2009年12月30日水曜日

「凍れる音楽」孝

ヨーロッパ中世、教会の中で一体であった音楽と建築は、15世紀イタリアでは、音楽は耳で聴くもの、建築は目で見るもの、つまり、別々の役割を持ち、神の世界の顕現に貢献するものとなっていました。しかし、明確な分離を意識することなく18世紀を迎えたアルプスの北、ドイツでは民族意識の高揚をきっかけとしてゴシック建築の見直しと礼賛が盛んとなります。ルネサンス・バロックというヨーロッパの音楽や建築の主調がまだイタリアに重心がおかれ、当時野蛮な様式と見なされていたゴシック建築を後にドイツ・ロマン派と呼ばれる人々が、この建築こそ我々の精神の崇高な体現として評価したのです。

18世紀中頃、音楽はソナタ形式の隆盛に伴い、イタリア中心のバロック・オペラによる静止画的世界から器楽的・動画的世界へ、不連続な継起的ドラマから連続的体感の世界へと変化していきます。この連続的高揚こそアルプスの北の人々を支える美学。ゴシック建築とソナタ形式の音楽は相和し、美学におけるドイツ・ロマン、後の「凍れる音楽」を体現させる装置となったです。「凍れる音楽」はイタリア・ルネサンスを凌駕するドイツ的意識の広がりを証拠だてる有効な説明言語、その筆頭はフリードリッヒ・シェリングと言われています。芸術は人間の最高の精神的所産かつ生産活動と位置づけ、彼は「彫塑における無機的芸術形式すなわち音楽は、建築である」あるいは建築を「空間における音楽 Musik in Raume」と「芸術哲学」に書いたのです。シェリングの義兄弟でもあり、友人のフリートリッヒ・シュレーゲルは「建築は凍れる音楽 gefrorene Musik なり」と語っています。やがて、「凍れる音楽」はゲーテ、ヘーゲルを始め多くの人々に愛用され、文学・音楽・美術・建築のロマン主義を象徴する言葉となって行くの周知の通りです。

ボクにとって最も興味深いのは「ドイツの建築術について」(1773年)から始まるゲーテの建築論です。この書は若きゲーテがシュトラスブルグ大聖堂について論じたもの。当時ヴィンケルマンの古代美術史によりギリシャ美術に傾倒していたはずのゲーテでしたが、彼は大学生活を通じ身近に体験したゴシックの大聖堂を賛美して止まず、この書を書き上げました。
「大聖堂の眺めはなんという思いがけない感じで私を襲ったことか。これまで私の頭は良き趣味についての通念で埋まっていたのだ。聞き伝えによってマッスの調和とか、形式の純粋とかをあがめ、ゴシック的粉飾の恣意に対する断固たる敵になっていたのだ。辞典の見出し語でも説明するように、ゴシック風という語のもとに、私は不確定、無秩序、不自然、かき集め、つぎはぎ、飾り過ぎ等々、脳裏をかすめたありとあらゆる生半可な同義語を積みあげていたのだ。それは外部の世界をみな野蛮呼ばわりしている民族よりも愚かしく、自分の体系に適合せぬものをすべてゴシックと呼んでいたのだ。・・・・ところがどうだろうこの大伽藍は互いに調和している。無数の細部から成り立っているので味わいを享受することはできるが、けっして認識したり説明したりすることの出来ぬ建物だ。」

ゲーテの熱い感情が手に取れるようです。彼は教室であるいは書物で得ていた古典主義をかなぐり捨て、理知を超えたシュトラスブルグの魅力にうち震えたのです。
そんな、若きゲーテですが、このようなゴシック賛美は「イタリア紀行」と相前後して急に消えてしまいます。
「ドイツの建築術について」から10年あまり後、ワイマール宰相の地位にあった彼は突然、逃げるようにブレンナー峠を越え、檸檬の花咲く、パッラーディオのラ・ロトンダ(ミニョンの館)を訪れています。
紀行は「我もまたアルカディアに」と裏表紙の言葉に示されるようにイタリア古典主義の経験と考察、1786年から1788年の記録が元となった有名な書です。

晩年まで改訂に改訂を重ね、文学者ゲーテの原点といわれる「イタリア紀行」は仰ぎ見るゴシックを振り払った北の国の感性が初めて触れるアルカディア、ルネサンスとは異なる、古代ローマを体得した旅行記と言えましょう。(ゲーテはフィレンツェは訪れなかった)そして、この紀行からドイツに戻ったゲーテは1788年、再び「ドイツの建築術について」を書きました。
それはギリシャ建築を主題とし、古典建築研究の成果示す内容です。さらに1895年には「建築術」と題する手記により、イタリアでの体現を総括し、古典主義礼賛の芸術論を上梓します。つまり、若き血が燃えるゴシック礼賛から、理知的古典主義文学者へと変貌した詩人ゲーテの誕生です。しかし、そんなゲーテは晩年、再びゴシックへとその関心は回帰するのです。
人間ゲーテの大きさはその変容の中にこそ見るべきかもしれません。それは「ドイツの建築術について1823年」に記されています。
「私が後にシュトラスブルグやケルン、そしてフライブルグの芸術を見失い、そのうえ、それよりも発達した芸術(古典古代の芸術)に心を惹かれて、それらをまったく捨て去ってしまったことについては、自分を責めぬわけにはゆかぬ」。

ゲーテはゴシック主義と古典主義の両面に挟まれつづけ、ドイツについて、文学について、建築について、芸術について考え続けた人、だからこそ偉大なる詩人と呼べるのです。そして、生み出されたものはドイツ民族のためだけのロマン主義ではなく、全ての人間のためのロマン主義であった、と考えて良いのではないでしょうか。
ゴシックはドイツ・ロマン主義に直結しています。また「凍れる音楽」は「ドイツ・ロマン主義の常套句」と考えて良い事柄です。
しかし、その後、ロマン主義はイギリスに引き継がれ、「ピクチャレスク」にまで応用されるとある種の古典主義と結びついていきます。ゲーテには「凍れる音楽」という直接的言辞はありませんが、この言葉がゲーテの言葉として広まったのは、ゲーテの生涯にわたる建築論がゴシックと古典主義の狭間に立つ、一民族ではなく世界に通低するロマン主義の表明となっていたからに違いありません。

「凍れる音楽」は感覚的に理解しやすい言説ですが、どこまでも反アカデミズムのなせる技であったことは重要です。
建築という分野では、ロマン主義が主流になったことはありません、そしてまた「凍れる音楽」が建築側から語られることもほとんどなかったことです。
そんな観点に立って考えてみると、20世紀に入り、多くの建築家が音楽との関係を語り始めたことは大変興味深いことです。
アールヌーボ以降新しい建築を模索したのは皆、反アカデミズムの人たちです。ヨーロッパ世紀末は反アカデミズム(クリムトやオットー・ワーグナー)の活動が主因となり活動が始まっています。こんな100年前の建築状況を思い出しますと、現在もまた新たな「凍れる音楽」を論じる時代ではないかと考えてしまいます。
それは機械主義・情報主義・環境主義を超克し、新たな人間のエティカ(美学)に通低する新しい建築を必要とする時代だからです。

2009年12月22日火曜日

ロマネスク建築と音楽

ロマネスク期イタリア半島の聖堂は木造小屋組による天井構成とバジリカ式(長方形)平面という単純な形式。 石造のヴォールト天井は古代ローマ時代の技術、当然、イタリア半島の聖堂で普及してしかるべき建築。 しかし、その形式はイタリア半島ではなく、もともと石造建築には不慣れであったアルプスの北の人々が採用している。(ロマネスクはローマ風という意味、イタリア人ではなく、北の人々が石造建築をロマネスクと呼んだようだ) 彼らは 作り慣れた木造ではなく、あえて石造で天井をヴォールトで建設しようとする真意は一体どこのあったのかだろうか。 確かに、火災にも強く、より堅牢な耐久性のある聖堂を求めたことは理解できる。 しかし、それだけが不慣れな石造天井を必要とした理由では無い。 北の人々が新しい聖堂に求めたこと、それは石造であることから生まれる音の反響と残響にあったようだ。 つまり、彼らにとって聖堂は音の空間、音楽重視の聖堂と言って良い。

