2009年11月26日木曜日

ローマのパレストリーナ

ルターやカルヴィンの宗教改革に対抗しなければならなかった、16世紀のカトリック・ローマが最も必要としたものは音楽です。プロテスタントは豪華な建築や美術ではなく、聖書の言葉によって民衆の支持を得ていく新しいキリスト教です。そのプロテスタントに対抗する為には、カトリックもまた建築や美術で理念を表現するよりも、具体的・直感的にわかりやすく神の世界を示してくれる音楽を必要としました。サン・ピエトロ大聖堂やサンタ・マリア・マジョーレ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの礼拝堂、イエズス会のオラトリオ、16世紀ローマの教会は何処もミサ典例や宗教儀式の為に聖歌隊は大活躍だつたと言えましょう。その聖歌隊で子供の頃から自己の才能を発揮し、生涯に渡ってカトリック・ローマに貢献した音楽家がジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナです。彼はサン・ピエトロ大聖堂の建設が着々と進むなか、ローマにカトリックの音楽的世界を生み出す、まさに、ローマが必要とした時、最も必要とされた音楽家として活躍しました。


(via Youtube by Giocvanni Palestrina-Missa Papae Marcelli - Kyrie)

パレストリーナの時代は教会における聖なる音楽だけでなく、宮廷における世俗の音楽も発達した時代です。その音楽は17世紀、オペラを生み出すことになりますが、パレストリーナは世俗の音楽には関わることが少なかった、いや、関われなかった音楽家です。3人の子供との家庭生活を大事にした彼は教皇庁だけでなく諸都市の貴族、宮廷からの招請も少なくはなかったのですが、ローマとその周辺で生涯を送り、教会の音楽を作り続けたのです。しかし面白いことに、宮廷の音楽を作ることが少なかった彼ですが、宮廷が生み出したオペラの題材にされた唯一の音楽家でもあるのす。1917年、ミュンヘンのプレンツレゲンテン劇場、ハンス・プフィッツナー作曲のオペラ「パレストリーナ」がそれで、ブルーノ・ワルターの指揮で初演されました。ルターの宗教改革への対抗から開かれたトレント公会議では世俗に傾きすぎた音楽に対し数々の苦情が寄せられていました。世俗の定旋律に基ずくシャンソン風のミサ曲や言葉の理解を不可能にする複雑なポリフォニー、あるいは教会における楽器使用や不作法な歌手たちの振る舞いに対してです。そして多声音楽を廃止し、昔のグレゴリオ聖歌のみで典礼を行うという案が体勢を占めつつあった時、パレストリーナのミサ曲が会議の席上で演奏され、そのすばらしさに感動した人々は、従来通りポリフォニーを典礼の音楽として認めたという伝説がオペラ化されました。1545年から63年までのトレント公会議、そこでは教会からの悪弊を追放し、カトリック信仰の原点に立ち戻ることが確認されましたが、その席上、卑俗で不純な音楽の排除が決議され、当時、北ヨーロッパで流行していた複雑なポリフォニーに対する批判が強まっていたのです。しかし、パレストリーナの音楽はフランドルのポリフォニーを基礎としながら、各声部には独立性を与え、異なったリズムと歌詞を与えるもの。このことによりポリフォニーであっても、その宗教音楽が、決して不敬虔でも、歌詞の意味が不明となる音楽でもなく、厳粛さと透明性を保持しているものであることを示していました。真偽のほどは不明ですが、伝説上のミサ曲は「教皇マルチェルスのミサ曲」ということになっています。そして、パレストリーナは教会音楽の救い主として長く伝えられて来たのです。
様式の持つ正当性を自らの演奏で守り抜いた伝説を持つパレストリーナは、バッハ、ヘンデル以前のもっとも人気のある作曲家であり、ルネサンス最大の宗教音楽家と言って良いようです。サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会、サンタ・マリア・マジョーレ教会というサン・ピエトロに並ぶローマ最大の教会の楽長を歴任したパレストリーナは、皇帝マクシミーリアン2世やマントバのゴンザーガ公からの誘いにも一切応じることなく、生涯、ローマの宗教音楽家としての生を全うしました。百に及ぶミサ曲や四百を数えるモテットと並び、わずかであるが世俗のマドリガーレも作曲しています。当時全盛の世俗の音楽、マドリガーレにも幾多の名曲を残している彼ですが、後に、恋愛詩に作曲したことを恥じ、悔やんでいると告白しています。しかし、その告白は本意ではなく、彼と家族が安心してローマで生活していく上での方便だと、後世の研究者は指摘する。そんな方便を必要とするパレストリーナのローマは、十七世紀を迎えても、オラトリオにおける音楽劇はともかくとして、オペラはほとんど根付くことはなかったのです。1594年、パレストリーナが死ぬと、その後の二十年、教皇たちの音楽に対する関心は急激に薄れて行きます。1610年「聖母マリアの夕べを」を教皇パウロ五世に献呈すべくモンティヴェルディがローマにやってくる話は有名ですが、彼は一切のポストも支持も得ることもなくローマを引き上げヴェネチアに向かうことになるのです。