2009年12月7日月曜日

ドローラ・サジックの「アムネリス」

「明日はあなたかもしれない!」アイーダは間違いなく悲劇だ。大半のオペラはタイトロールの死によってドラマが終わる。しかし、悲しい、涙を誘う劇が全て悲劇というわけではない。ドン・ジョバンニは喜劇なのだから。「人事だけでは、如何ともし難い、人間の有り様、運命を画くのが悲劇」、と読んだ事がある。シェークスピア以降、近代劇では特定の人間が画かれるが、古代劇では類型としての人間が問題であって、ギリシャ悲劇は「人間とは何か」が画かれていると言うのだ。つまり、「ロミオとジュリエット」はロミオとジュリエットの悲劇であって、あなたの悲劇ではない。しかし、「アイーダ」は社会に生きる人間(エチオビアの王女)の悲劇であって、アイーダだけの悲劇ではない。社会に生きる人間であるがゆえに、誰もが陥るであろう悲劇、これが古代劇の悲劇であり、あなたの悲劇。それが冒頭の歌、「明日はあなたかもしれない!」に表れている。
しかし、オペラは第三幕からガラッと変わる。ここからは「アイーダ」ではなく、「アムネリス」が主役、彼女の悲劇であり、オペラなのだ。ラダメスを恋い焦がれるが、彼に愛されることもなく、身悶えし乍ら彼の生を嘆願する。その歌声はオペラの中でも最も美しく、どこまでも哀しい。しかし、この悲劇はいつの時代の誰もが体験し、理解出来るものだが、この恋、そして悲劇は個人アムネリスのものであって、あなたのものではない。
今日のオペラはそんなアムネリスが圧巻だ。もともと、メゾ・フェチに近いボクにとって、ドローラ・サジックの歌には泣かされた。前ニ幕のスペクタクルな舞台は今や、メトでしか味わえない楽しみだが、三幕のアムネリスの報われぬ恋と恋人を失う悲劇はザジックだけが表現可能な世界かもしれない。愛する娘を失ったヴェルディは、その娘への父親である自分自身の想いをバリトンに託し、幾つかのオペラで歌わせているが、最後のオペラに近い「アイーダ」では、娘自身の悲しみをアムネリスに歌わせたに違いない。

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