一方、イタリア半島は視覚の空間。イタリア人にとっては音以上に、祭壇に向かって集中する視線のパースペクティブこそ聖堂にはもっとも重要なものと考えていた。 北の人々が好んだ音の反響とは後世で言えば和声のこと。 単声歌あるいはユニゾンを音楽とする半島の人々と早くから和声あるいは音の協和に関心を示す北の人々。 イタリアとフランスの音楽の特性はすでにこのロマネスク期の建築に明解に示されていたと考えて良い。 付け加えると、古代ギリシャ人にとっての音の調和は継起的なもの、複数の音が同時に鳴る和声とは全く異なるもの。 何人かの演奏者が同時的に奏でる形態はこのフランスロマネスク以降の中世的発想と言って良い。 そして、さらに中世以降、多声音楽を一般化したフランドルのポリフォニーに対し、ルネサンス以降、イタリアでは多声であるがホモフォニーに拘り、やがてオペラの基となるモノディー(単旋律の歌唱声部を低声部と和音の伴奏で支える独唱歌曲)を生み出す

2009年12月21日月曜日

ロマネスクの建築家は音楽家

聴覚的建築の時代

音楽的典礼のために、重い石のヴォールト天井を構築しなければならなかったロマネスク建築家たち。かれら建築家は斜めの力や全体の力の均衡を考慮しながら柱壁を構築しなければならず、音楽のための空間をつくるために、音楽に似た力の流れを意識しながら、音楽の手法によって建築を構成していった音楽家たちと目される。聴覚的建築時代の建築家とは音楽家のこと、つまり、修道士たちのことだ。

透視画法を体験していたロマネスクの修道士たち

同じ大きさのものも、遠くへ置けば近くでよりは小さく見えるという事実は、ロマネスク教会の列柱で構成された身廊を生活空間とした修道士たちにとっては、あたりまえの世界であっただろう。ルネサンスの建築家の発見と言われる透視画法はロマネスクの修道士にはすでに毎日、体験されていた。

計量化された時間を知っていた音楽家たち

時の流れや刻々と変わる時そのものが、一日毎の同じ時刻、一年毎の同じ時期と周期的に流れていることは大昔から理解されていたが、その流れが一様であり、計測できるものであり、空間と、あるいは他の一切のものとは連動せず、独立して流れているものであると気がついたのは、ロマネスク期の音楽家たちであった。(時間と空間の誕生・ゲーザ・サモシ)

音楽は中世の七つの自由学科の一つ 

ー>数を扱う四科=算術、幾何学、天文学、音楽

ー>数と音の関係、協和音程の数学的関係

ー>数にこだわる作曲、一種の数あわせは17世紀までのバロック時代までの特徴
=バッハにも数多く見られるのは周知のこと

 

 

2009年12月20日日曜日

ル・トロネ修道院

 
 ロマネスク建築の時代(10世紀〜12世紀)、教会堂の設計およびその建設の指揮に関わる人はまたその堂内に響く音楽に携わる人でもあった。建築と音楽の担い手はその教会堂の聖職者であり、修道士という人々です。

音楽と建築は各々別々に専門家がいたわけではない。聖職者たちが宗教的メッセージと儀式(グレゴリアンチャント)を音楽化し建築化することでロマネスク聖堂を生み出してきたと考えて良いのではないだろうか。

シトー会のル・トロネ修道院(フランス・プロバンス)は、コルビジェをはじめ近代の多くの建築家を魅了し、その建築記録が小説「粗い石」としてフェルナン・プイヨンによって顕されている。この修道院こそ音楽が建築化された代表的建築と言える。

何故なら、怪奇幻想ユーモアと様々な表象をもったロマネスク彫刻によって彩られるのが流行であった12世紀初頭というこの建築の建設期にあって、ル・トロネはあえて視覚による一切の象徴表現を退け、光と音による神域表現に終始しているからです。そんな建築が示すシンプルなかたちと素材による表現。それはモダニズムの建築家が探していた形態です。

「ヨーロッパ芸術文化と音楽」の中で原田玲子さんはグレゴリアンチャントをつぎのように説明しています。
「グレゴリアンチャントは和声も楽器の伴奏もない単声音楽として生まれたものである。したがって豊かな旋律の構成と表現のためには、リズムがどうしても集中的な要件となってくる。そして、世俗的なものへの志向をできるだけひきとめる厳粛な静けさ、ただ官能的にのみ走る美しさを抑制しようとする繊細な均衡のある調和、いたずらに情感を沸き立たせることのない気高い旋律、これらの特性は、たしかにロマネスクの建築とも見合っているであろう。」



(via YouTube by mollro4 : the Cistercian Abbey of Le Thorone )

2009年12月19日土曜日

クリュニー修道院

中世キリスト教社会をリードしたのは、必ずしもカソリックの総本山ローマではなく、ヨーロッパ全域に広がった修道院でありました。
事実、ローマでかたち作られたと言われるグレゴリアチャント(聖歌)は、今日私たちが耳にするものとは異なり、もっと素朴な旋律を持っていたといわれています。
現在のグレゴリアチャントはアルプス以北のクリュニー支配下の地域で歌われていたもので、それが私たちの手元に譜面となって残されたと考えられているのです。

聖歌はクリュニーの典礼改革の大きな柱となっていました。
このクリュニーはスイスに花開いたザンクト・ガレンのユートピア(初期キリスト教社会の修道院)とは異なり典礼を重視していた修道会です。
遁世思想に裏付けら、勤労に奉仕し清貧に生きることが重要だったのではなく、不安な時代、貧民救済と典礼を重視し、多くの人の心をキリスト教世界に結びつけることが必要であったのです。
このような礼拝重視のクリュニーにとって最も重要であったことは祈りのための音楽と建築であったということはご理解いただけるかと思います。

クリュニー修道院付属教堂を作ったのはグンゾ、かれはもともと典礼音楽に関わる聖職者として良く知られた人です。
中世において音楽に意をつくすことは、建築を重視することでもありました。音楽家グンゾが建築の設計者であることは不思議なことではありません。
音楽と建築を支えるものはギリシャ以来、数による秩序です。ピタゴラス音階による完全8度、完全5度、完全4度の音の協和は1対2、2対3、3対4という比例関係を持っています。
つまり、近世以前、音楽は数学でもあったのです。
中世のアウグスティヌスは、この比例原理は建築を含め視覚芸術すべてに当てはまるものであり、この音楽から導かれた数が宇宙の秩序、そしてすべての安定の根源であるとみなしました。
フランス革命によって壊滅したクリュニー修道院ですが、ケネス・コナントは忠実な復元図を作成しました。
そして彼は建築のみならず、彫刻さえもその構造と構成において音楽に導かれた幾何学によって作られていたことを証明しました。
クリュニーの修道士がいかに楽音に関心を寄せていたか、その証が旧修道院の内陣の柱頭彫刻に記されています。
彼らはグレゴリアンチャントの8つの楽音を重要な柱の柱頭飾に用いたのです。
それもアーモンド型のメダイヨンの中という、ロマネスク彫刻のセオリーから離れた特殊な空間の中にです。

