2009年10月30日金曜日

ブラマンテとラファエロ(サン・ピエトロ大聖堂の計画案)

新しいサン・ピエトロ大聖堂の構想のポイントは「聖ペテロの神殿」の再生、古代にならった建築の方法に従って「壮大な神殿」を作ることにあった。神殿を強調することは周辺の列強、ドイツ・フランスが標榜するゴシック社会とは一線を画すものとならなければならない。
改革を必要とする宗教は本来、旧態化したゴシック・キリスト教であって、ラテンという古代社会に起源を持つローマ・カトリックの再生は、ルターの改革とは異なる、真の宗教改革であることを示そうとするところにある。その為にはサン・ピエトロ大聖堂を教会というより「壮大な神殿」として作ること。聖ペテロの神殿の再建こそローマ・カトリックの再生、真の宗教改革と意味づけられていた。

神殿を強調する建築デザインとはマルテリウムと呼ばれる殉教者の記念堂を形作ることです。具体的には、平面形は長方形のラテン十字ではなく純粋なギリシャ十字、この十字が生み出す正方形の立体の上に半円球のドームが載る形態でなければならない。この考え方をまず、忠実に表現したのがブラマンテの計画案。(図面)図面は羊皮紙に描かれたもので、かってのウフィッツ宮殿、現在のフィレンツェ絵画美術館に残されている。
その平面は小さなギリシャ十字の重ね合わせ。空間はすべて純粋な幾何学形態で積み上げられ、その一つ一つは接点部分で前後左右自由に繋がれ、その全体は中央の壮大なドーム空間に導かれる。
しかし、ブラマンテの計画を引き継いだラファエロは正方形の一端を延長したラテン十字の平面形で設計せざるを得なかった。理想的な形態と具体的な空間利用とのジレンマ、ミサ典礼を考慮すると、旧来のバシリカのデザインに立ち戻らざるを得な胃というのがラファエロ案(図面)。
バシリカとは古代ローマにあった矩形大ホールのこと。もともとは裁判や会議あるいは市場など、沢山の市民が一堂に会する集会所として利用されていた建築を言う。ミサ典礼もまた集会であるが故に、初期キリスト教時代から、矩形のホールの一端に劇場の舞台のような祭壇を設え礼拝用建築として利用してきた、これをバシリカ式教会と呼んでいる。

水平軸を持つバシリカに対し、垂直軸が強調される記念聖堂や洗礼所のための建築。あるいは堂内を天上から神の世界そして人間界と垂直に階層化して表現した初期キリスト教時代のビザンチン教会。これらは正多角形の組み合わせ平面に大きなドーム載せる形で作られ集中式と呼ばれた。現在に見るキリスト教教会の大半は、このドームを持った集中式と礼拝の為のバシリカ、つまり二つの形態各々が持つ水平軸と垂直軸が重ね合わされた形で作られていると考えればよい。
ラファエロがバシリカに立ち戻らざるを得なかったのは、サン・ピエトロの堂内はまた儀式礼拝の場であり、多くの会衆が一同に会する空間でもあったからです。完全な二軸対象性が損なわれてしまったが、長大な行列を組織し、多くの人々を収容するためにはどうしても採用しなければならない構想の変容。しかし、ラファエロの図面を良く見てみよう。彼は「アテネの学堂」に示されるような古代ローマの壮大な半円筒ドームをブラマンテの空間に浸透させることで、サン・ピエトロ大聖堂の起源が古代社会に生きた殉教者のための神殿であることを巧みに強調している。

サン・ピエトロ大聖堂(聖ペテロ神殿)の再建

 

 古代ローマ帝国の首都であり、中世キリスト教社会の聖地であったローマはいつの時代も世界の中心、猶に2000年を誇る大都市です。
しかし、古代ローマから後、教皇庁がその絶対的権力を誇り、世界に君臨することが出来たのは14世紀の始めまでのこと。
フランス国王への配慮から、教皇に選ばれながらもローマ行きを果たすことが出来ず、クレメンス五世は南フランスのアヴィニョンに留められることとなり、その後のローマは衰退と疲弊を重ねることになった。
廃墟のような都市となってしまったローマが現代に見る姿を取りになるのは、16世紀を迎えてからのこと。
宗教改革への気風が高まる中、ローマに戻った教皇庁はその権威の再興と都市の再建に取り組み始めることになったのです。

最も初期にローマ再建を計画したのは15世紀半ばの法王ニコラウス五世。
彼は「建築論」を書いたアルベルティの力を借り、教会を中心とした理想都市ローマの建設に着手した。
そして歴代の教皇もニコラウスに続きローマ・カトリックの権威の復活に力を注ぐこととなる。

しかし、15世紀後半から16世紀のローマはまだかってのように君主を生み出す役割からは程遠い段階。
教皇庁ローマと言えども他のイタリア半島の小国同様、その権威と領土は列強の巧妙な外交政策に翻弄され、波間の木の葉のような浮沈を重ねる状況にあった。
16世紀に入り教皇庁の権威の浮沈はまだ相変わらず、しかし、都市ローマは着々と整備され、その偉容は刻々と姿を見せ始めた。
カトリック・ローマを勇気づけ、活気づけ続けたのは音楽と建築です。
新しい世界の到来やローマ・カトリックの復活を内外に示す重要な役割はいつ時代も建築が果たしてきた。
建築は制度や行政という観念的な作業以上に、物理的実体を持って新しい世界の権威や秩序を示すことが出来たからだ。

