘスペリデスの動物たちです。

第二幕はマーケット広場と遊歩道。
田園都市の一部として計画されたこの公園は、山裾にある地形を有効利用するために等高線に沿って高さを三等分して作られました。
その中段部分は山から掘り出された岩を積みあげただけの高架遊歩道とドリス円柱の林立するマーケット広場です。
緩やかに連なるごつごつした石の柱と壁による不整形なトンネルヴォールト。
半人工的な遊歩道全体は前史の巨大生物の胎内か、あるいは自然に穿かれたドラゴンの住む洞窟のように作られています。
つまり第二幕では、未分化で生命感溢れるおどろおどしいメロディが、ギリシャ風の人間的世界へと変奏されていくのです。

第三幕は地中海の陽光を一杯に浴びる空中広場、ギリシャ劇場です。
この広場からの正面には中世ゴシックの大聖堂とサグラダ・ファミリア教会が強いリズムを刻み、大都市バルセロナの息づかいを伝えています。
それは古代ギリシャの劇場が神々を象徴する大自然の息づかいを背景として建築されたのと全く同じ情景です。
周辺では色鮮やかな破砕タイルのベンチの一つ一つが聖母マリアに祈りの歌声を捧げています。
うねうねと続くそのベンチの連なりは、歌声の旋律を通奏しているかのように感じられます。
後方を振り返ると蛇行する道がさらに上方へ、天空へと続いています。
頂上はゴルゴダの丘。
この広場はまさに世界劇場なのです。
ここは間違いなく、古代・中世・近代を通底する神と人間の迎合の場所。
そして聖地であり世界の中心、天空の音楽が響くところ。
ガウディはそのようにイメージしていたに違いありません。


オペラ・サグラダファミリアはまだ未完成です。
しかし、そそり立つ八本の鐘塔はすでにその音楽を世界中に轟かせています。
「聴覚は信仰の感覚であり、視覚は栄光の感覚。栄光は神のヴィジョンであり、視覚は光の、空間の、造形の感覚である」と語るガウディ「聖堂は天と地を結ぶ場であると同時に視覚と聴覚が絡まり合い、壮大なメッセージを発するところ」と位置づけています。

繊維工業を中心とする産業革命を成功させ、いち早く近代都市開発にも着手したバルセロナですが、反面、急激に社会的秩序は乱れ、市民の宗教心も日毎、遠のいていました。
敬虔なカトリック信者、宗教書の店主ホセ・ボカベーリァはそんなバロセロナを嘆き、聖家族を範とする聖堂の建設を思い立ちました。
ボカベーリァの意を継いだガウディは、彼のメッセージを聖堂全体を通じバルセロナ中にいかに響かせるかに腐心しました。


以下はガウディの言葉です。
生誕の門は、八十四本の鐘が吊され、巨大なピアノになる。
受難の門はパイプオルガン。
栄光の門は…打楽器系の楽器にしようとしていたことが、生前につくられた模型などから推測できます。
…高さ100mを超す巨大な楽器による演奏を、聖堂本体が石の共鳴箱となって響かせる。
ガウディはワーグナーの最後のオペラ(楽劇)、「パルジファル」に習い鐘の音にこだわっていました。

「パルジファル」の中では遠くから響く鐘の音が汚れた聖杯城を救うパルジファル自身を象徴するもの、贖罪をテーマとした神聖祝祭劇(オペラ)のテーマはまさに鐘によって表現されています。
そそり立つ鐘塔には、やがてガウディが苦心した20メートルもの長さを持つパイプ状の鐘が何本も吊され、
贖罪の鐘がバロセロナ中に響き渡るに違いありません。


多分、完成すればその鐘の音はオペラ「パルジファル」を超えているでしょう。
ガウディは均一の音が一音で奏でられる従来の釣り鐘とは全く異なり、電気ハンマーによって連打されることで様々な音域、ハーモニーを奏でる鐘を考案しました。
そして風の通りよく穿れた多孔質な鐘塔の形は、そのまま音楽のための共鳴箱となっています。
つまり、サグラダファミリアの鐘塔は視覚的には神のビジョンを伝え、聴覚的には贖罪の音楽を奏でる巨大な音楽装置としてデザインされているのです。

2010年4月27日火曜日

祝の島 本橋成一


「祝の島」試写会を観る。 会場の中野ゼロは500人収容、ほぼ満員。 会はプロデューサー本橋氏のスタッフ紹介から始まった。 制作の中心となる3人の若い女性とサポートに回ったおじさんたち。 映画は国東半島に近い瀬戸内の離れ島でのドキュメント、山口県上関町祝島の人々の生活。 本土からちぎれたような小さな島は28年前、 フッと湧いた原子力発電所建設騒動に巻き込まれる。 今も昔も、人々は田圃を耕し、漁をし、髪を切り、パンを食べ、テレビを見、お祭りには神楽を楽しみ、歌を歌い、おしゃべりをする。 しかし、その生活は突然、二分される。 無味な呼び名だが原発推進派と反対派。 映画は建設に反対して来た人々の今の生活を刻々と写し取っている。 大半は老人、何人かは既に亡くなった父母の反対の意志を引き継いだ娘夫婦たち。 この映画は単なる原発反対派のドキュメントではない。 祝島の人たちの長い長い時間がテーマなのだ。 自分自身の祖父さんから引き継ぎ、自分の孫子に残して行くもの。 それは苦労して石を組んだ棚田であり、守り続けて来た豊饒の海。 全ての人が生きて行く術であり、術であったもの。 映画は一時の「開発」とか「原発」とは全く相容れない、長い時間を描いている。 過去から引き継ぎ現在に生きる全ての生活そして時間を描き、 これからも延々繰り返されるであろう島の生活、 長い長い未来の時間をも想像させる。 そんな時間を切断し、 人々の今ある生活を破談させる「外から開発」とは一体なんだろう???。 上映後の座談での話の一つ、「二分され、より辛い思いをしているのは、 映画には登場しない推進派という少数派の人々かもしれない。」 昔から何処の都市、何処の街でも繰り返されて来た「開発」、そして今後も続くであろう「外」からの介入。 沢山のダム開発、まだまだ繰り返される原子力発電所建設、 最近のブームとなった新空港建設、はては米軍基地建設。 その中身はきっと何処も同じにちがいない、 この映画はそこまで想像させる普遍性を持っている。 しかし、映画は決して、疑問を描いたわけでもなければ、解答を求めてもいない。 彼女たちはただひたすらに島の人々、その生活を描き続けた。 そのひたすらさが、逞しく、我々凡人の理屈にならない理屈を平然と乗り越えて行く。 これは若い女性三人による、強い強い映画と言っておこう。 http://web.me.com/polepoletimes/hourinoshima/top.html

2010年4月15日木曜日

東大寺孝

ボルブドールの船
昨日は上津江村で風で倒された山の状況を見学し、「建築」と 「木」そして「山」の間の問題の大きさを、改めて考えさせられています。
一昨日は東京から大分への機中、たまたま機内誌の、インドネシアのボルブドールとい
う、石の寺院の遺跡の記事を読み、この遺跡ははアジアのデザイン、日本の建築、木造建築を考える上の重要なテーマを提供してくれていると気づきました。