リュートを弾き、シンバルや鈴を鳴らす人々とともにあるこの内陣は、彼らにとって天国そのものに置き換えられていたと考えて良いと思います。
幸い、その柱頭彫刻の幾つかはフランス革命による壊滅を免れ、オシエ美術館に残されています。
この美術館にはキリスト教にとって最も重要な第三音、「プサルテリウムを弾く男」が保存されているのです。
第3音はキリストを受難へと押しやり、復活をなすことの象徴であり、まさに人類の救済のテーマにほかなりません。




gregorian chant
This is part of the Responsory Benedicamus Patrem, for the feast of the Holy Trinity. As sung from late fifteenth century Antiphonary B-Gu15.
This is from the cd 'Etienne de Liège - In festo sanctissimae Trinitatis' RIC 249. Buy the cd at www.ricercar.be - other discs available as well. Check it out!
Chant group Psallentes was founded and is directed by Hendrik Vanden Abeele. The group particularly focuses on late medieval chant.
www.psallentes.be
(via YouTube by quijote347)

2009年12月18日金曜日

音楽から始まったキリスト教建築

偶像が拒否されていた初期キリスト教時代、礼拝に参加することが許されたのは、建築や絵画・彫刻ではなく音楽です。
当初の教会は雨風をしのぐ粗末な小屋や、ありきたりの民家さえあれば充分でした。
そこで必要だったものは音楽、ミサ典礼という音楽によってのみ、キリスト教が示す神の国を現出していたのです。
キリスト教典礼は徐々に初期中世の人々(ゲルマン人)の日常生活にしっかりと組み込まれて行きます。
そして、人々はミサのための恒久施設を必要とするようになり、教会堂建設が始まりました。

ローマ時代が誇った数々の建築群は敬虔なキリスト教徒にとっては異教であり、不必要な存在です。
従って、ゲルマンの人々は当初、自分たちの持っている技術、木造で教会堂を作り始めます。
しかし、堅固で永遠の神の館、神の国を視覚化するには、木造より耐久性の優れた石の建築が必要です。
堅固な建築なら天井は木材でも良かったのですが、教会堂は石の天井。
ローマの建築にある重い石のトンネルヴォールトや交差ヴォールトの建築にする必要は何処にあったのでしょうか。

彼らが必要としたのは堅固で恒久的という強度的理由だけではありません。
ゲルマンの人々の石へのこだわりは音響効果です。
ドームはその形状によって天空を象徴してはおりますが、そのドームが石造で作られたことから生れた反響と残響こそが不可欠だったのです。
石の天井の反響によって、教会堂の内部空間に響く単旋律の歌声は悪戯に情感を高めることがなく、厳粛な静けさと繊細な均衡を持った気高い旋律に変化し、その歌声が持続的な音に満たされた神の国を現出し始めていきます。

カロリング期に入り、様々な地域は見よう見まねで、石造の教会堂をつくり、建築史の中では最も多様な様式を持つロマネスク時代を迎えます。
音楽からはじまったキリスト教的芸術感は当然、建築にも反映されました。
つまり、異教ローマ建築をそのまま引き継ぐのではなく、グレゴリアンチャントの視覚化が教会堂の使命です。

教会堂の内部空間を体験してみましょう。
身廊のアーケード(アーチの連続)がゆったりとしたリズムを刻みます。
その上のトリフォリウムはアーケードの倍音を構成します。
トリフォリウムのアーチから静かに差し込まれた光は身廊の床に反響し柱の旋律に絡まります。
重力と空間全体を支える質量を持った石の厚み、その厚みが織り成す柱のリズム、
それらはすべて聞く人の内面に響くグレゴリアンチャントの体験とまったく同質であると理解されるでしょう。

音楽と建築とのあまりにもぴったりとした照応、この時代はまた音楽において、
モノフォニーからポリフォニーへの展開の時期でもあったのですが、
その音楽の展開に誘導されるようにロマネスクの空間もまた多種多様な展開を遂げてゆきます。
つまりロマネスクは芸術史上唯一、建築と音楽の融合の時代であったと言えるのです。



(Gregorian Chant (Advocatam) Llibre Vermell de Montserrat from quijote347 on YouTube)

ザンクト・ガレン修道院の理想平面

 

 中世ヨーロッパの人々が現実的世界から目を背けることなく、真摯に俗世と関われるようになったのは、修道院が各地に誕生したからだということのようです。
人々は聖なるをものを求める道を修道院にまかせ、俗人は俗世に生きるという道を徹底することが可能となったから、との説明です。
物理的のみならず精神的にも人が生きると言うことは、確かに、自分以外の自分をいつも持っていなければ落ち着かない、わかるような気がします。経験的に神を信じたことはありませんが。

7世紀のはじめ、アイルランドの聖ガルスがスイスの東北シャルナッハの渓谷に住み着き、多くの人々の祈りを集めて行きました。
やがて、そこは人々の心の安息所であるばかりかザンクト・ガレン修道院と呼ばれ、様々な中世文化の花を咲かせることとなります。
修道院は決して俗世と無縁であったわけではありません。
聖職者たちもまた土地所有者となり農民を抱え、国王とも交渉し政治にも関わります。
中世社会における修道院は祈祷の場であるばかりでなく、大学であり研究所、病院であり、農業開発センター、そして裁判所という役割を担っていました。

加えて重要なことなのですがザンクト・ガレンは9世紀以降の貴重な書物の図書館でもあったことです。多くの僧侶たちが写本の筆写に訪れた所、筆写に訪れるということはまた沢山の写本が集まる所でもあるからです。
そんなザンクトガレンであったから、理想都市としての修道院の平面図が残されています。
修道院は聖と俗がせめぎあう場でもあったのですから、人間の理念と現実はいつも明解である必要があります。

多くの写本を制作したザンクト・ガレンは絵画史の幕開けの場所でもあります。
そしてもっとも重要なことは、ヨーロッパ音楽の原点ともいえる記譜法成立の中心地、グレゴリオ聖歌に多声音(ポリフォニー)を持ち込む試みがなされたところです。
ポリフォニックな音の広がりはヨーロッパ独自のオーケストラの原点ですが、聖なるものを讃えるための音楽が、聖なるものを表現し、聖なる力を広める役割へと転化するのは、ここザンクト・ガレンにおいてです。

修道士たちは毎日毎日、夜明けから深夜に至るまで一日八回の聖務日課(定時化された勤行)とミサ典礼(最後の晩餐を再現した典礼)を行いました。
その内容は聖書朗読と祈り、そして聖歌ですが、歌を伴わない祈りはあり得ません、福音書朗読さえも、ある特定の音の高さを持って歌われるのです。
典礼のための福音書や聖歌集、それは聖具として神に捧げられたものですが、9世紀の写本の中に朗読する為の記号が書きこまれました。
ネウマという音符の登場です。
口頭伝承から楽譜記載による伝承へ、聖歌を統一化しようという動きが伝承形態を変化させ、やがて音楽そのものを大きく変える道を開くのです。

写本であっても聖具であることには変わりありません。
聖具に人為が関わることは許されないことですが、しかし記号の書き込みが許された聖歌集には、新たな歌詞や旋律の挿入も許されました。
トロープスと呼ばれる装飾部分です。
この挿入部分は作曲することの契機です。
神からの授かりものであった音楽が人間的行為の結果としての音楽となる経緯となるのがトロープスです。

ザンクト・ガレンの写本の中に記されたネウマとトロープス、それは楽譜の成立と作曲の誕生を促すものです。
ネウマとトロープスは単旋律の音の流れを幾条もの重なりをもった複雑な音楽に変えるばかりか、時間の経過とともに消えてしまう音楽では果たすことができなかった、全体を見渡し思考するという場をも音楽に与えたのです。
つまり音楽はここザンクト・ガレンで建築と同様、空間性を獲得したことにより、作曲という行為が認められ、後に数多くの音楽家・作曲家が誕生することとなるのです。