聖ペテロの殉教の地に建てられたローマ・カトリックのシンボル、旧サン・ピエトロ大聖堂がコンスタンチヌス帝の建設からすでに1200年を経過していた1505年、ユリウス二世は新教皇に選ばれるやいなや、老朽化した大聖堂の建て直すことを決意する。
サン・ピエトロの建設こそ、ローマ・カトリックの再生を具体的に示し、さらにまた反宗教改革の意識と意欲を内外に示す、最も有効な手段だったからです。
ユリウス二世は巧みに世俗と手を結び着々と資金を確保するばかりでなく、建築家の能力を見抜く能力を併せ持った人。
ブラマンテ、ラファエッロ、ミケランジェロという、ルネサンスが誇る最も重要な建築家たちが新教皇のもと、サン・ピエトロの再建の為に集められてくる。

新しいサン・ピエトロ大聖堂の構想のポイントは「聖ペテロの神殿」の再生にある。
古代にならった建築の方法に従って「壮大な神殿」をいかに作るかがテーマとなっていた。
従来のバシリカ的な教会ではなく、「神殿」を強調することは周辺の列強、ドイツ・フランスが標榜するゴシック社会とは一線を画すためにも大事なテーマであった。
改革を必要とする宗教は旧態化したゴシック・キリスト教であって、ラテンという古代社会に起源を持つローマ・カトリックの再生は、ルターの改革とは異なる、真の宗教改革であることを示すこと、とブラマンテ等は考えた。
サン・ピエトロ大聖堂を「壮大な神殿」としてどうデザインするか、それはまさにその後の歴代の教皇庁建築家の思案のしどころであり、ローマ・カトリックの再生と真の宗教改革を示すための具体的なデザインが必要とされたのだ。




(viia YouTube by unprofederell)

2009年10月28日水曜日

ボロミーニのサンタニェーゼ教会

広場を囲む家々の連なりがまるでオペラ劇場の桟敷席にみえるナウ゛ォナ広場ですが、その桟敷席にあって、際立ったリズムを生み出している建築がフランチェスコ・ボロミーニ設計のサンタニェーゼ教会です。
この教会はパンフリー家の古い祈祷所を改築したもので、パンフリー家出身の教皇インノケンティウス十世は政敵バルベリーニ家をフランスに追いやり、広場そして宮殿・教会をバルベリーニにならい、ここナウ゛ォナで整備することにしたのです。
バルベリーニ家のウルバヌス八世に重用されたベルニーニもまた、この教皇には疎んじられ、彼に替わりボッロミーニが教皇庁の主任建築家となり、この教会の設計を担当することとなったようです。
政変に翻弄される芸術家を調べることは興味深い作業ですが、今日はここではボロミーにのサンタニェーゼに限定して書いてみたいと思います。
ボッロミーニのサンタニェーゼ教会はバロック都市と建築のありようを的確に示している教会です。
ポポロ広場の双子の聖堂同様、ここでも建築は都市の要請によってデザインが決められているのです。
つまり、この教会もまた広場を活気づけるために計画されました。
しかし、ボッロミーニはただ、広場の要請にのみ答えたわけでははないのです。
むしろ、彼は建築と広場の関係を積極的に追求し、二つを同時に作り替えてしまったと言って良いようです。
サンタニェーゼ教会の特徴は広場に対し凹型のファサードを示したことにあります。
これにより広場の空間が教会の内部へと導かれ、貫入するように見えてきます。
一方、刳り抜かれたファサードにより教会の上方のドーム屋根がますます広場の前面へと踊り出る。
つまり広場と建築はお互いの空間を相互に取り込もうとすると同時に、ドーム屋根と「四大河川の泉」のオベリスクは共に際立った量塊となって空間の中で合い対峙し、広場を活気づけているのです。
バロックの都市と建築が成しえたこと、それは主題と変奏が折りなす中、空間と量塊あるいは内部と外部が鬩ぎあうドラマでありオペラであると言えるのではないでしょうか。

2009年10月27日火曜日

ベルニーニの「四大河川の噴水」

 

 ナヴォナ広場には南北に三つの噴水が連なっている。
意外かもしれないが、噴水が都市を飾るようになるのは16世紀後半です。
イスラム都市では古くから設置されていたが、イタリアではもともと田園にたつヴィラの庭園の装置。その装置がローマの広場を象徴するようになるのは、まさにバロックの都市改革以降のこと。

グレゴリウス十三世はポポロやパンテオンの広場、そしてここナヴォナにも二つの噴水を設置した。
そして三つ目が広場の中央、サンタニェーゼ教会に対峙する「四大河川の噴水」。
この噴水はインノケンティウス十世の命により、ボロミーにではなくベルニーニが作ることになった。

政敵ウルバヌス八世が寵愛したベルニーニを遠ざけていたインノケンティウスだが、バルベリーニ広場のトリトーネの噴水やスペイン広場のバルカッチャの噴水のデザインで評判を得ていたベルニーニをどうしても無視することは出来なかった。