石で出来たボルブドールの遺跡には3点の船の浮き彫り彫刻が施されています。
その中の図柄の一つ、沈没しかかった大きな船を本当に再生した、というのが記事の内容です。
ボルブドールは石の建築ですから、石の文化によって仏教建築 を作ったわけですが、図柄から、大きな木造の船を作る技術も、この時代のインド ネシアの人々は持っていたことが解ります。
木造文化は船の文化から始まったと、私は考えていますが、インドネシアではボルブドールを作った8世紀以後、あのような大きな船を作る技術を持っていたにもかかわらず、なぜ、木造文化はそれほどの発達はなかったのでしょうか。
一方、日本では、ボルブドールの建設の同時代、東大寺がつくられております。
この世界最大の木造建築がきっかけとなって、日本はその後、木造文化を花咲かせていきました。

インドネシアでは、前史時代から、木や竹を使って小さなカヌーを作り、東南アジアの様々な海域を航海していたのですが、それが木や竹の文化の始まりであり、やがてボルブドールの浮き彫りに彫刻されたような大きな船を作る技術を培っていきました。
日本では、このカヌーや船を作る技術の上に、中国からの仏教による、新しい建築技術を重ねていき、法隆寺、東大寺、伊勢神宮、出雲大社、竹にかかわる桂離宮、東照宮と世界に誇る木造建築が造られてきました。
しかし、昨日のような山の木が軒並みに倒されている状況を見ますと、日本の木造文化も崩壊しつつあるなと考えざるを得ません。
なぜなら、日本の木造文化は「木を使い、建築を作ること」と「木を育て、山を作ること」が一体であったはずだからです。

びっくりするようなデータがあります。
戦後作られた住宅の寿命はたったの15 年であるというのです。
山は3代と言われ、爺さんが植えた木は孫の代にようや く伐採できるのが林業ですが、住宅産業がつくる新築住宅は15年で産業廃棄物になってしまっているのです。
さらにその産業廃棄物は山に捨てられ、山林の環境汚染のもう一つの原凶ともなっているのです。
さらに悪いことに、日本は熱帯雨林材のかなりの量を輸入しながら、コンクリートの型枠パネルとしてたった一 回使用するだけで、これもまた産業廃棄物として捨て去ってしまっているのです。
もはや文化どころではありません、単なる消費・浪費にすぎないのです。
私 たちの木造文化は木を使うことによって社会を育て、人間を育てることが基盤に
あったのですが、最近は単なる木の消費国にすぎません、しかも、世界中から目の敵にされた木材の消費国、浪費国に成り下がってしまったということです。
ボルブドール以後のインドネシアの木造文化はどうなったのかが切っ掛けですが、我々の木造文化は今、どうなっているのかを考えなければなりません。

木造文化の概観
まずは私たちの木造文化とはどのようなものであったのか概観してみたいと思います。
人類の歴史は1万2千年だといわれる中で、8千年が土と石の文化です。
そして、4千年くらい前から鉄の文化が生まれ、木の文化も生まれ、精密な船も作られました。
木造文化は「木と鉄の文化」といえるようです。
日本では、船 を作る技術を使って、一般の建築も作りはじめました。
船では作る以上に修復することが大事ですが、木造建築においても同様、痛んだ部分を絶えず修復し、一度使った材を何回も転用することで、森を砂漠にすることもなく、木を使
う文化を育ててきたのです。
つまり4千年もの長い間、木造という石に比べれば非常に弱く、燃えやすく、脆いにもかかわらず、それを修復しながら、使い続けてきたというのが、我々の文化の特徴だったのです。

更に林業との関連で考えてみたいと思います。
日本の山は中国や韓国に比べると土壌が若く、スポンジみたいに水を含みやすい土地柄です。
だからこそ、大陸では難しいことですが、日本では木が再生しやすい状況にあると言われています。
木曾の例でいうならば、あそこは一度は完全に伐採されてしまったところなのです。
しかしその後、土壌がいいので、自然に桧が天然林として再生された所なのだそうです。つまり日本の山はほっといても自然に再生されるほど土壌もよく環境も恵まれているということです。

その恵まれた環境でも、日本人は木を伐りすぎれば、すぐに植えるということを比較的早くから心掛けてまいりました。
植林の歴史はなんと須佐之男の伝説にも記録されているほど古いことです。
つまり、再生されやすい山を持つ日本人は山を育て、木を伐り、木を使うことで、文化を作ってきたと言えるのです。
木を育て木を使うということは世界中どこでも出来そうなことですが、ヨ−ロッ パでは全くありませんでした。
「木を切り」、「木を使う」ところまでは同じですが、「木を育てる」ということはなかったのです。
ボルブド−ル以後の日本とイ ンドネシアの違いも、多分ここにあったような気がします。

面白いことですが、「木を育てる」ことは須佐之男以来の日本の文化の特徴ですが、しかし、木を育てて、それを「売る」ということは、わずか3百年の歴史にすぎません。
日本では、江戸時代、売るために木を育てるということが積極的に始められたのですが、関東平野の江戸は空っ風が非常に強く、大火が多かった、そして大火のたびに沢山の木材が必要となり、実質的な林業経営が始まりました。
やがて、1657年の振袖火事がきっかけとなり、日本各地で育てた木を売り、金にするということがブ−ムとなっています。
つまりそれ以前は、木を使う為に育てることはありましたが、売る為に育てるという時代が始まったのです。

したがって、林業経営の始まりは木材を商品化していくことであったといえます。
しかし、今、林業はこの商品化という中で苦しんでいます。
他の工業商品との商品上の競争となっているからです。
「どんな土地でも、水と空気とエネルギーさえあれば、同じものが作れる」というのが工業の特徴です。
均一で一定の生産量さえ確保されれば、いつでもどこへでも必要量を持っていける。
これが商品化された工場生産品の競争力の原理です。
しかし、「木材」は違います。
それは自然や風土とかたく結ばれているので、「風土や人に制約された商品」と言わなければなりません。
戦後の工業化社会の中で、林業そして木材が苦しんできたポイントがここにあります。
木材は工業製品」の持つホモジニアス性に対抗出来ません。
「木材」はヘテロジニアスな材です。
自然と地域環境、人間生活と技術、情報と流通といった「工業製品」とは異 なった「様々なしがらみ」を持った「商品」、それが木材です。
そしてこの「しがらみ」が単なる商品文化とは異なる、日本の木造文化を支えていたと言って良いのだろう考えます。
しかし現在、木材は「工業製品」に対抗するヘテロジニアス性を乗り越えることができません。
木材と建築家の間の不幸な関係はこの点にあります。
なぜなら、いまの建築家はヘテロジニアスな材料の利用方法を見つけることが出来ないからです。

木造文化の再生
東大寺という建築を考えてみたいと思います。
有名なお寺です、奈良にある古美術のような世界最大の木造建築です。
幅60メートル、高さ52メートルに及ぶこの大建築は、1200年前の創建以後、2度にわたる戦禍のため焼失し、その度に再建され現在にいたっています。
今日はその東大寺を古美術としてあるいは建設された結果としての建築ではなく、その建設のプロセス、あるいは東大寺を生みだす社会的背景を振り返ってみることで、木造文化の再生の糸口、ヘテロジニアスな木材の新しい道を探ってみたいと思います。