(Convent of St. Gall from UNESCOVideos on YouTube)

2009年12月7日月曜日

ドローラ・サジックの「アムネリス」

「明日はあなたかもしれない!」アイーダは間違いなく悲劇だ。大半のオペラはタイトロールの死によってドラマが終わる。しかし、悲しい、涙を誘う劇が全て悲劇というわけではない。ドン・ジョバンニは喜劇なのだから。「人事だけでは、如何ともし難い、人間の有り様、運命を画くのが悲劇」、と読んだ事がある。シェークスピア以降、近代劇では特定の人間が画かれるが、古代劇では類型としての人間が問題であって、ギリシャ悲劇は「人間とは何か」が画かれていると言うのだ。つまり、「ロミオとジュリエット」はロミオとジュリエットの悲劇であって、あなたの悲劇ではない。しかし、「アイーダ」は社会に生きる人間(エチオビアの王女)の悲劇であって、アイーダだけの悲劇ではない。社会に生きる人間であるがゆえに、誰もが陥るであろう悲劇、これが古代劇の悲劇であり、あなたの悲劇。それが冒頭の歌、「明日はあなたかもしれない!」に表れている。
しかし、オペラは第三幕からガラッと変わる。ここからは「アイーダ」ではなく、「アムネリス」が主役、彼女の悲劇であり、オペラなのだ。ラダメスを恋い焦がれるが、彼に愛されることもなく、身悶えし乍ら彼の生を嘆願する。その歌声はオペラの中でも最も美しく、どこまでも哀しい。しかし、この悲劇はいつの時代の誰もが体験し、理解出来るものだが、この恋、そして悲劇は個人アムネリスのものであって、あなたのものではない。
今日のオペラはそんなアムネリスが圧巻だ。もともと、メゾ・フェチに近いボクにとって、ドローラ・サジックの歌には泣かされた。前ニ幕のスペクタクルな舞台は今や、メトでしか味わえない楽しみだが、三幕のアムネリスの報われぬ恋と恋人を失う悲劇はザジックだけが表現可能な世界かもしれない。愛する娘を失ったヴェルディは、その娘への父親である自分自身の想いをバリトンに託し、幾つかのオペラで歌わせているが、最後のオペラに近い「アイーダ」では、娘自身の悲しみをアムネリスに歌わせたに違いない。

2009年11月27日金曜日

パレルモのクアットロ・カンティ

ミケランジェロはカンピドリオ広場を、舞台の中の演劇的空間としてデザインした。その結果、観客である我々に舞台上の俳優のような体験を提供し、都市広場は劇場空間であることを教えてくれた。
それからほぼ90年後、都市がその内部に劇場を再現した都市が作られた。
シチリア・パレルモのクアットロ・カンティ。

ここでは都市なかの十字路に建つ四つの建築の全てが四十五度に隅切りされ、道路と建物で八角形の広場が生み出されている。
その特異な景観はテアトロ・デル・ソーレ(太陽の劇場)と言われ、パレルモ市民や観光客に愛されている。
特徴的なことは広場の中央に立ち止まりどの方向の建物を見ても、その両側はあたかも舞台の奥へと向かう通路として構成されていることにある。
それはテアトロ・オリンピコの舞台を眺める印象とそっくり。
テアトロ・オリンピコでは正面に大きな道路、左右の建物の両脇にも各々通路が走り、三本の道路で構成される広場となっているが、ここでの背後は舞台からは切り離された客席。
しかし、テアトロ・デル・ソーレでは背後もまた舞台と言える。

四面の舞台に取り囲まれた広場、その広場の周囲は全てが舞台、つまり、広場に入ることで、人々はすでにドラマに参加しているように感じられる。
それはカンピドリオと全く同じ、人々は観客ではなく、演技者として広場を体験し、都市そのものが劇場の舞台空間としてでデザインされているのです。

シチリアの首都パレルモはイタリアでは早くからスペインの支配下にあり、16世紀の宗教改革の渦中にあってもカソリック教会の力が圧倒的に強く、都市全体はローマ以上にバロック的雰囲気に満ち満ちていた。
従ってここでは、祝祭の為の装置が都市を飾るのではなく、都市そのものが始めから祝祭の舞台となるように作られたと考えれば良い。

美術史におけるバロックという観点からみると、その様式を生み出す主導的要因は、宗教的危機に直面したカソリックということ。
バロックはプロテスタントに対抗し、民衆にとって判りやすい宗教体験を生み出すための様式。
知的観照ではなく、理屈ぬきの全身感覚によって信仰を体現させるための様式がバロック本来な意味です。
民衆の感情を高揚させ、その熱情を共通の信仰へと収斂させる最も有効な場、それは祝祭。
従って、バロックとはカソリックの持つ宗教的意味を祝祭つまり、音楽や美術・建築を通し身体的に体現する装置と考えれば良い。
そんな体現装置をパレルモは非日常的な祝祭時だけでなく日常的な都市空間に恒常的に再現した、それがパレルモのクアットロ・カンティ。

バロックの祝祭は、中世のアプリオリの宗教体験とは異なり、主催者である教会あるいは君主が民衆の参加を強く必要としていたイベント。
クアットロ・カンティはそのような祝祭ための、宗教的プロセッション(行列)と各種パレードを実施するための全員参加の野外劇場、と同時に、広場を構成する十字路はキリストを象徴する十字架として意味づけられている。
十字路を持った都市広場はそのまま反宗教改革のイメージを表出するカソリック世界のための大劇場ということになる。

サンタ・ロザーリはパレルモ市の守護聖女。毎年七月の半ばに祭礼が行われるが、1686年の大祭の記録では、巨大な機械仕掛けのトロイの馬が進むと、その後は長い騎馬の行列、さらに四頭の熊と四頭のライオン、四頭の象が引く凱旋の山車が続いたと記録されている。
山車の上の台は大きな黄金の貝殻の形、その上には黄金の鷲が羽を広げ、さらに高いところには聖女ロザーリが勝利の旗を手にしている。
貝殻の上や鷲の背にも聖歌隊や演奏者が乗り、彼らは上からヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカというネームプレートを、さらに下にはヨーロッパとイタリアの主要都市名を記したプレートを持って立つ。
つまり、パレルモのこの祝祭には世界全体を記号化し、カソリックがその全体の支配者であることを示す主催者の意図が明確に表現されるている。

祭りのメイン・イヴェントは仕掛け花火。市の中心の広場には堡塁も壁も橋も鉄の門を持った複雑な精緻なトロイの町の模型が作られる。
その町の内部には劇場、王宮、回廊、さらにドーム屋根の神殿が建られ、ドームの頂にはトロイの町の紋章の鷲が据え付けられる。
この模型のトロイの町は民衆の期待通り、一瞬に火を吹き、最後は、全体が大掛かりな花火に包まれる。
夜が深け暗くなると、トロイの馬から武装した兵士たちが松明を掲げて現れ、宮殿と神殿を囲む城壁に火をかける。
ここが焼け落ちるとやがて火は宮殿にそして神殿、ドームを駆け登り、上の鷲へと燃え移っていく。
最後は大きな火薬がはねる音と共にトロイ陥落の仕掛け花火。やがて、全てが終わり、町は灰燼に帰し、残骸と化した建物だけが煙を残すこととなる。
そんなわかり易いドラマが毎年この広場で展開され、パレルモ市民はその祭に酔いしれる、それが都市が劇場として作られる意味であり、楽しみなのです。

クアットロ・カンティの広場を構成する四つの建物の偶部はわずかな凹面状のカーブで作られている。
その各々の足下には噴水が設けられていて、四つはそれぞれに春夏秋冬を表現する。
三層に構成される建物の上層二層はすべてニッチ(壁龕)が穿かれていて、そのニッチから四人のスペイン人と四人の守護聖人たちが広場を見つめている。
広場は最早、都市に不随する機能的な場というより、明確なコスモロジーに縁取られた物語の世界にほかならない。