教会だけではなく、当然、噴水のデザインもボッロミーニが進めていたのだが、彼は決定的なアイディアに欠け、教皇への提案にとまどっていた。
あるとき、もたもたしているボロミーに代わって、ベルニーニはすかさず噴水の模型を教皇に見せることに成功する。

「彼(ベルニーニ)の作品を採用するのに抵抗するただ一つの方法は、それを見ないことだ。」と教皇にいわしめ、ベルニーニの噴水が誕生することになった。

作品がすでに完成し、教皇がそれを見に来た時のエピソードはベルニーニの息子は日記に残さしていて大変面白い。

「何時になれば水がほとばしるのを目にすることは可能であるか」。
ベルニーニは答える、「いまだ時を要します。万事を整えますには大変な時間が要りましょう。しかしながら他ならぬ教皇猊下のためですから、速やかに最善を尽くしましょう。」

実際は極秘の合図ひとつで大量の水が噴水に流れ込むよう、あらかじめ手筈は整えられていた。
教皇が立ち去ろうと最寄りの出口に差し掛かった時、水のざわめきと大量の水が噴水に流れ込む大音響が轟く。教皇はその驚異の有様に呆然とされた、とかかれている。

バロックの都市ページェントやオペラの開催まで仕切る天才プロデューサー、ベルニーニの面目躍如。
以来、彼はこの教皇にも深い愛顧を受け、沢山の作品を作り続けることとなった。

ベルニーニの噴水は世界の四つの大河がテーマとなっている。
ヨーロッパのドナウ、アフリカのナイル、アジアのガンジス、そしてアメリカのラプラタ。
世界は4つの地域によって構成され、その隅々にまで流れる全ての水がこのナヴォナに集結する、というのがベルニーニのドラマなのです。

だとすれば、この噴水の見どころは全ての水が集まっては消えていく排水孔にあるはずです。
ベルニーニは水を飲み込む巨大な海蛇にその役割を与えている。
四大河川の流れが集結するここナヴォナは、教会の権力が世界の隅々まで浸透していることを意味するが、広場自体もまた、三つの噴水によって四つのゾーンに分節されていることで、教会権力が四大陸で構成される世界全体を支配していることを象徴している。

インノケンティウス十世は自身の出身であるパンフィーリ家の宮殿と教会が建つこのナヴォナ広場を四大陸に見立て、その河川の集結を中央の噴水で示すことによって、教皇自身が世界の中心にあるのだ宣言しているのです。

2009年10月25日日曜日

ローマのナヴォナ広場


ベルニーニの傑作「四大河の泉」を中央に配すナヴォナ広場はバロックローマの都市計画の中では特異な性格を持っています。
その特異さは広場なのに幅広い街路のような形態にあります。
ここは古代ローマ時代、紀元1世紀のドミティアヌス帝の競技場として使われたところ、その時の形がそのまま広場として残されました。
剣闘士たちにより戦車競争が行われていた場所と周辺はその後、全くの廃墟となりましたが、中世の時代には沢山の家々が建られます。
やがて競技場だけは庶民の為の広場として使われ続けられ、現在のナウ゛ォナ広場となったのです。

テヴェレ川に近く、水もあるこの当たり一帯は人が住み着くには都合が良いところです。
廃墟はすぐに多くの庶民の住宅が密集する所となり、ルネサンス期にはもう現在の様相に近い状況です。
広場は彼らにとって格好の息抜き場であり水浴びの場所。
従ってここもまたポポロ同様、水道整備が最も早く行われた所であり、1573年グレゴリウス十三世により細長い矩形の広場の南北の隅に二つの噴水が設置されました。
それはベルニーニの噴水が完成する八十年も前のことなのです。

特異な性格のもう一面、それはバロックの数ある広場の中では珍しく、主要街路とは一切の関わりを持たないばかりか、結節点としては程遠い形状となっていることにあります。
周辺は無数の狭い街路が不規則にひしめいています。
まるで、街路は張り巡らされた水路のよう、そして、広場はまさに貯水層のような形態です。
無数の狹路が連結され、幾筋かの街路となって貯水層のように広場へと流れ込む。
人の流れがそのまま水の流れに重なり、広場は貯水槽であり終着点をイメージさせます。
人々は、もはやどこにも出掛ける必要もなく、只々のんびりと滞留するところ、それがナウ゛ォナ広場の役割です。

古代ローマに起源を持ち、中世そしてルネサンスと延々と引き継がれ、現在に至るこの広場には、二千年の時間と世界中の人々が集約されます。
市が立ち、祝祭の舞台、真夏の暑い日の夕涼みの語らい、疲れた旅人が屯いまた一人憩う処。
1651年には「四大河の泉」が完成し、密集した街の中に、一際大きな水音をたてるこの広場は、庶民のそして世界中の人々のための溜まり場、サロンになったのです。
人と時間を留め置く貯水槽はまた引き延ばされた街路でもあり、さらに広場の中央に立ち周囲を眺めると、周辺の家々の窓の連なりはオペラ劇場の桟敷席の連続のように見えます。
しかも桟敷席を構成する家々は、姿、色、形が一体となり連続した一枚の壁のような連なりです。
この広場はまさに長方形の大きな舞台なのです。
古代ローマの競技場であったナヴォナ広場はベルニーニの傑作を待つまでもなく、華やかな劇場空間であったと言えるのではないでしょうか。