ここでは二つの観点がポイントになります。
一つは現在なぜ住宅は20年足らずで壊されてしまうのでしょうか。
それは住宅の使い方が変わたということですが、東大寺という建築ではその問題はどう考えられていたのでしょうか。
二つ目は技術と材料調達、さらに再建を支える当時の森林状況と地域との関連です。
東大寺は地域の力によって維持されて来たのです。
さらにまた地域にとって東大寺は、文化センターの役割を果たしていました。

一番目のポイント。
東大寺の建築の目的はなんでありましょうか、ただの寺院ではありません。
大学、祈願の場所、病院、国際交流センター、図書館でもありました。
単なるお寺というばかりでなく、いろんな役割を持っていたのがこの建築です。
本来建築はこのように様々な役割を持っていたのが本来の姿です。
これを住宅に当てはめて考えて見たいと思います。
例えば、かっての縁側です。
ここは廊下的役割だけでなく、近所の人々が集まり、コミュニケーションする場でもあったのです。
納戸は何だったのでしょうか、ヨーロッパのクローゼットとは異なります。
我々の生活は季節に応じて、目的に応じて、様々に部屋を室礼ていくのが基本でありました。
そして生活を季節に応じて、次々と浮き上がらせていくための準備室、次の間のような装置が納戸の役割であったことを思い出して下さい。
単なる収納の場所ではないのです。
現在の生活では、あらゆる部屋が壁で仕切られた物置のようになってしまい、それを廊下で繋ぐだけの住宅ばかりを作ってきてしまいましたから、家族や物が増えれば生活できず、たったの15、20年で壊さざるを得なくなってしまいました。

東大寺も単なるお寺だけの役割しか果たせなかったのなら、鎌倉時代の再建はなかったに違いありません。
新しい仏教が流行した時代(鎌倉)、そこはまた大学や図書館でもあったので、新たな再建に沢山のお金と人力が投じられました。
住宅も人や物の倉庫ではありません、何代にもわたる家族の生活の舞台です。
あてがいぶちの住宅建設ではなく、しっかりとした生活設計に基づいた住まいづくりが木造文化再生の第一歩、と考えなければなりません。

次に東大寺の建設の歴史と地域との関係を考えてみたいと思います。
東大寺の創建は8世紀半ば、その建築は天平時代の大陸文化の結集点でありました。
ちょうど現代人が外国に対し様々な興味を持っているように、天平の人々も大陸文化に大変な興味を示していました。
そして大陸との激しい交流の中から東大寺は生まれたのです。
さらに鎌倉の再建の時、その時の中国は宋の時代で、揚子江を中心とした船の文化の時代でした。
中国大陸では東北の「土」そして陸の文化に対して、江南の船と「木」の文化があります。
宋の時代は新しい「木」の文化が中国に生まれたとき、それを一早く取り入れ、形作られたのが、現在に至る東大寺なのです。

東大寺の建築様式は大仏様、天竺様と言われるものです。
今の東大寺は鎌倉時代と様式は同じですが、江戸時代に再建されています。
江戸時代は鎖国によって外部とは文化的交流は遮断されていたのですが、逆に今まで取り入れた外国の文化を日本の中で、ゆっくりと醸成していった時代でもあります。
現実に東大寺にもその醸成の成果が発揮されています。

再建の時、既に日本の森林の状況は 大変逼迫していました。
東大寺のあのような大きな柱を日本の山から伐りだすのは、もう不可能でした。
したがって、現在の1mくらいある、あの大きな柱は実は寄せ木作りなのです。
その寄せ木作り技術は天平時代のものですが、鎖国という状況にあってその技術をもう一度見直すことで、ものの見事に大建築として実現したのが現在の東大寺です。

現在の東大寺を実現したのは古代からの技術ですが、同時にそれを1200年にわたり維持し、支えてきたのは周辺の地域社会です。
東大寺は古来より、現在の上津江のような山の集落から絶えず沢山の修復材が供給され、維持運営されてきました。
運ばれて来たものは材木だけではありません。
お米や農産物そして山からの様々な恵です。
一方、集落には「山造り処」が作られました。
そこは今でいう地域活性化センタ−です。
そこには東大寺からのお坊さんが沢山住んでいて、新しい技術や考え方を地域に広めてくれました。
都市である東大寺と地域にある集落との橋渡しの役割を果たし、様々な物産と文化の交流を司ってきたのが「山造り処」の役割は極めて重要です。
東大寺を維持運営していった木造文化というものは、それは都市と地域を一体化し、共に
活性化していく文化でもあったことがわかります。
三重県伊賀に大山田村という所があります。
そこは昔から東大寺を支えてきた「山造り処」でありました。
その村に鎌倉時代には大仏寺というお寺が作られています。
東大寺から念仏衆たちが各々の役割と地域との交流をめざしてやってくる。
そして山に登り、今度の修理にどの木を切るか、薬草を採取しその周りをどうするかを村の人々と相談し、研究し、情報を集める。
そこは東大寺にとって地域に作った研究所でもあったのです。
一方、村の人々にとって、そこは新しい農作物の相談の場であり、病んだり痛んだりした体を直す病院でもありました。
これが大仏寺であり、東大寺という都市とこの村を繋ぐコミュニケ−ションセンタ−であったのです。

これからの村、山村の問題を考える場合いつも地域全体と都市とのネットワ−クをどう新しく構築するかがポイントになります。
現在、建築と林業での一つの施策は木材の需要開拓と低迷している木材価格の問題です。しかし、都市と地域がばらばらな需要開拓をいくら叫んでもうまく行く筈ありません。
都市に住んでいる人々と地域の人々が一緒になって、新しい居住文化を作っていけるようなセンタ−づくりが、今、林業地でなされるべきだと思います。
これは上津江という一つの町、村だけで出来ることではありません。
東大寺でいうならば、大山田村からの木材は服部川、木津川を流し、奈良坂を越え東大寺に運ばれました。
東大寺は大山田村だけでなく、流域の様々な資源や考え方人々の力を調整しインテグレ
−トし、結び付けネットワ−ク化してきたのです。
上津江ならば、中津江、日田、大川という一つの流域が新たな大きな居住文化、産業文化センタ−を構築するという可能性があります。
このような視点に立ち、林業という分野をもう一度捉え直してみれば、ただ単に一商品だけで終わらない、大きな世界が見えてくるのではないのでしょうか。
林業と住まいがどう結びつくのか、あるいは木造文化がどう再生されるのか、その手がかりとして東大寺は有効であろうと思い、ブログに書きとめてみました。