この広場に隣接したもう一つの広場、パラッツォ・プレトーリア、ここには大きな円形の噴水が作られている。
噴水は元々、イスラム建築の中庭部分に設けられ楽園を作る装置となっていたが、イタリアの都市なかに設けられるのは17世紀になってからのこと。
パラッツォ・プレトーリアの噴水は十六世紀半ば、フィレンツェのヴィラから持ち込まれたといわれている。
中庭やヴィラという個人的世界を構成していた噴水が、集団的な場である町の中にまで持ち込まれたのはパレルモが最初かもしれない。
長らくアラブ世界からの支配も受けたこの都市のこと、町中にはイスラム的迷路もそこここ見られる。パレルモは劇場都市である以前、すでに楽園(理想郷)としてイメージされていた都市でもあったのです。

劇場都市ローマ

15世紀、アルベルティとニコラウス五世がイメージした神聖都市ローマ、そのシンボルとなるサン・ピエトロ大聖堂のクーポラが燦然と輝き、シクストゥス五世の都市改造による新街路に荘麗な宮殿が建られ、多くの馬車や人々が行きかうようになると、ローマは今までの人々が全く経験したことのない、新たな都市イメージを発揮し始め、文字通りカソリック世界の中心となりました。
同時代はまた、大航海による地理上の発見や科学的天文学による新たな宇宙像が組み立てられた時。
ローマは拡大されつつある世界の原点でもあったのです。
それは古代世界におけるカプート・ムンディ(ラテン語で世界の首都の意)を思い起こさせ、世界中の人々に、世界の首府であることを具体的に実感出来る目にも見える形で表現しました。

バロック・ローマの特徴は都市を劇場として再構成したというところにあります。
現在ある主要なローマの広場や聖堂・宮殿、都市を構成する全ての要素は劇場空間を生み出す装置です。
ルネサンス・イタリアが神の世界と調和した新しい人間世界をイメージし続けたとするならば、バロック・イタリアはそれを目に見える形で具体的に都市の中に実現しています。
それも単に理想像としての世界ではなく、より現実的、具体的、感情的に、祝祭感覚に溢れ、透視画法化された視覚的世界、舞台背景として作られました。
さらにバロック・ローマにとって重要なことは、中世のように「神の世界」を理念・観念で見なしたのではなく、都市と広場、教会と宮殿を人間が具体的に構想し組み立てた構築的世界であったことです。
祝祭的演劇性に満たされる劇場都市、そこはバロックのあらゆる生活様式を育む場ではありますが、都市を生み出すものは教皇庁のメセージそしてプロパガンダであったこともまた事実です。
劇場都市ローマはカトリック・ローマの要請により、建築家たちが生み出したドラマチックな世界と理解して下さい。

2009年11月22日日曜日

バロック劇場

テアトロ・トル・ディ・ノーナがその後のプロトタイプとなったのは理論家・建築家たちが、このプランをオペラ上演にとっての理想的な音響空間と見なしていたからに他なりません。楕円形平面の劇場は焦点が一つではなく二つ、全体形状が凸型ではなく、凹面であるため、音を拡散させることなく保存し集中させるので、弱音も良く聴こえるというのが当時の音響的判断です。しかし、これは全くの間違いです。現在の考え方では、微細な音を明瞭で聞き取りやすくするためには、音が重ならないように凸面で反響させ拡散させなければなりません。つまり、彼らは現在とは正反対の理論を信望していたのです。
現在とは異なるが、当時、最も新しい音響理論を発表したのはピエール・ハットやアタナシアス・キルヒャ−という人たちです。ハットは1774年、「劇場建築試論」の中で楕円形の講堂は、楕円の一方の焦点に集まった反射音が、もう一つの焦点にも音を集中させて音の「柱」を作り出すから、音を強めるという点で大いに有用だと主張しています。また、楕円が劇場本来の形と考えられたのは、人間の声は方向性を持ち、音波が楕円体で伝搬すると考えられていたからでした。しかし、凹面形状の持つ音響上の欠点は、現在では誰もが知るところですが、十八世紀のオペラ劇場のこのような欠点は実際上、大きな問題とはならなかったのは何故でしょうか。それは隔て壁で仕切られた桟敷席が壁面一杯に並ぶ観客席にあります。必要以上に飾りたてられ、吸音性の高いカーテンや内装材で囲まれている桟敷席は、僅かな反射面部分もレリーフ状の装飾が施され、音は十分に吸音されかつ微細に多方向に反響させていたのです。つまり劇場全体が凹面形を持つ欠点はさしたる問題を生じさせることもなく、むしろ多孔質な形状を持つ桟敷席やその内装材が理想的な吸音と微細な反響をもたらしていたと考えれば良いのです。
フォンターナがテアトロ・トル・ディ・ノーナを楕円形で設計した真意は音響上の配慮ではなく視覚上の理由にあります。ヴェネツィア以来すでにプロセニアム・アーチ(額縁)が舞台の両袖に設置されるのは常識化していました。このアーチの存在はテアトロ・ファルネーゼ等の宮廷劇場では、終幕のバレーに参加する貴族たちには不興ではあったのは事実ですが、舞台上のスペクタクルを演出しなければならない舞台装置家にとっては、プロセニアムアーチはもはや不可決な装置であったのです。くわえて演技する場はアーチの後ろ、と限定されつつある為、奥行きの深い客席からは舞台上の透視画法が強調され、アーチの存在は観劇にはますます有効なものとなっていました。しかし、U字形の形態を楕円形にすることの説明はまだ不十分です。お金を払って劇場にやって来る観客にとって、劇場は観劇だけが目的ではありません、劇場は観客が他の観客から注目されたい場所でもあったのです。つまり、楕円形であることにより、観客は舞台だけでなく観客席をも同時に見渡すことが可能でなければなりません。フォンターナは劇場空間のすべての視覚を統一するため、楕円形プランを採用したと考えて下されば良いのです。
劇場は古来より観劇だけが目的ではありません。舞台を眺めるだけなら、全ての座席はまっすぐに舞台を向くのが合理的、それが現代の劇場の形態です。しかし、バロック時代、フォンターナは舞台が見やすい劇場であると同時に、ギリシャ以来の劇場の本来の目的、演者・観客が一体となった全員参加の祝祭の場であることも意図していたのです。祝祭を起源とした二千年余りの劇場の歴史。その歴史の中にあって十七世紀のフォンターナはまさに古代と現代という中間に立つ両義的な劇場の型を示したと言えましょう。透視画法の強調という個人に帰着する視覚の重視の劇場と、全員参加の祝祭を支える集団の場としての劇場。テアトロ・トルディノーナの楕円形はこの両義的意味の結果であり、その形態は十八世紀、十九世紀と引き継がれ、個人と集団を支える市民社会の社交空間へと発展していくのです。



by Theater 7 - The Arched Spectacle

2009年11月20日金曜日

古代ローマ帝国の遺産展


やはり、平日の朝一番は正解だ。圧倒的に空いている、とは言え、人気の展覧会、中年以上の女性グループがどんどん多くなるのに加えて、今日は熱心にメモをとる高校生たちがたくさん、11時過ぎにはもういつ通りのにぎわいとなった。内容は期待に以上の楽しい展覧会。初代皇帝アウグストスと同時代のポンペイの生活がわかり易く展示されている。大理石像、調度品、貨幣、秀逸は壁画、モザイク画、特に映像は歴史解説と連動され全体は集約的で明快だ。そんな今回の展覧会の中で、実は楽しみにしていたのは、ソンマ・ヴェスビアーナのディオニュソスとアレッツォの青銅のミネルヴァだ。聞いてはいたが、やはりこの二つはギリシャの彫刻、ローマとは些か異なっているように見えた。発掘されたギリシャ彫刻は実際には非常に少なく、大半はローマ時代の模刻。しかし、この二像は本物のギリシャを感じさせるなにかがある。他のローマ彫刻にはない、洗練度のようなものが感じ取れたことは今日の最大の収穫と言って良い。