(via YouTube by hd4tv)

2009年10月24日土曜日

皇室の名宝展


昨日、22日の皇室の名宝展は若冲人気で満員だ。大勢の人々が押し合いへし合い、自分自身もその一人、何故に、こんなにこの展覧会は人を引きつけるのか。いつもの中高年女性だけの展覧会と異なり、今日は平日(金曜日)というのに文字通り、老若男女で一杯だ。そして、やはり、いいものには人は集まるんだ。そんな、当たり前すぎる実感を持った半日だった。 若冲だけではない、永徳、応挙、抱一・・・大観、観山、玉堂、清方、松園・・・。まさにきら星のごとく。皇室だからこそ可能であった名品の数々、その一斉展示となると機会は意外に少ない。だからこそ、ボクもまた脚を運んだのだ。見を終わっての感想は、人が多く圧倒されたにも関わらず、大満足のニコニコだ。そして、気がついた。我々の周辺は現在、沢山のものに囲まれている。映画や音楽、スポーツや美術。しかし、いつも満足かと言えば決してそんなどこはない。しかし、この展覧会は裏切らない。やはり、いいものはいい、すごいものはすごい。専門家に言わせれば、最悪の感想であろうが、いまはそれしか言葉がない。付け加えるならこの2点、名品というわけではなかろうが、17世紀の萬国絵図屏風と川島甚兵衛の春郊鷹狩・秋庭観楓図壁掛。この展覧会であるからお目にかかれたであろう名品。それは名作というより脅威の作。誰かが言っていた、この展覧会は情報の海、まさに、その通りの展覧会だ。

2009年10月17日土曜日

シクストゥス五世の都市計画

反宗教改革の機運も定着し、ローマ・カトリック信仰への信頼が民衆のものとなりつつあった十六世紀後半、再びシクストゥスを名のる教皇が誕生します。
教皇シクストゥス五世です、彼は就任と同時にかねてより準備していたローマの都市改造を実施しました。
聖地ローマは聖ペトロの殉教の地であるばかりか多くの教会を持つ巡礼者のための都市でもあります。
キリスト教の本体であるキリストのためのサン・ジョヴァンンニ・イン・ラテラノ教会、キリストの母、聖母マリアを祭るサンタ・マリア・マジョーレ教会、15世紀ローマには古代ローマの遺跡のみならず、大小様々な重要な寺院が立ち並んでいたのです。
従って、中世に持っていた力を失ったとはいえ、ローマはサンピエトロ大聖堂だけではなく、多くの巡礼者が訪れるキリスト教の一大聖地であることにはかわりはありません。
そのローマは1527年、ドイツのカルロス五世の劫略によって壊滅状況となり、一時は三万人程度の市民が住まうだけの廃墟のようなローマに変わり果ててしまいます。
即位した教皇シクストォウス五世は就任するや否や、そんなローマの再生を、ヨーロッパ中の人々が安心して聖地を訪れることが可能な神聖都市の建設を目指したのです。

一大巡礼地としてのローマの再生は幾多の寺院の修復と寺院と寺院を連結する見通しの良い広い道路網の建設にありました。
さらに、改造プランのポイントは古代ローマ以来の水道の整備とテレベ川に幾つかの橋を新設し、ローマ中の寺院の連結です。
1585年、教皇シクストゥス五世は建築家ドメニコ・フオンターナに建設を依頼します。
委託を受けたフオンタナは後に次のように書いています。
「わが聖なる父は、この都市のひとつのはずれから他のはずれへと、こうした道路を敷設した。そして必然的に交わることになる丘や谷に留意することなく、こちらでは削平し、あちらでは埋め立てて、教皇は丘や谷をなだらかな平原にし、もっとも美しい土地にしたのであった。この都市の最も低いところの光景が、様々な眺望で展開するのである。かくして、宗教的な目的を越えて、こうした美しさは肉体的な感覚の牧場となっている。」

フォンターナが書くこの一筋の街路は現在、実現されています。
ローマの北、その玄関口となるポポロ広場からトリニタ・ディ・モンティ教会を通りピンチョやクィリナリスの丘を削りサンタ・マリア・マジョーレ教会からローマの南東の隅、サンタ・クローチェ聖堂に至るかってフェリーチェ街道と言われた道路です。
現在は自動車交通の基幹道路、深夜まで止むことのないエンジン音とヘッドライトの交錯に明け暮れていますが、かっては緑なす田園の散策路、見渡せば遠く市壁を越え遥か彼方まで、街路は地平線を越えるかのように続いていたのです。(この新設街路の中央にバルベリーニ宮殿が建ちます。)


(viia YouTube by Roma piazza Barberini)