2010年4月9日金曜日

法隆寺・室生寺


今回の奈良は塔を見るのが目的。 最後の一日は室生と長谷に行こうと決めていた。 しかし、まだ斑鳩にいる。 朝は8時から法隆寺西院伽藍の見学は出来ると昨日知った。 春の花咲く斑鳩、もうしばらくここに居ることとし、朝一番でまた西院伽藍に入場した。 昨夕に比べ、天候は曇り、霧雨か空気が重く、気温も低い。 見学客もまだいない。 中門、回廊、金堂、五重塔、修理中の講堂・・・、朝の冷気の中、全く初めて見るんだいう気分に引き戻し、木組みの詳細を眺め回った。 再三書いているが、法隆寺の木組みは部材が大きく、簡素。 今回とくに印象的なのは回廊だ。 その柱・虹梁・回廊幅・柱間隔・棟木・垂木・連司格子・腰と天井の小壁そして床。 この全体の構成の見事さはほかでは体験できない。 凛々しく、清楚、伸びやか、ゆるみは無く緊張感があるが決して息苦しくはない、伸びやかでおおらかだ。 素晴らしい、プロポーション、空間間隔。 人に邪魔されること無く、一人、靴音を響かせていると、人知れず古代楽器の音楽が聴こえてくるような気がする。
帰り際に再び境内から真近かに塔を仰ぎ見た。 そして、一つだけ気になる。 松は邪魔だ、貧弱だ、汚らわしい。 何故、この聖域に松があるんだ。 どんな意味を持っているのか。 西洋でも東洋でも、聖域に自然木があることは珍しい。 火あるいは水はあっても、自然木が植えられていることはほとんどない。 それと植えられた松の位置が気に食わない。 多分、この空間内に意味をもって植えたのではなく、外からの眺めのみで決めたに違いない。 それも、江戸時代だろう、この時代の見識者はすでに聖域に対するセンス、聖域の持つ意味を理解していない。 もう一つ、昨日拝観損ねた大宝蔵院に行く。 管理人が床を掃く中、百済観音を拝む。 いい仏です。 正面から拝む、柔和、やさしい、あたたかな微笑み。 側面から眺める、ゆるやかな曲線、ここにもまた古代の楽曲。 大宝蔵院にはさらに夢違い観音、玉虫厨子、金堂の壁画等々。 東京の展覧会では決してあり得ない、最高の国宝群を独り占めするという贅沢な朝だった。
法隆寺バスセンターから近鉄の小泉に向かう。 ここから大和八木、そして青山町行きの急行、室生寺大野はあっという間だった。 室生寺は友人とレンタカー等でクルマで行くことが多かったが、今回は久しぶりの電車。 じつは前回も電車だったが、その時は三重の仕事のついで、名張経由でとんでもない時間がかかったの覚えがある。 今日はウソのよう、法隆寺ですっかり朝の時間を楽しんだので、到着は昼過ぎてもしょうがないと思っていた。 高台のある駅のスロープを広場に降りると、そこにはバス、便利だ、車内は満員だがわずか15分、早い。 赤い太鼓橋が迎える、女人高野と言われる室生寺。 ここはいつも山深く寂寥な雰囲気。 今日は参道の茶店の呼び込みも賑やか、花も新緑も人も皆あでやかだ。 赤い門をくぐり階段をあがり本堂をぬけると、赤い三重塔、ここはまた、なお一層あでやか。 小振りで繊細のこの塔、鎌倉ではない、平安か室町と思っていたが天平だった。 周りの杉木立の猛々しさに比べ、まさに女人の趣、五重に屋根を広げ舞を舞うかのような印象。
塔まで登れば、ここからは胸突き八丁。 奥の院までは延々と階段が続く。 大方の女性客、さすがに、この階段にチャレンジする人はほとんどいない。 いやぁ!きつい!まだかまだか!脚はガクガク、心臓バクバク。 ようやっとも思いで奥の院の小さな境内に昇りつく。 正面には朱印をいただける窓口があり、のほほんと年配の寺守さんが、昇りつく参拝客を見守っている。 ここまでチャレンジしたのは今日で2回目。 前回は友人と一緒だが今日は一人。 苦難を制覇した証拠になるなら、おでこで良いから朱印をいただきたい気持ちだ。 人心地してから舞台に出る。 木の間がくれだが、里の屋根が垣間見える、わずかだが、薄赤い山桜の花と一緒に。
帰りのバスでは一駅前の大野寺で降りる。 曇り空とは言えここは花の名所、室生参りの客は今日は皆ここにも立ち寄るようだ。 小さな境内のほとんどがしだれ桜か、その豊かさに息を飲む。 ここはこの境内から室生川の対岸に掘られた磨崖仏を参拝する場。 しかし、圧倒的に咲きそろう花の見事さにほとんどの客が目を奪われている。 大野寺の階段をおり、河原に目をやると、大きな磨崖仏の下、ハイキングのお弁当を広げている幾重かの集団。 生きとし生きるものを眼下にした大仏は、ものみなの幸せを微笑んでいるかのようだ。 となるとこちらもあやかりたい、道路脇には幸い、屋台の列。 ひと串百円のこんにゃく玉を所望しパクついた。

長谷寺・奈良興福寺国宝館・阿修羅像


長谷寺も近かった、室生からは電車でふた駅。 この寺はちょくちょく訪れる、真言宗豊山派の総本山、わが寺、青梅即清寺の源だからだ。 当然、わが父もここに眠る、したがって、奈良に行けば立ち寄り、三重に行けば立ち寄ることになる。 室生とおなじ、駅を出て山を下ればそこは初瀬川、橋を渡れば参道だ。 今日は丁度昼時、橋脇のいつもの店でうどんをすする。 いやぁ、ここも店主はおばあさんだ。 わずか600円のうどんだが、決し決して、侮れない。 もちろん、ここの名物はそうめんには違いない。 しかし、ボクはこの店の、このばあさんのうどんが好き。
人心地ついて参道を歩く、今日は観光客が一杯。 ツァーバスもあえて山門前を避け、参道を歩く、ゆっくり参拝がメインのようだ。 したがって、寺まで700メートル位だろうか、まるで、都会の繁華街のようなにぎわい。 にぎわいは山門をくぐるとなお一層だ。 この寺は奈良でも大きい。 今回は東大寺も興福寺も訪れてないが、ここのにぎわいは薬師寺、法隆寺の比ではないようだ。 名物の階段回廊はラッシュの渋谷駅か、当然だろう、 周辺はここぞとばかり花一杯咲き誇っている。 立ち止まりカメラに家族を納めたい集団、段数の多さにややへばり、一息つきたいご老人、 その脇をざっとのごとく駆け抜ける高校生らしい男女の華やぎ。 今日はさすがに、仏となった親父と会うのは難しかろう。 正式参拝をあきらめ、かって知ったる抜け道を上がり下ろし、 花と塔と舞台をiPhoneに納め、早々に退散した。
さぁ、終わった。 帰ろう、あとは近鉄で京都に出れば、もう東京だ。 たぶん、法隆寺から室生に行く時間と変わらないかもしれない。 しかし、まだ3時だ。 大急ぎ、駅に引き返し、奈良の国宝館に寄ってみることとした。 国宝館には4時過ぎには入館出来た。 当然の人ごみだが、ここにはなんと言っても八部衆とそのメイン阿修羅像がある。 人ごみと言ったって、東京の国立博物館とは違う。 目の前でたっぷり全像を拝観出来るのだ。 コースはよく出来ていて、まずは旧山田寺の仏頭、あの凛々しい少年のような仏様。 そして回り込み、興福寺の国宝の数々を見学し終わると、 最後がいよいよメインの阿修羅。 その周辺は先ほどの仏頭と入れ子の配置で興福寺西金堂の本尊、 大きな釈迦如来像が君臨している。 手前はこれもまたすばらしい。 八部衆とは面白い対比となる十大弟子立像。 そして振り返れば、かの乾漆八部衆。 このスペースは国宝中の国宝がすべて一望のもと。 大げさな言い方だが日本で最も贅沢な場所と言って良いかもしれない。 幸い、ここも閉館は午後5時、まだ時間はある。 居座りながら阿修羅をたっぷり眺めた。 そして、気がついた。 面白い、この像だけが鎧兜がない。 その仕草、外の七体いや実質六体ははほとんど動きがない。 手前の十大弟子も同じだ。 しかし、どうして阿修羅だけ、こんなに手を広げ、首を動かし舞っているのだ。 まるでギリシャの踊るサチュロス! さらに、もう一つ、阿修羅の目は涙目だ! 悲しんでいるのではない、むしろ喜んでいる、 しかし、その瞼には涙が浮かんでいる。
時間が来て国宝館を追い出されたのは定時だが、 その目の前には興福寺の五重塔がまた明るくなったかのような夕の光に照らされていた。 どうだ、もう帰れるか、もうひとまず、猿沢の池に下り、塔を眺める。 そして、三条をぶらつき駅近のアーケードで土産と車内弁当を仕入れ、 近鉄奈良駅に向かった。