2009年11月13日金曜日

クリスティーナ女王のローマ


(イーブリンのローマ)

グランド・ツァーのジョン・イーヴリンはヴェネツィアを訪れる前年、1644年ローマに立ち寄った。その時の日記の一部、建築家ベルニ−ニについて次のように書いている。

「わたしがこの都市に到着する少し以前に、彫刻家・建築家・画家・詩人の騎士ベルニーニが、公衆歌劇(パブリック・オペラ)を上演したが、自ら背景を描き、彫刻を刻み、装置を考案し、作曲し、喜劇を書いて、舞台を全部独りで作り上げたのだ。」

イーヴリンが訪れたローマはオペラ好きの教皇ウルバヌス八世が亡くなりオペラはもちろん、絵画や彫刻の裸体表現をも嫌悪したインノケンティウス十世が即位した年のこと。
ベルニーニやプーサン等の絵画・彫刻は退けられ、もはやバルベリーニ宮殿のオペラはまったく鳴りを潜めていた。
実際のベルニーニの多芸多才の活躍はイーヴリンの帰国後に発揮されているのだが、ケンブリッジで学んだイーヴリンにはローマやヴェネツィアのオペラの評判は十分に伝わっていたと考えられる。
新しい芸術表現を嫌っていたはずのインノケンティウス、しかし、彼がベルニーニにナヴォナ広場の「四大河川の泉」の制作を依頼するのはイーヴリンの帰国後から4年後のこと。
サン・ピエトロ広場の計画が現在のように決定されるのも教皇アレクサンデル七世の時代、12年後のことだ。
つまり、イーヴリンの日記はその後のベルニーニの活躍を予見したもの、バロック時代最大の建築家への賛辞となっている。


(クリスティーナ女王の謝肉祭)

べルニーニとオペラを本格的に活気づける出来事は、イギリスのイーヴリンの訪問ではなく、スェーデンの一人の 王女です。
1655年12月、スェーデンの前女王クリスティーナがローマにやってきた。彼女はその18ヶ月程前、カソリック信仰に帰依し、王位を放棄した人、王位放棄してまでのプロテスタントからカソリックへの帰依は、失われつつあるローマの政治的影響力を復活させる画期的の出来事だった。
クリスティーナ女王はローマ教皇庁にとっては大歓迎の人材、女王のローマ訪問はわざわざその年の謝肉祭の季節に合わされ盛大に実施されることとになったのです。

インノケンティウス亡き後、新教皇アレクサンデル七世の教皇庁主任建築家べルニーニは寸暇の暇もなく、クリスティーナ歓迎の準備と様々な飾り物の制作に忙殺される。
クリスティーナのローマ入場は北のポポロ門、そこにはベルニーニによって壮麗な飾り付けが施されている。
王位のない彼女の教皇との謁見は、本来は許されることがないのだが、ベルニーニの特別なデザインによる肘掛け椅子が用意された。
婦人同席による教皇の食事も、儀礼上前例が無かったのだが、クリスティーナ歓迎の宴会では、ここでもベルニーニの弟子たちによる、金箔を振りかけられた砂糖菓子など周到な準備とあらゆる種類の飾りものが並べられることになり実施された。

クリスティーナの歓迎祝典は教皇庁だけではない。
コッレッジョ・ゲルマーニコでは宗教劇「イサーコの犠牲」が上演される。
貴族の宮殿では音楽の伴奏付きのバレェと宴会そして馬上武術試合等々。
中でも最大の呼び物はやはりバルベリーニ宮殿。
ここではジューリオ・ロスピリオージによる二つのオペラ、「禍転じて福となる」と「人間の生あるいは慈悲の勝利」が上演されている。
ウルバヌス八世の他界の後、バルベリーニ家に親しかったロスピリオージもしばらくはスペインでの生活を強いられていたが、インノケンティウス十世の治世も終わり、新しい教皇のもとローマに戻った彼は幾つかのオペラの台本を書いていたのだ。

「女王の謝肉祭」で上演された「人間の生あるいは慈悲の勝利」はカヴァリエーリの「魂と肉体の劇」と似たような主題を持っている。クリスティーナ歓待の為の寓意が込められ教訓的主題を持つこのオペラは、マルコ・マラッツォーリにより作曲されている。
クライマックスとなった終幕のシーンでは、サン・タンジェロ城を取り囲んだローマの町並みを背景に、祝典の主人役マッフェオ・バルベリーニによって、女王クリスティナとローマを讃える盛大な花火が打ち上げられ、その壮大な花火は版画によって後々の世までもつたえられることとなった。(図版;西洋の音楽と社会ー3P81)

(クリスティーヌが庇護した音楽家)

活発で機知に富み因習に拘束されないクリスティーナは、その後、四人の教皇の治世の間、ローマの芸術の庇護者の立場を取り続ける。

彼女の貢献はオペラが最大であろうが、いくつかのオラトリオへに対しても財政的な援助も行い、さらに当時まだ若いがすでに才覚を表していた二人の音楽家に大規模な作品を依頼している。
アレッサンドロ・スカルラッティとアルカンジェロ・コレッリです。

クリスティーナ自身の音楽監督にも任命されたスカルラッティは1683年にナポリに去るまでの間、「顔のとり違え」というオペラを含み、彼女のためにオペラ、オラトリオ、カンタータと沢山の曲を作曲する。

この頃、オラトリオもまたローマ以外の様々なイタリアの都市に拡がっていく。
その特徴は通奏低音の伴奏の上に載ったアリアにある。
スカルラッティと彼の音楽はクリスティーナによって育てられたと言っても過言ではない。

クリスティーナはテレベ川に近い道ぞいに邸館を一つ借り受け「王妃のサロン」と呼ばれる集会を開催した。
当初、非公式であったサロンだが1674年にはアッカデミア・レアーレ(王立協会)と称され教皇庁からも公認されるようにもなる。
そこには音楽家や文学者ばかりでなく考古学者、天文学者、古典学者も集まった。
著名な学者の講義、論文発表、ゼミナール、そして様々な新しい音楽。器楽の演奏に始まり、声楽の演奏で閉じるというこのサロンは定期的に開催され、ローマ最大のサロンとなっていく。
その集会ではカンタータにコンチェルト・グロッソやトリオ・ソナタというまだ発展途中の音楽の形式も沢山試みられ、厳しくその質が吟味されている。
スカルラッティやコレッリの新曲はこのサロンで披露され、主催者クリスティーナ女王に献呈される、つまり、アッカデミア・レアーレは二人の音楽家を育てる格好の場となっていたのです。

(クリスティーナと教皇クレメンス九世)

莫大な財産を持っていたクリスティーナだが、彼女のオペラへの関わりは三十年代のバルベリーニ家とは異なっていた。ウルバヌス八世時代のバルベリーニ宮殿のオペラは貴族や高位聖職者たちの独占的な楽しみの場だった。しかし、ヴェネツィアではすでにオペラはビジネスとなっている。

巡業オペラ団がイタリア中に広まりつつある六十年代、ヴェネツィア・オペラはローマの人々にとって大きな関心の的となっていた。世俗のオペラとその為の公共劇場はすでに教皇庁のお膝元においても、充分に採算の取れる事業と考えられていたのだ。