フィレンツェにおける透視画法の発見と大クーポラの完成。ブルネレスキのルネサンス都市フィレンツェにおける偉大なる貢献は、大クーポラの完成により透視画法上の唯一の焦点の存在をトスカーナ全域に示したことにありました。
都市外の城壁の彼方から見通すことの出来る大クーポラは市内のみならず、遥かに広がる田園地帯全域を同一の都市秩序のもとに配列し直おすことに成功したのです。
シクストゥスのローマへの貢献はフィレンツェにおける唯一の焦点を多焦点に拡張したことにあります。
ローマに散在する幾つかの有名寺院を焦点とし、その寺院を幅広で見通しのよい直線道路で相互に連結するという計画手法。
しかし、この手法は遥かに大きいシステムを秘めていました。
多焦点を連結し、都市を秩序づけるシステムは都市内にあっては実感を持って具体的に体験できるだけでなく、都市の外にあっては、同じシステムが延長されれば、全世界がすべて同一システムによって秩序付けられるということをイメージさせるものでもあったのです。
つまり、シクストゥスの都市システムはローマを世界の首都としてイメージさせました。
それも観念としてではなく実在として世界都市を。
ルネサンスとバロックを隔てるもの。
それは唯心、有限的な秩序感を持つ前者に対し、後者は多元的、多焦点を持ち無限をも秩序化するものとして理解されました。
バロックはまさにルネサンスの変奏です。
ブルネレスキの唯一の焦点の発見であった透視画法は、その変奏として多焦点化することによりローマは再び世界の中心に位置づけられるようになりました。
そして、ここに後の時代の都市計画手法としても援用が続く、バロック都市ローマが誕生することになりました。

2009年10月16日金曜日

ピウス二世の理想都市、ピエンツァ

アルベルティ同様ニコラウス五世の学生時代の友人アエネアス・シルヴィウス・ピッコロミーニは1458年にローマ教皇に選出される。ピウス二世を名乗る彼は、ウェルギリウスの「ピウス・アエネアス(敬虔なるアエネアス)を思い起こさせるように詩人であり、人文主義者を任じていた。
ニコラウス五世の亡き後、教皇カリストス三世が引き継ぐが、この教皇も僅か1年、結局ピウス二世がその後の教皇を引き継ぐこととなった。即位したピウス二世は翌年の春、トルコ軍を追い払うための会議に出席するためマントヴァに向かう。その途中、彼の生まれ故郷コルシニャーノの町に立ち寄るが、町はすっかりと寂れきり、その荒廃を深く悲しむ。

ピウス二世のコルシニャーノ帰還にはアルベルティも同行していた。ローマとフィレンツェの中央に位置するこの町は、気候も良く見晴らしもすばらしい、この時の二人にとって、ここはまさに古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスが描く、都市建設の理想の地でそのものと思えた。
ピウス二世は即刻、この郷里を建て直し、都市的な記念碑として再建することを決意する。 シエナの裕福な商家の長男として生まれたピウス二世、彼は父のように商業人としてではなく、神学者、人文主義者としての道を歩む。
シエナで神学をパドヴァで法律をフィレンツェでギリシャ文学を学ぶ彼、フィレンツェではさらに多くの人文学者とも交わっている。

当代一流の人文主義者でもあるこの教皇、しかし、商家の後裔でもある彼は、自身が為すべき事業の実現に対しニコラウス五世に比べ、より現実的であったのかもしれない。
ピウス二世の関心は金のかかりすぎる理想都市ローマの建設ではなく、もっと具体的、現実的な夢の実現、理想都市ピエンツァの建設にあったのだ。
 ピウスの目論見に対しアルベルティが助力しなかったのは不可解とされている。彼こそ都市問題に経験が深い唯一の建築家であるからだ。
すでにローマ元老院に雇われてしまったアルベルティ、ピウスのパートナーを勤める時間が無かったと考えられる。あるいはピウス自らが自分自身のモニュメントを実現したかったのか。
結果からみると、アルベルティがピエンツァの建設に直接関わらなかったのは幸いしている。何故なら、もし二人が同時にピエンツァに関わったら、多分、大喧嘩を繰り返さざる得なかったのではないだろうか。 

各地の王侯貴族とのつき合いも多く、ローマの教皇庁の仕事も忙しかったアルベルティに代わりピウスは別の建築家に理想都市の建設を委託する。
選ばれたのはベルナルド・ロッセリーノ、フィレンツェ以来のアルベルティの助手であり現場監督であった人。
彼は1451年、アルベルティの最初の建築であるパラッツォ・ルーチェライをフィレンツェで完成させた。
ピウスニ世の夢の夢を託されたロッセリーノだが、彼はしかし、ここでもまた助手の立場であったのかもしれない。具体的な建築を実際にイメージし、建設していったのは施主である教皇ピウスニ世その人であったからだ。

シエーナの南方50kmのコルシニャーノの丘、理想都市に相応しい聖堂と宮殿の建設というピウスニ世の夢。わずか5年という短期間ではあったがため、実現されたのは都市全体の一部に過ぎないが、丘を貫く都市の街路とその中央に位置する広場と四つの建築は現在に残され、町の名もコルシニャーノからピウスにちなみピエンツァと改名された。ピエンツァはワインの町。周辺はなだらかな丘陵地帯、丘の上から眺めると美しいトスカーナの自然はまるで大河のうねりのような景観となって迫ってくる。ここはアルカディアあるいはウェルギリウスのゲオルギガ(農耕詩)のような世界。