2010年4月8日木曜日

慈光院・法起寺・法輪寺


奈良のホテルは朝飯が大変だ。 宿泊客は京都・大阪という大都市に吸い取られ、奈良全体では、昔に比べ少なくなったそうだ。 その分、どこのホテルもツァー客で一杯。 今朝のレストランは大行列、とても入れそうもないので見学には早いが、街に出ることにした。 といっても、どこの寺院も見学は9時から、しかたがないぶらりぶらりだ。 奈良町は猿沢池と鷺池の間での南の地域と聞いている。 なんのことはない、昨日の高畑からの帰り、奈良公園に出なければ、そのままこの街をぶらついていたはず。 しかし、晴れた朝の街は気持ちよい。 まずは元興寺に行ってみた。 門は閉まっているので外から屋根を見学。 街中にしては寄せ棟の大きな本堂だ、もとは僧坊であったらしい。 奈良時代の建物を鎌倉時代、古材利用で大仏様で建て替えたとある。 次は十輪院、この界隈は寺ばかり、どれをどう見たら良いかさっぱりなので、 横町をまがり、連司格子の家々を眺め、寺の案内板と大きな屋根だけが頼りに歩き回った。 十輪院は鎌倉中期の建築らしいが残念ながら屋根が低い(?)のでよく見えない。 そして次は福智院、ここもまた鎌倉時代ということでよってみたが、門は当然閉じたまま。
大通りに出ると今朝もまた待っていたようにバスが来る。 ホテルの戻るとレストランはガラガラ、大急ぎで食事を、チェックアウトし、駅に向かった。 とんとんだがここに来てさぁ困った。 毎時33分が斑鳩行きのバスのはず、しかし、8時の次は10時、9時台はなし。 それはない、団体客の為に1時間ずらしはしたが、まさか、昼近くに法隆寺についてどうしようというのか。 これでは、昨日の薬師寺同様、観光ラッシュは免れない。 結局、近鉄で郡山に向かった。 今日はどうせ、法隆寺泊まり、見学は夕方だけでもいいではないか。 そう決めれば、話は早い、いや身体は早い。 10時には郡山城の桜のど真ん中に立っていた。 朝から良く晴れ、ここの桜も満開。 内堀を挟んで両側とも文字通り春を桜花している。 しかし、面白いところに行き着いた。 天守閣跡なのになにもない、桜は乏しく人はいない。 城は神社と近代の学校に乗っ取られ、ここの城跡はわずかな櫓と堀ということだろうか。 良く見ると柳沢文庫とある、立派な玄関だ。 天守閣ではないが、この建物こそこの城跡のシンボルだ。 知らなかったが柳沢家は吉保以降この城の主ではないか。 戦国時代以降、入れ替わり立ち替わりの城攻めの街、郡山は徳川家が五代将軍となりようやっと戦火も消え、 かの天下の側用人が城持ちとなり、この地に根を下ろしたのだ。 だからこそ、柳沢神社と柳沢文庫はまさにこの城の本丸、乗っ取られたなど街の人に聴こえたらお小言戴くこと間違いなし。 時間はあるんだ、立派な玄関で靴を脱ぎ、館内を見学させていただく。 展示資料を見て歩くが、ボクの関心は城下町の変遷。 城の外形は昔のままだ、その周辺を近鉄が走る。 しかし、町並みは今と昔、面影なし、全く異っている。 城とお堀と神社と文庫、これだけが昔に通低する残された道ということだろうか。 郡山バスセンターに戻ると、法隆寺行きのバスはともかく、慈光院までならすぐ来ると言う。 何年ぶりだろう慈光院、よって見よう。 この寺はかって本堂が完成したとき見学させていただいた。 友人がここの住職と親しかったからだ。
片桐石州斎が1663年、京都大徳寺から和尚を迎え建立したもの。 周辺は今や住宅地だが、郡山の街が一望出来る絶好の場所に建っている。 前回の拝観で寺や茶室の経緯、さらに、本堂普請の苦労話をいろいろ伺った。 記憶しているのは、建物の新築はすべて施主(旦那)次第とおはなし。 ここの住職は普請にあたって、木材から敷瓦、漆塗料に襖紙、 その調達はご自身で丁寧に吟味し、調達していた。 そして、選んだ職人たちと納得がゆくまで相談し、仕事を完成させている。 いまでは、考えられないことだが、これが従来からある日本人の普請方法。 まぁ、旦那仕事ということだが。 どんな建物をどのような形でどのような材料を使いどう普請するか。 それは工務店や職人、まして建築家の仕事ではなく、住まい手自分自身の仕事であったということなんだ。 素材や材料に対する関心は普請だけではない、ライフスタイルに関わるもの全てだ。 茶室や庭や精進料理の素材も、すべて自分の脚で集め、キープしておく。 その為の裏庭、資材置き場や倉庫、そこそこの家はどこもみな持っていたはず。 いい例は、何処でも良い、ちょっと古い寺や神社の縁の下を覗いてみると良い、 そこには、修理の為の古材、木材や瓦が沢山ストックされているはず。
チェックしていたおいた時間、バス停に戻ると、ようやっと法隆寺行きのバスが来た。 ここから法起寺はあっというま、家並が減り、田園に出たなと思ったら、もう着いた。 余りにあっけなかったので、三重塔を遠望するという楽しみは消化不良。 まぁ、もどればいいか。 この寺は国道脇だが周りは畑とため池。 しかし建立は606年、聖徳太子、斑鳩三塔の一つ、おおらかな塔は706年だ。 こんな案内を見ていると建築は凄いね、歴史の単位は100年、1000年。 今どきの住宅はたったの15年が平均寿命というから、現代建築はなんとも情けない。