1671年、クリスティーナは教皇クレメンス九世の許しを得て、ローマで最初の公共劇場テアトロ・トル・ディ・ノーナを建設した。クレメンス九世について先に触れておこう。この教皇、実はオペラのリブレット作家のジューリオ・ロスピリオージのことだ。バルベリーニ家の人々と共にローマのオペラを生み出した功労者、「アレッシオ聖人伝」のリブレット作者、その人。ウルバヌス八世亡き後、彼自身もスペインでの亡命生活を余儀なくされたが、1666年アレクサンデル七世の後継者として教皇に選ばれた。

ローマはオペラの発展にとって最も大事な時期に、最も相応しい人を教皇に選出した。聖なる世界の中心に立つ教皇庁ローマが世俗性の強いヴェネツィア・オペラの継続的公演を許すことなど、この教皇以外に考えられない。事実、後の教皇の中には寛容な人がいないわけではなかったが、多くの教皇はオペラの公演に対しては厳しく取り締まっている。つまり、ローマの公共劇場の建設はクリスティーナ女王と教皇クレメンス九世という同時代の希有な二人によって実現された歴史的事件であったのだ。

2009年11月10日火曜日

バルベリーニ劇場のオペラ

マッフェオ・バルベリーニは裕福なフィレンツェの市民の息子でした。風采があり豊かな教養を持ち、学者であり、詩人でもあった彼は1623年、五十五歳で教皇の座につき、ウルバヌス八世を名乗ります。建築をこよなく愛したこの教皇は在任中の二十年余り、いつもジャン・ロレンツォ・ベルニーニを手元に置き、ローマの新しい都市イメージの生成を要請します。詩人でもあり音楽好きでもあったウルバヌスの周辺にはベルニーニだけではなく、音楽家たちも絶えず控え、学者や文学者も加わり活発なサロンが展開されていました。そのようなサロンの中の有力な一人がピストイヤ出身のジューリオ・ロスピリオージ。彼は同時代の最大のオペラ・リブレット作者であり、後に枢機卿から教皇にまで上り詰めたクレメンス九世です。ウルバヌス八世には三人の甥がいました。フランチェスコとアントーニオは枢機卿、まん中のタッディオはローマの旧家コロンナ家の娘と結婚し、ローマ総督となった人。バルバリーニ家出身のウルバヌスは聖俗両面を一族の力で支配し、多くの芸術家、知識人を従え、バチカンとバルベニーニ宮殿はまさに宮廷の趣であったのです。

聖アレッシオ from kthyk on Vimeo.


バルベリーニ劇場の幕開けは1632年の謝肉祭です。新婚間もないタッデオ夫婦と二人の枢機卿が住むバルベリーニ宮殿、この宮殿には三千人の収容能力を持つ劇場が設えられました。しかし、実際の観客は数百人、ここはまだ市民のための劇場ではなく、当時のローマの特権的な聴衆の為に作られた劇場であったのです。柿落としでの上演はオペラ「アレッシオ聖人伝」。作曲は例の「オルフェオの死」を作ったステーファノ・ランディ、リブレット作家はジューリオ・ロスピリオージです。二人はイエズス会セミナリオで教育を受けた間柄、「アレッシオ聖人伝」は題名からも判るとおり、イエズス会の持つ中世的宗教劇となっています。しかし、このオペラには古典的悲劇と喜劇、牧歌劇とインテルメディオ、と同時代のすべての劇スタイルが一体化されていたと言えるようです。「アレッシオ聖人伝」を有名にしている理由の一つは、史上初めて高声部が最も優位となったオペラであることにあります。主役のアレッシオはソプラノ・カストラートが演じています。他のキャストもまた、全て教皇の聖歌隊の歌手たち。ローマの貴族であるがアレッシオは世俗を退け、深く宗教に帰依する人、そんな人間であるアレッシオは、この世の人とは思えない聖人の声である必要があったのです。そのためには、男性でもなければ女性でもないカストラートの声はピッタリであったいえましょう。
内容はローマのアレッシオが世俗の楽しみを全て捨て、乞食姿となって信仰の道を探す話です。五世紀の聖人アレクシウス伝説に基づいています。1634年制作の版画(図版:西洋の音楽と社会=3p74)をみると、端正な透視画法によるローマの都会風景の中に、姿を隠したアレッシオを探す旅に旅立とうする悲痛な婚約者が歌うシーンが描かれています。この舞台背景の制作はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。新装なったバルベリーニ宮殿の設計者が劇場はもちろん舞台背景を手がけるのは当然のことでありました。バルベリーニ劇場とその宮殿は宮廷のような世界とはいえ、ここはどこまでも教皇ローマ・カソリックのお膝元です。フィレンツェやマントヴァ宮廷のようにあからさまに異教であるアルカデイアをテーマとすることは出来ません。台本を書いたロスピリオージにとっては、オペラの持つ世俗的楽しみを、いかに正当化するかが問題でした。その為には「アレッシオ聖人伝」という道徳的な教えをもった聖人伝説は、もっとも都合のよい題材でもあったのです。

ローマ・バルベリーニ宮殿

バロック・ローマの音楽と建築にとって、最も重要な人物はバルベリーニ家のマッフェオ、後のウルバヌス八世でしょう。彼はベルニーニやボロミーニを世に送り出すばかりか、生まれたばかりのオペラを育てた人でもあるからです。
17世紀の入るとシクストゥス五世の都市計画は形になりはじめ、ローマは新しいイメージを表し始めました。大聖堂の竣工に合わせるかのように、主要街路には沢山のパラッツォ(宮殿)、豪華な彫刻や噴水に飾られた広場が建設されたからです。ローマにはヨーロッパ中の貴族が集まり、様々な外交の花が開き、新しい都市は一大コミュニケーション・シティとしての役割を担うようになりました。
ローマに集う貴族たちのコミュニケーションに欠かせぬもの、それは音楽と美術です。ローマにはまた多くの芸術家たちが集い、制作し、発表する、あるいは各々の力量を示す彼らの格好の舞台、ショールームの役割も果たすようになります。

そんなローマでいち早く力量を発揮するのがベルニーニです。彼は主要街路の一つ、現在のローマにとっても最も賑やかな街路であるシスティーナ通りの中央にトリトーネの泉を持つ広場を従えたパラッツォ(宮殿)を建設しました。このパラッツォがマッフェオ・バルベリーニ、後のウルバヌス八世のバルベリーニ宮殿です。
ポポロ広場からの巡礼者たちはまずサンタ・マリア・マジョーレを目指します。その街路はかってはフェリーチェ街道、後に道路の開設者シクストゥスの名がそのまま取りシスティナ通り(現在はクワトロ・フォンターナ通り)と呼ばれますが、バルベリーニ宮殿はその新設のもっと主要な通り、それもスペイン階段上広場とサンタ・マリア・マジョーレの中央に位置します。従って、バルベリーニ宮殿とその設計者ベルニーニは一躍有名になりました。

バルベリーニ家のウルバヌス八世が即位したこの時期がまさにサン・ピエトロ大聖堂の竣工の時でもあります。1626年11月18日サン・ピエトロ大聖堂は歴史的献堂式を迎えました。バルベリーニ宮殿の建設もまた同じ時期、最初の設計者は教皇庁の主任建築家カルロ・マデルノ(トスカの舞台、サンタンドレア・デッラ・バッレの設計者)です。
マデルノはシクストゥス五世の都市改造の建築家カルロス・フオンターナの甥に当たります。従って、彼はミケランジェロに引き続きサン・ピエトロ大聖堂の建設を任され、同時に、バルベリーニ宮殿の設計も担当しました。
しかし、彼はウフィッツ美術館に保存されている一枚の図面を残したまま1629年他界します。そして引き継いだのがジャン・ロレンツォ・ベルニーニだったのです。工事はすでに始まっていましたが、マデルノの仕事場で石工として働いていたフランチェスコ・ボッロミーニと共に宮殿建設の指揮を執り、現在のパラッツォを竣工させました。