コルシニャーノの丘を東西に貫く、大きな円弧を描くような街路が走っている。その街路の中央、南側の一角に広場が作られた。正面に司教座教会、左手東側が司教の宮殿、右手がパラッツォ・ピコリーニ、教皇の宮殿です。 特徴的なのは、広場が台形の形で作られていること。街路から眺めると奥の教会側が広くなり、東西ともに正面の教会と宮殿の間からは遠くアミアータ山が望まれる。手前に狭く、後方に広い広場の形態は後のミケランジェロのカンピドリオの広場と同様、正面の建物を舞台背景のように見せる効果がある。透視画法の逆視覚利用により司教座教会をより近くに、より大きく見せる結果となっているのだが、ピウスの広場の台形化の目論見は、教会より背後の自然風景にあるようだ。 

中世以来、都市の広場は内部空間、天井のない宮殿のようなもの、従って自然空間の入る余地なく計画されるのが一般的。しかし、教皇にとっての関心は、ここではむしろ背後の山々、日本的借景の手法を使って自然空間を広場の中に取り込もうとしている。現代では許され、賛美される目論見であろうが、結果からみると当時は、この後方を開いた広場づくりは、本来の都市広場の持つ意味を知らない人の計画とみなされた。それは、ミケランジェロを先取った逆透視画法利用というより、広場の公共性を無視し、私的関心である自然のみの関係を重視した結果の広場づくりであったから。 

自然との関係を重視するピウス二世の目論見は司教座教会の中にも明確に記される。もともとの教会はロマネスク時代のサンタ・マリア教会。小さな広場を持ち、街路に沿った東西方向に建てられていたが、より大きい広場を確保する必要もあり、新しい教会は南北を軸とし南側の崖ぎりぎりまで、なるべく奥まってに建て替えられた。宗教的理由で決められた伝統的な東西軸をあえて南北軸に変えてまで確保したいものは何か。それは彼の回想緑に書かれていることなのだが、教会のアプスからの山々の眺望と輝く太陽の光だった。

現代の建築の施主に似て、ピウスのこだわりは徹底している、しかし、それは当時のフランス・ゴシックとは異なるルネサンス期イタリアの教会の考え方とは鋭く対立するものだった。アルベルティは「建築論」第七書第十二章で以下のように書いている。

「神殿においては窓の開口は控えめに、高い位置になければならない。窓の外は何も見えず、宗教儀式をとり行う人や祈る人たちが、神聖なものから木を逸らさないためである。畏敬の念は陰に刺激され、その気持ちは心中に尊厳の気を高め、また多くの場合暗黒は崇高さを増す。さらに加えて、神殿の中に必要とされる灯は、それ以上に宗教的教化や装飾を神聖にするものはないのであるが、光が多すぎては灯の力を失う。」(アルベルティの建築論p619)

 一見、人文主義者が好む古代風のファサードを持つこの司教座教会だが、基本原理に対する真の認識と理解を持つ人々にとっては、その外観のペディメントやアーチ、あるいは円柱も彫像のための半円形のニッチも全て単なる装飾にすぎないようだ。建築的、構築的使用方法をわきまえず、単に古代モチーフで装飾した外観はもちろん、意味内容を無くした内観を持つこの建築は当時の識者にとって、決して評判はよくない。人文主義者とは言え、ピウスは建築的人間と言うより文学的人間だったのだ。

建築家が追い求めた基本原理と鋭く対立してまで、施主であるピウスが徹底して追い求めたもの、それはどこまでも自然や眺望そして居心地の良い光であった。古典的モチーフを装飾としてしか使用しない現在では、簡単に容認されかつ賛美されるかもしれない。しかし、ピウスの建築に対する批判は、ピウスの持つ私的な喜びは、公共的相貌には適しないというのが、その根拠となっている。

 公共的相貌という視点では広場の右手、ピッコロリーニ宮殿はどう理解すべきであろうか。都市の基本的構成要素であるパラッツォの外観は広場や都市のデザインに帰すべきもので、私的領域は中庭内で処理するというのが当時の原則。さらにその外観は三層の積み重ねで構成し、階を切り分ける力強いコーニスの水平線が都市にパースペクティブを与える同時に、建築を壮大に見せかつ、都市の建築を一体的に連結すると考えられている。その観点から見る限り、この小さすぎる広場に作られたこの三層のパラッツォはなんとも不適格だ。フィレンツェのアルベルティのルーチェライ宮殿を酷似させたが故に、かえってその特徴ある外観も意味を失い、公共的役割はおろか、古典の理想とも程遠い、単なる私的遊興物となってしまった。 アルベルティは建築書第四書に次のように書く。

「都市は領地の中央に位置すべきである。そこから自領境界まで見通し、攻撃される弱点を判断し、必要に応じ、機を失することなく便宜の措置をとる必要がある。またそこから農業管理人と農夫とは度々仕事に出てゆき、耕地からは車に満載した重い果実や収穫を持ち帰ることが出来る。・・・・また山上に都市を置くとき、創設者たちはおそらく、そこが他より防御しやすいと判断したと思う。しかし、水に困る。平地では河と水の便では勝るであろう。しかし同様に、空気は重苦しいことが予想され、夏は蒸されるようであり、冬は厳しく凍りつき、さらに殺到する敵に対して堅固さでは劣る。海岸は・・・・すなわち、君がどこに都市を置こうと、その利点のすべてを確保し、欠点をなくすように企画せねばならない。そして山では平坦な部分を、平地では丘の部分を獲得して、そこに都市を設けたい。」(アルベルティの建築論p101)