斑鳩の道

法輪寺からの法隆寺へはクルマなら10分位か、 しかし、今日はのんびり山道をゆく。 ここからは南ではなく、東、右手の坂道を上る。 無粋なゴルフ場への道とおサラバすれば、もうクルマは通れない。 ポカポカ陽気のハイキング、連れはないが、なんとなくこころ楽しい。 ここはいたるところ、かの厩戸皇子の縁の場所だ。 山道を進めば、うぐいすばかり、人の気配が珍しいのか、 その啼きごえは歩み入るごとにますます高まる感じだ。 やがて前方は高台の畑、法隆寺はもう近いはず、 そろそろ塔の姿でも見えないかなと背伸びしながら歩き続ける。
30分も歩いたろうか、道はまた舗装路に出る、 右手は土盛りの堤、左手の小山は古墳のような木立の固まり。 2〜3mほどの堤に上がって、ようやっと見つけた、法隆寺の五重塔。 手前は天満池、木立は斑鳩神社。 正面から春の日を一杯に受け、池の水もまぶしい。 iPhoneカメラで塔の姿を、とチャレンジしたが全く絵にならない。 その場に留まり、しばらく池を前景とした日を浴びる塔を眺めることにした。 堤の上を半周すると法隆寺への降り口あった。 たぶん法隆寺からの参拝客は遠回りする登り口が待ちきれず、 早く塔を見たいと、この堤をよじ上った跡のようだ。 確かにここからは塔はもう目の前だ。 近からず、遠からず、幾重か瓦の波を超えて見れば、 あこがれの斑鳩の塔が毅然たる姿で微笑んでいるようだ。 畑と住宅の間の一本道、ほどなく、この町特有の土色の塀。 やがて右手は西院伽藍。 左手は東院(夢殿)と中宮寺。 観光客の人ごみにまじり、まずは中宮寺の如意輪観音を訪ねることにした。

法隆寺


中宮寺は法隆寺ではない。 太子の御母、穴穂部間人皇后のお住まいを崩御の後、そのまま尼寺にしたと書かれている。 その建築も鎌倉時代には荒廃に次ぐ荒廃。 現在は水に囲まれた楼閣風の雅な近代建築、 尼寺の面影を宿す国宝の観音像にピッタリなお堂となっている。 周囲は初めて触れる古代への感動だろうか、高校生たちの嬌声がかまびしい。 靴を脱ぎ、堂内に入れば、 そこでは半跏思惟といわれる童顔で清浄な中性的微笑みが迎えてくれる。 静寂の中に、かっては金色だろうが、今は残された漆で真っ黒な仏が、 正面からの自然光をうまく取り入れ、親しげに鎮座している。 不思議なお顔です、微笑んでいるかと思うと悲しんでいるようにも思える。 両隅はこれもまた国宝の天寿国曼荼羅、 しかし、大勢が堂内に入り、触れれば倒れてしまうような展示。 多分レプリカだろうが、この曼荼羅を息も吹きかけんばかりの、 マジかで鑑賞出来るのはここだけに許される楽しみだと思う。
中宮寺は一番奥です、入り口がわは東院の四脚門の正面は夢殿。 二重基壇八角円堂のこの建築は天平にあっては考えられないほど繊細な建築。 この複雑繊細な建築を修理に修理を重ね、持ちこたえて来た工人たち意志のようなものが感じられ、 高校生たちの嬌声と雑踏の中ではあるが、しばらく立ちすくみ眺めていた。 堂内は当然、有名な救世観音。 しかし、今日は拝観日ではない、むなしく廻廊を巡り、段を降りる。 降りて裏の伝法堂を見学したが、ここもまた人人人、そして、疲れた。 早めに宿に行くこととし雑踏を離れる。 宿は老舗だが今はうらぶれている、しかし、部屋の作りは一流だ。 二間続きの本格的設えの和室など最近泊まったことないので、やや、感激。 顔をあらい、茶を飲み、畳の上、大の字に寝そべる。 ひとしきりまどろむかとも思っていたが、一休みすればもう元気。 夕食は7時にと、宿の帳場に言いおいて外に出た。
宿の裏手、住宅街の先の山の麓は藤ノ木古墳とある。 そこまでの道筋、比較的上質の住宅ばかりで驚いた。 斑鳩特有の土塀がそこここ、もちろん古い農家風の家がないわけではない。 しかし、全体は一見、高級住宅街。 クルマがやたらに通りかかるわけではない路地風の街路、 新しくはないが古くもない家々。 低い家並の瓦と左官の壁が遅い午後の光を反射させている。 藤ノ木古墳は何処にでもある幼児用の公園という雰囲気。 都会からであろうご夫人が二人、日当りの良いベンチに腰掛け、おしゃべりに夢中。 考古学に関心のないボクができることはiPhone を取り出し、ポチポチポチ。 山麓から家並と畑に降りる先端となるこの円墳の位置、 なるほど、大昔とはいえ、墓をつくるならこの場所が絶好と、 妙な得心を得たことを潮に法隆寺西院伽藍に向かうこととした。
山裾の道をそのまま東に戻ると、法隆寺の西大門。 しかし、まだ境内に踏み込むのは時間が早い、左に折れ築地塀に沿い上り勾配の道を歩く。 予測通り、ちょうど良い場所に出て来た。右手には塀沿いにお目当ての五重塔だ。 iPhone片手に、上り道を歩きポチ、歩きポチ。 こういう時はさすがにデジタルは便利。 枚数は関係ない、ただただ歩きポチポチポチ。 一頻り登った後、また引き返し、今度はようやっと門をくぐり西円堂へ。 ここの石段を上るともう五重塔は目の前だ。 しかし、まだ時間は早い。 伽藍の見学は5時まで可能、見学者がある限り中門をくぐるのは後回しにしようと考えていた。 今は、ゆっくり外から眺めるだけ。 確かに、この寺は古い。 そして、作りは簡素、部材は大きい。 春の西日は何処までも優しく、決してこの建築だけを強調しない。 しかし、周辺の木立に負けず、整然と立ち尽くす塔の姿、 それはまさに静かなる人間の力そのままを表している。 何を見るわけではない、のんびりとこの聖域に佇んでいたいだけの旅。 今は、ただひたすら、伽藍の外側から塔を眺めている。 そして、気がついた。 iPhone のポチポチをしばらく忘れていたと。
中門の西側の回廊入口が西院伽藍の見学入り口。 チケット買い、中に入るともう見学者はほとんどいない。 閉館近く、手持ち無沙汰の管理のおじさんたちは、 写真を撮るならあそこがいい、ここがいいと教えてくれる。 そろそろ、金堂は扉を閉めるから先にここから見学してくれ。 まぁ、親切なのか、おせっかいなのか、一日の仕事を無事に終え、 管理の責任を果たした安堵感だろう、 やけに馴れ馴れしいのは何となく解るような気がする。 こんな時間の入場、先方から見れば、特殊な見学者と思えるかもしれないが、 写真を撮ると言ったて、所詮、ボクの手にあるのはiPhoneのみ。 とっておきの芸術写真が欲しいわけではなく、 ただ朴ねんと歩き回り、古代の時間を感じたいだけなのだ。
5時を回り、おじさんたちにさよならを言う。 いや何のことはない、追い出されたのだ。 夕食には時間があるので、来る時に写真を撮った天満池にもう一度行ってみる。 この時間、まだ日は暮れない、 右手には木の間隠れに五重塔、左手は何処にでもある畑と家と諸々。 何の代わり映えしない日常の風景、しかし、ここは太子と共にあった歴史ある場所。 爽やかな春の風と柔らかな夕方の光を感じ、 呆然と時間をやり過ごし、漠然と空にある白い雲を眺めてすごしていた。