バロック時代を代表する2人の建築家があいまみえたこの建築、そのデザインは当時のローマの宮殿建築としては革新的なデザインであったと言えます。
マデルノの設計は中庭を中央に配し、四周をブロックで囲うという典型的なルネサンススタイル。しかし、実施された建築は中庭は廃棄され、現在に見るH型の平面形を持っています。
ルネサンスのパラッツォの特徴は中央にオープンな中庭を確保し、外周を比例的配列で構成された堅い閉鎖的なブロックで囲うという形態が一般的です。
しかし、このパラッツォは中庭はなく、前面は都市的状況を引き寄せるかのように、凹型の列柱エントランスを持ち、後方はまだ庭園としては整備されていないままの自然環境に対応したデザインとなっています。

ベルニーニの果たした革新とは、静的な形態を持ち、閉じられた求心的なルネサンスの宮殿を、動的で開かれたバロックの宮殿に変容したことにあります。しかし、動的な建築とはいっても、部分部分がバラバラになったわけではありません。一つ一つの空間は中央の主軸を中心にしっかりと対称的に構成されています。つまり、ルネサンス以来のシステムへ向かう強い計画性は厳然と全体を支配しているのです。一方、得られた空間は都市や自然環境と対応し、実用性を確保、エントランスに示されるように奥行き感が強調され、全体は開かれかつ動きを持ったダイナミックな印象を与えています。
中世の城郭からルネサンスの宮殿への変化、そこでは戦いの為の建築から、交渉あるいは外交の場としての建築の時代への変化が端的に反映されなければなりません。しかし、中世・ルネサンスどちらもともに、まだ厳しいその形態は権力の象徴や防御の姿勢をそのまま表現していたのです。バルベリーニ宮殿はこの動的で開かれた形態を強調することで、新しい時代の建築であることを示しています。この変化はやがて、宮廷オペラを市民のオペラへと開いていく流れにも符号します。建築と音楽はルネサンスからバロックへと、その新しい表現手法を移行しつつあったのです。



(viia YouTube by navigata)

ローマのパレストリーナ

ルターやカルヴィンの宗教改革に対抗しなければならなかった、16世紀のカトリック・ローマが最も必要としたものは音楽です。プロテスタントは豪華な建築や美術ではなく、聖書の言葉によって民衆の支持を得ていく新しいキリスト教です。そのプロテスタントに対抗する為には、カトリックもまた建築や美術で理念を表現するよりも、具体的・直感的にわかりやすく神の世界を示してくれる音楽を必要としました。サン・ピエトロ大聖堂やサンタ・マリア・マジョーレ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの礼拝堂、イエズス会のオラトリオ、16世紀ローマの教会は何処もミサ典例や宗教儀式の為に聖歌隊は大活躍だつたと言えましょう。
その聖歌隊で子供の頃から自己の才能を発揮し、生涯に渡ってカトリック・ローマに貢献した音楽家がジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナです。彼はサン・ピエトロ大聖堂の建設が着々と進むなか、ローマにカトリックの音楽的世界を生み出す、まさに、ローマが必要とした時、最も必要とされた音楽家として活躍しました。


(via Youtube by Giocvanni Palestrina-Missa Papae Marcelli - Kyrie)



生まれ故郷パレストリーナの教会の聖歌隊で子供の頃から自己の才能を発揮し、生涯に渡ってカトリック・ローマに貢献した最大の音楽家がジョヴァンニ・ピエル・ルイジ・ダ・パレストリーナ。 彼はサン・ピエトロ大聖堂の建設が着々と進むなか、建設に呼応するかのようにカトリック・ローマ全体を新しい音楽的世界に変えていった音楽家です。
パレストリーナの時代は教会における聖なる音楽だけでなく、宮廷における世俗の音楽も発達した時代。その音楽は17世紀、オペラを生み出すことになりますが、パレストリーナは世俗の音楽には関わることが少なかった、いや、関われなかった音楽家でもあったのです。
何故なら、同時代の画家・音楽家・建築家、誰でもそうでしょうが、彼らはまだ、教会から離れて家族の生活を守ることがほとんど出来なかった時代です。
3人の子供との家庭生活を持つ彼は教皇庁だけでなく諸都市の貴族、宮廷からの招請も少なくはなかったのですが、ローマとその周辺で生涯を送り、教会の音楽を作り続けることになります。
しかし、面白いことに、宮廷の音楽を作ることが少なかったパレストリーナ、彼は宮廷が生み出したオペラの題材にされた唯一の音楽家でもあるのす。1917年、ミュンヘンのプレンツレゲンテン劇場、ハンス・プフィッツナー作曲のオペラ「パレストリーナ」がそれで、ブルーノ・ワルターの指揮で初演されました。

ルターの宗教改革への対抗から開かれたトレント公会議では世俗に傾きすぎた音楽に対し数々の苦情が寄せられていました。世俗の定旋律に基ずくシャンソン風のミサ曲や言葉の理解を不可能にする複雑なポリフォニー、あるいは教会における楽器使用や不作法な歌手たちの振る舞いに対してです。そして多声音楽を廃止し、昔のグレゴリオ聖歌のみで典礼を行うという案が体勢を占めつつあった時、パレストリーナのミサ曲が会議の席上で演奏され、そのすばらしさに感動した人々は、従来通りポリフォニーを典礼の音楽として認めたという伝説がオペラ化されました。
1545年から63年までのトレント公会議、そこでは教会からの悪弊を追放し、カトリック信仰の原点に立ち戻ることが確認されましたが、その席上、卑俗で不純な音楽の排除が決議され、当時、北ヨーロッパで流行していた複雑なポリフォニーに対する批判が強まっていたのです。
しかし、パレストリーナの音楽はフランドルのポリフォニーを基礎としながら、各声部には独立性を与え、異なったリズムと歌詞を与えるもの。このことによりポリフォニーであっても、その宗教音楽が、決して不敬虔でも、歌詞の意味が不明となる音楽でもなく、厳粛さと透明性を保持しているものであることを示していました。真偽のほどは不明ですが、伝説上のミサ曲は「教皇マルチェルスのミサ曲」ということになっています。そして、パレストリーナは教会音楽の救い主として長く伝えられて来たのです。

様式の持つ正当性を自らの演奏で守り抜いた伝説を持つパレストリーナは、バッハ、ヘンデル以前のもっとも人気のある作曲家であり、ルネサンス最大の宗教音楽家と言って良いようです。サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会、サンタ・マリア・マジョーレ教会というサン・ピエトロに並ぶローマ最大の教会の楽長を歴任したパレストリーナは、皇帝マクシミーリアン2世やマントバのゴンザーガ公からの誘いにも一切応じることなく、生涯、ローマの宗教音楽家としての生を全うしました。
百に及ぶミサ曲や四百を数えるモテットと並び、わずかであるが世俗のマドリガーレも作曲しています。当時全盛の世俗の音楽、マドリガーレにも幾多の名曲を残している彼ですが、後に、恋愛詩に作曲したことを恥じ、悔やんでいると告白しています。
しかし、その告白は本意ではなく、彼と家族が安心してローマで生活していく上での方便だと、後世の研究者は指摘する。そんな方便を必要とするパレストリーナのローマは、十七世紀を迎えても、オラトリオにおける音楽劇はともかくとして、オペラはほとんど根付くことはなかったのです。
1594年、パレストリーナが死ぬと、その後の二十年、教皇たちの音楽に対する関心は急激に薄れて行きます。1610年「聖母マリアの夕べを」を教皇パウロ五世に献呈すべくモンティヴェルディがローマにやってくる話は有名ですが、彼は一切のポストも支持も得ることもなくローマを引き上げヴェネチアに向かうことになるのです。