そしてまたアルベルティの言う湾曲した道路もこのコルシニャーノの丘を貫いている。アルベルティの理想都市は全てこのピエンツァにあてはまるのだ。彼の論調はいくぶん仰々しいかもしれないが、中世的ものすべて退けているわけでない、と同時に理想論だけから都市を見ているわけではない。

一方、ピエンツァもまた、いささか健全とは言い難い広場と建築群が建設されたとは言え、そこは決して従来の絵画的・有機的な中世の趣が失われた訳ではもなければ、ルネサンス的趣きも醸成した。従って、ここもまた「建築論」という台本に基づく「オペラ」の上演。この都市の建設はピウスの死により未完のまま終結する。そして、再び以前の寂れるままの町に戻った。しかし結果的には、そこは以前と同様今日に至るまで、農民たちの拠り所であり集散地に他ならない。それが為、数世紀にわたる時代の変革にはさらされることなく、ピウスの理想都市は今日まで保持され続けた。惜しむらくは建築家ベルナルド・ロッセリーノ、彼はピウスの死により職を失うばかりか、シエナの人々からは多大な費用を使ったということで非難され、ピウスの後を追うように、同年の1464年失意の内に世を去った。

2009年10月15日木曜日

ニコラウス五世のローマ再建

ディレッタント建築家であったアルベルティ、彼のユニークな聖堂のその後の直接的影響を見つけ出すことは難しい。建築家であるというより文学者に近いアルベルティは数多くの計画案は作ったが、実際の建築の指揮を執ることが少なかったことが関係している。アルベルティは実際の建築より彼自身の「建築論」によって後世に大きな影響を及ぼしたのだ。ここからはアルベルテイと関わった二人の教皇について話を進める。「建築論」に基づき現実の都市の再建を実施した十五世紀のローマ教皇、 ニコラウス五世とピウス二世。

アルベルティのパドヴァの学生時代の友人がローマ教皇になった。ニコラウス五世(1417年〜1431年)、最初の人文主義の教皇と呼ばれている。ヴァティカン図書館を創設したことからもわかることだが、書籍や建築の持つ意味を知っているこの教皇にとっては、動揺を重ね弱体化した法王庁の権威を再び確固たるものにするために、ローマの都市整備を行い、秩序を取り戻すことが使命となっていた。

アビニオンの幽囚(1309年)以来、百年に渡る長きの間、教皇が不在であったローマは荒廃に荒廃を重ね、猫と盗賊の町となっていた。「年輪を重ねた威厳を備えてはいるが、灰色の髪を振り乱し、引き裂かれた服を身に着けた婦人がいる。その顔は蒼白で、苦渋に満ちている」(建築全史p854)と、荒廃した十五世紀の都市ローマは老婦人に見立てられ、ペトラルカによって歌われた。

 ニコラウス五世のローマ再建の使命にはアルベルティの協力が不可決であった。1452年にニコラウス五世に献呈された「建築論」は理想都市ローマの手引きともなるもの。二人は、すでに多くの人が目を向けはじめていた古代ローマのモニュメントと教会を結びつけ、文化の最先端を示すローマをイメージさせるような、理想的な神の都の計画に取り組んだ。

その計画には三つの局面がある。一つは古い教会の増改築とローマ全体の要塞化。二つめは図書館や古代風劇場、さらにフィレンツェで始められた整形庭園の設置すること。第三はサン・ピエトロ大聖堂とローマ時代のハドリアヌスの廟墓を要塞化し、その周辺のボルゴ地区と呼ばれる中世以来の集落を教皇庁のお膝もとに相応しい地区として再開発することにあった。 

やがて、廟墓は城塞化されサンタンジェロ城に、パンテオンは教会に、カンピドリオは支庁舎に変わっていくが、ニコラウス五世時代の教皇庁は政治力も経済力もまだまだ不十分。ルネサンス最初の理想都市ローマはその計画をほとんど実施することなくこの教皇の死によって中座した。

しかし、この基本案が、その後のローマ都市改造に関わる多くの教皇と建築家たちに、大きな影響を及ぼしたことは事実。ニコラウス五世から二百年、ローマは着々と整備され、やがて十七世紀半ば、バロック都市ローマとしての完成する。そしてさらに二百年、その後バロック都市ローマに様々な歴史と人間文化が重層され、現在この都市は世界に比類ない世界都市として多くの人々に愛されている。その全ての原点は、この教皇とアルベルティの建築論が基礎となったのです。 

ブルネレスキにブラマンテにミケランジェロ、彫刻家兼建築家としてルネサンスを飾る有名建築家の数は限りない、しかし、アルベルティのように現在にまで、その影響を及ぼし続けた建築家は少ない。ディレタント建築家という存在は勿論のこと、実作の少ないアルベルティ、現在ではなじみ薄の存在となってしまった。しかし、彼の果たした意義と役割の大きさを省みると、ルネサンスという特定の時代のみが必要とした建築家では決してなかった。カステリョーネが「宮廷人」に描いたような、貴紳ある宮廷人としての素養と責務に溢れ、果てしない論理とイメージを持ち続けた建築家はアルベルティの他にいなかったこともまた事実なのだ。