2010年4月7日水曜日

不退寺・法華寺


奈良二日目は気温が下がり小雨が降る旅先としては最悪の一日。 薄手だが風よけとなるコートを着込み8時過ぎにホテルを出る。 JR奈良駅から乗ったバスの行き先は不退寺、初めて拝観する。 一条通りのバス停に一人降り、朝の奈良に向かう通勤ラッシュのクルマを歩道橋で交わし住宅街に入ると、そこは突然古寺の参道。 開門前の門前は冷たい雨、境内にも人影は見えずレンギョウや椿が咲き乱れ、 たわわにに咲く大きな桜の木が春爛漫を謳歌している。 この寺は在原業平が開基したとある。 寄せ棟の小さなお堂には木造の聖観音菩薩立像と五大明王像。 鎌倉時代の明王と聞けば激しい忿怒をイメージするが、ここの仏は顔かたち仕草ともおとなしい。 再び一条通りに戻り国道バイパスを渡るとほどなくまた古びた寺の山門に着く。 光明皇后の総国分尼寺と位置づけられる法華寺だ。 現在の寺域はもともと皇后宮地の一端にすぎず、名前のみをここに持ち込み、 光明皇后崩後一周忌の阿弥陀浄土院がこの寺の本来の姿のようだ。 しかし、その後の戦火で衰退したとは言え秀頼と淀殿の寄進で再建され、 現在は華道の方々の精神的よりどころとなっている所。
境内に入ると、ちょうどその日、関係者の大きな法要があるそうで、 寒空とあいにくの雨の中、本当に法要なの、と疑ってしまうほど、 あでやかな沢山の和服姿が咲き誇る花に負けじと華やいでいた。 そんな寺であるから、ここの見せ場はなんと言っても名勝庭園。 ボク自身の拝観の目的は秘仏とされ、今日までが特別拝観と教えられた十一面観音像だが、 その色彩豊かな仏もさることながら、小さいながらの桃山時代の庭園には圧倒された。 大げさな書き込みとなったが、昨年の秋の京都では期待していた庭園、どこも手入れが悪く、 そのみすぼらしさに驚かされていたから。 雨の中、しきりに落ち葉を集める庭師に、その手入れの良さを褒めたくて声をかけると。 「京都の庭には、落葉樹は植えられておりませんので、こんなに汚れることはないのですが、奈良の庭はどこも大変ですわ」とのお答え。 このおじさん、地を這う杉苔を傷つけないように、毎日毎日丁寧に庭を掃き続けていたのだ。 したがって、格別の昨夏の苔の傷みに対し、人知れず心を痛め、春になり慈しみ続けてきた成果に彼はいたく満足げであった。

海竜王寺


海竜王寺は法華寺とほぼ隣り合っている。 どちらも光明皇后の父、藤原不比等の邸宅跡地だ。 全用地の東北の隅にあったことから隅寺の名がつけられている。 その記録は天平8年(731年)の正倉院文書にもあり、かの玄ぼうが初代住持であったようだ。 かの、といったのは先週、たまたまNHKのテレビドラマ「大仏開眼」でその名を知っただけの話。特別の意味は無い。 拝観の目的はここでは小さな五重等、それも地にあるのではなくお堂の中だ。 長らく奈良国立博物館に寄贈されていたが、ようやっと本来の場所、海竜王寺の西金堂に戻されたので、今日は特別、もともと作られたお堂にたって、はじめて見ることが可能となった。 有名な薬師寺の三重塔に類似した8世紀前半頃の塔と言われれば、日本の木造建築に関心があれば一度は見てみたいと思うではないか、それも本来の場所。 建築にとって作られた場所は、作られたデザイン以上に、多くのことを語ることがあるからだ。
実は、今回の奈良でボクが追って見たいと思っているのは塔なのだ。 与えられた時間内、きままなひとり旅、思う存分、天平・平安・室町の塔を追っかけてみたいと思っている。 最初の一つは工事中であったが、昨日の浄瑠璃寺、そして岩船寺の三重塔だ。 ともに平安の浄土の庭園に建つ珠玉の三重塔として絶対に見逃させないもの。 そして今日は不退寺の多宝塔とここの厨子の中の五重塔、さらに西ノ京へと天気は悪いが寒空の中、塔を見るため歩き回った。 塔のデザインで重要なことは、四隅では45度の角度で突出する組み物とその両隣の組み物との関係にある。 薬師寺の三重塔以前の塔では突出した45度の組み物は単独であり、それ以降は隣の組み物と隅の組み物は肘木で連結される。 この海竜王寺の五重塔は薬師寺と同じ形態、異なるのはこの小塔の軒桁は円形断面であり、薬師寺は角形だ。 ここからは専門的研究者無視のボクの個人的見解。 木材の調達においては天平、白鳳は後世に比べ大径材が入手可能であった、一方、鑿や鋸や台鉋という繊細な工具の発達は中国で言えば明朝以降。 したがって、薬師寺以降の塔は部材が小さくなり、その分、組み物の加工デザインが繊細になる。 ここで言いたいことは、天平の塔が軒が深く大胆なデザインであることは大径部材の自由度が可能にした表現、後世の繊細さに対し、素朴・未熟・繊細さにかけるという批評はあたらない。 先を急げば、塔を見るなら天平が良い。 そこには技術と素材と精神が三つどもえになった大らかな建築的世界が広がっている。 海竜王寺五重小塔では軒桁断面が円形であるというところがなんとも興味深い。 こんなお堂に納められた小塔とはいえ、当時の建築家たちが、何を考えどうしようとしたのか、その生き様がみえるではないか。 それを確認するだけでも、今回この寺を訪れる価値はボクには充分にあったのだ。