2009年10月13日火曜日

オペラ・トスカの三つの建築

プッチーニのオペラ・トスカは陰惨・迫力を持つ作品だが、当時流行の現実主義オペラ(ヴェリズモ・オペラ)として有名。
その物語は徹底したリアリズムによるオペラとして大成功をおさめている。
ヴェリズモで表現されたのは物語だけではない。
1800年のナポレオンのローマ侵攻のある1日の出来事であり、現在もそのまま使われているローマの三つの有名な建築が、その物語の舞台として登場する。
さらにその実際の建築から建築へと移動する時間経過もオペラの中に正確に取り込まれている。

登場する三つの建築、第一幕はサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会。
決して大きくない教会だが、初期バロック教会の全てが、そのままいまに残されている貴重な建築。
サン・ピエトロ大聖堂のファサードのデザイナーとして有名なカルロ・マデルノの設計。
第二幕はローマの壮麗な宮殿の一つパラッツォ・ファルネーゼ。
ダ・サンガロ、ミケランジェロ、ジャコモ・ポルタという建築家がファルネーゼ家の依頼に基づき、長期にわたって作り続けた著名な建築。
第三幕はハドリアヌス皇帝の廟墓として2世紀に建設され、その後法王庁を守る城になり、さらに18世紀にはオペラと同様、多くの政治犯の牢獄として使われたサンタンジェロ城。

このオペラのウ゛ェリズモ(現実性)についてのこだわりを、もう一つ付け加えておこう。
それは、オペラの序曲から終曲までをほぼ一日のドラマとして正確に作り上げていること。
昼食の籠を運ぶ神父の歌、子供たちの歌うテ・ディウム、朝寝坊の歌姫の到来、宮殿での夜の歌会、夜明けの羊飼い少年の歌声、明け方を告げるサンピエトロ大聖堂の鐘の音(プッチーニーはこの鐘の時間と音を正確にオペラの中に仕込んでいます)そして終幕でのカウ゛ァラドッシの悲嘆な叫び「星も光りぬ」。
特に面白いのは、羊飼いの少年の歌、この場面はオペラの進行に全く関係ないが、とても美しい音楽で一度聞くと忘れられない。(省かれて上演されることもあるようです。)
プッチーニがこのオペラを作った1900年、その頃のローマには朝早く、羊を追う少年たちの姿が所々で見られたそうだ。

2009年10月2日金曜日

テルミドールを描く「カルメル会修道女の対話 」


初台の中劇場で初めてカルメル会修道女の対話を聴いた。音楽はプーランク。
音楽・建築を学ぶものにとって1750年前後のヨーロッパ研究は不可欠、と言うのがボクの持論。
明治以降、様々なヨーロッパを見てきたが、不十分なのが彼らの神そしてコスモロジーの崩壊、彼らの言う人間の自由と自律、そしてカントだ。
つまり、ヨーロッパの観念あるいは形而上学を理解出来ていない。

プーランクの最後のオペラは素晴らしい音楽。
ドラマは1794年のテルミドール。
今日の観劇はヨーロッパの核心に触れるチャンスでもあった。
丁寧にドラマの進行に貢献する音楽は間違いなく第一級の現代オペラ。
ドラマはギリシャ以来のヨーロッパの観念の死、現実のみを生きざるを得ない、人間の悲しみをリアリスティックに描いている。

オペラが終われば若い研修生達の熱演に拍手喝采。涙を拭い、胸に残されたもの、それは消えることない、人間が人間として生きるがゆえの寂寥感。
ほんの少しだけ、ヨーロッパの基底が理解出来たような気がした。

2009年10月1日木曜日

プロフィール/加藤宏之/かとうひろゆき


東京生まれ、東京在住

東京理科大学工学部建築学科卒業

一級建築士       登録 NO.75325

インテリア・プランナー 登録 NO.00649

日本建築家協会会員・日本建築学会会員・日本民俗建築学会会員 ・日本経営開発企業団専門委員・日本林業経営者協会需要開拓委員会顧問・国立音楽大学非常勤講師

主な執筆

月刊誌-建築文化 / 滝原の家・引本幼稚園 他

季刊誌-ディテール / 江古田の家 他

月刊誌-モダンリビング / 那須の別荘郡 他

月刊誌-ハウス&ホーム / 片瀬山の家、榛名の家、宇佐見の家 他

月刊誌-東芝 / ひかりの計画・あかりの計画 軽井沢ショッピングセンターとレッドロブスター 他

季刊誌-アジアフォーラム / 竹の建築誌 他

月刊誌-オンザライン / 水の上のショッピングセンター 他

月刊誌-Mr. & Mrs. / 水の街のアンソロジー・風の建築誌 他

月刊誌-建築・デザイン-AT / 書評欄隔月担当

民俗建築(学会誌)    /  シンポジウム記録投稿

月刊誌ーエクスナレッジ  / ガウディ・オペラ

書籍ー集住の知恵     / 共同執筆 (2005年7月)

書籍ー建築家の言葉    / 共同執筆 (2010年10月)

書籍ーふしぎな国のガウディ/ 共同執筆 (2011年7月)

書籍ー音楽と建築、そのデザイン     (2013年10月)