平城宮旧阯


昼近くなって雨脚は小さくなったが、相変わらず、風が強い、そして寒い。 歩けば暖かくなる、とにかく、歩くしかない。 バスを待つのも寒いので風の中、平城京旧阯に向かう。 海竜王寺のある法華寺町の東の隅から一直線の真西に歩くと、 ほどなく視界が開け、遠くに朱塗りの大極殿が見えてくる。 さすが、広い、冷たい風が右から左、北から南へ、人影はまばらだ。 到着した遺構展示館で一休みと思ったが、オープンは24日だそうだ。 しかたなく、再び外に出た。
さぁ、どっちに行こう。 朱塗りの大極殿がある西か、東院庭園がある南か。 結論はやはり先週「大仏開眼」で見た阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇) いや石原さとみ縁の東院庭園へ。 南に下る水溝に沿い、風で桜が舞うが人いない、ただ広いだけの旧阯を歩く。 そして、ふっと考えた。 やはり、ボクは考古学には縁がない。 歴史については人並みの知識はあるつもりだが、 さらに、万葉集に関してもそこそこの関心は持っているはずだが、 この歴史的空間にあって、只只寒いとしか感じないとはなんたることか。 この荒野で途中、溝の中の水を掻い出し、懸命に遺物を探す作業の集団に出会ったが、 一足も立ち止まることなく、東院庭園の入り口となる建物の中に入った。 出来たばかりの展示館には旧阯の写真と説明パネルと模型。 ボクの大なる関心はただ一つ、当時の建築、その掘ったて柱の地業実物大模型。 直径50センチメートルほどの柱の地中部分だが、 真下には周長を一周り大きくした径の一枚岩。 周辺は30センチぐらいの玉石が一杯に敷き詰められている。 柱の下方に、浮き上がりによるカイサキを防ぐ長さで丸太を突き通し、 1本の柱の鉛直荷重を3方に分散して支持している。 さすが、立派だ、半端じゃない。 塔でも触れたが、古代の技術は決して未熟ではない、周到だ。 さて、次はどこへ、南か、北に戻るか。 ここまで来たのだから、今日はもう大極殿はあきらめよう。 その先の西大寺から秋篠寺も今日の予定コースではあるが、 伝技芸天立像は幸い一昨年前の飛鳥の帰り、 一目お目にかかったのでパスすることにし、南に向かった。 南の大門、朱雀門は立派な門だ。 ここに立つと、まさに旧阯の全貌を手にした気分。 寒さも忘れ、平城京を治める貴族にでもなった積もりで天地を眺めた。 いい気分になっていると、親切なおじさんが近寄って来た。 淡いグリーンジャンパーを羽織った、旧阯を説明するボランティの方だ。 「いい所ですね。まだ、何もない平城京を見るのは、作る楽しみがあって、 当時の貴族と同じですよ」って冗談をいうと、 「いや、このままじゃお客さんが来てくれない。 お役所仕事でいつになるか解らないが、出来上がるのは 、私が死んだずっとずっと先であることは間違いない」 なかなか、面白い方、いろいろお話を伺ったが、 腹も減ったので近場の旨い食堂を教えてもらい、 門脇の工事現場にある出来立ての事物大遣唐使船を覗かせてもらい、 さよならをした。

唐招提寺

二条通まで下り、ロードサイドでボランティアのおじさんに教えてもらった、 餃子付き肉そばを注文する。 いやぁ、さすがだ、広い店内は一杯。 それも、通りかかりのドライバーはもちろん、 ご近所の老夫婦、それと、学齢前の子どもたちとそのお母さん集団。 黒いTシャツの若い店員がきびきび働く、その光景は間違いなく、 何処にでもあるファミレス・ラーメン店。 しかし、奈良から大阪に抜ける主要幹線道路とは言え、新旧入り交じった住宅地のど真ん中。 その客層のバラエティはさすが1000年の街、奈良だけの光景かもしれない。 二条通から住宅街を三条に降りる。 条間の距離は京都に比べれば半分ほどだろうか。 さらに尼ケ辻から古びた国道を進むと程なく唐招提寺右の道路看板。 天気もよくなり、奈良観光では外せない名所寺院の一つ。 秋篠川を渡ると、門前は観光バスのラッシュだった。 しかし、幸い、集団客は一気に引き上げる雰囲気、 ここはのんびりやり過ごそうと、門前の茶店に入る。
赤い毛氈を敷いた小さな式台と4人テーブルが一つ。 客はいないが、店番のおばあさんがTVを見ている。 毛氈に坐りわらび餅を注文すると、 おばあさんは、TVの内容が気になるらしいが、腰を上げ藍染めの暖簾の中に入って行った。 どうやら、このおばあさんだけが一人で賄っている店。 店番ではない、店のオーナー店長ということだ。 この季節のわらび餅だが、関西らしい、不規則だがもちもちの蕨の固まりに、 これでもかっと、おもうほど目一杯にきな粉がかかっている。 けっして、甘すぎず、口に入れると柔らかいが多少の歯ごたえ、 かすかな土臭い香りが広がってくる。 「この周辺もずいぶん家が建ちましたねぇ」 見ていたTVが若い人の歌番組に変わり、おばあさん手持ち無沙汰のようなので、声を掛けた。 「昔は田圃ばかりで、日照り続きの時は大変でしたよ。 でもここは秋篠川が整備され心配が無くなりましたなぁ。 秋篠川は郡山で佐保川と一緒になり、大和川に流れ込む私たちには大事な川。 しかし、整備された途端、今度は一気に田圃が無くなり、住宅ばかりなりましたなぁ。」 のんびり茶をすするボクに対し、急ぎ客ではないと知り、おばあさんは、いろいろ話してくれる。 「最初は、近鉄が通る線路むこうは全部田圃でした。 最初はなんとかいう小さな大阪の不動産屋さんがが土地を買ったんですわ。 気がつくと、小さな家がぎっしり。 そうしたら、今度は出来たばかりの用水から田圃に水が回らなくなり、 住宅の下水がどうのこうで難儀ばかりでしたな。 今じゃもうご覧の通り、この辺は住宅ばかりですよ。」
店を出て山門を覗くと、見学者がまばらになっていた。 雨も風も治まり、いつもの長閑な大和の古寺見物だ。 正面は整然とした金堂の佇み。 著名な文学者ではなくとも、両側の植え込みのパースペクティブに強調された、 大らかな屋根とそれを支える列柱のバランスには感嘆する。 これが古代8世紀、天平人のセンスなんですね。 この寺の特徴は立派な鮪を戴く屋根やふっくらとした大きな柱のゆったりとした柱間隔だけではなく、 その間の田の字形の白い小壁にある。 2段組み斗キョウを額縁とするこの小壁と屋根と柱、 この三つどもえのバランスがこの金堂の独特の風格を源となっている。 今回の奈良紀行でこの寺が外せないのは理由がある。 平安・鎌倉・江戸・明治と過去4回の大修理はともかくとして、 1995年の阪神大震災を経験して以来の、 2000年から10年間かかっての大修理がつい先日終わったばかりだからだ。 完成した金堂は大瓦が新しすぎ、ややウスペラな感じは免れないが、 これでまた100年、200年、周辺の田圃が住宅に変わったように、 住宅が無味乾燥なコンクリートのビル群に変わったとしても、 どこまでもこのバランスと風格を保ち続けるだろう。 もちろん、この寺の目玉は金堂だけではない。 金堂の後ろの講堂は平城京にあった東朝集殿を改装移築したもの。 柔らかな入母屋屋根の佇まいは、一目でこれは寺ではなく、宮廷だと気がつかせてくれる。 かの鑑真和上の像を拝観するのは御影堂。 ここには東山魁夷のふすま絵があるのだが、今日は残念、公開日ではない。 東京の博物館での記憶を頼りに、外からの一礼のみで引き上げた。
この寺の紹介はこのブログのテーマではない。 さらに関心ある人は次のリンクを。http://www.toshodaiji.jp/ ボクの関心は塔ということは再三書いた。 しかし、ここには立派な木造の塔はない。 代わりにと言ってはなんだが、木立に囲まれた境内の一画に面白い塔がある。 戒壇とその最上段の宝塔だ。 仏教教典や受戒の仕組みの知識は一切ないが、江戸時代に作られた、その造型には興味がそそられる。 簡素で粛然とした方形の石敷の床、その中央は三段の石組みの戒壇、そして白い球形の宝冠が毅然と載る。 この空間、雰囲気はなんだろう。 インドでもない、中国でもない、天平でも、日本でもない、つまり日常知る世界ではないのだ。 人間の理念だけの風景はかくも冷たく硬質。 雨に濡れ、晴れた光で見るこの宝塔、ボクに何を伝えようとしているのだろうか。